Top 『浮世絵師歌川列伝』浮世絵文献資料館
浮世絵師歌川列伝 た行
☆ たねしげ ひょうてい 瓢亭 種繁 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川広重伝」p159 〝同五年、柳亭門人瓢亭吉見種繁作旗飄莵水の蓋葉六冊を画く(鶴喜板)。 按ずるに、吉見種繁は、姓名詳ならず。作者部類に種繁は種彦の弟子か。天保四年の春新板に、改色団 七島(西村屋意板)という草双紙の作見えたり云々〟〈「日本古典籍総合目録」には『旗飄菟水葛葉』(天保五年(1834)刊)〉 ☆ てるんど うたがわ 歌川 輝人 ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p101 (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり) 〝碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、国貞、 国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国幸、 国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近。 二代目豊国社中、国富、国朝、国久女、国春、国弘、国重、国盛、国鶴、国道、国一、国興。 国貞社中、貞虎、貞房、貞景、貞秀、貞綱、貞幸、貞考、貞歌女、貞久、貞信、貞広。 国安社中、安信、安秀、安重、安春、安常、安清、安峰。国丸 社中、重丸、年丸、輝人 。 国信社中、信清、信一、信房、信与喜。 国芳社中、芳春、芳信、芳房、芳清、芳影、芳勝、芳忠、芳富(以下略す)等の名を刻してあり〟 ☆ でんしょう せきてい 関亭 伝笑 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p114 〝伝笑は山東京伝の門人にして、関亭と号す。略伝に築地御堂裏門前、本多侯の藩士なり。通称関平四郎と いう。山東が門人なり。新撰生姜市の始、豊広とあり。部類に奥の泉侯(本多家)家臣なり。これ古き作 者なり。初は通笑にしたがい、後に京伝に従えり。よりて通笑京伝の一字をとりて伝笑と号す云々。著述 目録に関亭伝笑、又月池山人、通称関平四郎江戸人とあり〟 ☆ とうし たけづかの 竹塚 東子 ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p112 〝東子は竹塚東子と称す。略伝に武州足立郡竹塚の農夫という。文化十四年、十五年、両年の内の死去なる べしとあり。部類に千住の近郷竹塚の農夫なり。天明中法橋越谷吾山の弟子にて、俳諧を旨とせしものな るが、文化に至りて合巻の艸草紙を流行を羨み、始めは入銀などしつつ、この人の作を印行したり。然れ ども世に聞えたる佳作はなかりきと。著述目録に、竹塚東子、別号風水房とあり。又面徳斎は何人なるを 知らず。部類に楚満人が戯作の弟子なりとあり。一説には楚満人の別号なりと云詳ならず〟 ☆ とうりさんじん 東里山人(鼻山人) ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川広重伝」p154 〝文政三年、東里山人作音曲情の糸道三冊(【岩戸板】)を画く。これ広重 が草双紙の初筆なるべし。 按ずるに、略伝に東里山人、九陽亭と号し、また鼻山人と号す。麻布三軒家に住す。細川浪次郎という。 (*京伝鼻の図あり)此如き印章あり。俗に京伝鼻と云。山東庵の門人なり。活東子曰く、吾師無物老 人話に、浪次郎晩年漂泊して、芝の切通しにて伝授屋といいて、奇方妙術などを小さき紙にしるして売 れり。予も流離して曝書儈(バクシヨカイ)となり、ともに相隣りて活計せしが、後に江戸橋四日市の小店に 移りてより声聞せざれば、其淵瀬を知らずと云々。作者部類に、東里山人麻布に居宅せる御家人(御普 請役)、実名をわすれたり。文化四五年の頃、和泉屋市兵衛に請て、初て草双紙(当時合巻既に行わる) を印行せられしより、年毎に此人の作出たり。然れども抜萃なるあたり作なし。その作りさま南北と相 似たることあり。前輩の旧作を剽窃して作れるものおおかり〟☆ とうりん つつみ 堤 等琳 ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「歌川豊広伝」p117 〝従来張交画は、肉筆にあらざれば興なきことなれども、僻遠の地は名手の筆跡を請うの便よろしからず。 且肉筆の価甚だ貴ければ、この板刻の画を購いて、はりまぜとなす者多かりし也。これを画きしは、豊広 のみにあらず。堤等琳 、勝川春亭、喜多川歌麿なども画きたり。一時大に行われたるものなるべし〟 ◇「歌川豊広伝」p122 〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵 衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古 にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳 のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎 のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟 なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。 これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟 ☆ とくます ごりゅうてい 五柳亭 徳升 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川国芳伝」p204 〝国芳は草双紙を画きたれど、三世豊国のごとく多からず、僅に二十余種に過ぎざるなり。中に就き山東京 伝、および五柳亭徳升の著作最もおおし。しかして続きものの双紙は、稗史水滸伝の一部あるのみ。 按ずるに、五柳亭徳升は、豊島屋甚蔵と称し、紙類を商い、業とせし人なるが、後に貸本屋となる。人 呼びて本徳という。初め市川三升が名をかりて著作せり。故に徳升という。嘉永六年七月歿す。(【按 ずるに五柳亭徳升は、以下「小日本」にはなし】)〟☆ としかた みずの 水野 年方 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川国芳伝」p208 〝其芳年門人年方、年宗、の徒又よく画き、今盛に行わる〟〈飯島虚心が「歌川国芳伝」を執筆したのは〝去年即明治廿六年は、国芳が三十三回忌なるをもて、法会を執行せしと見え て〟とあることから、「今」とは明治二十七年(1894)と推定される〉 ☆ としまる うたがわ 歌川 年丸 ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p101 (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり) 〝碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、国貞、 国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国幸、 国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近。 二代目豊国社中、国富、国朝、国久女、国春、国弘、国重、国盛、国鶴、国道、国一、国興。 国貞社中、貞虎、貞房、貞景、貞秀、貞綱、貞幸、貞考、貞歌女、貞久、貞信、貞広。 国安社中、安信、安秀、安重、安春、安常、安清、安峰。 国丸社中、重丸、年丸、輝人。 国信社中、信清、信一、信房、信与喜。 国芳社中、芳春、芳信、芳房、芳清、芳影、芳勝、芳忠、芳富(以下略す)等の名を刻してあり〟☆ としむね 年宗 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川国芳伝」p208 〝其芳年門人年方、年宗 、の徒又よく画き、今盛に行わる〟〈飯島虚心が「歌川国芳伝」を執筆したのは〝去年即明治廿六年は、国芳が三十三回忌なるをもて、法会を執行せしと見え て〟とあることから、「今」とは明治二十六年(1894)と推定される〉 ☆ とよきよ うたがわ 歌川 豊清 (歌川金蔵参照) ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p121 〝豊広の妻、其の名詳ならず。一子あり、歌川金蔵という。後に豊清 と改う。かの一対男時花歌川に、これ にひかえさせたる小悴は、豊広悴歌川金蔵とある、即これなり。文化七年東西菴南北作の草双紙筆初日の 出松(三冊)を画く。これを初筆として、同九年同作女合法恋の修業者(五冊)を画く。頗る才筆なりし が惜むべし世を早うせり。没年詳ならざれども、三馬作の梅精奇談魁双紙の挿画を、かきかけて死せし由、 戯作者略伝に詳なり。文化の末か、文政の初めなるべし。豊清一子あり。豊熊と云また画を善くせしが、 父に次ぎて没せり〟〈『一対男時花歌川』は文化七年の刊行〉 ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 初代 (「歌川豊国伝」参照) ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「浮世絵師歌川雑記」p220 〝【富士剣術新井柔術】吾妻街道女敵討(三冊)三馬作、豊国画、寛政十年板 文朝曰く、吾妻街道女敵討、豊国が画絶妙也。是より豊国大いに行わる〟 ◇「浮世絵師歌川雑記」p221 〝文朝曰く、此年(寛政十一年)豊国 が太閤記の錦画出でて、共に行われしが、幾程もなく、以前の如く憚 るごとくなりたり〟 ◇「浮世絵師歌川雑記」p220 〝春、通気智之銭光記(三冊)京伝作、豊国画、同〈享和二年板。 文朝翁曰く、京伝銭光記より、大悲利益まで四部を四季と名づけて出板す。三冊合巻にして表紙を墨摺に したり。是合巻の権輿というべし〟 ◇「歌川豊春伝」p80 〝豊春の没するや、門人等ふかくこれを悼み、亡師が嘗て信仰せし押上春慶寺の普賢堂の傍らに、一碑を建 てて記念となし、永く追慕の情を伝う。碑面に、花は根に名は桜木に普賢象、のりのうてなも妙法の声、 正面文化十一年戌春、二代目歌川豊春、行年八十、元祖歌川昌樹、歌川妙歌、歌川貢、大野規行、歌川豊 秀、 歌川豊国 、歌川豊広と刻してあり〟 ◇「歌川豊広伝」p109 〝一説(野村氏類考書入)に、豊広は初代豊国 の弟なり、又神田の社内に住せしというは非なり。始め豊国 と相競い腕力を揮い画きしが、豊国の画はよく時好に投ぜるをもて、大に行われ、豊広は筆力超凡なりと いえども、其の行わるること、終に豊国に及ばざりし。蓋し俳優似貌画、及び風俗美人画は其長ずる所に あらず〟 〝按ずるに豊広が俳優似貌画は、未だ嘗て見ざるなり。一説に豊広は生涯似貌画をかかざりしと、蓋し然ら ん。されどかの鈴木春信、喜多川歌麿のごとく、一見識を立て、俳優を卑しみて画かざりしにあらざるが ごとし。蓋し同門豊国が、似顔絵をよくするを以て、彼に譲りて画かざりしものか。又風俗美人画は、喜 多川歌麿におとるといえども、細田栄之にまさりて、頗(スコブル)艶麗なる所あり。されど其の風古体にし て豊国 のごとく行われざりし〟 ◇「歌川豊広伝」p118 〝(豊広)かの俳優似貌画および風俗美人画の如きは、豊国 に及ばざる所あれども、草筆の墨画にいたりて は、豊広をもて上座におかざるを得ざるなり。これを要するに二人の腕力は、蓋し優劣なかるべし。文化 年間の戯作者、浮世絵師の見立相撲番付に、東西の大関は京伝豊国 、関脇 は三馬国貞、小結一九北馬等にして、行事は馬琴を中にし、右に北斎、左に豊広を載せてあり。豊広をし て北斎に対せしむるは、少しく当たざるが如し〟 〝かの豊国 、国貞のごときは、よく時好に投じ、一時世に行わるるといえども、関のみ、関脇のみ。其の実 地老練の力に至りては、みな豊広に及ばざるなり。豊広を推して、行事の席にあらしむるは、これ蓋し過 誉にあらざるべし〟「文化十年見立相撲番付」 ◇「歌川豊広伝」p123 〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵 衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古 にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎 のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟 なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。 これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりては、其の本をす ててかえりみざるもののとごし。元祖豊春、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て土佐狩野の門に出 入せしを聞かざるなり。一世豊国 の盛なるに及びては、みずから純然独立の浮世絵師と称し、殆ど土佐狩 野を排斥するの勢いあり。これよりして後の浮世絵を画くもの、また皆本をすてて末に走り、骨法筆意を 旨とせず、模様彩色の末に汲々たり。故に其の画くところの人物は、喜怒哀楽の情なく、甚だしきは尊卑 老幼の別なきにいたり、人をしてかの模様画師匠が画く所と、一般の感を生ぜしむ。これ豈浮世絵の本色 ならんや。歌川の門流おなじといえども、よく其の本を知りて末に走らざるものは、蓋し豊広、広重、国 芳の三人あるのみ。豊広は豊春にまなぶといえども、つねに狩野家の門をうかがい、英氏のあとをしたい、 終に草筆の墨画を刊行し、其の本色を顕わしたり。惜しむべし其の画世に行われずして止む。もし豊広の 画をして、豊国のごとくさかんに世に行われしめば、浮世絵の衰うること、蓋(ケダシ)今日のごとく甚しき に至らざるべし。噫〟 ◇「一世歌川豊国伝」p109
「一世歌川豊国伝」 ◇「浮世絵師歌川雑記」p211 〝文化八年板、山東京伝戯作の草双紙、朝茶湯一寸口切の自序に、歌川豊国 の亡父、倉橋五郎兵衛は、人形 をつくることを業とし、戯子の似顔の人形をつくるに妙を得たり。されば今豊国が似貌画を業とすること、 おのずから因縁あり。かねて亡父のつくれる、故柏筵矢の根五郎に扮する人形あり。父のかたみとひめお きしを、今の三升に見せしに、先祖の似貌を今見ることのうれしさよとて、感涙をおとしければ、豊国其 志を感じて、此の人形をゆずり、今は三升が所蔵のものとなりぬ。亡父追福のためにもなるべければ、此 のことをしるしてよと、豊国のいわるるも、孝養の一端なればこれを趣向のたねとなしぬ〟 ◇「浮世絵師歌川雑記」p215 〝一対男時花歌川の稗史は、式亭三馬、歌川豊国 が喧嘩和解の媒として出板せしものなり。前篇を初日とし、 後篇を後日とし、初日は豊国画にして、後日は豊広画なり。画様細密にして彫刻甚だ美なり。当時大に行 われしこと、戯作者略伝に詳らかなり。 初日【井屋茨城全盛合巻】一対男時花歌川、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘左衛門板なり。序 の代りに、豊国、豊広、および三馬の門人等の像をかかげて俳優貌見世の体に倣う。三馬門人は馬笑、三 孝、三鳥、三友、等を載せ、豊広、豊国、の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、国丸、国久、 国房、等を載す。三馬の口上あり。 (前略)此所にてわけて申上まするは御ひいき御思召あつき、豊広、豊国、おのおのさま方へ、御礼の口 上、めいめいに申上とうはぞんじますれども、こみあいましてかき入の所もござりませねば、しばらく 御用捨を希い奉りまする。またこれにひかえましたる小倅は、豊広せがれ歌川金蔵、次にひかえまする は豊国門人文治改歌川国丸、安次郎改歌川国安、これにひかえしあいらしいふり袖は、私門人益亭三友、 いずれも若輩のもの共にござりますれば、御取立をもって、末々大だてものとなりまするよう、豊広、 豊国、私にいたるまで、偏に偏に希い奉ります。まずは此所二日がわりのしん板、はやり歌川両人が、 つれぶしの御評判、おそれ多くも大日本国中の、すみからすみまでずいと、こいねがい奉ります。まず はそのため口上さよう〟 ◇「浮世絵師歌川雑記」p217 〝鈴木白藤曰く、一陽斎豊国頃の草双紙より合巻とて、三冊、五冊、或は八九冊を一冊になし、漉返紙青本 にてなく、糊入紙五彩表紙に製し、画は至て精密なり。画工多き中にも、豊国最称せらる〟☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 二代 (歌川豊重参照) ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「一世歌川豊国伝」p101 (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり) 〝碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、国貞、 国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国幸、 国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近。二代目豊国 社中、国富、国朝、国久女、国春、国弘、国重、国盛、国鶴、国道、国一、国興。 国貞社中、貞虎、貞房、貞景、貞秀、貞綱、貞幸、貞考、貞歌女、貞久、貞信、貞広。 国安社中、安信、安秀、安重、安春、安常、安清、安峰。 国丸社中、重丸、年丸、輝人。 国信社中、信清、信一、信房、信与喜。 国芳社中、芳春、芳信、芳房、芳清、芳影、芳勝、芳忠、芳富(以下略す)等の名を刻してあり〟 ◇「一世歌川豊国伝」p102 〝(歌川豊国に一男一女あり)門人豊重を此女にあわせて家を継がしむ。二世豊国 とす。かの筆塚に記せる 豊国の義子、今の豊国と云える即これなり。一龍斎と号し、又後素亭と号す。よく画双紙を画く。文政八 年板尾上梅幸代花笠作の尾上松緑百物語(六冊)は、口画二丁は前豊国にして、余は二世豊国の画く所な り。又同九年板柳亭種彦作、笹色の猪口は暦手(六冊)は、前篇は前豊国の筆にして、後篇は二世豊国の 画なり。同年板伝笑作勧善辻談義(六冊)も、二世豊国なり。又文政十一年には、東里山人作千葉模様好 の新形を画けり。何の故にや後に家と出でて、本郷春木町に住し、名を改めて再び歌川豊重と称す。世こ れを本郷豊国と称し、又源蔵豊国と称す。源蔵は豊重の俗称なり。終りを知らず〟 ◇「三世豊国伝」p132 〝一世豊国の没するや、門人豊重後を継ぎ、二世豊国 と称えしが、家と出でて再び歌川豊重と称せしことは、 一世豊国の伝にしるせしが、其の家を出でし年月詳ならず。今此風聞書によりて見れば、天保九年已前(イ ゼン)なること明かなり〟〈「此風聞書」とは『古画備考』所収の「天保九年五月十四日聞」とあるもの。ただこの聞き書きには、国安が「一昨年相 果候」という記述があって、それによれば、国安の没年は天保七年頃になるのだが、『馬琴日記』には天保三年の死とあ るから、この聞き書きには時間的な整合性に問題がある〉 ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 三代 (「三世豊国伝」参照) ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「一世歌川豊国伝」p94 〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘右 衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。三 馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞 、国安、国政、国長、国満、 国丸、国久、国房、を載す〟 ◇「一世歌川豊国伝」p101 (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり) 〝碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、国貞 、 国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国幸、 国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近。 二代目豊国社中、国富、国朝、国久女、国春、国弘、国重、国盛、国鶴、国道、国一、国興。国貞 社中、貞虎、貞房、貞景、貞秀、貞綱、貞幸、貞考、貞歌女、貞久、貞信、貞広。 国安社中、安信、安秀、安重、安春、安常、安清、安峰。 国丸社中、重丸、年丸、輝人。 国信社中、信清、信一、信房、信与喜。 国芳社中、芳春、芳信、芳房、芳清、芳影、芳勝、芳忠、芳富(以下略す)等の名を刻してあり〟 ◇「歌川豊広伝」p118 〝文化年間の戯作者、浮世絵師の見立相撲番付に、東西の大関は京伝豊国、関脇 は三馬国貞 、小結一九北馬等にして、行事は馬琴を中にし、右に北斎、左に豊広を載せてあり。豊広をし て北斎に対せしむるは、少しく当たざるが如し〟 〝かの豊国、国貞 のごときは、よく時好に投じ、一時世に行わるるといえども、関のみ、関脇のみ。其の実 地老練の力に至りては、みな豊広に及ばざるなり。豊広を推して、行事の席にあらしむるは、これ蓋し過 誉にあらざるべし〟「文化十年見立相撲番付」 ◇「三世豊国伝」p125
「三世豊国伝」 ◇「歌川国芳伝」p208 〝歌川家 の画法における、元祖豊春以来西洋の画法により、写真を主とし刻出し、寸法を専とせしが、其弊 終(ツイ)に筆意を顧ざるに至り、かの人物の骨相、衣服の模様、及び彩色の配合等の如きは、頗る精巧の域 に至るといえ共、筆軟弱にして生気甚乏しき所あるが如し。嘗歌川家画く所の板下画を見るに、屡(シバシ バ)削り屡補いて恰(アタカモ)笊底の反古の如し。筆意のある所を知らざる也。又嘗人物を絹本に画くを見る に、屡塗抹して屡これを補理す。恰かの油画を画きし者の屡塗て屡改め画くと一般にして、常に筆意を顧 ざるものの如し。是豈(アニ)絵画の本色ならんや。三世豊国 中年に至り頗る悟る所ありて、曰く、余が画を かくはこれかくにあらず、細工するなり。自其筆意の非なるを知り、腰を屈めて英一珪の門に入り、画法 を学びたり。されど終に其筆意を錦画に顕わす事能わずして止む〟 ◇「浮世絵師歌川雑記」p213 〝【三芝居】客者評判記二冊は、式亭三馬の作にして、天保六年末(【或は文化八年末か詳ならず】の出板 なり。五渡亭国貞のさし画なり。画面細密にして、花道の出端を見る見物の趣、役者の楽屋入をみたがる 見物の形、打擲の場をみる見物の貌、ぬれ場をみる体、ちゃり場をみる見物の体など、真を写して妙なり というべし〟〈『客者評判記』は文化七年(1810)刊である ◇「浮世絵師歌川雑記」p221 (仮名垣魯文の三代豊国(本文では二代目)「略伝」) 〝東都浮世絵師、古今絶世の名工、二世歌川豊国 翁、一陽斎豊国先生の門人にして、初号一雄斎国貞とよび、 俗称角田庄蔵という。本所五ッ目の産にして、天明六丙午の出生なり。幼稚の頃より深く浮世絵を好み、 師なくして俳優の似貌を画けり。其父傍に是を閲して、其器をさとり、前豊国の門人とす。豊国始めて臨 本を与えしとき、浄書を一見して大に驚き、此童の後年推量るとて、称誉大抵ならざりしとぞ。文化初年 山東京山、初作の双紙妹背山の板下を画きしより、出藍の誉れ世に高く、是より年々発市せる力士、俳優 の似貌、傾城、歌舞伎の姿絵、および団扇、合巻の板下、大に行われ、画風おさおさ師におとらず、此頃 は居所五ッ目なる渡船の株式、其家にあるをもて、蜀山先生五渡亭の号をおくらる。後亀戸町に居を移し て、香蝶楼北梅戸と号し、京山富眺庵の号をおくれり。翁国貞たりし壮年より、先師の骨法を学び得て、 別に一家の筆意を究め、傍ら一蝶、嵩谷が画風をしたい、懇望の余、天保四癸巳年、嵩谷の画裔高嵩凌の 門に入りて、英一螮と別号す。此頃より雷名都鄙遠近に普く、牧童馬夫に至るまで、浮世絵としいえば国 貞に限れりとおもい、斗升の画者を五指にかぞえず。故に錦絵合巻の接客門下服従して、筆跡を乞うもの 群をなせり。中興喜多川歌麿が板下世に行われしも、九牛が一牛にして、比競するに足らざるべし。近世 錦画合巻の表題精巧を尽し、美麗を尽し、東都名産の第一たるは、全く此人の功にして、前に古人なく、 後に来者なき、実に浮世絵の巨擘というべし。于時弘化二乙巳年、師名を相続して、二世豊国と改め、薙 髪して肖造と称す。嘉永五壬子年、門人国政に一女を嫁せて、養子となし、国貞の名前及亀戸の居を譲り て、其身は翌年柳島に隠居して、細画の筆を採らずといえども、筆勢艶容、いよいよ備り、老て益壮なり。 近来は専ら役者似貌に、密なる癖をかきわけ。精神頗(スコブル)画中にこもり、其人をして目前に見るが如 く、清女が枕の双紙にいえる云々。(中略)其中に、当時発市の俳優似貌画の半身、大首、の大錦画、今 百五十余番におよび、近きに満尾に至らんとす。こは翁が丹精を出だし、画きたりしものにして、百年已 来、高名の大立者を一列にあつめて、見物する心地ぞせらる。嗚呼(アア)翁の筆絶妙絶倫にして、神に通ぜ し故、普く世人の渇望せるも、宜哉。可惜、当月中旬常なき風に柳葉ちりて、蝶の香りを世にとどむ。た だかりそめの病気とおもいしことも、画餅となりし。錦昇堂の悼に代りて知己の別をかこつものは、遊行 道人鈍阿弥なり。 元治元年甲子年十二月十五日寂 豊国院貞匠画僊大居士 本所亀戸村光明寺葬 二代目 一陽斎歌川豊国翁 行年七十九歳 水茎のあとはとめても年波も、寄せて帰らぬ名残とぞなる。戯作者 仮名垣魯文 さす方を問ふすべもなし雪の道 一寿斎国貞 砕く程あつき氷や筆のうみ 一雪斎国久 口真似の師のかげふまず小節季候 一鶯斎国周 辞 世 一向に弥陀へまかせし気の安さ、只何事も南無阿弥陀仏 七十九翁 豊国老人〟☆ とよくま うたがわ 歌川 豊熊 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p121 〝豊清一子あり。豊熊 と云また画を善くせしが、父に次ぎて没せり。桜川慈悲成、豊熊が名弘の時、報條を 作りて曰く、故人歌川豊広が孫なりける熊太郎に、くま筆のはこびをおしえ、歌川なにがしとなれよと、 常にはげませける、予は歌川と竹馬の友なり、また一盃の友にして、かん徳利のしゃくとらすころ、けし の髪撫で豊熊豊熊とたわふれけるが、今歌川の後宝老い、孫の名つけてよとあるに、とく興じおきけるを、 先の翁も知り給うべしと、こたび草葉の露の手むけといとなみ、祖が書残しおきける水くきを梓にものし て、豊熊ちょう名弘することを、絵の事は白きを後に卯の花の、さかりをつける杜字かな(【桜川慈悲成、 豊熊が名弘の時、以下「小日本」になし】)〟☆ とよしげ うたがわ 歌川 豊重 (歌川豊国二代参照) ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p102 ◇「一世歌川豊国伝」p102 〝(歌川豊国に一男一女あり)門人豊重を此女にあわせて家を継がしむ。二世豊国とす。かの筆塚に記せる 豊国の義子、今の豊国と云える即これなり。一龍斎と号し、又後素亭と号す。よく画双紙を画く。文政八 年板尾上梅幸代花笠作の尾上松緑百物語(六冊)は、口画二丁は前豊国にして、余は二世豊国の画く所な り。又同九年板柳亭種彦作、笹色の猪口は暦手(六冊)は、前篇は前豊国の筆にして、後篇は二世豊国の 画なり。同年板伝笑作勧善辻談義(六冊)も、二世豊国なり。又文政十一年には、東里山人作千葉模様好 の新形を画けり。何の故にや後に家と出でて、本郷春木町に住し、名を改めて再び歌川豊重と称す。世こ れを本郷豊国と称し、又源蔵豊国と称す。源蔵は豊重の俗称なり。終りを知らず〟 ◇「三世豊国伝」p133 〝一世豊国の没するや、門人豊重後を継ぎ、二世豊国と称えしが、家と出でて再び歌川豊重と称せしことは、 一世豊国の伝にしるせしが、其の家を出でし年月詳ならず。今此風聞書によりて見れば、天保九年已前(イ ゼン)なること明かなり〟〈「此風説書」とは『古画備考』所収「天保九年五月十四日聞」とあるもの〉 ☆ とよはる うたがわ 歌川 豊春 (「歌川豊春伝」参照) ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「歌川豊春伝」p71
「歌川豊春伝」 ◇「歌川豊広伝」p122 〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵 衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古 にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎 のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟 なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。 これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりては、其の本をす ててかえりみざるもののとごし。元祖豊春 、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て土佐狩野の門に出 入せしを聞かざるなり〟 ◇「浮世絵師歌川雑記」p212 〝絵画叢誌に、歌川流は豊春 に出で、豊春は一能斎と号す。文化年中の人にして、歌麿と名を斉(ヒトシ)うせ り〟☆ とよはる うたがわ 歌川 豊春 二代 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊春伝」p80 〝豊春の没するや、門人等ふかくこれを悼み、亡師が嘗て信仰せし押上春慶寺の普賢堂の傍らに、一碑を建 てて記念となし、永く追慕の情を伝う。碑面に、花は根に名は桜木に普賢象、のりのうてなも妙法の声、 正面文化十一年戌春、二代目歌川豊春 、行年八十、元祖歌川昌樹、歌川妙歌、歌川貢、大野規行、歌川豊 秀、歌川豊国、歌川豊広と刻してあり。 按ずるに、二代目歌川豊春は、何人なるを知らず。ちか頃発行の画家人名辞書に、二代目豊春は文政中 の人とのみありて、錦画、絵ぞう紙、読本類のうちに、其の名見えざれば、詳かならず、蓋し門人が師 名を継ぎて称えしものならん。類考に後年豊春を名のりしものあり、文政のはじめなりしとあり。或は これか、なお考うべし〟☆ とよひで うたがわ 歌川 豊秀 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊春伝」p80 〝豊春の没するや、門人等ふかくこれを悼み、亡師が嘗て信仰せし押上春慶寺の普賢堂の傍らに、一碑を建 てて記念となし、永く追慕の情を伝う。碑面に、花は根に名は桜木に普賢象、のりのうてなも妙法の声、 正面文化十一年戌春、二代目歌川豊春、行年八十、元祖歌川昌樹、歌川妙歌、歌川貢、大野規行、歌川豊 秀 、歌川豊国、歌川豊広と刻してあり〟 〝(按記)豊秀は門人なるべし。類考に京師板行のよみ本に、歌川豊秀というものあり。豊春の門人なるが、 いまだ詳ならず、車僧轍物語、甲賀三郎巌物語、聚義法談等あり、最も拙しとあり〟☆ とよひろ うたがわ 歌川 豊広 (「歌川豊広伝」参照) ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「歌川豊春伝」p80 〝豊春の没するや、門人等ふかくこれを悼み、亡師が嘗て信仰せし押上春慶寺の普賢堂の傍らに、一碑を建 てて記念となし、永く追慕の情を伝う。碑面に、花は根に名は桜木に普賢象、のりのうてなも妙法の声、 正面文化十一年戌春、二代目歌川豊春、行年八十、元祖歌川昌樹、歌川妙歌、歌川貢、大野規行、歌川豊 秀、歌川豊国、歌川豊広 と刻してあり〟 ◇「歌川豊広伝」p109
「歌川豊広伝」 ◇「歌川国芳伝」p209 〝歌川家 の画法における、元祖豊春以来西洋の画法により、写真を主とし刻出し、寸法を専とせしが、其弊 終(ツイ)に筆意を顧ざるに至り、かの人物の骨相、衣服の模様、及び彩色の配合等の如きは、頗る精巧の域 に至るといえ共、筆軟弱にして生気甚乏しき所あるが如し。嘗歌川家画く所の板下画を見るに、屡(シバシ バ)削り屡補いて恰(アタカモ)笊底の反古の如し。筆意のある所を知らざる也。又嘗人物を絹本に画くを見る に、屡塗抹して屡これを補理す。恰かの油画を画きし者の屡塗て屡改め画くと一般にして、常に筆意を顧 ざるものの如し。是豈(アニ)絵画の本色ならんや。〈中略〉唯豊広 、広重、国芳、三人は超然、歌川の門牆 をこえて、普く諸流を伺い、専ら筆尖の運動に、注目せるものの如し〟 ◇「浮世絵師歌川雑記」p215 〝一対男時花歌川の稗史は、式亭三馬、歌川豊国が喧嘩和解の媒として出板せしものなり。前篇を初日とし、 後篇を後日とし、初日は豊国画にして、後日は豊広 画なり。画様細密にして彫刻甚だ美なり。当時大に行 われしこと、戯作者略伝に詳らかなり。 初日【井屋茨城全盛合巻】一対男時花歌川、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘左衛門板なり。序 の代りに、豊国、豊広、および三馬の門人等の像をかかげて俳優貌見世の体に倣う。三馬門人は馬笑、三 孝、三鳥、三友、等を載せ、豊広、豊国、の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、国丸、国久、 国房、等を載す。三馬の口上あり。 (前略)此所にてわけて申上まするは御ひいき御思召あつき、豊広、豊国、おのおのさま方へ、御礼の口 上、めいめいに申上とうはぞんじますれども、こみあいましてかき入の所もござりませねば、しばらく 御用捨を希い奉りまする。またこれにひかえましたる小倅は、豊広せがれ歌川金蔵、次にひかえまする は豊国門人文治改歌川国丸、安次郎改歌川国安、これにひかえしあいらしいふり袖は、私門人益亭三友、 いずれも若輩のもの共にござりますれば、御取立をもって、末々大だてものとなりまするよう、豊広、 豊国、私にいたるまで、偏に偏に希い奉ります。まずは此所二日がわりのしん板、はやり歌川両人が、 つれぶしの御評判、おそれ多くも大日本国中の、すみからすみまでずいと、こいねがい奉ります。まず はそのため口上さよう〟