【参考資料】
The London and China Telegraph /Japan Herald,and Journal of The Eastaern Archipelago. London Satueday,April 13, 1861 VolⅢ No.58
Frank Leslie's Illustrated Newspaper New York June 1,1861 No.289-Vol.XIL p38
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タウンゼント・ハリス
 Townsent Harris,first American envoy in Japan / William Elliot Griffis
注1
注2
THE LONDON AND CHINA TELEGRAPH 1861-Apr-13
london chaina TELEGRAPH 1861 ロンドン・チャイナ通信
ヒュースケン暗殺は暗殺者テロリストの愚かな野望とは裏腹の結果をもたらした。ニューヨーク、ベルリン、ロンドンでは日本という”半分野蛮”な国を貶めるだけの効果を、日本を襲って構わないという彼らの野望の発揮を促してしまった。
ヒュースケンの暗殺とその後の経過を貿易経済紙記者の視点で記事にしている。ハリス・アメリカ公使の江戸退去拒否への言及は込み入ってはいるが容赦ない。ロンドンを拠点とする貿易商たちが日本での経済活動に多大な興味を抱いていたことが手に取るようにわかる。ヒュースケン殺害という野蛮が貿易商たちを震え上がらせたことと、交易資本主義が強国の海軍に力で守られながら勢力を伸ばし膨らませていくことが屈折する紙面に浮き上がる。
【参考】 THE LONDON AND CHINA TELEGRAPH mulligatawny soup
カレー好きのハリス公使に礼を尽くして加えると、ロンドン―チャイナ通信the London Chaina Telegraphにはヒュースケンの記事が載った1861年の下半期(初出は6月)からカレー粉とマリガトーニー(高級カレー・ペースト)を扱うロンドン・パイネPayne社の広告が毎号のように掲載される。(実はわたくしはマリガトーニーpaine-mulligatawny の広告を探しているところにヒュースケン記事を見つけてしまった)
この広告は同時期、ニュージーランドの新聞にも掲載されている。カレー好きのハリス公使はこのマリガトーニ―について何も言わないので代わって言うが、マリガトーニーは元々タミルのスープでカレーの原型。カルカッタのイギリス人貿易商の食卓で生まれ、ちょっとした流行を生み、貿易商らの家族に連れられてロンドンへ行き、英国料理に生まれ変わって当時流行りのエスニックな高級カレースープとなり再びインド、セイロンへ里帰りする。
勤王佐幕だと島国で右往左往していた日本はまだカレーすら知らず、咸臨丸に乗船した福沢諭吉はアメリカで買い求めた「華英通語」という簡易な英語-中国語辞書に載っているcurryを日本語に訳せず、curryのみ訳のないまま和製の華英通語を出版した。欧州で喜ばれる高級カレースープのマリガトーニ―という舌を噛みそうなカレー料理など全く知られていない。それが世界の果ての島国日本の現状だったって、今でもそうか。ちなみにカレーの本場、スリランカの若い人たちもこの名を知らない。
幕末期のロンドン-チャイナ通信からマリガトーニーの流行と衰退を知ることができる。明治に入ってすぐ 仮名垣魯文が横浜の料理人が手控えにしている英国料理本を和訳して出したが、カレー料理レシピ―を紹介してもそこにマリガトーニーの名はない。日本人が初めてこの高級カレースープの名に接するのは昭和に入ってから。1973年、帝国ホテル料理長村上信夫が「cookbook世界のスープ」(千趣会)という小さな本を出版してマリガトーニ―・スープを紹介してからのことになる。そしてこの紹介が最初で最後だった。
マリガトーニー・スープがヒュースケンの死後、盛大に売りに出されたこともカレーから生まれたKhasyaReportとしては指摘しておきたい。
注4
「フランク・レスリーのイラスト新聞」は19世紀後半から70年ほどニューヨークで発行されていた総合紙。絵入新聞なのだが、この号ではヒュースケンのイラスト以外はペンタッチが荒い。ヒュースケンの画像はないとされているがそれは日本国内のこと。かれを描いた細密な肖像からは彼のやわらかな人柄が浮かんでくる。
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