ハリスは下田・アメリカ領事館(玉泉寺)で条約草案を作った
時代を幕末に戻しましょう。安政3年1856伊豆半島南端の漁村・下田に着いたばかりのハリスは早速、通商条約の私案づくりに取り掛かります。お手本は英国が清と結んだ南京条約1842、そして、ハリスが日本へ来る途中に条約締結を手掛けたタイとアメリカの通商条約1855です。これは香港総督で英国全権公使のボウリングが結んだ英国・タイ通商条約1855のモデルをそのまま借りていました。下田玉泉寺に手作りの米国旗を揚げて---旗竿は船具店でマストを特注して作らせました。「ずいぶんボラれた」と日記に記しています---、ここにアメリカ領事館を宣言し断固一人、一年を掛けて日本との通商条約草案を練ったのです。
下田はペリー条約によって…非公式ですがすでに「開港」していましたから…バザール(交易品市場)が開かれています。バザールでは日本の商人が持ち込む輸出商品とアメリカ商人が持ち込む舶来ものが並んでいます。幕府奉行所公営です。ドルは飛び交うわ、一分銀は出回るわ、メキシコ貿易銀は大手をふるうわ、下田湾に寄港する鯨船、軍艦、郵便船乗組員目当ての酌婦はおしろいを塗るわ、英仏米露からやって来た軍人、商人、乗組員で溢れてそれはもう大繁盛です。
何しろペリーは「一ドル=一分銀」というレートで通貨交換を認めたのです。日本側の口車に乗ってドルの大安売りをしてしまいました。ペリー条約とハリス条約のはざまにあって、日米商人たちがひしめく下田バザールで一手に売り買いを管理し、金勘定する下田奉行所はテラ銭稼いで大儲けです。アメリカにとって公平じゃなかったんです、ペリー条約って。
貿易の公平と自由を求めてハリスは下田にやってきました。アメリカ議会に推され、大統領特使として。しかも、たった一人で。いえ、秘書兼通訳の、貿易実務経験もなく外交経験もない青年を一人、連れていました。頼りがいのないような、あるような、母国語のオランダ語とその他フランス語とドイツ語も出来る、読書は大好きという人です。ハリスの書く公文書を英語からオランダ語に翻訳して写し取っているうちにめきめきと腕利きの秘書官らしくなりました。利発で実直申し分ないヒュースケンHendrick Conrad Joannes Heuskenです。ハリスは彼を大ぐらいで寝てばかりいると日記にそれとなく記していますけど。
ハリスが私案としてまとめた日本とアメリカの通商条約は彼の信念である自由と公平(平等)の原則がその礎に置かれています。ニューヨークではフリー・カレッジ設立で市の教育委員長として手腕を振るい、アジアにやって来ては貿易商として活躍し---商売は上手じゃなかったみたい、でもアジア外交ロビーイストで、日本で初代外交官になりたくて私的な交渉をアメリカ政府と重ねていました。歳は食っていたけど、自由と平等の理想は絶対に崩さないという「若気の理想」に燃えていました。
19世紀の人ハリスには自由貿易と自由とが同義語でした。ですから、下田に来てアメリカ公使館の旗を掲げてからも、国は貿易商人の売買に口を出すな、下田奉行所、口出すな、手も引っ込めろ、商人同士に自由に売買させろ、こうした自由貿易を妨げる権力からの自由を舌鋒鋭く日本側に説き、ハリスの信条である「自由と公平」の原則を貫こうとしたのです。
通商条約を結べばアメリカは日本で商売をする。だから日本の商人もアメリカへ行って儲けなさい。これが公平(平等)な貿易の原則だとハリスは言います。
でも、通商の自由と公平を求めるために領事裁判権(治外法権)を仕組み…岩瀬、井上はそれを「扶助」の仕組みだと受け取りました…、関税自主権も当初5年間は日本に与えず貿易の何たるかを指導するという当座の「不平等」をハリスは設けてしまいます。
アメリカ政府のカス国務長官あてに送ったハリスのデスパッチ(業務報告)に、「せっかく領事裁判権の確保を条約に入れたのに、英国の通商条約は領事裁判規定に日本人を仲裁役として入れてしまった。これでは領事裁判が台無しだ、いったい何を考えているんだ」と憤慨する様子が記されています。
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To the Hon.Lewis Cass Secretary of State Simoda Sep. 11-58. Correspondence No. 30, from Letterbook 4,City College Cohen Library Archives and Special Collections,written in the hand of Mr. Henry Heusken,/ Adrift at Shimoda // https://adriftatshimoda.weebly.com/ |
日本の置かれた立場に共感を持ち、同情的でもあったハリスでさえ、当時の文明人として、「欧米列強の半文明国への特権(領事裁判権)は完璧で純粋なものでなければならない。そうでなければ貿易は成り立たないし、日本は”大人の文明人になれない」という19世紀帝国主義の”幼稚なエゴイズム”に踊らされていました。「文明人」となった(であろう)今の私たちから見返せば、温情はあるけど…大岡越前や遠山の金さんの名裁きの”創作”のことです…裁判が制度として整わない江戸期日本の司法システムを踏まえたら「日本にはまともな国家の裁判法もない、我々文明国の法体系を適用しよう」のことだったのですけど。
ところがハリスの心配はなんのその、英国公使が領事裁判権をフルに活用して日本で英国人が引き起こす重大な刑事事件を無罪にしてしまう問題を生み出します。これがひどい。
アヘンの持ち込みをハリが大いに厳しく規定して「少量の医療以外すべて禁止」と通商条約に入れました。ハリス条約は同時期、英仏などが日本と結んだ通商条約のテンプレートでしたから英仏もこれに倣った条項を入れています。
ところが、商船でアヘンの持ち込みをした英国人を日本側が捕らえても、スマグルsmuggleなのに「自家用だから問題なし」と領事裁判権を持つ英国公使にないがしろにされてしまう。もっとも、付け加えておきますが、貿易の決済に関して起こされる商人同士のいざこざの訴えでは公平に裁かれることが多かった。
領事裁判権の確立、関税自主権の喪失がハリスの素案に組み込まれていたので「ハリスは悪人である」説が昭和期に這入った日本では大きく取り上げられます。これはアメリカを「敵国」として憎み始め、戦争をも厭わないと決心する時代の日本人による日本人へのプロパガンダでした。政府とマスコミとが一丸になってハリスを「鬼畜アメリカ」のシンボルとして奉り上げたのです。東京朝日新聞夕刊の連載小説として「お吉物語」が一世を風靡した昭和5年の頃、悲恋のヒロインお吉の姿に涙した当時の日本人は絶対の憎悪をハリスとその背後に浮かぶアメリカの影に向けました。
「お吉物語」は『時の敗者-唐人お吉-』というタイトルで朝日に掲載されたのですが、「時の敗者」という時代性を組み入れることに十一谷義三郎は苦労をしたようです。危うい時代でした。昭和6年には平和を求める渋沢栄一が91歳で亡くなりました。そして、「終わり・の・始まり」がやってきます。
ハリスと岩瀬・井上の間で話し合われたこと
ハリスは通商条約交渉のとき、日本側(徳川幕府です)の全権代表、岩瀬・井上の二人に舌鋒鋭くこう説きました。
切支丹を磔刑に処して焼き殺し、あるいは犯罪者の首を落として公道に晒す、こんな残酷はいけない。関税が何だかわからない日本側は貿易商人に輸出税を課すと言い出すが、これは貿易の活性を阻害する。国は儲かるが貿易は損なわれる。損なわれれば結果として国は衰退する。だから、貿易通商の何かを日本側が理解するまで通商条約の細則に掲げた品目別の課税割合額は条約が成立し施行されて5年間、そのままに置く。往来に晒す磔刑を止め、政府の干渉しない自由貿易のシステムに慣れたら日米双方で再び条約を協議して自由と公平の原則を貫く貿易条約へ進化させる。そうハリスは意図したのですが。
ハリスの条約案は5年間の期限付き不平等でした。それが英国・薩摩戦争で(地方行政府の)薩摩藩が負けたので(中央政府の)徳川幕府はその責を負わされて英国のパークス公使Sir Harry Smith Parkesから課税額を一律5パーセントに抑えられ、戦争賠償で金塊をザックリもぎ取られます。パークス公使からは散々にいたぶられました。ハリスが通商条約に根付かせようとした日米双方を共に立てる売買の「公平」、貿易商の間のもめごとを解決する「相互扶助」。そんな「子供じみた」理想は19世紀の西欧帝国主義が軍艦に乗ってやってきて搔き消されてしまいました。
ああ、ハリスが「腹黒い悪者」だなんて。大体、周りをご覧ください。カレー・ライスの好きな人に悪者はいません。ハリスはカレーライスが大好きです。
ハリスは玉泉寺に開設したアメリカ公使館で貿易草案作りに集中していました。そして「アメリカは日本との貿易で利益を得るのだから日本も同じように利益を求めなさい。これが通商なんです、自由貿易です」と条約交渉で何度も繰り返します。半文明国の日本側官僚(武士です)はまだ貿易ってなんだか学んでいないから、5年間は手探りで行きましょう。これが一点。
貿易上のトラブルは商人同士で解決しましょう、国は口を挟まない。これが二点。
国の処刑制度は中国清朝、李氏朝鮮、ベトナム阮朝と同様残虐極まるし、切支丹は皆殺しだなんて文明国のやることではない。まず宗教の自由を認めましょう。これが三点。
でも二点目はハリス私案の日本側との点検現場で日本側交渉員の岩瀬に問い詰められてちょっと変更。商売上の金銭トラブルが双方で解決できないなら―契約書通りに支払いをしない、注文した品物と違うなど―その時は領事が間に入りますよ。日本もアメリカ領事も関わって貿易のいざこざを解決しましょうと話し合われました。
必ず条約に入れたかった二つの事項
ハリスには条約にどうしても盛り込みたい項目が二つありました。翌年批准されることになる条約に沿って言えば第三条に掲げる商人の居住権、そして第六条の領事裁判権です。この二か条にはハリス草案独特のレトリックがあります。
3条の居住権
ハリス条約3条では通商条約に指定された開港地にアメリカ人が住み暮らすことを認めています。居留地という名の特異な疎外地を作り外国人をそこに閉じ込めたことで一件落着の様子でした。でもそこには生活者の目線が欠けていました。貿易商人が土地を借り家を建て居住権をもってそこに住む。家族が同居する。貿易で日本にやって来るアメリカ人はクリスチャンだから安息日の日曜には家族で教会へ行きミサを行う。エスピコパルEpiscopalの熱心な信徒であるハリスは3条の居住権と共に「信仰の自由」を第8条に謳って徳川江戸政権260年の宗教弾圧の歴史に終止符を打とうとしました。
切支丹と分かれば死罪となる。磔にされ槍で突かれ焼き殺される。そんなことがあっていいものか。
ハリスは日本との通商条約素案にこう記しました。
"Americans in Japan shall be allowed the free exercise of their religion, and for this purpose shall have the right to erect suitable places of worship. No injury shall be done to such buildings, nor any insult be offered to the religious worship of the Americans."
日本に居住するアメリカ人は、信教の自由を享受する権利を有し、そのために適切な礼拝所を建設する権利を有する。そのような建物に損害を与えてはならず、またアメリカ人の宗教的信仰を侮辱してはならない。 |
これがハリスの「信仰の自由」の素案です。ここに記された「礼拝堂を立てる権利」はそのまま条約に記されました。ただし、英語の条約文です。和文では「居留場の内に」という条件がそこに加えられます。それはおかしい。条文が変わる。そうですね。では日米の文に齟齬が出たときの備えとして存在するオランダ語文ではどうなっているでしょう。
"De Amerikanen in Japan zullen de vrije uitoefening van hunnen godsdienst hebben, en zullen te dien einde het regt hebben om gepaste plaatsen voor hunnen godsdienst-oefening op te rigten."
日本に居住するアメリカ人は、宗教の自由な実践権を有し、そのために宗教活動に適した場所に礼拝所を建設する権利を有する。
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英文と同じです。オランダ文はハリスの英語文をヒュースケンが実直に訳して書いたものですから。
これがオランダ通辞Mの手に渡って日本語に変換されると、
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日本に在る亜米利加人自ら其國の宗法を念し礼拝堂を居留場の内に置くも障りなし
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となり、「居留場の内に」が書き加えられます。切支丹を居留地に閉じ込めれば邪宗が日本に広まることはない。交易で金を儲けるがそこに切支丹が紛れ込むことは避ける。かしこい。Mが加えたのかしら。Mから訳文を受けた老中会議の行政手腕の俊才がMに吹き込んで書き入れさせたのかしら。
6条の領事裁判権
ハリスは私案14か条に領事裁判権の規定を置きました。確定した通商条約では6条に規定されました。
領事裁判権は植民地でない国が植民地同様の足かせをはめられる不自由と不平等の取り決めです。後に明治に時代が移ってからのことですがハリス条約は不平等条約であると声高に喧伝されるようになります。英国の領事が領事裁判権を盾にして日本の法を蔑ろにして領事の「手前勝手な法」を持ち込んだことが大きな原因です。領事裁判権はそうした「悪意」を許すのです。当然、日本をいたぶっていると6条批判の炎が日本政府から上がり、論壇が騒ぎ、新聞がそれを書き立て、市民の怒りが焚き上がります。
領事裁判権は治外法権です。情に厚い”遠山の金さん”が裁きの場にいなければ悪法になります。日米通商条約6条の領事裁判権は悪法になりました。実際には領事裁判が悪なのではなく領事裁判権を「悪用」した英仏の当時の領事が「ワル」だったのですが、19世紀、アジアを帝国資本主義の略奪の対象にして、略奪が先進国の正義として通用していた(愚かな)時代には「ワル領事」も時代の子としてヒーローだったのです。
この領事裁判にいたぶられた記憶は日本人の怨念になり「国家主権の構築」を生み出すパワーに止揚されてゆきます。日本と同様、アジアで植民地にならなかったタイと中国に先駆けて真っ先に領事裁判権の抹消が条約相手国の米英仏と交わされてゆきます。
歴史の皮肉
領事裁判権という魔法の力を持つジョーカー・カードを握ることで、欧米の資本家や商人は、彼らがアジアで投資した資本がジョーカーの力で圧倒的なアドバンテージを得る幸運に恵まれます。貿易のルールなどいつでも書き換えられます。貿易を閉ざす障害が生じたら軍艦の大砲を使います。それが19世紀の欧米のアジアへ向けた貿易の「やり口」でした。
そして、歴史の皮肉として、「暴力的な資本主義のジョーカー」(領事裁判権、関税自主権の略奪)に対抗するため、「文明国」をめざす日本が取った戦略もまた欧米の19世紀資本主義に乗じてしまいます。「欧米のルールが不当だ」と道徳的に訴えていた日本は自らも同じルール(欧米の近代法・英国風の軍隊・資本主義体制)を身に着け、魔法のジョーカーを持つ側に回る道を選びます。中国、ロシアとの戦争に勝利することで「文明国」の仲間入りを果たすと、不公平な条約の改正を成し遂げ、日本自身が今度はアジアの隣国に対してこの「領事裁判権というジョーカー」を突きつける側へと回っていきます。旧幕府を倒した薩長の維新政府は英仏に鍛え上げられ、明治という世にもまれな力強い時代を強固に作り上げます。日本は英仏西欧諸国に蹂躙された国家主権を立て直し、欧米流のジョーカーを握った”軍事文明国”として自らを確立してゆくのです。
領事裁判権って条約につきものなの?
西欧の国々は互いに条約を結んでもそこに領事裁判は登場しません。アメリカを含む西欧の国々は互いに緊張関係で保たれる独立国だからです。独立は「文明国」の証です。アジアは多くの国が西欧諸国の植民地とされました。植民地にも領事裁判はありません。宗主国の法が植民地に適用されるからです。
タイと日本は独立を守っていました。”半文明国”が独立を守っている。ハリスの日本への目線からは奇妙な出来事に感じられていた節があります。特に日本は国家の規模でキリスト教を受け入れず死罪という弾圧を繰り返してきましたから日本の港を開いて西洋流の通商を貿易商人が行う際には慎重にアメリカ商人の安全を図らなければならなかったのです。アメリカの貿易商人はクリスチャンですから日本へ上陸するだけで、クリスチャンを認めれば即磔刑です。ハリスは彼の日記で何度もそのことに触れています。
西欧諸国外国人は日本で何でもする、罪を犯しても治外法権で守られて罪にならない。明治以降に騒がれるハリス流”6条”の領事裁判にこうした曲解が生じましたが、剛腕な英仏流のアジアでの治外法権・領事裁判権とは当初、別物でした。
不思議なことにハリスの描いた条約草案のクリスチャン規定を日本側は問題として取り上げていません。ハリスはこの日本側の様子を「なぜだ?」と自問し、通訳としてのヒュースケンは「やったね、大成功!」と日記に記しました。日本側の二人の条約交渉代表にすれば居留地にキリスト教を閉じ込めたのだから、それ以上貿易と関係のない部分に囚われる必要はないということでしたが。
「扶助」って何だ?
ハリスが提出した通商条約私案の検討には日本側幕府代表として岩瀬、井上の二人が並んでいます。実質この三人で協議は進められました。丁々発止の険しい討論があったと伝えられていますが、どこかのどかな雰囲気のこんなやり取りがあります。領事裁判権に絡む質疑です。
6条の審議は和気あいあいに進みます。井上清直、岩瀬忠震の日本代表は6条にハリスが記した「扶助」という言葉を、こりゃ何だ?、と問い掛け、ハリスはこう説明しています。
草案6条への質疑応答
日本側ー草案の9条に扶助という文言がありますけど、これ、どのようなことを言っているのでしょうか?
ハリスーそれはね、アメリカ人が日本で問題起こしたらコンシェルとしての私が取り押さえなきゃならないんだけど、ほら、ご存じの通り私の従者は少ないでしょ、ヒュースケンしかいないんだから。だから、私から日本の奉行所に頼んで人を出してもらって取り押さえていただく。それを「扶助」と言っているんです。 |
旧徳川政権が代わって明治になって明治新幕府周辺から領事裁判権という恐ろし気な用語が持ち出されてハリスの条約は日本に不利な「不平等」条約だ、蝦夷は不当だ、これをおめおめと飲み込んだ徳川政権は人後に落ちるという糾弾がなされるのがこの草案の9条、確定した条約では6条に組み込まれる条文です。3人による審議で日本側は犯罪者逮捕とその取扱いについてこう指摘します。
日本側…まず申し入れますが、アメリカ人宅で日本人が問題を起こしたとき、日本人宅でアメリカ人が問題を起こした時、互いにとらえて互いに引渡をするようにしたい。(日本人の犯罪者は日本が引き取る、アメリカ人の犯罪者はアメリカが引き取るってこと)
ハリス…以前、アメリカ人宅へ日本人が乗り込んで行って乱暴したことがあったけど、これ商人同士のいざこざだった。商品の売買にお金の事情が絡んでいて、暴力は犯罪だからと言ってその日本人をコンシェルの私が捕まえるってのも、なんだかね。そういう貿易に絡むことじゃなくて、例えば往来でアメリカ人が日本人にいきなり襲われたなら(これ、私のことなんですと、ハリス、二人に目配せして)日本人の手を借りて取り押さえるってこともあってほしいってことなんだ。
日本側…日本人の家にアメリカ人が恨みをもって乗り込んだ時はすぐに取り押さえて引き渡しますよ。
ハリス…それでいいと思います。併せて開港場のルールを作って犯罪者をどう取り扱うか、この先、細かく検討してゆきましょう。
「大日本古文書幕末関係文書18 安政4年10月~同年12月p712を意訳.
ハリスが描く私案9条(施行6条)の趣旨はこうした具合に尽きる。また、徳富猪一郎「近世日本国民史・第37」民友社 昭和6年は蘇峰(猪一郎)の批判的な解説を条約交渉の記録に添えている。爽快である。 |
この草案9条は調印施行された条約では6条となって繰り上がり以下のように規定されました。
第六条 日本人に対し、法を犯せる亜墨利加人は亜墨利加コンシュル裁断所にて吟味の上、亜墨利加の法度を以て罰すべし。亜墨利加人へ対し、法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すべし。日本奉行所・亜墨利加人コンシュル裁断所は、双方商人逋債等の事をも公けに取扱ふべし。
都て条約中の規定、並に別册に記せる所の法則を犯すに於ては、コンシュルヘ申逹し、取上品並に過料は、日本役人へ渡すべし。両国の役人は、双方商民取引の事に付て差構ふ事なし。
『条約彙纂』第1巻第1部/22頁 外務省条約局 昭和5年
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双方商民取引の事に付て差構ふ事なし―役人は商取引に口挟むなよ。自由貿易だぞ。下田バザールでの買い物で奉行所の割り込みを受け、来日当初から商品を法外な高値で買わされ続けたハリスは「貿易に政府の干渉は受けない。通商は自由である」の一点を曲げません。
この日米で取り決めた6条規定は他の国々が日本と結ぶ条約協定の範となりました。元貿易商人今は米国公使ハリスと日本政府江戸城きっての理性の論客岩瀬、井上の面々がひざを突き合わせて…一方は椅子に腰かけ、また一方は武士の正座を崩さず…吟味した自由貿易の条約はレベルが高かったのです。
ところが三人の自由と公平の理想が作った条約―って、まだ、日本には「自由」という言葉がなかったけど―は、これがもろい。いかにも現日本国憲法の9条のようにです。彼らが条約交渉の中で共有した自由と平等の理想は内からも外からも叩かれ砕かれます。
幕末明治の政情混乱が激しさを増します。英国人の日本人への「犯罪」を無実にするために英国「コンシュル裁断所」が6条を根拠に半未開の日本人相手に筋の通らぬことをし始める。犯罪を犯しても英国人は無罪、あるいはごく軽い処罰とする。ハリスの言う「扶助」など蓋をされてどこかへ消えました。これが19世紀帝国主義を背負った人々の外交という代物です。西欧の国際法を学んで文明国人となった日本人たちが「治外法権」「領事裁判権」という用語で通商条約を糾弾します。それはハリスの自由貿易論が理想を外され崩れ落ちてゆく瞬間の時です。
ハリスと岩瀬、井上の条約談判(条約交渉)を「大日本古文書幕末関係文書」から意訳掲載しましたが、彼らの「肉声」は明治時代に入って以降に飛び交う怒号とは全く趣が違うことに気づかされます。自由貿易の現場の声が聞こえてくるのです。
福沢諭吉は明治になって外国人の日本での犯罪を無実にした領事裁判を糾弾し「治外法権だからこんなことになる」「日本を馬鹿にしている」としきりに唱えました。ハリスと井上、岩田(岩瀬)の協議のときにはこんな修羅場のような状況ではなかったから彼らには明治の今湧き上がった6条問題の責はないと福沢諭吉は丁重に間を置きながらも「治外法権」をうたっている条約の責を国を愛する闘士として訴え続けるのです。
次のことはどうでもいいようなものですが「かしゃぐら通信」KhasyaReportはカレーライス(とそれにまつわるあれこれ)のサイトです。そこでカレーライスのことを一言申し添えます。
福沢諭吉は幕末のアメリカ使節団に加わってアメリカへ行きました。その時英語辞書を買ってきます。みんながウェブスターなんて高級な辞典を買い求め福沢さんもウェブスター当然買いましたが『華英通語』注1という貿易商向けの小さな英単語ハンドブックも手に入れます。
福沢さんは目利きが高いんです。前に『南の島のカレーライス』でそのあたり触れました。何故かって、その華英豆単にカレーcurryの単語が載っているからです。
『華英通語』は英単語とそれに見合う華南上海当たりの中国語の単語を並べただけの辞書ですが、ここに日本語の単語を書き加えて福沢さんは出版してしまいます。出版にしたらかなりブラックな体裁の内容ですがこのハンドブックの出版時点で福沢さんはカレーを知らなかったようです。ですからcurry―「加厘」には日本語が書き込まれていません。 (華英通語増訂に掲載された漢字の「リ」に見合うフォントが現在ないので表せません。それは「厘」の略字体だと某論文注1にあるけど?まだ、だれもわからないみたい)
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注1
『南の島のカレーライス』1995に福沢諭吉の「華英通語」を紹介して福沢はcurryが何か知らなかったとKhasyaReportは記したのですが、それから25年経って「福沢諭吉の「コル リ」(カレー)をめぐって」(田野村忠温)という論文が2020年に『阪大日本語研究』32に掲載されました。某論文とはこのことです。長い間の私の「華英通語」への凝り固まった疑念が田野村先生の論文によってやって溶け出しました。この論文から、アヘン戦争真っただ中にあって貿易商人たちはマメタン『華英通語』を持って中国広東あたりをテリトリーにして通商の明け暮れていたことが読み取れます。香港、マカオを拠点にして貿易船を管理するドリンカー船長の家に厄介になりながらハリスは中国で貿易商として活動していました。「華英通語」の豆単を手にしていたかどうか。はて。 |
curryがわからいなんて、そんなこと、当時の日本にはカレーがなかったんだから当たり前だ、と返されれば、そうですね、と応じるしかないのですが、でも、『華英通語』を麻布山元町の米国領事館へ持って行ってハリスに一言尋ねてほしかった。福沢諭吉とハリスは会っていると確信的に流布されたりしますが、カレー好きのハリスにcurryのことを福沢が聞けなかったのならお二人の接触ってなかった?じゃないかしら。
「ここに載ってるcurryって、なあに、ハリスさん?」
「フクサワ君、よくぞ聞いてくださった。よくカレーに目がついた。若いのに偉い。さて何処から、何からお話ししようか。カルカッタのマレー・カレーか。ゴールのシンハリーズ・カレーか。いやいや、ユーラシアンが好むカレー粉のことからお話ししようか--」
アジアを歩き渡ったタウンゼント・ハリス。各地でカレーに出会っています。カレーのうんちく、長々と、いやになるほど解き聞かされるぞ。
いえ、福沢先生、カレーなどわからなくても治外法権の撤廃を啓蒙できればいいんです。この国の将来のためにはそこが大事です。『文明論之概略』では治外法権とは即ちエクストラテリトリアリティExtraterritorialityであると英語表記してその廃絶を福沢先生は啓蒙します。「半分文明国」の日本は福沢諭吉という知の論客あればこそタイや中国に先んじて西欧流の文明国になった。明治日本は戦争に猛々しく走ってロシアまで破ってしまいます。「ロシアとの海戦で勝利したから日本は半文明国から文明国に昇格したのであって、福沢君の啓蒙で日本が文明国になったわけではない」という噂もあるそうですけど、そこはまあ、そこで。
ブラント君、日本は終わったよ
通商条約の調印を終え批准を待つばかりになってハリスは胃に抱える病状から疲労の極致にあった。大統領府に公使辞任の意向を伝え、その求めが議会の承認を得てハリスはアメリカへ戻ります。日本の状況が政権交代劇の中で急激に悪化し、その隙間に乗じる外交官らの策略に圧されて「治外法権」「領事裁判権」が悪用され自由と平等は悲鳴を上げます。ハリスと二人の若くて実直な徳川の官僚がハリス条約私案を精査して作り上げた貿易が築く「自由と平等の時代」への躍進は消え去るのです。ハリスが危惧していた「終わりの始まり」はもうそこに迫っていました。
帰国のときハリスは幕府の外国掛に見送られアメリカの軍艦に乗り、神奈川を発ち、上海で軍艦から降り商用郵船に乗り換えセイロンのゴールへ向かいました。日本へ来た時のコースを逆にたどったのです。
ゴールは西洋と東洋を結ぶ重要な中継港で貿易資本主義の真っただ中にあって反映していました。貿易商時代からの馴染みの宿ボガーズ・マンション・ハウスに泊まりスエズへ向かう船の便を待ちました。
6年前、意気盛んに日本へ向かう時にも宿泊したボガーズ・マンション・ハウス。1860年代にロレッツ・ホテルLoret's Hotelと名を変えていました。
日本のハリスの研究者としてはただ一人、日本を去った後のハリスの動向を追った坂田精一が吉川弘文館の人物叢書「ハリス」でゴールのこのホテルの名を記しています。
全盛期のゴール、砦の内。このホテルは利に食らいつく出資者の手から手へころころと転がって、最初にこのホテルを建てたボガーがどんな人物なのか、もう知る人もいません。ただ、ボガーの建物は砦の中心に今も残っていて、所有者は転々としましたが最終的にセイロン商業銀行が買い取り、国の指導の下に歴史遺産として修復し往時の面影を取り戻しました。
日本の扉を開いた男が定宿にしていたセイロン(現・スリランカ)のホテル。日本からの旅行者なら一度は訪ねておきたいボガーズ・ホテル(ボガーズ・マンション・ハウス)。またの名をロレッツ・ホテル。また、ビッグ・マンション・ホテル。またの名を…
航海の通過点としてゴールに立ち寄る旅行客は島の内部、ゴールの外側を知りません。砦フォートの中の食堂で食べるカレーやマリガトーニィでインド文化圏のアジアに触れてもセイロンの人々の日常はここにはありません。ホテルのレストランもchez moiというフランス語、「私の家」です。
「私の家」ではどんな料理を出していたのでしょう。フランス名のレストランだからフランス料理。カレーライスはメニューに置かない、これは現代の常識です。でも、1860年代はインド世界のエスニックが大ブーム。当時、爆発的に流行したカレーライスもメニューに加えていました。フランスは英国発祥のカレーを腹の底から毛嫌いしますけど。
ハリスは6年前、日本へ向かう船旅でゴールへ寄った時、ボガーズ・マンション・ハウスに泊まり、食事は旧友のマクドナルド船長の家で摂りました。お目当ては船長の夫人が作るマレースタイルのカレー。そしてシンハラ・スタイルのバラエティとりどりのカレーも絶品です。
ここで偶然プロシアの外交官マックス・フォン・ブラントMax von Brandtにハリスは出会いました。江戸の赤羽接遇所にプロシア通商団の一員として来日していた彼とはハリスがプロシアの幕府との交渉をおぜん立てしたことで顔なじみだった外交官です。
―日本へまた行くのかい。今は止めた方がいい。終わりの始まりだよ。とんでもないことが日本ではこれから起こるよ。
ハリスはブラントにそう言いました。
ブラントはその時のハリスの様子を「33年記」で触れています―やつれて怯えているようだった。ハリスの古い時代は終わった。私たちの新しい時代が始まる。
日本開拓の先駆者ハリスには礼を失することのないように接しましたが、ブラントは外交官としての意気込みを新たにしました。ブラントが日本に再来し御一新前後の江戸で地獄を体験するのはハリスの予言をゴールのホテルで耳にして間もなくのことでした。下田に上陸して玉泉寺にアメリカ領事館設立を告げる星条旗を掲げた日の夜、ハリスが日記に書き込んだ「終わりの始まり、bigining of the end」が江戸の町に起こっていたのです。
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