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やったね、大成功だ
great success!
ヒュースケンの日記から
KhasyaReport 2025/Mar/22



関連/
今日はハリスのカレーの日・オイレンブルクとハリスのカレー会食
江戸に香り立つ幕末カレー



 Frank Leslies Illustrated Newspaper 1861-6-01 に掲載のヒュースケン肖像

「ゑひすのうわさ」(仮名垣魯文)の中のヒュースケン
ヒュースケンは日米通商条約交渉を終えた1857年6月17日、「やったね、思うつぼ。大成功!」と日記に記した。ハリスは同日の記録に淡々と日本側担当者への率直極まりない忿懣を表して交渉経過を書き留めた。以下はハリスの記録だ。

 1867 年 6 月 17 日水曜日。今日、我々は条文の文言を決めるのに約 9 日間を費やして仮調印書に署名した。さて、これは非常に困難な仕事だった。日本人通訳の用いるオランダ語は約250年前のオランダ船長や商人のものだったからだ。彼らは新語を一つも知らない。条約や会議などで使用されるすべての用語についてまったく無知だった。この無知が、彼らに過度の嫉妬と私に騙されるのではないかという恐怖を生み、今回の条約締結協議を非常に困難にした。彼らは、オランダ語版の単語を日本語とまったく同じ順序で並べたいとも考えていた。文法構造の違いがあるのだからそれでは完全に意味不明になってしまう。注1

 こう書いてから、まったくもう!と口走ってハリスは食べていたカレースープのスプーンを投げたとか。いや、ヒュースケンは「やったね、大成功!」と上司ハリスの手腕をたたえてもハリス上司は短気だなんて、プライベートの秘密など洩らしはしない。

今回の登場人物
久助 物語を進行する中心人物。病弱な母を援けるために生まれ故郷のオランダからアメリカへ行き職を求めた。同じ宗派のハリスと教会で出会い日本行きを誘われた。5か国語を使いこなす。別名ヒュースケンとも。

治平 浅草橋墨田川近くに店を持つ版元。ベストセラーをもくろんで続簡に実話物の執筆を依頼したことからヌイ殿とも知り合う。久助とは古道具屋で知り合った。歌舞伎錦絵、草双紙、読切、何でもありの出版通。

カン 若い漢文学者。羽州柏倉陣屋代官ヨシチロウのノンフィクションを記したことからそれが治平の眼にとまり、幕末にブームとなった惣五郎事件の新たな書下ろしを依頼されている。佐倉藩士。

ヌイ殿 桜藩城代。藩主文明公が外国通で将軍から日本に押し寄せる西欧諸国との通商条約の折衝を任されている。ヌイ殿はその藩主を支えている。久助とは和田倉門桜藩上屋敷で初めて出会った。縫殿重久とも。


  KhasyaReport

 

   第2幕 ヒュースケンの素顔
  第1場 ロンドン-チャイナ新聞のヒュースケン記事

久助 ハリス公使が日本側と結んだ通商条約が手本になって西洋五か国の商人は日本政府にはばかることなく絹糸を西洋へ持ち出せるようになった。ロンドンとその近郊の縫製業がますます盛んになったよ。リヨンの絹織物も活況を呈する。生糸を織り生地にしてミシンを踏み衣服を作るのは近郊の村から町にやって来る貧しい女性たちだ。
ヌイ 私なら代々縫殿寮を守ってきた家業からして女性従業員の監督官になっているな。フフフ。
久助 ワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」に神の罰で地上と地獄の間をさまよい続けるオランダ人船長の幽霊船が出てくる。喜望峰の港に幽霊船が現れて寄港する商船を震え上がらせるんだ。経済バブルのヨーロッパ。パリ、十九世紀後半。パリにあこがれパリに潰された青年たち、女たち、子供たち。産業革命で潤う欧州は、実は貧しい人々の地獄の街だ。セイロンのゴールに寄港して乗り継ぎの船を待つ日々に「私たち西洋人の野蛮なふるまいを(地獄を)日本へ持ち込んでいいものか」と自問したのはそのときです注2。ハリス公使の言うように自由な貿易は日本を救済するだろうか。それとも貧しさを踏み越えようとする人々を新しい資本主義が地獄へ突き落すか。
ヌイ そこが君らの西洋文明の泣き所。新しい貿易も新たな植民地も地獄の蓋を開くことになる。
治平 何だい、悪いことばかりかい。
ヌイ しかしだ、我城主の文明公はハリスの進言を受けて茶の輸出を藩の産業策とした。八重洲に茶ノ木神社を建てて、私は城代として江戸に寄れば城下に茶木の育つよう願を掛けに行った。
ヨシチロウ 私は文明公に従い安政五年の開港に備えて柏倉陣屋の農家に茶の栽培を勧めて回った。田畑の周りに茶木を植えて茶摘みをする。アメリカに輸出すれば農家には願ってもない現金収入になる。
久助 ハリス公使は戦争で他国を支配するなと言っている。国と国の友好は互いに利益を得ることに始まる。文明公は蘭癖と言われるほどのオランダびいきだから私にはよかったが他の公使たちには閉口していた。江戸湾に並べた軍艦から大砲を江戸城に向けると喚き散らすから。
治平 あんたも幕府の外国掛に向かって、戦艦を江戸城へ向けるよ、なんて怒鳴って脅したと聞いたけど。
久助 あれはいつまでたってもこちらからの問いかけに返事を返してこないから、つい。
治平 ね、そうなんだよ。久助さんは奥方が日本人だから日本の空気も読めるだろうけど。みんながみんな、ハリス公使のように我慢強いわけでもない。えびすさんたちが腹立てればいつ何時、江戸湾の黒船から大砲の弾丸が雨あられと飛んでくるか、ひやひやしている。
久助 西洋文明国の民よ、白い肌の人々よ、あなたたちはセイロンの人々を野蛮人と呼び、彼らにどれだけ多くの紛れのない蛮行を行ったことか。アジア人を野蛮人と呼ぶのは西洋人が犯し、これからも犯そうとする卑劣なアジアでの盗賊行為を隠すための言い逃れだ。1856年3月6日、ゴールにて注2
ヌイ 君は日記にそう書いたの?
久助 そうだったかな。忘れたかも。ゴールは暑かったから。雨季の前の剛直な暑さだった。オランダの砦が白く、硬く、海せり出していた。
治平 ヴィクトル・ユーゴーがバトラー大尉に宛てた手紙で久助君がゴールで記した事と同じ事を言っている---君らが中国人の国で行った略奪の蛮行は君らが野蛮人と蔑む中国人以上に野蛮なことだ。君たちだよ、野蛮なのは。ありがとうバトラー君、君のおかげでそのことが鮮明になった---ユーゴーはそう書いた注3
治平 1860年の10月6日さ。忌まわしい。野蛮だ。スコットランドのジェームス・ブルース。エルギン卿の仕業。英仏が清に仕掛けた二度目のアヘン戦争だ。
久助 われらがユーゴーはそれを糾弾した。
ヌイ でもね、エルギン卿は江戸ではおとなしかった。武力を使わなかった。
久助 不思議だよね。円明園であの海賊まがいの略奪を率いたジェームス・ブルース・エルギン卿でさえ、日本はすばらしい国だと私に言った。ほかのアジアと違うと感嘆した。ついでに私のことも褒めてくれた。それがビクトリア女王に伝わって私は金の小箱を女王から頂いた注4
治平 ここにフランクレスリーの新聞があるんだけど、君の死亡記事が載ってるよ。
久助 何年の?
治平 1861年6月1日付だ。この38頁だけど、久助君、君の肖像が載っていてね。かなり男前だ。だけど、記事は当り障りない中身だな。あの時の君の暗殺が招いた緊迫感が伝わってこない。
久助 どれどれ。でも、私のイラストは十分に素晴らしさが伝わってくる。
治平 君の肖像はパリの凱旋門で称賛を受けようとする兵士のように神々しい。
久助 どれどれ。何度でも見返すぞ。
ヌイ ほう、ほう。
治平 ロンドン-チャイナ通信の記事だけど。ヒュースケン暗殺に抗議して江戸を離れる4か国公使らの行動をアメリカ公使ハリスは拒絶した。ロンドン-チャイナ通信はそれを「ハリスの私情による行為」と記した。 治平 でもねえ、わざわざの葬列へのはハリス公司の個人的な理由だなんて、なんて新聞が書く?
久助 そこ、大事なロジックがあるんです。
治平 君の暗殺記事、ロンドン・チャイナ新聞は何度も書いてるね。ハリス公使のことも随分と踏み込んで様子を知らせてくれてる。
皆がググっとロンドン・チャイナ新聞に顔を寄せて集まる。寄せたって読める分けねぇだろって、やっかみで指摘してはいけない。意識を集中すると英字新聞が日本語に化けるものだ。それにこの新聞はずいぶんとハリス公使に肩入れしている。純真なんだな、ハリス公使も、この記事を書いた記者も。
久助 そうそう、公使は通商条約に依る利益の確保、双方にとっての利益、通商にはそれが大切だといつも言ってた。
治平 青臭いこと考えてんだね、ハリスさん。私と同じ年ごろなのに。せっかくアメリカ公使として日本へ来たのだから自分の金儲けをもっと企めばいいのに。あまりに純真だ。
> 久助 日本人にはない信念です。
治平 そうとも言えないよ。ここに加わったカン君は、青臭くてしょうがない。マルチルドムにぞっこんだ。そこを見込んでベストセラーを書かせるつもりなんだ。惣五郎、マルチルドムの男一代記。
ヌイ殿 治平さん、ちょっとこんがらがるから惣五郎のことはひっこめといて。我朝倉藩の恥だし
久助 ハリス公使は私の葬儀行進に加わらなかった。公使は慎重だから。私を狙った連中とその仲間が私の棺の周りにうようよしていたから。
治平 そんなの見えるの?
久助 もう死んでるからなんでも見える。見えても、それをみんなには伝えられないのが歯がゆい。だけどね、ハイネには伝えたんだ。ハイネは写真機持っているから写真撮って、それをもとにイラストを描いている。だから、私はハイネが撮った写真に心霊を加えて、お福さんを棺のそばに子供と一種に立たせて、私を狙った連中も影のように浮かび上がらせて、私のボーイになった少年も写っている。オイレンブルグ伯爵の日本での三年間を記録した日本遠征回想記にはハイネの描いた葬儀行列イラストが寄せられると思うよ。
治平 お福さんが葬列の脇にいたって? 久助さんの棺に寄り添ってかい? そうだったかねト訝シ気ニ思イ起コス仕草デ腕ヲ組ム。幕府と通商交渉をしているプロシアの軍隊が楽隊を並べ、各国は国旗を掲げ、盛大な送別式だった。そこへお福さんがいたって? 帯をだらりと垂らして。そんな女性いたかな?
ヌイ 文学的に言えば、居る。必ず居る。お福さんの意地だね。強い女性だね。帯のだらり結びで表現する花街の女の意地。私はそういう女性を尊敬する。
治平 上野不忍の池畔の料亭に花街の女性を連れて行ったって評判ですよ、ヌイ殿。江戸詰め佐倉藩士シチローがそう言ってる。
ヌイ 葬列の後ろから江戸の町人が腰をかがめて覗き込むようにお福さんの後姿を見ているね。浮世の男の興味はぶしつけであざといものさ。ハイネさんはそこをあざ笑ってあの町人らを描いたんだね。
久助 ハリス公使なら、日本人は半文明人なのだと貶すでしょう。
ヌイ お福さんを花街の妾と見下げたんだよ、そいつらは。だからお福さんは花街の女を演じて見せつけてやったのさ。花街こそが大江戸の華だとね。
久助 男と女の関係は平等でも自由でもない。フランスでもオランダでも女性は社会から置き去りにされている。でも、私はお福さんを愛する。私たちは平等な関係です。そして、互いに自由だ。
カン ニューヨークのレスリー・イラスト新聞のヒュースケン君は粋だ。
ヌイ 浮いた噂がいくつも流れてくるわけだ。へぇ、レスリー・イラスト新聞とやら、こいつはニューヨークの瓦版かねぇ注4

西洋の文明はほんとうにお前のための文明なのか?



久助 私はこんなことも言った---いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩はほんとうに進歩なのか? 西洋の文明はほんとうにお前のための文明なのか? この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。 (一同、黙して久助の言葉に聞き入る)
久助 この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私に!おお、神よ、日本の、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々は彼らが生んだ取り返しのつかない悪徳をもちこもうとしている。BR> ヌイ そこまで言うか、文学者久助殿。
治平 西洋人の重大な悪徳。アジアの富と平和の略奪。そこを糾弾するとは。まさにヴィクトル・ユーゴーだね、君は。
ヌイ そこまで日本大好きの君が何で攘夷のテロリストに狙われたんだ? 君の思想の根底にあるのは攘夷そのものだ。イムタ君からはむしろ教祖とあがめられていいのだが。その君がイムタ君らに狙われた!
治平 西洋の悪徳を持ち込んだのは君自身だからだ。
久助 私たち二人は大君の前に胸を張って進み出た。大君の廷臣はだれ一人私たちを引き下ろさなかった。私たちの非礼に対して刃を振りかざして襲い掛かる者はない。旧態に身動きしない日本を変えるのは私たちだ。そう信じた。神は使命を実行する私たちを守る。
ヌイ いや、君たちを守るのは黒船に積まれた大砲だ。イムタ君のように血に飢えた野良犬は江戸城にもたくさんいる。しかし、なぜだろう?なぜ君は狙われた?
治平 仮名書が書いた「ゑひすのうわさ」のような下世話だけど、久助さん、あんた女のことで恨みを買うようなことはなかったかい?
久助 ええ?まさか下田にいたときに女風呂を覗いた事とか言ってるの?
治平 ほかには?
久助 茶屋に出入りしていた娘に声を掛けたとか?
治平 いやいや、まだまだ。善福寺の娘に手を出して娘が尼寺へ身を寄せたと手塚オサム先生は歴史漫画に書いている。今東光管主はイムタの同僚から同じ理由で君は恨みを買ったと物語を作っちゃうし---
久助 えええ? 何のこと? 後世、私はそんなこと言われるの? 私の棺に寄り添うのはお福さん一人と、そして我が息子。
治平 久助さん、あなた人気出ちゃったんだよ。後世のヒュースケン通があることないこと、いろいろ言うんだよね。エッセイとか学術論文とかで。あんた、えげつなく言われてるよ。おッとッとッ、こいつはまだ先の出来事かあ。そうなら、まあ予言として聞いてほしいんだけど、あんたの人格を貶すようなことを何も言わずにあなたの墓を訪ねたのは永井荷風先生だけかな。あなたの墓のそばに梅の花が壱輪咲いている、なぁんてしゃれてね。いや、まだ咲いてなかったか?
(ヌイ殿、この会話には黙して加わらず。アブサンを傾けては天井を見上げ不忍池の茶店に連れて行った娘さんの透き通る唇を思い出していたような)
久助 「太陽の文明を運び、夜空の星に進歩の光をともしてあなたはこの国に人間が厳かで美しく生きる権利をもたらした」
治平 モリエールの古典主義のような詩だ。
久助 荷風先生は私の墓の前でそう呟いていたよ。
治平 そうかい。荷風先生があなたと詠うのは久助さんだね。あんたを同じタイプの男とでも感じてたのかしら。そうかも知れないね。荷風さんはリヨンで毎晩浮名を流していたようだし。江戸へ帰っても市川八幡から浅草に東武電車で毎夕通って大黒屋のとんかつを食べてからロック座の楽屋へ入り浸りだったから。嬉しそうで穏やかで平和だったよ(と、昭和を肌で感じていたような口ぶり)、踊り子さんたちに囲まれて。

【参考資料】
The London and China Telegraph /Japan Herald,and Journal of The Eastaern Archipelago. London Satueday,April 13, 1861 VolⅢ No.58
Frank Leslie's Illustrated Newspaper New York June 1,1861 No.289-Vol.XIL p38






タウンゼント・ハリス

Townsent Harris,first American envoy in Japan / William Elliot Griffis
注1
 

注2
THE LONDON AND CHINA TELEGRAPH 1861-Apr-13 london chaina TELEGRAPH 1861 ロンドン・チャイナ通信
ヒュースケン暗殺は暗殺者テロリストの愚かな野望とは裏腹の結果をもたらした。ニューヨーク、ベルリン、ロンドンでは日本という”半分野蛮”な国を貶めるだけの効果を、日本を襲って構わないという彼らの野望の発揮を促してしまった。
ヒュースケンの暗殺とその後の経過を貿易経済紙記者の視点で記事にしている。ハリス・アメリカ公使の江戸退去拒否への言及は込み入ってはいるが容赦ない。ロンドンを拠点とする貿易商たちが日本での経済活動に多大な興味を抱いていたことが手に取るようにわかる。ヒュースケン殺害という野蛮が貿易商たちを震え上がらせたことと、交易資本主義が強国の海軍に力で守られながら勢力を伸ばし膨らませていくことが屈折する紙面に浮き上がる。

  【参考】
THE LONDON AND CHINA TELEGRAPH mulligatawny soup
 カレー好きのハリス公使に礼を尽くして加えると、ロンドン―チャイナ通信the London Chaina Telegraphにはヒュースケンの記事が載った1861年の下半期(初出は6月)からカレー粉とマリガトーニー(高級カレー・ペースト)を扱うロンドン・パイネPayne社の広告が毎号のように掲載される。(実はわたくしはマリガトーニーpaine-mulligatawny の広告を探しているところにヒュースケン記事を見つけてしまった)
 この広告は同時期、ニュージーランドの新聞にも掲載されている。カレー好きのハリス公使はこのマリガトーニ―について何も言わないので代わって言うが、マリガトーニーは元々タミルのスープでカレーの原型。カルカッタのイギリス人貿易商の食卓で生まれ、ちょっとした流行を生み、貿易商らの家族に連れられてロンドンへ行き、英国料理に生まれ変わって当時流行りのエスニックな高級カレースープとなり再びインド、セイロンへ里帰りする。
 勤王佐幕だと島国で右往左往していた日本はまだカレーすら知らず、咸臨丸に乗船した福沢諭吉はアメリカで買い求めた「華英通語」という簡易な英語-中国語辞書に載っているcurryを日本語に訳せず、curryのみ訳のないまま和製の華英通語を出版した。欧州で喜ばれる高級カレースープのマリガトーニ―という舌を噛みそうなカレー料理など全く知られていない。それが世界の果ての島国日本の現状だったって、今でもそうか。ちなみにカレーの本場、スリランカの若い人たちもこの名を知らない。
 幕末期のロンドン-チャイナ通信からマリガトーニーの流行と衰退を知ることができる。明治に入ってすぐ 仮名垣魯文が横浜の料理人が手控えにしている英国料理本を和訳して出したが、カレー料理レシピ―を紹介してもそこにマリガトーニーの名はない。日本人が初めてこの高級カレースープの名に接するのは昭和に入ってから。1973年、帝国ホテル料理長村上信夫が「cookbook世界のスープ」(千趣会)という小さな本を出版してマリガトーニ―・スープを紹介してからのことになる。そしてこの紹介が最初で最後だった。
 マリガトーニー・スープがヒュースケンの死後、盛大に売りに出されたこともカレーから生まれたKhasyaReportとしては指摘しておきたい。

注4
「フランク・レスリーのイラスト新聞」は19世紀後半から70年ほどニューヨークで発行されていた総合紙。絵入新聞なのだが、この号ではヒュースケンのイラスト以外はペンタッチが荒い。ヒュースケンの画像はないとされているがそれは日本国内のこと。かれを描いた細密な肖像からは彼のやわらかな人柄が浮かんでくる。

注1
1857 年 6 月 17 日水曜日付のタウンゼント・ハリスの日記。 原文
  To-day we signed the Convention, having been some nine days in settling the wording of the Articles, which by the way is a work of much difficulty, as the Dutch of the Japanese interpreters is that of the ship captains and traders used some two hundred and fifty years ago. They have not been taught a single new word in the interim, so they are quite ignorant of all the terms used in treaties, conventions, etc., etc. This, joined to their excessive jealousy and fear of being cheated, makes it excessively difficult to manage such a matter as the present one. They even wanted the words in the Dutch version to stand in the exact order they stood in the Japanese!! Owing to the difference of grammatical structure this would have rendered it perfect gibberish.

  注2
1856年3月6日、ゴールにて。Hyusken Japan Diary原文とその訳--- Oh,you civilized nations, fair-skinned people,how many lessons of true barbarism you give those aborigines of the two Indies, whom you call savages! You use the term as a sort of excuse for the outrageous thefts you have commited and will commit against them.
文明化した国の人々よ、肌の白い人々よ、野蛮な未開人と君たちが言うインドの先住民に君たちは真のバーバリズムと呼ぶべき蛮行をどれだけ沢山重ねて来たことか!彼らを野蛮な未開人と決めつけるのはこれまでに犯してきた、そしてこれからも犯し続ける君らの蛮行への、途方もなく大きな盗人行為への恥ずべき言い訳でしかない。
Japan Jouenal 1855-1861 March 6, 1856 Henry Heusken Traanslated and edited by Jeannette C.van Der Corput and Robert A. Wilson / Rutgers University Press New Brunswick New Jresey1964

注3
ユーゴ―のバトラー大尉への手紙はヒュースケンがセイロンのゴールで西洋の蛮行を嘆いた四年後に書かれた。ユーゴーは、エゲレスとフランスが手を組んで北京の円明園を襲って財宝を盗み取った、野蛮なのは文明化していないアジアの人々ではなく文明化した西欧の人々だと糾弾した。
The sack of the Summer Palace / To Captain Butler / Hauteville House, 25 November, 1861

注4
その野蛮を指揮したエルギン卿は英国使節の一員として江戸にやってくる。中国対する負の印象と異なり日本へは好感を持った。通商条約締結に助言をしていたヒュースケンと関わり、ヒュースケンの褒章を英国政府に進言した。ヒュースケンはこの時、英国女王から感謝のしるしとして黄金の嗅ぎ煙草入れを贈られた。
-- her Majesty's Government presented Mr. Heusken with a gold snuff-box with the Queen's cypher in diamonds, as a token of gratitude. /London and Chaina Telegraph Article titled "Japan Kanagawa" April 13,1861 No.58

注5
ロンドンチャイナ通信が英国公使ラザフォード・オールコックとタウンゼント・ハリスを取り違えたかのように記事を繋げたのは1861年4月26日号VolⅢ-no.59の「極東からのニュースの要約」だった。江戸に残り、襲撃を恐れもせず、江戸を離れよと諭す幕府の忠告をも撥ね退け果敢に騎士道を貫いたオールコック公使。と、ロンドン・チャイナ通信は報じるのだが、はて。13日号ではより客観的な報じ方をしてもいる。 以下、1861年4月13日と23日の記事抜粋。

ロンドン・アンド・チャイナ・テレグラフ:
日本ヘラルド、および東部諸島ジャーナル。郵便物の到着時に発行(マルセイユ経由)第3巻第59号。ロンドン、1861年4月26日金曜日、241ページ、極東からのニュースの要約。
日本。
日本からのニュースは予想以上に好意的である。江戸から逃亡したアルコック氏およびその他の代表者は、政府の保護を保証されてそこに戻った。江戸の朝廷が受け入れた条件には以下が含まれる:
「大君陛下は、帰国の特別招待状を送付すること。
「江戸の砦は、フランスとイギリスの国旗に21門の大砲で敬礼し、軍艦は日本の国旗に戻す。」 「大君の護衛、省、そしてすべての大使が、上陸時に礼儀正しく大使を迎える。
「大使館は、日本が条約を結んでいる国々の力と文明を知るためにヨーロッパに赴く。
「開港場における貿易のあらゆる障害は一掃される。
「税関のスパイ活動と締め付けは廃止され、これらの目的のために横浜に設置された駐屯地は取り壊される。
「領事館の住居は神奈川から撤去され、ブラフと呼ばれる場所に新しい住居の場所が選ばれ、残りの土地は外国人の個人住宅として割り当てられる。
「領事館は今後横浜に置かれる。」 「彼らの検討と受諾のために 7 日間の猶予が与えられ、その期限が切れる前に 2 回目の面談が行われ、そこで日本公使はいくつかの修正を得ようとしたが失敗に終わり、結局すべてを率直に受け入れた。こうして、ちょうど 5 週間の首都不在の後、公使たちは 3 月 2 日に江戸に戻った。」
先月 16 日のチャイナ メールによると、アメリカ代表のハリス氏がとった上記の立場に大いに起因している。ヒュースケン氏の殺害後、ハリス氏だけがその職に留まったことは記憶に新しいだろうし、最近のデモで他の外務大臣から共同行動を取るよう要請された際のハリス氏の返答は、彼が自分の立場の重要性をいかに十分に理解していたかを示している。彼の毅然とした態度は、おそらく、前回のメールによってもたらされた知らせが致命的に脅かしたように思われた日本に対する我が国の利益を確保する手段であった。ハリス氏がアルコック氏に宛てた、1月に江戸の英国大使館で開催された会議の報告書を受け取ったことを認める公式書簡は、非常に有能で、この問題全体にかなりの光を当てている。アルコック氏は、この報告書が言及された会議の正確な記録であると述べ、議定書に署名するよう米国大使に要請する。これに対しハリス氏は、1月21日の会議には出席するよう要請されておらず、したがって出席していなかったため、報告書の正確さを判断することはできないと答えている。そして、アルコック氏と他の大臣らが出した結論を要約している。すなわち、「日本政府の誠実さに信頼を置くことはできない。各公使館のメンバーがこの上海に留まると、暗殺される危険にさらされる」。 1 月 10 日のラウドン郵便は 3 月 4 日に、デント商会の蒸気船「リー・イー・ムーン」が到着するまで、すべてが驚くほど静かで緊張状態にあります。ヤンツェ河畔の市場で外国貿易にどのような利益がもたらされるかについては、何らかの判断を下すことができます。1 か月後には、これらの問題はおそらく解決されるでしょう。最新の報告では、江と北部の港はまだ氷で閉ざされています。

ヤンツェ遠征の進捗状況
市から先に進んでいなかった。外国人の善意をなだめ、貿易を奨励したいという希望を表明した反乱軍の首脳らと何らかの連絡が取られていました。
市長は、個人の安全を確保するという二重の目的と、この政府に目に見える効果をもたらすという二重の目的のために、公使館は横浜に撤退することが賢明である」と述べ、かなりの力と能力をもって彼らに返答しています。彼の議論は、私たちの考えでは、反駁の余地がありません。彼は、外国人が日本人自身が採用したのと同じ予防措置を講じることが政府の望みであったことを示し、日本人に彼ら自身の安全以外の手段で我々を守るよう要求するのは正当であるかどうかを問うている。ハリス氏は、ヒュースケン氏の殺害は、夜間に常に身をさらしていたことに対する政府の警告を無視したことによるものだと指摘している。その後、過去数年にわたる外国人に対する政府の行動と、政策変更によって生じた困難について、広く賢明な見解が示される。障壁が突然取り除かれ、日本国内の高位の政治的影響力を持つ多くの人々が革新に激しく反対し、敵意の精神が生まれ、日本は、外国人に対する敵意の強い国となった。

the London and China Telegraph: Japan herald,and Journal of the eastaern archipelago.published on the arraival of the mail (via Marseilles) Vol.Ⅲ-No.59. London, Friday.April 26,1861 241p Summary of News from the Far East.
JAPAN.
The news from Japan is more favourable than might have been expected. Mr. Alcock and the other representatives who fled from Yedo have returned thither under assurances of protection from the Government. The following are among the conditions acceded to by the Court of Yedo ::
"His Majesty the Tycoon to send a special letter of invitation to return. "The forts of Yedo to salute the French and English flags with twenty-one guns, which will be returned by the men-ofwar to the Japanese flag.
"The Tycoon's body guard, the Ministry, and all the great Officers of State to receive the Envoys with becoming ceremony on landing.
"An Embassy to proceed to Europe to acquaint itself with the power and civilization of those States Japan is in treaty with. "All obstructions to trade at the open ports to be swept away.
"Custom-house espionage and squeezes to be abolished, and the posts erected for these purposes at Yokuhama to be demolished.
"Consulate residences to be removed from Kanagawa, and sites for new ones to be selected on the 'location' called the Bluff,' the remainder then to be
allocated to foreigners for private residences.
"Consular offices henceforth to be at Yokuhama.
"A delay of seven days was accorded for their consideration and acceptance, prior to the expiration of which a second interview took place, at which the Japanese Minister attempted unsuccessfully to obtain some modifications, but ended by frankly accepting everything in its integrity. Thus, after an absence from the capital of exactly five weeks, the Ministers returned to Yedo on the 2nd March."
recal of our envoy is due in great measure to the de- According to the China Mail of the 16th ult., the cided position assumed by Mr. Harris, the American representative. It will be remembered that he alone remained at his post after the murder of Mr. Heusken, and his reply to the other foreign ministers on their requesting him to take joint action with them in the late demonstrations, shows how fully he understood the importance of his position. His firmness has, in all probability, been the means of securing our interest in Japan, which the tidings brought by the last mail appeared so fatally to threaten. Mr. Harris's official letter to Mr. Alcock, acknowledging the receipt of a compte-rendu of the Conferences held at Her Majesty's Legation in Yedo in January, is extremely able, and throws considerable light on the whole subject. Mr. Alcock requests the American Minister to sign a protocol, stating that the compterendu is a correct record of the Conferences referred to, to which Mr. Harris replies that, as he was not invited to assist at the meeting of the 21st January, and consequently was not present, he is unable to judge of the correctness of the report. He then sums up the conclusions to which Mr. Alcock and the other ministers arrived, viz. :- 'That no confidence can be placed in the good faith of the Japanese Government; that the members of the different Legations are exposed to assassinations by remaining in this

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SHANGHAI. The Loudon mail of 10th Jan. arrived on 4th March by Here everything is remarkably quiet and in suspense until Messrs. Dent and Co.'s steamer, Ly-ee-moon. some judgment can be formed as to the advantages likely to accrue In a month to foreign trade in the market on the banks of the Yang-tzeor two these questions will probably be solved. By the latest kiang and in the northern ports still closed by ice. accounts the Expedition up the Great River had not proceeded beyond Nanking. Some communication had been held with the rebel chiefs who expressed a desire to conciliate the good will of foreigners and encourage trade.

PROGRESS OF THE YANGTZE EXPEDITION.

city; and that for the double purpose of securing personal with them. safety, and to produce a visible effect on this Government, it is advisable that the Legations should retire to Yokuhama,' and replies to them with considerable force and ability. His arguments are, to our thinking, irrefragable. He shows that it has ever been the desire of the Government that the foreigners should use the same precautionary measures adopted by the Japanese themselves, and asks whether it is just to require the Japanese to protect us with other appliances than those own security? Mr. Harris observes that the murder of Mr. Heusken was owing to his neglect of the warnings of the Government against his constant exposure of himself at night. A broad, sensible view is then taken of the conduct of the Government with respect to foreigners in past years, and of the difficulties occasioned by a change of policy. A barrier is suddenly removed, many men of high rank and political influence in Japan are violently opposed to the innovation, a spirit of hostility is aroused, and, however friendly may be the feelings of the Government, it is out of its power to control the fierce passions of the anti-foreign party. This reasoning appears obvious enough, and we do not well Mr. Harris then alludes to see how it can be answered. what he deems a great mistake into which the ministers fell at the Conference-a mistake which led to the still greater error of the flight from Yedo. Thus he writes :"It strikes me that all the arguments at the Conferences referred to are based upon the assumption that the Japanese Government represented a civilisation on a par with that of This is a grave error-the Japanese are the Western Powers. not a civilised but a semi-civilised people, and the condition of affairs in this country is quite analogous to that of Europe To demand, therefore, of the Jaduring the Middle Ages. panese Government the same observances, the same prompt administration of justice, as is found in civilised lands, is simply to demand an impossibility; and to hold that Government responsible for the isolated acts of private individuals I believe to be wholly unsustained by any international law. This principle is not acted on in the Western World. long ago a London jury exultingly acquitted a conspirator against the life of the Emperor of the French. I did not learn that the French Legation in London retired to Dover in consequence of this failure of justice. Again, in one of the greatest thoroughfares of Naples the French Minister was savagely assaulted at midday, and although hundreds of people witnessed this assault, the would-be assassins effected their escape, and to this day they have not been arrested. French Legation retire from Naples in consequence of the failure to arrest the criminals? In March last, the Regent of Japan was assassinated. Only a part of the murderers have thus far been arrested, and of those not one has been punished yet. This delay in effecting punishment on the assassins, of one so exalted in rank as the Regent, shows that the Japanese mode of procedure is different from that of the Western World. I desire to put on record my firm belief, that as long as I obthe precautions recommended by the Japanese Government, and used by the Japanese themselves, my residence To retire to Yokuhama in this city is a perfectly safe one. with the intention of producing an effect upon the Japanese Government, will, I think, prove a mistake. There was not one article in the American Treaty more difficult to obtain than the one securing a residence in Yedo of a diplomatic representative of the United States. The Japanese Ministers on that occasion warned me of the grave difficulties which a residence of Foreign Ministers was sure to create in Yedo, and they were very solicitious that I should accept a permanent residence in Kanagawa or Kawasaki, with the right of coming to Yedo whenever my duty required."

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In conclusion Mr. Harris trusts that patience and forbearance may yet have the desired effect, and adds that he "would sooner see all the treaties with this country torn up, and Japan return to its old state of isolation, than witness the horrors of war inflicted on this peaceful people and happy land." We will not quarrel with Mr. Harris for the slight tinge of romance which leads him to describe Japan as "peaceful and happy." There are two sides to the picture, and for the moment he is glancing at that which is glowing in the sunshine. So be it, he has a right to look cheerfully on a land in which he has acted with such consistency, and if he over-cstimates the happiness of the people, he does not in the slightest degree exaggerate the importance of our retaining a friendly relation