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マリガトーニーを求めて
2024/08/31

出典/『南の島のカレーライス』(丹野富雄著/南船北馬舎版1995年、KhasyaReportかしゃぐら通信版2022年)「2章・カレーライスの原像」から「マリガトーニ―を求めて」の部分を内容補足して掲載




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1861年のカレーライス
江戸に香り立つ幕末カレー






メリおばさんのマリガトーニ―・スープ(手前・左)、
 …ビクトリア期、明治期のカレー世界から、再び、現代のスリランカに戻った。
「英国人といっても、今の人はマリガトーニ―・スープなんて知らないよ。反対に一体どんなスープかって訊かれるのさ」
 スリランカ西海岸、欧人観光客が集まる地、ネゴンボでレストランを開くシンハラの主人がそう 話す。メニューのトップにマリガトーニー・スープを掲げているがイギリス人の反応は鈍いそうだ。
KhasyaReport

 
マリガトーニ―の名さえ知らない…

  ネゴンボ市内を北へ延びるプッタラムヘ向かう道の西側にはインド洋の碧い海と観光ホテル。東側は観光客目当ての小さな飲食店が並び民宿を営む家も建つ。飲食店を片っ端から当たった。マリガトーニーをメニューにしるしていたのは二軒のみ。他の店はその名さえ知らない店主ばかりだった。マリガトーニーを置いている店も一軒はポル・キリ(スリランカのココナツ・ミルク)にカレー粉を加えて煮ただけの、純然たるカレー・スープだった。ところが別の一軒は、ニゴンボの通りの北はずれにあるのだが、胡椒にコリアンダーを合わせ、魚肉を少々忍ばせハーターワーリヤという薬草の汁を絞り加えて、スープの底に飯粒を沈ませている。紛れもない。本格的なマリガトーニーだった。料理文化は料理人の数にあわせパローネの部分で自在に姿を変える。日本式カレーの原型を英国のマリガトーニーに求めれば英国にそのスープはすでになく、やっとスリランカの英国人目当ての観光地でその姿を見出したけど、紛れのない代物は観光地の外れのただ一軒にあるのみだった。

おや可哀相に…

 マリガトーニーを注文した時、店の主人は私を見て、おや可哀相にという顔をした。なにやら合点はゆかないが、注文してから料理が運ばれてくるまで二十数分。私はポツンとテーブルで待つことになった。白いサロマ姿のシンハラ人を二人従えた白人の大男が横のテーブルでビールを飲んでいる。ビールで頬を赤くして大声で話す。フランス語だった。私がひとりでポツンとしているのを見ると、つかつかとやって来て、どうだ一緒にビールを飲もう、と英語で話しかけてくれた。おお、タダ酒が飲めるチャンス。いや、アルコールで痺れた舌でマリガトーニーと初対面するわけにはいかない。「ありがたいけどちょっとお腹が…」と断って再びひたすら料理を待つ。店の奥で主人が、やはりそうか、といった様子で私をちらりと見た。
 横でビールの瓶がポンポンと開く。喉にビールの泡のごとくに湧く唾を隠しながらひたすらマリガトーニーを待つ。
 一皿のスープが運ばれてきた。やや濁りのある薄緑色のスープだった。
「これ、マリガトーニー?」と訊くと、主人は「オゥ」と応じる。
 英国風の澄んだやつじゃないなと思いつつスプーンで皿の底を探ると何かに当たる。スプーンを上げてみれば、飯の粒とサイの目切りの白い魚肉だった。スープごと口に運ぶ。胡椒のぴりりとした風味。コッタマルリの、さわやかだけどモラクセラ菌のフンのような香り。緑の草汁はハーターワーリヤ。店の主人は慎重にスープを味う私の所作を見届け、テーブルにやって来て「腹にいいんだョ」と一言。
 この一言で私は思い当たった。そうだ、漱石も!

名物のカレーで船酔いを…

 時は文明開化の明治。英国留学へ向かった漱石は船酔いで食事もままならない。船がコロンボに寄港した際、同行日本人と相乗り馬車で市内見物に行き、観光の帰路、港近くのムダリージ通りにあるブリティッシュ・インディア・ホテルに立ち寄り食事をした。ムダリージ。タミル語で資本家を言う。腹が出て髭を生やした男たち。奴らは金持ちだ。  食事をして船に戻り、コロンボ港を出た後の船旅は快適だったと日記にある。文豪漱石が、当時はまだ金之助だけど、漱石は名物のカレーを喫すと言うが、ムダリージ通りのホテルで食したカレーって、もしやマリガトーニーじゃなかったかしら。
 当時、マリガトーニーはインド、セイロンの英国人の間で大ブームだった。アジア交易で成金となった英国商人は欧州で高値取引される貴重な胡椒をふんだんに加えて作るマリガトーニーに群がった。庶民は唐辛子の貧乏カレーを指食する。交易成金は胡椒ふんだんの高級マリガトーニーを銀のスプーンで優雅にかき回す。
 名物のカレーと漱石は手帳に記したが、それがマリガトーニーなら朝飯前で船酔いを治せたかも。

もしかしたらメリおばさんが…

 観光地での頼りないマリガトーニー状況は読み取れた。ではスリランカの暮らしの中ではどうなっているだろう。マリガトーニーにありつけるだろうか。
 車でヌワラ・エリヤからカンデイヘ抜ける途中、運転手のクマーラが実家へ寄ってもいいか、と私に許可を求めてきた。助手席でうわ言のようにマリガトーニーと繰り返していたものだから、それが呪文になったか、クマーラは何かを思い出してしまった。
「もしかしたらメリおばさんがムリグッタンをつくるかもしれない」と言う。ムリグッタン? 何だいそれは?
 クマーラが言うにはマリガトーニーの原語ミラグ・タンニールのシンハラ訛りがムリグッタンで、ヌワラエリヤ県の山中に暮らすシンハラ人はこの料理をそう呼んでいる。タミル語彙がシンハラ語へ取り込まれる時の音声変化は常に単純化を目指す。
 ムリグッタン、そう来たか。否、という手はない。メリおばさんが住むカンディの山奥へヤム、ヤムとけしかけて車を廻した。
 この時の食の旅はネゴンボから南部のマータラヘ寄り、さらにそこからハンバントータの塩田地帯を抜けて開拓地を北上し、一路ヌワラ・ユリヤヘ上るという強行軍だった。強行軍の行程はすべて料理をたずねることばかり。クマーラは大の酒好きで毎晩ジンの小瓶を手から離さなかったが、翌朝に酒の臭いをさせることはなく、私が告げる目的地と目標は常にカバーしていた。私が車の助手席で再三再四うわ言のようにミラグ・タンニールと呟いていたので、彼の音感がそれをムリグッタンと聞き取り彼は忘れ去った古語を思い出してしまった。ふうむ、呪文は唱えるもんだ。
 メリおばさんはクンブルガムワと〔注1]いう山村に住む。ヌワラエリヤからカンディヘ抜ける幹線道路を奥道に入って、山肌を切った道をくねくねと下りたところ。ちょうどヌワラエリヤから下りて来る茶畑が途切れる辺りにある。

 山腹に刻まれた細い道沿いに家々が並んで現れて村の入り口に着いた。村のどの家もクマーラの親戚だという。道端で人に出合うたび車を停めて話し込んでしまう。おや、どうしたんだい、このところ全然帰ってこないじゃないか、とレッダにハッタ姿の小太りの婦人が足を止めてクマーラに話しかけたかと思えば、久しぶりだな、夜には家へ寄っていけ、と笑いかける子守の爺がいる。村に一軒と覚しき乾物と雑貨を商う店に寄った。鰹の水煮缶詰を二個買って、ここでもクマーラは若い店主と談笑。小さな村なのに、あれあれ、今日中にメリおばさんの家に辿り着けるやら。
 道で会う人、誰とでも挨拶を交わす。村落共同体とはこういう生活様式だったのか。改めて人類の集団生活のやさしさに惚れ込んだが、東京で会う人ごとにこれを実践したら目と鼻の先のコンビニヘも辿り着けず飢え死にする。人の暮らしにほど良い社会システムは、ワン・ルーム・マンションがエノキダケのようにぎっしり林立する都会では成立しない。

 道端の草むらにクマーラは車を止め置いた。少々険しい小道を登って山腹に建つメリおばさんの家に辿り着く。家に辿り着くまでの流儀は島の内陸にあるシンハラ人の家に共通する。茶会の客人が茶室の躙口に至るまでの庭のつくりにも似る。空から見下ろせば分厚い段通を敷き詰めたジャングルにしか見えないけど、土の上を這いまわる虫の眼で見るとその様子は一転する。掃き清められた小径がうっそうと茂る木立の下のあちこちにうねり、小径は枝分かれして家の前庭に続く。

メリおばさんのムリグッタン

 メリおばさんは小柄な女性だった。玄関脇の椅子に座って話をした。シンハラ語の語りには強調も抑揚もない。淡々と語る彼女の言葉は琴の調べのようだ。高地シンハラ特有の明瞭な発音で聞き取りやすかった。
 メリ・ボーイ。彼女の名だ。そのボーイ姓が示す通り、父はスコットランド人。母がシンハラ人だ。ヌワラエリヤ茶園の真下にある村だからシンハラ人の血は通っても彼女にはタミル人の暮らしが被る。英国の血をひくシンハラ人の彼女がつくるタミル起源の料理ムリグッタンがそこに生まれる。多彩すぎるアイデンティテイ。それが素朴だった。

「胡椒、大蒜、唐辛子、クミン、コリアンダーを石臼で潰してひとまとめにするの。それをポル・キリに合わせて炊くの。酸味付けにはシーアンバラを使うのよ。ゴラカを使っちゃ駄目。ムリグッタンに肉を入れることもあるけど、私は何も入れない。汁だけよ。これはね、そのまま飲むのがいいし、ご飯を入れてもいいのよ。ムリグッタンはね、食欲がなかったりお腹をこわしたりした時にはとてもいい薬になるの」
 メリおばさんはムリグッタンの作り方と食する意味をそう教えてくれた。
 ポル・キリというのは椰子ポル胚乳キリを削り、水を加えて搾った汁を言う。ココナツ・ミルクと言い換えてもいいが、削りたて、搾りたてでないとポル・キリとは言えない。これを素焼きの壺に入れかまどの緩やかな火に掛けると甘みを醸す。スリランカに広がるやるせない甘い匂い。
 タミル民族のムリグ・タンニールはポル・キリを用いない。〔注2]水で胡椒を炊く。酸味に用いるシーアンバラはタミル人の食材。タマリンドのことだ。フルーツで作る酸味料と言えばシンハラ人ならゴラカを用いる。メリおばさんがシーアンバラにこだわるのはムリグッタンの起源がタミル文化にあることを明瞭に示している。
 スリランカ料理は酸味料が欠かせない。先の「ケルリート・フヒシュ」ではスープの仕上げに柚子の汁を使っていた。英国化したカレーに用いるライムを仮名垣魯文の「料理通」ではゆずに変えている。

 クンブルガムワでは、ちょうど我々が健康のために漢方を煎じるような意識でムリグッタンを飲む。実際、酸味付けのシーアンバラ、つまりタマリンドは腎臓を活性化し代謝を高める作用があるという。そう講釈したメリおばさんは「じゃあ、今晩つくる料理にムリグッタンを加えてあげるわ」と約束してくれた。  スリ・バーダ詣の歌を唱ってメリおばさんの孫等と遊び、しばらくして土間に顔を出せば、三人の女性が働いていた。ミリス・ガラ(石臼)を碾きスパイスを砕き、擂り潰し、竈の炉に土器を掛け、湯をたぎらせ、料理づくりに精を出していた。陽の落ちかける山村では竃の赤々とゆれる火がなによりも心に優しい。かまどの火がなければ私たち人類は漆黒の闇の世界に落ちる。
 卓の脇にアセチレン灯をぶら下げて料理を並べる。ポル・サンボールやトーラ・マールのカルポル(鰆の黒煮)、ムクヌワンナのマッルン(野菜の煎り煮)。この頃流行りの豆腐のテンプラードワ。そして、お目当てのムリグッタン。
 ムリグッタンのスープはターメリクで少々色付いている。一口飲む。ほんわりと感じる甘味。次にぴりっとする辛味。ドゥル(クミンなど)のスパイス群の爽やかな香りと快適な刺激味。いや、待て、待てよ。考え込んで、また一口。あれ?どこかで体験した風味。舌先が思い出したのは東京のインド・カレーと称する店で食べた水っぼいカレー汁の風味。いや、あのぼんやりした風景じゃない。きりっと辛くて、ゆるやかに甘くて切ないのだから。
 思い出したぞ。子供の頃、夏に預けられていた山形の田舎で伯母が耳掻き三杯分のカレー粉でつくってくれたカレー汁。メリおばさんのムリグッタンは切れが鋭く張りもあるのだが、もし、あの時の山形の山里のカレー汁に酸味が加わったら、ムリグッタンの祖型になる。メリおばさんのムリグッタンには具が入っていなかったけど、昭和30年代の日本式カレーライスの印象が、あるいは、エスニック都会風の日本式インド・カレーの風味が南の島の山中の農家で飲む素朴なスープ、ムリグッタンに重なった。
 スリランカの風土に生まれたシンハラ式ムリグッタンは、極東の日本民族が田舎で作っていたカレーと重なる。カレーライスの原像を求めてスリランカの山中を訪ねてみれば、そこにはバター臭い味もなく、小麦粉でとろめくカレー汁もなく、ただ漢方を煎じたような水っぽい液体があって、これが辛くて甘くて、香り爽やかなのだ。

 おそらく明治の頃だと思う。日本に帰化したばかりのカレーはバターと小麦粉のくどい味と香りでつくられた。でも、これが日本全土に広まった時、バターは消えたし、加えられる小麦粉の量も減った。つまり、日本に土着化したカレーからは英国の味と香りが見事に取り払われ消えた。
 カレーは元来、東洋の味だった。カレーライスのルーツを辿ってゆけば、辿り着くのは東洋の淡白な味と風味。食で健康を守る。命をつなぐ。東洋古来の知恵に辿り着く。
 それでなのだ。ネゴンボの食堂の主人がマリガトーニーを注文した私を見て、可哀相に、といわんばかりの表情をした。胡椒は消化器の薬であり、シーアンバラは腎臓の働きを助ける。ネゴンボの食堂は当方の健康を気遣ってやわらかな風味のムリグッタンを供してくれた。カレーの原型は東洋の秘薬だから。

出典/『南の島のカレーライス』(丹野富雄著/南船北馬舎版1995年、KhasuaReportかしゃぐら通信版2022年)「2章・カレーライスの原像」から「マリガトーニーを求めて」の部分を内容補足して掲載
マリガトーニーのバリエーション






写真上/薬草ハーターワーリヤを絞ってスープのベースにしたマリガトーニー negombo
写真中/欧州の観光客用マリガトーニー(カレースープ仕立て、まろやかな味と香り) negombo
写真下/メリおばさんのムリグッタンmuligutthan, Kumbulgamuva本文のテーマになっているムリグッタン(左下の黄色いスープ)

本文 〔注1} クンブルガムワ Kumbulgamuva  カンディからマハウェリ・ラージャ通りB492を経て60kmほど南西へ行くとヌワラエリヤの茶畑の下にクンブルガムワの集落がある。カンディ・ペラヘラや茶園散策に便利なロケーションにあり自然保護区でもあり観光ホテルが周辺に集まっている。1860年代、茶園が植民地セイロンの基幹産業になると英国スコットランドから多くの起業家がここにやって来た。メリおばさんが作るムリグッタンは茶園労働者としてインドからこの山奥の地に移住したタミル人の食文化に起源がある。

[注2] ミラグタンニール(ムリグッタン)にポルキリ(ココナツ・ミルク)を加えるかどうかでシンハラ食文化とタミル食文化の差を測るという民俗学的な古風な方法はもう使えないようだ。確かにその始原はあって、その差異も明瞭だった。しかし、人々がネット世界で交雑するようになってマリガトーニーは新たなダイバーシティに巻き込まれたのだ。そして、そのダイバーシティが生んだのは「どれも同じ代物」でしかなかった。これが現代における多様性の現実だ。世界中で、また、日本でマリガトーニーが再び作られるようになって、多彩な人々がマリガトーニーを拵えるようになって新たなマリガトーニーの姿が現れたのに。具材が多様になり、色とりどりになり、見た目がよりおいしそうになったのに。不思議なことに多彩で有能な人々が作るマリガトーニーは雑煮の一様性にはまっている。なぜそうなったのだろう。英語のマリガトーニーの語源がタミル語のムリグ・タンニにであり、その意味が「胡椒・水」であり、この二つの材料を含んでいればどんなスープ料理もマリガトーニーであると理解される。そこに何を加えようがそれは料理人のアイディア次第。少なくとも「ビートン夫人の家政読本」に紹介されたマリガトーニーまでは英国仕立てが大道だった。胡椒が唐辛子に変わり水がスープストックに変えられては本来のミラグ・タンニールではないのだがマリガトーニーの個性は消えた。インターネットが繋ぐクラウドの世界がそれぞれのクラウドの個性を消し去って虚像を祀り上げるなんて誰が想像しただろう。マリガトーニーは無限に迷う。現代社会の情報はダーティ・クラウドを繋いでいる。私たちの知の怪しげな行く先を暗示しているのかもしれない。


 マリガトーニー・スープの華麗な変遷



セイロン・ディリー・ニューズ社のマリガトーニー
Ceylon Daily News COOKELY BOOK Lake House Investments Limited 5th edition 1982
私が始めてスリランカ料理に出会ったとき、この新聞社の料理本を手にするよう勧められた。新聞に掲載された料理レシピ―を集成して生まれたこの本のインデックスは料理をスープ、前菜、主菜などの種別に分ける方法と、欧州料理、シンハラ料理、タミル料理などの民族による差異を示す方法と、その他の分類不可を掲載した。

ディサーナーヤカのセイロン料理
CEYLON COOKERY Chandra Dissanayake 3rd 1984 ディサーナーヤカ個人の出版による調理書。19世紀に現れた英国の「家政読本」を手本にした実用重視の調理書。細やかな調理手法が随所に記されている。マリガトーニーはストリング・ホッパーで召し上がれとあるのは秀逸。余談だがアジノモトがマレー料理に多用されることを知らせてくれたのはこの書のレシピ―だった。

ビートン夫人の家政読本
Mrs.Beeton's household management London:Ward,Lock 1907
19世紀、蒸気機関の発明がこの国の経済を一気に膨らませ、世界の海洋をわしづかみにして英国は発展した。ビートン夫人の家政読本はその英国の自信にあふれる様を見せてくれる。ここに紹介されるマリガトーニーは東洋に出会った西洋の自信と優位を象徴する。タミル食文化が生んだミラグタンニ―ルは豊満でかぐわしい当時最先端の英国文化の洗礼を受けてみごとに変形したのだ。いま、日本に展開するマリガトーニーはこの当時の英国料理文化の末端にある。つまり、何でもあれの変形だ。日本の西洋料理がフランスに始まるのではなく英国に始まったことも今になってみれば幸運なダイバーシティだった。

 家政読本ではマリガトーニー・スープの調理法がPage 73に、
Mode. — Slice and fry the onions ; line the stewpan with the bacon ; cut rabbit or fowl into small joints, and slightly brown them ; put in the fried onions, the garlic, and stock ; simmer till the meat is tender; skim carefully, and when the meat is done, rub the curry- powder to a smooth batter with a little stock ; add it to the soup with the almonds (pounded), or the cocoanut, with a little of the stock. Season and serve with boiled rice.

とある。また、
Note.— This soup can be made with breast of veal or calf's head. Vegetable mullagatawny is made with veal stock, by boiling and pulping chopped vegetable marrow, cucumbers, onions, and tomatoes, and seasoning with curry-powder and cayenne. Nice pieces of meat, good curry-powder, and strong stock are necessary to make this soup good.
注記: このスープは子牛の胸肉または子牛の頭で作ることができます。野菜のムラガタウニーは子牛のスープで作られ、ズッキーニ、キュウリ、タマネギ、トマトを煮てつぶし、カレー粉とカイエンペッパーで味付けします。このスープを美味しくするには、良質の肉、品質のしっかりしたカレー粉、そして濃いスープが必要です。
―ともあり、この家政読本の発行時期には完全に英国版カレー(マリガトーニ―)と化していたことがわかる。

最もシンプルなマリガトーニー
East Asia 1860-1862 in letters from Count Fritz zu Eulenburg, Royal Prussian Ambassador, entrusted with extraordinary mission to China, Japan and Siam オイレンブルク伯が1860年、プロシアから日本へ向かう船でカレーに関する報告を記している。
ここに記された胡椒を煮て作るカレーは素朴なマリガトーニーそのもの。プロシア国への正式報告書「オイレンブルク公式記録」にはカレーの字句は記されていない。

① 1860 juni 26
Next to it I see the ship's crew, which mostly consists of Indians, sitting in groups on the ground and eating rice with Curry(this is a vegetable that tastes like pepper) with your fingers. The wind blows so fresh and favourable that all the sails on the three large masts are hoisted, and we sail proudly between Africa and Asia, whose coasts we see on both sides.※原文ドイツ語をgoogleによる英語への自動翻訳。vegetable that tastes like pepperなど訳し損ねがある。以下、②③も同様

徳川幕府との通商を築くために訪日したオイレンブルク伯が私的に弟や親族へ送り続けたおびただしい数の手紙には上記1860年6月26日付けの他、以下①②のような二件の「カレー」に関する記述がある。ともに芝赤羽の幕府接遇所、プロシア仮公使館での出来事。

②1860 12 6
I asked Harris to dine with me and he accepted. He never drinks wine and rarely eats meat; he must be fed with rice and Curry feed. But that didn't stop us from being quite cheerful. When I talk to Harris, he speaks English and I speak French; that works very well.

③1861 1 14
All around on tables, wooden divans and chairs the beautiful books lay open, and on a large table on the narrower wall, opposite the Regent, stood cold pheasants, ducks, roast beef, rice with Curry, eggs, warm steamed beef with potatoes, fried fish, a great deal of Bordeaux, a great deal of champagne in snow and a few bottles of schnapps. At about 1 o'clock my whole party assembled in the drawing room, and soon afterwards Harris and Heusken and Alcock appeared with six interpreters, secretaries and attachés. The course of the breakfast was like that of any pleasant breakfast.
オイレンブルク伯の手紙はすでに日本語訳があり現在も刊行されているが①のcurryの部分は省かれている。日本語訳は1860年8月16日のシンガポール出航から始まるからだ。先の大戦中にドイツ友好協会が発行した翻訳は大変正確で読みやすく「カレー」も訳されている。市販されてないので国会図書館デジタルで閲覧するのが便利。第一回独逸遣日使節日本滞在記 日独文化協会訳編 昭15

明治期に入ってからは欧州から日本へ帰る途中の久米邦武がセイロンのカレーライスを記録している。
※…米ヲ土缶ニテ炊キ奨汁ヲソゝキ手ニテ撹食フ「西洋ライスカレイ」ノ料理法ノ因ミテハシマル所ナリ… 「特命全権大使米欧回覧実記欧羅巴大洲ノ部」97巻329頁 錫蘭島記 久米邦武 編 博聞社 1878
ゴールからコロンボへ向かう時にこう記録しているがオイレンブルク伯のような「ライスカレイ」の内容に関する報告はない。

19世紀後半、イラストレーターのEdward LearsがIndian Journalに残した記録にはこうある。
November 20 1873
Page n253
Morning drive from 5.50 to lo.io, when we reached Bentota, delightfully fresh and pleasant. Breakfi.st ditto and most excellent: 3s. each for Mulligatawny soup, two sorts of first-rate fish, roast fowl, devilled and stewed and feed, with two capital curries and cheese. A botde of good claret brought the bill up los. and they seemed delighted with 6d. baksheesh! Finally we reached the broad sea ground of Colombo at 4.45 and set down Giorgio at the Goldfish Hotel with orders to get what rooms he CQuld while I went on to the post; seven letters, but not one firom Europe; disgusted.
朝の5時50分からロヨまでドライブして、ベントータに到着しました。とても新鮮で気持ちよかったです。朝食も同じく最高でした。マリガトーニースープ、高級魚 2 種、ローストチキン、デビルとシチュー、そして 2 品の素晴らしいカレーとチーズ。上等なクラレット 1 瓶で請求額は 10 ドルになりました。6 ペンスのバクシーシュにみんな大喜びでした。ようやく 4 時 45 分にコロンボの広い海辺に到着し、ゴールドフィッシュ ホテルでジョルジョを降ろして、私が郵便局へ行っている間に部屋を予約するように指示しました。手紙は 7 通ありましたが、ヨーロッパからの手紙は 1 通もありませんでした。うんざりしました。

この記述から1873年の時点で、英国スコットランド人がマリガトー二ーは前菜のスープ、カレーは主菜と認識していたことが窺われる。TikTokに4,5年前から展開されている多様なマリガトーニーの氾濫は、ですから、非常に弁証法的な、自由自在の楽しい変化だ、ということになります。ムリグッタンは泣いているけど。