Top         浮世絵文献資料館         『浮世絵師歌川列伝』凡例
                 「一世歌川豊国伝」               一世歌川豊国は、江戸の人、倉橋氏、俗称熊吉、人形師五郎兵衛の男なり。芝神明前に住し、後に芳町、    堀江町、上槙町に転住せり。夙に歌川豊春の門に入りて、浮世絵を学び、師名の豊字を譲られ、豊国と    称え、一陽斎と号し、歌川氏を称するを許さる。後に英一蝶が画風を慕い、また浪花の玉山、江戸の春    英が風を慕う。よく当時の風俗を画きて一家をなし、大に世に行わる。         (石田玉山の記事あり、石田玉山の項参照)     (勝川春英の記事あり、勝川春英の項参照)      最もよく俳優の似顔を画くに長ぜり。享和四年俳優相貌鏡一冊を画き、大に世に賞せらる(時に年三十    五)。其の画風は師風を失わざれども、頗る勝川春章に似たる所あり。其の後専ら俳優の似貌を画き、    終に独立して一格をかき出だせり。文化十四年役者似顔早稽古一冊を画き(仙鶴堂板)、ながく世の俳    優の似貌を画くものの標本とせり。其の序は十返舎一九にして(上略)、戯場役者の似貌をいえるもの、    歌川一陽斎一流をかき出してより、専ら人の翫びとなりて、至らぬくまなく云々とあり、又跋は五返舎    半九にして(上略)、車も春の錦絵に、戯場役者の似貌かけるは、歌川氏の筆にかぎれり云々とあり。    書中に役者似貌画法と題して似貌を画き、其の上に画法をしるして曰く、すべておもてを画くにまず、    鼻より先に画くべし、次の此の図のごとく、口二眼三と其順に画くべし。さある時はおもて面部の恰好、    おのずから備わりて、たとえ画心なき人にても出来やすく、ことに役者似貌はいろどる故に、少しの気    味あいばかりにて、誰はたれ彼はたれと、一目に知るるものなれば、其の癖を画くこと肝心なり。又其    の下條にしるして曰く、凡そ物皆脊あり面あり、人の髪際の前を額といい、眉間のあいだを顔と云。五    雑俎に一尺の面、億兆形を殊にし、方寸の心、億兆向を異にす。然れば面貌は、父子兄弟相肖(ニ)たる    ものあれど、其心に至りては、骨肉親戚といえど同じからず、故に戯場狂言には、面に彩色を加え虚実    を分つなり。両眼の瞳子、内眦(マガシラ)によるを(目+后)(ニラム)という。役者の眼づかい、未(タチヤク)    の目に察することありて視るは斜にして丑(カタキヤク)の仰て視るは盲洋(ソラウソブク)なり、其の用いる所瞳    子のかき様に心を得べし。眉は眼によりてかく、或は睨むときの眉、愁うる時の眉、笑うときの眉、各    眼に従うものなり。人の体、鼻まず形を受くるものゆえ、鼻を画く事肝要のものなり、人の面は中央の    鼻をもて、左右を備うるものなれば、よく心を用いて画くべし。口の広さ二寸半、噤(ツグ)む、咼(ユガ    ム)、おのおの其の癖あり、その人によりて差別あるべし。耳は眼の外眦を、当中として画くべし、最(モ    ツトモ)大半は鬘にてかくるるものなれど、先其の心得あるべきなり。凡似貌をかくに、癖ある面は似せや    すく、癖なきは似せ難きものなり、唯貌のそなえ、眉目鼻口の差別にて、各相似ると似ざると差あるな    れば、先ず画法を会得し、此冊中を照し合せて勘考有べし。         按ずるに、豊国が俳優の似顔画に長ぜるは、抑故あるなり。其の父人形師なれば、初よりよく其業を     視て、おのずから人体の骨相を知りたるに基せしものならん。文化八年板、山東京伝戯作の艸双紙、     朝茶湯一寸切の自序に、歌川豊国の亡父倉橋五郎兵衛は、人形をつくる事を業とすること、戯子の似     貌の人形をつくるに妙を得たり。されば今豊国の似貌画を業とすること、おのずから因縁あり。かね     て父のつくれる、故柏筵矢の根の五郎に扮する人形あり。父のかたみとひめおきしを、今の三升に見     せしに、先祖の似貌を今見ることのうれしきをよとて、かん涙をおとしければ、豊国其志を感じて、     此人形をゆずり、今は三升が所蔵のものとなりぬ。亡父追福のためにもなるべければ、此事をしるし     てよと、豊国のいわるるも孝養の一端なれば、これを趣向のたねとなしぬとあり。蓋し人形師の業は、     人物の骨相、衣裳の模様、及び当時の風俗、人情等を熟知するにあらざれば、なす能わざるものなる     べし。近ごろ人形師肥後の人、松本喜三郎という者あり、東京に来り浅草に住し、嘗て米人ケプロン     氏の依頼に応じ、我国の公家、官女、二体の人形を製造しておくりしことあり。予が友小林氏、この     事に関して頗る周旋する所あり、同氏の語に喜三郎の人形は精神あり、真を写して失わず、如何とな     れば同人が製造は、其注意至らざる所なし。今其一端をいわんに、官女の頭髪などは、皆其年齢に相     当する婦人の、生髪を用いてこれをうえ、陰部の毛に至るまで、皆生毛を用いてあり。然らざれば真     を写すこと能わずとて、自ら語れる由いえり。豊国の俳優似貌画におけるも、その注意は蓋し喜三郎     と同一にして、一毫といえども残す所なきがごとし。然れども豊国の俳優似貌は、真を写すにあらず。     真を写すにあらずして、真に迫らしむるは、さらにこれ絶妙のところ也。昔時東洲斎写楽、俳優の似     貌を画くに巧にして、よく五代目白猿、幸四郎、半四郎、菊之丞、富三郎等を画き、廻りに雲母をす     り込み発行せり。これを雲母画という。一時大に行われしが、後にあまり真に過ぎたりとて大に廃れ     たり、豊国蓋し此に見るありて、時好に投じ、別に一格を出だせしものならん。実に俳優似貌画の名     手と称すべし。     又按ずるに類考別本(野村氏所蔵)に、豊国始ての画の板元は、神明前和泉屋市兵衛にて役者切画な     りとあり。    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は合巻『朝茶湯一寸口切』の刊行を文化九年(1812)とする〉        又よく人の肖像を画く、肖像は俳優の似貌と異り、専ら真を写すを旨とす。凡そ肖像を画くに、まずそ    の人の心を写して、しかしてその形ちを画くにあらざれば、真を得ること能わざるものなりとぞ。嘗て    一商某あり、豊国をして己が肖像を画かせんとて、最良なる絹本をえらび、美酒佳肴を携え、自ら往き    て懇々嘱托せしに、豊国は諾せしが、数月を過れどもならず某屡(シバシバ)人をはせて催促すれども、恰    も聞かざるもののごとし。一日又小奴をして催促せしめたるに、すでに素書(専門家、図の大略をかき、    彩色を施さざるものをスガキという)を終わりて彩色せんとする所なり。小奴つらつらこれを見て、豊    国に謂て曰く、余もまた先生に請い、余が肖像を画かんを欲するなり、されど小奴の身、報酬を如何に    せん。豊国曰汝は汝の肖像を画かせて何の為にするや。小奴いわく、余は越後の産なり、家を出て既に    三年、定省を欠くこと甚久し。嗚呼父や母や、今如何にしておわすらん、一年二回の宿下りにも(雇主    毎年春秋二回、雇人をして己が家に帰らしむるを例とす、これを宿下りという)、他人はみな其の父母    の許に行くを得れども余は国遠くして行くこと能わず、せめて余が肖像なりともおくりたらんには、父    母のよろこびいかばかりならんと、涙を流して物語りける。豊国これを聞きて、忽ち感涙を催し、深く    其の意を憫(アワレ)み、直に筆を採り、小奴を座せしめ、美麗なる絹本に其の肖像を画き、忽ち彩色をな    して与えたり。小奴大によろこび、携え帰りて某に告ぐ、某見てこれを恠(アヤシ)み、一日豊国の許に来    り、謂て曰く、嘗て嘱托せし肖像は実に数月前なり、それを画き給ずして、小奴が依頼せる肖像は、速    にこれを画かれたるは如何なる故ぞ。豊国曰く、さおもい給うもことわりなり、されど余は決して等閑    になしおくにあらず、画かんとして筆をとること屡なれども画かく事あたわざりしなり。実に君の肖像    は画き難きなり。凡そ肖像を画かんとするには、まず其人の性質、品行、如何を察し、しかして画くに    あらざれば、真を写すこと能わざるものなり。仮令(タトエ)ば忠臣なれば忠臣の意をもて画き、孝子は孝    子の意をもて画くの類なり。今君が平生の品行を察するに、平凡にして可もなく不可もなし。よりて其    の意を注ぐの所に苦み、遂に遅々今日に至れるなり。既に其書は終りたれども、猶意の如くならざる所    あれば、いまだ彩色を施さずしてここにあり。かの小奴のごときは、孝子の真情其の面にあふれ、これ    を画く最も容易なれば、直にその像を画きて与えたるなりと、某首を掻きて去る(「小日本」大槻氏の    話)。又読本、草双紙の類を画くおおし。草双紙はその始めは、すこしく鳥居風に似たる所ありて粗画    なりしが、後には漸々細密になり、かの合巻の双紙に至りては、益精密なり。    天明八年板慈悲成作、人間万事二一天作五(二冊)、および同年板、七珍万宝作苦者楽元〆(二冊)を    画く。これ豊国十九歳の時にして、これをもて初筆とす。    青本年表寛政十年の條に、東海道娘敵討、豊国が画絶妙也、これより豊国大に行わるといえり。鈴木白    藤氏曰く、一陽斎豊国頃の草紙より、合巻とて三冊五冊、或は八九冊を一冊となり、漉返(スキカエシ)紙青    本を止めて、糊入(ノリイレ)紙五彩表紙に製し、画は至て精密なり。画工多き中にも、豊国最も称せらると。    豊国が画きたる草双紙は、大抵京伝三馬等の著作にして、或は作意の新奇なるをもて行われ、或は画工    の巧妙なるをもて行わる。かの双紙の画を俳優の似顔にして、画き出せしは豊国にして、文化四年板山    東京伝の、於六櫛木曾仇討(七冊)を始とす。又巻首に口絵を加えたるもの、この双紙が始めなるよし、    蜘の糸巻に見えたり、此そうし大いに行われしをもて、翌五年の岩井櫛粂野仇討(七冊)を発行せり。    それまた豊国の画にして、巻首に岩井粂三郎の似貌を画きてあり。序に去年於六櫛という絵双紙を著わ    し、大に行われつるにより、書肆永寿堂再び又著作を乞う、二本目は与市もこまる三ッ扇の、岩井、祝    の訓み通う心祝の書名とし、櫛の歯のひきもきらずに、御求のほどを願うにこそとあり。      *曲亭馬琴略伝中に翁語りて云、寛政戌二年深川にて何やらん開帳ありたる時、京の壬生狂言来り       大に行われたれば其事より思い起して、道果而二部狂言といえる二冊物をあむ。豊国画にて芝甘       泉堂が翌亥年発板し、それより打つづき新作せり。(此の註、「小日本」にはなし)          按ずるに、式亭三馬が雑記に(加藤氏所蔵)、(上略)其翌年は京伝作西村与八板にて、於六櫛木曾     の仇討という七冊もの、これ又前後二冊にわけて大に行われたり云々。此春大当なるは京伝作西与板     にて、岩井櫛粂野仇討八冊物(豊国画)なりとあり。    〈国文学研究資料館「日本古典籍総合目録」では、草双紙『無束話親玉』(森羅亭万倍作)と『阿房者寝待』(竹杖す     がる作)が天明六年(1786)の刊行で一番早い。「東海道娘敵討」は『吾嬬街道女敵討』(式亭三馬作・寛政十年(17     98)刊)か。「道果而二部狂言」は『尽用而二分狂言』(大栄山人=馬琴作・寛政三年(1791)刊)か〉        文化の初、合巻、読本、の盛(サカン)に行わるるや、豊国最も行われしをもて、画を請う者踵を接ぎて来    り、応接暇あらず。唯日に延期の責を防ぐのみなりしとぞ(「小日本」三世豊国の話)。戯作者略伝三    馬の條に曰く、文化のはじめ合巻読本共に流行せし頃は、三馬豊国等は諸方の書肆に、種本写本をこい    需(モト)められ、其約束の期におくれ、責ねらるるに苦みて、五日或は七日宛書肆の許に至り、一間をか    りて草稿をなし、又は絵を画きたり。たとえば今日まで某甲が二階にあれば、翌日は某乙が離舎にあり    て、かなたこなた廻り廻りて、猶それにても手のとどかで、約束の期に後れたる書房に責らるるを苦し    み、其の行先を知らさず、後にようやくにして、夫が方へまわり行くほどなりしと。又物の本作者部類    山東京伝の條に、(上略)本朝酔菩提六巻、後編四巻共に十巻、亦これ伊賀屋の板にて、出像は豊国画    きたり。当時これ等の画工例として、未だ画かざる以前に其の濡筆の料を受ながら、技に誇りて画くに    おそかり、酔菩提を板とするにおよびて、伊賀勘しばしば乞えども、豊国事に托して敢て画かず、まず    板元にときすすめて、羽二重の袷半折(アワセバオリ)、二領を製(ツク)らしめ、これを作者と画工に贈らしむ    (其半折に、京伝と豊国の紋を付たり)。かかることは歌舞伎の当場作者に此例あればといえり。只此    事のみならず、或は酒肉珍菓を贈り、京伝と豊国を伴いて雑劇を見せ、或は酒楼に登ること屡なりき。    かくても豊国は猶多く画かず催促頻(シキリ)なるにおよびて、又板元にいうよう、おのれかく家にありて    は、雑客も絶えず、且錦絵の板元に責られて、読本のさし画は筆を把(以下脱文)□□辺裏屋二軒をか    りて、此処に豊国を請待し、日毎に酒飯をおくりて画かせけるに、折から三月の頃なりければ、豊国の    いうよう、今咲匂う花の三月なるに、かく垂れこめてのみありては、気鬱して病生れんとす、いかで隅    田川辺に徜徉して、保養せまくほしといいしを、伊賀勘聞て思うよう、もし一日外に出さば再び此処に    帰るべからず、要こそあれと思案して、さりげもなく答ていうよう、花を見たく欲したまわば、遠く隅    田川におもむくに及ばす、われ取よせて参らせんとて、大なる枝に花満ちたる桜を許多買いとりてそを    花瓶にも樽などへも活けて、豊国の机辺におきならべ、其活花衰うれば取替え取替え見せしかば、豊国    竟(ツイ)にせんかたなく、日毎に件の出像を画くほどに、伊賀屋は更なり、京伝の折々此の仮宅に来訪し    て、打語らいつつ慰めけり。         按ずるに、類考に豊国酔菩提の口絵に、遊女を画き、一枚の紙を上ぐれば、骸骨となる図を画けり此     図杉田氏の解体新書を見て、画きしは最もなれど誤て小児の骨を写す笑うべし。    〈山東京伝作の読本『本朝酔菩提全伝』は文化六年(1809)の刊行〉          此等の事は京伝の本意にあらねど、さきに優曇華物語の出像を、唐絵師に誂えて後悔せしに桜姫全伝の    作よりして豊国に画かせ、特に時好にかないしかば、これより豊国と親しく交りて、功を譲ること大か    たならず。         按ずるに唐絵師は喜多武清なり。武清は俗称栄之助、字は子慎可菴と号す。谷文晁の門人、作者部類     京伝の條に優曇華物語を綴る云々、趣向の拙きにあらねども、さし画の唐様なるをもて、俗客婦女を     楽ましむるに足らず。此故当時評判不の字なりき。京伝ひそかにこれを悔いたりとあり。    〈山東京伝作の読本『優曇華物語』は喜多武精の挿画で文化元年(1804)の刊行。『【桜姫全伝】曙草紙 』は文化二年     (1805)刊〉         今これを浄るりにたとうるに、画工は太夫のごとく、作者は三味線ひきに似たり合巻の草ぞう紙はさら    なり、読本といえども、画工の筆精妙ならざれば、売れがたしというにより、豊国もまた自許して其功    われにありと思いしかば、是より合巻の奥半帳に、画工の名を上にして豊国画、京伝作と署したり。既    にかくの如く、画工に権をつけしかば、豊国の恣(ホシイママ)なるをにくにくしく思いながら、竟に諫むる    こと能わず、其好みに随いつつ、二年ばかり稍刊行することを得たれども、思うにも似ず、冊子の世評    妙ならず云々、当時豊国の世に行われしこと此の如し。         按ずるに、当時豊国の行わること、此の如く盛なりしかば、自ら誇りて終に小説の大家、京伝をも蔑     視するに至れり、然れども豊国これによりて、後に自ら悔たることあり。かの京伝が優曇華物語を、     喜多武清に画かせて自ら悔たるは、これ即豊国が自ら誇る所以にして、其の自ら誇れるは、即後に自     悔いる所の返照となれるなり。作者部類仙鶴堂の條に、文化十三年のころ、画工豊国が浄るり本なる     千本桜の趣を、当年江戸俳優の似貌に画きしを、鶴屋が刊行したれども、只一九が序あるのみにて、     読べき所のすこしもなければ絶て売れざりしゆえ、仙鶴堂則(スナワチ)馬琴にこうて、画に文を添えまく     欲せり。馬琴已事(ヤムコト)を得ず千本桜の趣を、其画に合せ略述して、僅に責を塞ぎ云々(中略)当時     豊国が画きたる合巻草双紙おおく、時好に称(カナ)うをもて、作者と肩をならぶるを猶あかぬ心地して、     いでや吾画のみをもて、売らせて其功をあらわさんとて、文なき絵双紙を書賈にすすめて、遂に印発     したれども、只画のみにて文なき冊子は婦幼もすさめざりければ、豊国これを恥たりけん、又さる絵     冊子を画かざりけりと。豊国いかで自悔いざるを得んや。    〈「文化十三年(1816)のころ、画工豊国が浄るり本なる千本桜の趣を、当年江戸俳優の似貌に画きし」ものは未詳。馬     琴がやむを得ず「千本桜の趣を、其画に合せ略述して、僅に責を塞ぎ云々」という作品は文化二年(1805)刊行の合巻     『義経千本桜』であろう〉        按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋     勘右衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に     倣う。三馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、     国長、国満、国丸、国久、国房、を載す。三馬の口上あり。
    (前略)此所にてわけて申上まするは、御ひいき御思召あつき、豊広、豊国、おのおのさまがたへ、     御礼の口上、めいめいに申上とうは存じますれども、こみあいまして書入の所もござりませねば、し     ばらく御用捨を希(ネガ)い奉りまする。さて又これにひかえまするは、豊国門人文治改(アラタメ)歌川国     丸、安次郎改歌川国安、これにひかえし、かあいらしい振袖は私門人益亭三友、いずれも若輩のもの     共にござりますれば、御取立をもて、末々大だてものとなりまするよう、豊広、豊国私にいたるまで、     偏に偏に希い奉ります。まずは此所二日がわりのしんぱん、はやり歌川、両人がつれぶしの御評判、     おそれ多くも大日本国中のすみからすみまで、ずいと希い奉ります、まずは其為口上さよう。     豊広、豊国の口上     御礼のため、式亭、歌川、の総連中御目見得致させまする。御ひいき御取立御礼の口上は、私ども両     人になりかわりまして、式亭三馬口上をもって申上奉ります、何とぞ仰合され御しんひょうに、御聞     の程願い奉りますとあり。     按ずるに、三馬が雑記に、ことし文化七年の春、伊賀屋勘右衛門板(自作、豊国、豊広両画)一対男     時花歌川という十二冊物、前編六冊豊国画、後編六冊豊広画にて発兌なりしが、第一の当りなり云々、     合巻番附角力取組あるは一対男らとう東西の大関なりし云々とあり。     又按ずるに、或人曰く、略伝に三馬が憤りて、豊国を罵りし由をしるしたれど、三馬は此のごとき過     激の人にあらず、且文学をも修めざる豊国などに対し憤りを発するの理あらんやと。或は然らん、さ     れど、三馬は豊国より年齢も若ければ、或は真に憤怒を発せしやも知るべからず。かの三馬が雑記に     勝川春亭とも絶交せしを、書肆の中人にて和睦せしこと抔(ナド)しるしあるもて考うれば、豊国とも     口論せしことなしというべからず。そは暫くおきて、かの阿古義物語の事につきては、二人の間に紛     紜を生ぜしことは疑を容れざるなり。同書第四巻に載せたる、鶴やの稟告書を見て知るべし。      伏稟  発客 鶴屋喜右衛門 同金助     乍憚、四方御得意様方へ、御披露且は御礼のため、口上を以て奉申上候、先以各様方、益々機嫌克、     被為遊御座、恐悦至極奉存候、佐而此度開板の小説、阿古義物語、全部八巻、先達より売出し可申処、     作者式亭主人、画工豊国主人、例のずるけにて一向筆を下し不申、兎や角やと催促仕候内、時光過易     く、早くも五ヶ年の延引に相成候段、御賢慮之程奉怖入候。然処(シカルトコロ)去巳年八月朔日より、二の     巻の著述に取かかり、又々延引仕候て、巳の極月朔日より、当午の正月七日迄に、第三第四の巻、だ     らだら急に出来仕候に付、早速取急ぎ上木仕、当春の売出しに相成申候。然れども豊国主人、甚繁多     にてなかなか早急の間に合かねべき旨にて無拠断り候に付、作者相談の上、名代の画工則豊国門人、     歌川国貞主人に相たのみ候て、首尾能(ヨク)出板仕候。元来此冊子は、文化三年に第三回まで著述出来     有之候間、第四回目よりは此度の編述に御座候。発端より三回目迄は、五年跡の趣向故、文段併に絵     組等も別して拙く、流行にも後れ候て、嘸々(サゾサゾ)御目だるき事と奉察、三馬、豊国、両主人甚だ     後悔致し居られ候。此儀は別て御吹聴申上候間、一之巻二之巻の体裁、当時の読本流行に違い候所は、     幾重にも御用捨被成下、五年も跡の事じゃもの、目先きが違う筈であると、御贔屓の御助言、偏に奉     願上候。さて又作者の頼候は何卒全部出来揃た上にて売出し呉、左様なくては愁嘆場が後編へ残るゆ     え、花ばかり有て実が少なく、御見物の御慰が薄い程にと、達(タツ)て頼まれ候得ども根がづるけたる     誤りあれば、作者の頼みも承引不致、則半を裂き候て、先前編四巻綴分候て、全部五冊御高覧に奉備     候、後節四巻は当秋九月上旬、無相違売出し申候。当年は作者画工殊の外心進みおり候間、毛頭延引     の儀無之候。四五年ぶりにて、目出度開板の読本、且は御贔屓御取立の、三馬、豊国、国貞、に御座     候間、御意に不叶処までも、宜しく御評判被下候て、後編御待兼の御詞を、偏に偏に奉希上候。さて     画工は両人にて混雑御座候間御覧易きため、さし画之品を分ち、画人の名目を書記し、奉入御覧候     (画人名目は略す)。右の通りに御座候、別て申上候は、作者三馬、画工国貞、両人共猶不相替、御     贔屓取立の程奉願上候。未だ年齢三十前後の未熟者共に御座候間、文体てには并に画法之事等おぼろ     げにて、甚だ疎漏に御座候得共、御馴染之者共と被思召、御評判被下置候様、偏に奉願候とあり。作     者式亭主人、画工豊国主人、例のずるけとあるは、これずるけたるにあらず、紛紜を生ぜしによりて     なり。三馬が雑記に此春の自作外題は、阿古義物語全部八冊、前編四冊発兌、鶴屋金助板国貞画、初     巻の方は豊国なり、此読本はずれ云々とあり。    〈式亭三馬作の読本『阿古義物語』(前輯)は豊国・国貞画で文化七年(1810)の刊行。後輯は、狂訓亭楚満人(為永春     水)作・歌川国安画で文政九年(1812)の刊行〉        又錦画を画くおおし。中に就き俳優似貌画、風俗美人画最も多し。山水花鳥等は甚だ稀也。東錦画の華    美なるは、実に豊国をもて始とす。彩色精巧にして、燦爛目を射る。摺板二十有余遍の多きに至れり    (錦画を摺るに先ず墨摺をなし、それより色板と称え、紅板紫板等あり、それに目あてをつけ、彩色を    摺り込むなり。その摺板の数二十有余にいたれるなり。昔は二三遍にすぎざりしなり)。文化元年豊国    絵本太閤記の中より、図を抜き出し錦絵になして発行し、幕府の禁令に背きたる罪をもて、手鎖の刑五    十日に処せられたり。       按ずるに、太閤記には徳川氏に関係せる事共を載せてあり。よりて幕府嘗て此の書中の事を画くを禁     ぜしなり。一話一言に曰く、文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元へ被仰渡、     江戸にて右太閤記の中より抜き出し、錦画に出候分も不残御取上、右錦画かき候喜多川歌麿、歌川豊     国など手鎖五十日、板元は十五貫文過料のよし、絵双紙屋への申渡書付も有之云々。     又按ずるに、絵画叢誌に、(上略)豊国出でしより、絵画は鳥居派の風、流行を一変せりといえり。     未だ必しも然らざるなり。稗史臆説年代記を閲するに鳥居家の風清経よりはじめて、少し当世にうつ     るをあり。其の後鈴木春信、勝川春章、柳文朝、鳥居清長、の徒出でて、終に鳥居風を一変せしなり。     豊国に始るにあらず。     又按ずるに、類考豊国の條に、墨と紫ばかりにて錦絵をかきはじむとあり。世近頃この錦画を得んと     欲し、百方穿鑿すれどいまだ手に入らず。    〈「一話一言」ではなく『半日閑話』〉        文政八年正月七日没す、年五十七、蓋し病に罹りて没せしならん。三田聖坂の曹洞宗功運寺に葬る。法    名得妙院実彩麗毫信士。〈文政八年は1825年〉        「歌川豊国死絵」(歌川国貞画)    (早稲田大学 演劇博物館浮世絵閲覧システム検索画面の〔資料番号〕に「201-5638」〔絵師〕に「国貞」と入力してください)       余この頃三田の功運寺に至り、豊国の墓を弔いしが、其の墓は蓋し三代目豊国が没せし時に建てたる     ものなるべし。台石に歌川と筆ぶとに彫りつけてあり。さて正面には得妙院実彩麗毫信士、左には三     香院豊国寿貞信士、右には豊国院貞匠画僊信士とあり。右の側面に、歌川豊国事、元治元甲子十二月     十五日二代目とあり。又左の側面に、明治十三年七月二十日三代目、文政八乙酉年正月七日とあり。     按ずるに文政年月日は一世得妙院の没せし年月日なり。元治は二世豊国院が没せし年月日にして、明     治は三世三香院が没せし年月日なり。寺僧に請い本寺の過去帳を閲せしに、文政八乙酉年正月七日実     彩麗毫信士豊国事とあり。又元治元甲子年十二月十五日、豊国院貞匠画僊信士豊国事とあり。しかし     て明治十三年七月の條を閲るに、三香院の号なし。甚だ恠むべし。これ蓋し三香院を此に葬りたるに     あらず、只三代目豊国の名を、世に残さんが為に、三世の門人等が新に此い墓を建てたるものならん。     二世豊国も過去帳には其の名あれども此に葬りたるにあらず。二世の墓所は亀戸村亀命山光明寺にあ     り。此如き事は徒に後人の疑団を招くものなれば、此にこれを弁じおくなり。又過去帳には実彩麗毫     信士とのみありて院号なし。されば得妙院の号は、蓋し二世か三世がおくりし院号ならん。又同帳に     宝暦十二年六月十四日、円成自伝信士、神明前人形屋五郎兵衛とあり。これ豊国の父なり。又天明元     年十月十二日、法林妙戒信女、神明前人形屋五郎兵衛妻とあるは即豊国の実母なるべし。天保五年真     相如月信女、豊国母とあるは、二世豊国の養母にして、即一世豊国の後妻なるべし。又(二字欠く)     童子人形屋五郎兵衛子、妙融童女同、淡泡童女同、(二字欠く)童女同、とあるはこれ蓋し豊国が兄     か弟か姉妹なるべし。     又按ずるに豊国の没するや門人国貞、追善のため師の肖像を画きて出板せり。其の賛にこの月七日師     たる人と永きわかれとはなりぬ。然るに喪にこもりし朝なみだと共に、すゝらばや粥の七種の仏の座、     又追善の画に豊国子が辞世の句なりとて載せてあり。焼筆のまゝかおぼろの影法師(類考に、焼筆の     まゝかおぼろの影法師と記せる、これ他人の句にして、辞世にはあらざること明也とあり)        文政十一年門人等相謀りて、追悼の為めに筆塚を、柳島妙見の境内に建てたり。撰文は狂歌堂四方真顔    にして、其の文に曰く、〈文政十一年は1828年〉         一陽斎歌川豊国本姓は倉橋、父を五郎兵衛と云えり。宝暦のころ芝神明前の辺に住し、木偶彫刻の技     業を以て自ら一家をなせり。曾て俳優の名人市川柏筵の肖像を作るに妙を得たりき。明和の始ここに     豊国を生り。幼名を熊吉と称す。性画を嗜むが故に、歌川豊春に就きて浮世絵を学ばしむ。よりて歌     川を氏とす。頗る出藍の才あり。長ずるに及んで俳優者流の肖像を画くに妙を得て、生気活動神ある     が如く、又美人時世の嬌態梓本彩筆ともに諸国に流行し、華人蕃客も珍とし求む。ここをもて一陽斎     の号日の昇るがごとく、豊国の名一時に独歩し、画風自一品をなし、朱門の貴公子も師として学ぶ。     門人画業の徒において良才乏しからず。実に近世浮世絵師の冠たり。惜哉一陽斎享年五十七歳にして     没せり。時に文政八酉年正月七日なり。三田弘【功に作るべし】運禅寺に葬る。法名実彩麗毫という。     遺愛門人等一陽斎の義子、今の豊国と謀りて、亡氏の遺筆数百枝を埋めて碑を営み、亡翁の友人等も     為に力をたすけ、桜川慈悲成子をして余が蕪辞を需(モト)む。余の又亡翁と旧識たり。故に固辞するこ     と能わず、其事を記して其乞に答う。       文政十一年戊子仲秋、狂歌堂真顔撰、窪世祥鐫           山東菴樵者京山書并篆額     碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、     国貞、国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、     国彦、国幸、国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近。     二代目豊国社中、国富、国朝、国久女、国春、国弘、国重、国盛、国鶴、国道、国一、国興。     国貞社中、貞虎、貞房、貞景、貞秀、貞綱、貞幸、貞考、貞歌女、貞久、貞信、貞広。     国安社中、安信、安秀、安重、安春、安常、安清、安峰。     国丸社中、重丸、年丸、輝人。     国信社中、信清、信一、信房、信与喜。     国芳社中、芳春、芳信、芳房、芳清、芳影、芳勝、芳忠、芳富(以下略す)等の名を刻してあり。        一世豊国の人となり活発にして、頗る侠気あり。されど性急にして、常に厠にありて大声を発し、妻児    をよび又生徒を叱せりと。香蝶楼嘗語りし由。    歌川の定紋年円は、一世豊国が嘗て巨商某よりおくられし所にて、縁故あることなりとぞ。其の門流今    に至りて猶これを用いる也。(【一世豊国の人となり、以下「小日本」になし】)豊国の妻其の名詳な    らず、一男一女をあぐ。一男名は直次郎、彫刻を業とせり。類考歌川氏系図に直次郎豊国実子なり。    画を学ばず板木師を業とすといえり。一女は其名詳ならず。門人豊重を此女にあわせて家を継がしむ。    二世豊国とす。かの筆塚に記せる豊国の義子、今の豊国と云える即これなり。一龍斎と号し、又後素亭    と号す。よく画双紙を画く。文政八年板尾上梅幸代花笠作の尾上松緑百物語(六冊)は、口画二丁は前    豊国にして、余は二世豊国の画く所なり。又同九年板柳亭種彦作、笹色の猪口は暦手(六冊)は、前篇    は前豊国の筆にして、後篇は二世豊国の画なり。同年板伝笑作勧善辻談義(六冊)も、二世豊国なり。    又文政十一年には、東里山人作千葉模様好の新形を画けり。何の故にや後に家と出でて、本郷春木町に    住し、名を改めて再び歌川豊重と称す。世これを本郷豊国と称し、又源蔵豊国と称す。源蔵は豊重の俗    称なり。終りを知らず。天保十五年門人歌川国貞、家を継ぎ二世と称す。実は三世なり。後に詳かに    すべし。門人多し。其の出藍の誉あるは、国貞(後に豊国)、国芳、国政、国長、国丸、国直、国安    (以上後に詳す)、国満(俗称熊蔵、田所町に住す、錦画、草双紙あり)、国次(【以上十九字「小日    本」より】)(俗称幸蔵、銀座四丁目に住す、錦画、草双紙あり)、国信(自画作の草双紙あり、作名    志満山人)、国虎(俗称粂蔵、艸双紙あり)、国照(俗称甚左衛門、錦画あり)、の徒にして国貞、国    芳の二人その名最世に著わる。一世豊国の門人中奇才をもて一生に賞せられしは国政、国長、国丸の三    人也〟       (歌川国政伝あり、国政の項参照)     (歌川国長伝あり、国長の項参照)     (歌川国丸伝あり、国丸の項参照)  「浮世絵師歌川列伝」か行     (歌川国直伝あり、国直の項参照)     (歌川国安伝あり、国安の項参照)         無名氏曰く、文々の世に当り、浮世画をもて名を一世に轟かせしは、歌川豊国なり。錦画の如き、合巻    読本の如き、豊国の画く所にあらざれば、人これを購わざるに至れり。盛なりと云べし。当時葛飾北斎、    喜多川歌麿の如き、未曾有の大手ありといえども、其行わるる皆豊国に及ばざる也。此におきて豊国能    をたのみ、人に誇り、当時小説の三大家と称せられし、京伝、三馬、馬琴の如き、猶且これを軽蔑する    に至れり。凡そ能を抱き、人に誇るは俗人の常情にして、大人君主の為さざる所なり。豊国よく画くと    いえども、もろより文学を修めざれば、是等の事は恬として自顧みざるが如し。深く責むるに足らざる    也。かの一商の依頼により、肖像を画くにあたり、それを画かずして小奴の孝心に感じて、忽ち其肖像    を画くが如きは、真に至誠の発する所にして、彼が天与の美質を見るに足るなり。嗚呼豊国もまた愛す    べき人物にあらずや