Top         浮世絵文献資料館         『浮世絵師歌川列伝』凡例
                   「歌川豊広伝」                歌川豊広は、岡島氏、俗称藤次郎、江戸の人、芝片門前町に住す。歌川豊春の高弟にして、浮世絵の名    手なり。夙に歌川氏を称(トナ)うを許され豊広と称し、一柳斎と号す。一説(野村氏類考書入)に、豊広    は初代豊国の弟なり、又神田の社内に住せしというは非なり。始め豊国と相競い腕力を揮い画きしが、    豊国の画はよく時好に投ぜるをもて、大に行われ、豊広は筆力超凡なりといえども、其の行わるること、    終に豊国に及ばざりし。蓋し俳優似貌画、及び風俗美人画は其長ずる所にあらず。     按ずるに豊広が俳優似貌画は、未だ嘗て見ざるなり。一説に豊広は生涯似貌画をかかざりしと、蓋し     然らん。されどかの鈴木春信、喜多川歌麿のごとく、一見識を立て、俳優を卑しみて画かざりしにあ     らざるがごとし。蓋し同門豊国が、似顔絵をよくするを以て、彼に譲りて画かざりしものか。又風俗     美人画は、喜多川歌麿におとるといえども、細田栄之にまさりて、頗(スコブル)艶麗なる所あり。され     ど其の風古体にして豊国のごとく行われざりし。        草双紙、読本の類を画く多し。寛政七年板楚満人作、敵討義女英(三冊)を画きて大に行わる。これ豊    広が名の、世に出でたる始めにして、これより敵討の草紙年々に行われて、作は楚満人、画は豊広にあ    らざれば、世人の意に適わざるに至れり。青本年表に、楚満人義女英大に名あり、十余年廃てたる敵討    を再興し、これより年々に続出し、文化にて大に行わるるは、楚満人の功というべしとあり。又式亭三    馬が雑記に、赤本は一冊の紙数五丁にかぎりて、二冊三冊物なりしが、文化初年の頃より、敵討の趣向    流行し、吾友南仙笑楚満人、敵討物を著作して、大に行わる。此時に五冊もの、六冊物を作りて、前編    後編と冊を分ちてひさぐ事となりたりとあり。    〈『敵討義女英』は豊広画ではなく歌川豊国画。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によれば、豊広画作品の登場     は、寛政五年の『十三番狂歌合』と『狂歌みちのくの紙』で、共に狂歌本である。草双紙としては、寛政十二年(1800)の     『旧土産吾妻錦絵』(ゆうきん(楓亭猶錦)作)が初の挿画本である〉       (南仙笑楚満人の略伝あり、略。楚満人の項目参照)             享和元年楚満人作、敵討梅の接木(三冊)、同作敵討時雨友(三冊)、式亭三馬作封鎖心鑰匙(三冊)、    同作綿温石奇効報條(三冊)、慈悲成作一粒撰噺種本(三冊)を画く、    同二年楚満人作虚空太郎(六冊)を画く。    同三年石上作鎌倉街道女敵討(三冊)、楚満人作敵討椰葉山(三冊)と画き、又同作五人揃目出度娘    (三冊)を画く。      〈『敵討時雨友』『封鎖心鑰匙』『綿温石奇効報条』『一粒撰噺種本』はいずれも享和二年(1802)刊〉         (樹下石上の略伝あり、略。樹上石上の項参照)         文化元年、面徳斎夫成作敵討思乱菊(五冊)、十返舎一九作敵討蓮の若葉(三冊)、楚満人作仇討長太    郎柳(三冊)、東子作敵討名誉一文字(三冊)、石上作万福長者宝蔵開(三冊)、同作敵討錦の誰袖    (三冊)を画く。     (竹塚東子の略伝あり、略。竹塚東子の項参照)        同二年、楚満人作敵討三組盃(九冊)を画く。この双紙大に世に行わる。部類楚満人の條に、文化に至    りて敵討の艸双紙の流行により、時好に称(カナ)いて折々あたり作あり。そが中に敵討三組盃、最も婦幼    に賞せらる云々。又三馬作親讐胯膏薬(三冊)、馬琴作武者修行杢斎伝(六冊)、同作復讐阿姑射之松    (五冊)、京伝作安積沼後日之仇討(六冊)、一九作防州氷上妙見宮利生仇討(五冊)、楚満人作親敵    宇津の山彦(五冊)を画く。    同三年、楚満人作仇報妹背扇(五冊)、同作猫の嫁入(不詳)、馬琴作盆石皿山の記(中本二冊)、一    九作法の誓輪廻の仇討(三冊)、同作大悲の誓二人孝行(五冊)、楚満人作敵討女夫似我蜂(中本三冊)    を画く。    同四年、馬琴作島邑蟹湊の仇討(六冊)、同作鼓が滝幼稚敵討(六冊)、三馬作箱根霊験蹇仇討(六冊)、    同作復仇安達太良山(五冊)、鬼武作仁王坂英雄の二木(六冊)、楚満人作敵討椎木の花王(五冊)、    同作敵討三ッ重忠孝貞(九冊)、同作敵討島廻り幸助舟(六冊)、同作敵討轆轤首娘(六冊)、同作敵    討代九郎咄(六冊)、同作敵討遠森紙衣(三冊)、一渓菴市井作復讐奇談七里浜(三冊)を画く。    〈『武者修行杢斎伝』は文化三年(1806)刊。『安積沼後日之仇討』は文化四年刊。「一九作防州氷上妙見宮利生仇討」は未     詳。「楚満人作親敵宇津の山彦」(「日本古典籍総合目録」は『親讐撃山魅』は文化三年刊。文化三年の「猫の嫁入」は     『朧月猫の嫁入』であるが、「日本古典籍総合目録」は画工を鳥居清峯とする〉       (感和亭鬼武の略伝あり、略。感和亭鬼武の項参照)        同五年、京伝作万福長者栄花物語(三冊)、京山作左甚五郎蛇淵仇討(六冊)、同作敵討熊の腹帯(六    冊)、馬琴作敵討白鳥ヶ関(六冊)、同作巷談堤の庵(中本三冊)、一九作忠信姥ヶ淵餅(七冊)、同    作幽霊村仇討(六冊)、同作多羅福注文帳(三冊)、同作嵐山花の仇討(前三冊)、同作春霞女廻国    (後三冊)、三笑作果報寝物語(五冊)、伝笑作孝行娘妹背仇討(六冊)を画く。      〈馬琴の「巷談堤の庵」(「日本古典籍総合目録」は『巷談坡隄庵』は読本。)一九作「忠信姥ヶ淵餅」、「日本古典籍総     合目録」は『忠信老嫗餅』とする。また、三笑作『果報寝物語』を同目録は享和三年(1803)刊とする〉       (三笑、伝笑の略伝あり、略。福亭三笑、関亭伝笑の項参照)        又馬琴作の読本、俊寛僧都島物語(四冊)、京伝作浮牡丹全伝(前四冊)を画く。         案ずるに、この浮牡丹全伝刊行のことにつき、板元住吉屋政五郎が遂に破産せしよしは、細に作者部     類に載せて、暗に京伝がおこたりの罪をせめたり。はじめ板元政五郎が浮牡丹著作を依頼するや、京     伝は承諾しながら、稿本をかかずして、先ずさし画を豊広に画かせたり。従来さし画は、稿本を熟読     して後に画くにあらざれば、其の真趣を写すこと能わざるものなり。然るに豊広は板元の請により、     止むことを得ず、稿本を見ずして画きしが、其の実は甚だ迷惑せしならん。しかして此のごとく苦慮     して画きたるさし画は、既になるといえども、京伝はなお稿本をかかずして、三年をうち過ぎたり。     尋常の画工なれば、かならず憤りて、彼がおこたりの罪をせむべきに、豊広はさらにいかれる色のな     かりしにや、よく人の非を数(カゾ)うる部類中にも、其の事見えざれば、彼は板元の依頼に対し、約     束のごとく画き終わりて、他を顧みざるもののごとし。これ豊広の人となり、寛闊にして、小事に区     々たらず。その見識卓然として、争う所なき一班を伺うに足る也。類考に、豊広常に義太夫節を好み     て、三味線を引くを楽とす。尤も妙手なりとあり。これその胸中、自ら余地あるにあらざればいかん     ぞ、三味線を楽みとするを得んや。嗚呼豊広も又一奇男子なるかな。       〈京伝との件は、温厚篤実にして寛容なる豊広の人柄を表すエピソードであるが、豊国とは実に好対照である〉
     同六年、京山作千本桜祇園守(六冊)、同作都の春仇を襠衣(六冊)、馬琴作釣鐘弥左衛門奉加助太刀    (十冊)、一九作桑名屋徳蔵廻船咄(六冊)、慈悲成作福鼠子宝咄(六冊)を画き又馬琴作の読本俊寛    僧都の後篇(四冊)、同作夢想兵衛胡蝶物語(五冊)、一九作の読本敵討舞子浜(二冊)を画く。    同七年、馬琴作敵同士石と木枕(二冊)、一九作紙治安小春大雑書(六冊)、同作仇討金剛杖(六冊)    を画き、又京山作の読本桃花流水(五冊)を画く。    同八年、一九作武者順礼捨松咄(七冊)、三馬作一対男時花歌川の後篇を画く。其の他年代今詳ならざ    れども、楚満人作敵討松の寄木(三冊)、某作敵討裏見滝(六冊)、一九作敵討葛の松原(三冊)、京    伝作通四丁目虎屋宗三郎景物(一冊)と画けり。又読本の類は、馬琴作旬伝実々記(十冊)、同作松浦    佐世姫石魂録(三冊)、同作糸桜春蝶奇縁(八冊)(豊清と合筆)、同作朝比奈巡島記(四冊)、一九    作本西遊記、同作復讐御伽物語を画く。    〈「日本古典籍総合目録」は一九作の合巻『桑名屋得蔵廻船咄』と読本『敵討舞子浜』を文化五年(1808)の刊行とする。文     化七年(1810)刊、馬琴作の読本『敵同志石与木枕』、「日本古典籍総合目録」は画工名なし。京山作読本『桃花流水』は     文化六年(1809)の刊行。また、楚満人作『敵討松寄生』は享和二年(1802)刊、『敵討裏見滝』は松下井三和(唐来三和)     作の合巻で文化六年の刊、『敵討葛松原』は文化五年の刊行である。京伝作『虎屋景物』の刊年を記載せず、文化三年(1     806)の序とする。馬琴作読本『旬殿実々記』と『松浦佐用媛石魂録』はそれぞれ文化五年の刊、豊清と合作した『糸桜春     蝶奇縁』は文化九年(1812)、『朝夷巡島記』は文化十二年(1815)の刊行である。『絵本西遊記』は口木山人(西田維則)     の作で文化三年の刊行。一九作「復讐御伽物語」は「日本古典籍総合目録」収録せず、未詳〉         按ずるに、豊広が画きし草双紙、および読本の類は、凡て一百余種あるべし。本文挙るところは、青     本年表および絵ぞう紙目録集等に、散見せるをひろいあつめたるのみ。其の数凡八十有余種あり。中     に就き敵討の草紙最多し。         豊広はよく敵討の草紙をかくといえども、これをもて自ら足れりとするにあらざるなり。唯時好に称(カ    ナ)うをもて、止むことを得ずして画きたるものならん。蓋し豊広が腕力を揮って、一格を起さんとし、    画き出だせるは、草筆の墨画、即張交(ハリマゼ)画なるべし。其の画風は自ら一家をなすといえども、専    ら狩野家を宗とせるもののごとし。張交画を板刻して、専ら発売せしは実に豊広が始めなるべし。張交    画を板刻して、専ら発売せしは実に豊広が始めなるべし。張交画は花鳥人物のさまざまの図を画き、他    の詩歌短冊敷紙などとまぜて、これを襖および屏風等に貼る故に名づく、其の紙の寸法は大小不同にし    て、或は団扇形、扇面形、あるいは色紙形、短冊形なるあり。       (張交画の記事あり、略。張交画の項目参照)        凡(オヨソ)画工の筆力を見るは、草筆の墨画にしくはなし。草筆は画工の最も難しとする所にして、殊に    後世の浮世絵師はこれを善くする者甚だ尠(スクナ)し。いかなれば草筆は、此の如く画き難きものなるや、    蓋し筆を下だすこと多からずして、よく其の形状を画き、またよく其の風趣を写し出だすをもてなり。    もし夫れ草筆にして、形状風趣を写すこと能わざれば、其の画は恰も小児が蚯蚓(ミミズ)を画きたると一    般なるべし。蓋し豊広は、この画き難き草筆の張交画をかき、しかして己れの腕力のほどをあらわさん    とせしものなるべし。かの俳優似貌画および風俗美人画の如きは、豊国に及ばざる所あれども、草筆の    墨画にいたりては、豊広をもて上座におかざるを得ざるなり。これを要するに二人の腕力は、蓋し優劣    なかるべし。文化年間の戯作者、浮世絵師の見立相撲番付に、東西の大関は京伝豊国、関脇は三馬国貞、    小結一九北馬等にして、行事は馬琴を中にし、右に北斎、左に豊広を載せてあり。豊広をして北斎に対    せしむるは、少しく当たざるが如し。これ等の番付を見て、画工の腕力を評するは、恰もかの九星を算    えて人の一生を卜するがごとし。愚もまた甚し。然れども当時の世評を知らんとするは、蓋しこの番附    にしくものなかるべし。抑(ソモソモ)相撲の行事は関関脇と異なり。よく古実を知り、又よく撲手を知るも    のにあらざれば、善くする能わざるものなりとぞ。今この番附に、北斎、豊広を、行事の所におくもの    は、二人の画道における、和漢古今の諸流は皆実の手中にありて、よく骨法に通じ、用筆に達せるをも    てなるべし。豊広は固より北斎に及ばずといえども、画理に精しくして、画く能わざるものなし。殊に    浮画をよくし、各地の勝景および宮殿楼閣の遠景を画くに巧なり。又細密なる刻板の画を善くし、微細    の所におきて、更に筆力をあらわせり。かの豊国、国貞のごときは、よく時好に投じ、一時世に行わる    るといえども、関のみ、関脇のみ。其の実地老練の力に至りては、みな豊広に及ばざるなり。豊広を推    して、行事の席にあらしむるは、これ蓋し過誉にあらざるべし。文政十二年十二月廿一日病に罹りて没    す。時に年六十五、西久保の専光寺に葬る。法名釈顕秀信士、辞世の狂歌に、死んでゆく地獄の沙汰は    ともかくも、あとの始末は金次第なり。       「文化十年見立相撲番付」         按ずるに、此狂歌の大意は、諺に地獄のさたも金次第、といえるよりおもいおこして、しにゆくさき     の地獄にても金次第なりといえど、そはともあれ現に今死してあとの始末をなし、葬式を行うは金次     第なりとて、世の中のあさましきをかこち、はかなきあとを宜しく葬りくれよとの意を、含めてよめ     るなるべし。真情を吐き出だしてかざれる色なし。これ却(カエツ)て気韻の高き所なるべし。又按ずる     に豊広の後は、既に絶えたるにや、此の頃西の久保専光寺にいたり、寺僧に就き豊広が墳墓の所在を     問うに知らずという。又過去帳を問うに、明治二十五年四月本寺火災に罹りて、過去帳は皆焼失せり     という。たとい過去帳は焼失したりとも、其子孫連綿たらば盆暮には来り弔うべきに、其事なきのみ     ならず、寺僧もしらずといえば、これかならず其家の絶えたるならん。本堂の焼址の後に数百の墳墓     あり。就きて一々閲せしがそれとおぼしき墓石は見あたらず。蓋し後の山のくずれたる所に埋もれた     るものならん、惜しむべし。余が豊広の墓を弔い、最も知らんことを要せしは、其の没せし年月日な     り。類考別本には文政十二年丑十二月廿一日病死とあり。又明治二十年三世広重が、豊広の法会を執     行し、六十回忌なりという。これによりて推算すれば其の没せしは、文政十一年にあたるなり。甚だ     疑うべし。今仮に類考別本によりてしるしおくなり。         豊広の妻、其の名詳ならず。一子あり、歌川金蔵という。後に豊清と改う。かの一対男時花歌川に、こ    れにひかえさせたる小悴は、豊広悴歌川金蔵とある、即これなり。文化七年東西菴南北作の草双紙筆初    日の出松(三冊)を画く。これを初筆として、同九年同作女合法恋の修業者(五冊)を画く。頗る才筆    なりしが惜むべし世を早うせり。没年詳ならざれども、三馬作の梅精奇談魁双紙の挿画を、かきかけて    死せし由、戯作者略伝に詳なり。文化の末か、文政の初めなるべし。豊清一子あり。豊熊と    云また画を善くせしが、父に次ぎて没せり。    桜川慈悲成、豊熊が名弘の時、報條を作りて曰く、         故人歌川豊広が孫なりける熊太郎に、くま筆のはこびをおしえ、歌川なにがしとなれよと、常にはげ     ませける、予は歌川と竹馬の友なり、また一盃の友にして、かん徳利のしゃくとらすころ、けしの髪     撫で豊熊豊熊とたわふれけるが、今歌川の後宝老い、孫の名つけてよとあるに、とく興じおきけるを、     先の翁も知り給うべしと、こたび草葉の露の手むけといとなみ、祖が書残しおきける水くきを梓にも     のして、豊熊ちょう名弘することを、絵の事は白きを後に卯の花の、さかりをつける杜字かな(【桜     川慈悲成、豊熊が 名弘の時、以下「小日本」になし】)        門人多し。広昌(駿洲沼津の旅店太平屋某なり、錦画二三種あり)、広重、広恒、広政等、皆傑出の名    あり。広重最も世に著わる。    明治二十年、豊広が六十回忌に、三世広重、豊広が肖像を画きたる摺ものを配布し、法会を執行し、一    碑を墨陀堤下に建てたり。其摺物の文に、         亡父立斎広重翁の師祖豊広翁は一柳斎と号し、歌川家の元祖豊春翁の門人なり。同門豊国と其の名と     もに行わる。後画風一家をなし、生涯俳優の似貌を画かず、敵討読本のさし画はこの翁に始れりとぞ。     画く所枚挙に暇あらず。就中京伝、馬琴両翁の著作にかかるもの多し。実子豊清氏早世し、嫡孫豊熊     氏ありしかども、次ぎて夭せり。師翁は文政十一年没す。本年本月六十回忌に相当せるをもって、将     に追遠会を営み、辞世を碑に刻し、墨陀の辺に建て、永く其の芳名を後世に遺さんとす。仰ぎ願くは     四方有志の諸君、偏に賛成補助を賜らんことを、二世立斎広重敬白        又碑面には、かの辞世の歌死んでゆくを刻して、二世広重建立とあり、裏面には明治二十年丁亥四月良    辰とありて、売薬家守田宝丹が書せし所なり。         按ずるに、三世広重が摺ものの文および碑面に、二世広重としるしあれど、曩(サキ)に二 世広重あり     しことはよく世の中の知るところなり。いかなれば三世広重自ら二世と称するや疑うべし。また亡父     立斎広重とあるは誤りなり。一世広重は一立斎と号し、立斎をいいしことなし。二世広重はじめ一立     斎と号せしが、後にゆえありて立斎と号せしなり。今一世の号を立斎とするは疑うべし。また敵討読     本のさし画はこの翁にはじまれりというは非なり。敵討よみ本のさし画は、古よりこれあるなり。惟     (タダ)豊広は楚満人が久しく廃れたる敵討を再興せしによりて、専ら画き出でたるのみ。蓋しこの摺     ものの文は、他人代りて綴りたるものならんか、さるにても三世広重が疎漏の罪免るる事能わざるな     り(【また敵討読本のさし画は以下「小日本」になし)        無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりて    は、其の本をすててかえりみざるもののとごし。元祖豊春、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て    土佐狩野の門に出入せしを聞かざるなり。一世豊国の盛なるに及びては、みずから純然独立の浮世絵師    と称し、殆ど土佐狩野を排斥するの勢いあり。これよりして後の浮世絵を画くもの、また皆本をすてて    末に走り、骨法筆意を旨とせず、模様彩色の末に汲々たり。故に其の画くところの人物は、喜怒哀楽の    情なく、甚だしきは尊卑老幼の別なきにいたり、人をしてかの模様画師匠が画く所と、一般の感を生ぜ    しむ。これ豈浮世絵の本色ならんや。歌川の門流おなじといえども、よく其の本を知りて末に走らざる    ものは、蓋し豊広、広重、国芳の三人あるのみ。豊広は豊春にまなぶといえども、つねに狩野家の門を    うかがい、英氏のあとをしたい、終に草筆の墨画を刊行し、其の本色を顕わしたり。惜しむべし其の画    世に行われずして止む。もし豊広の画をして、豊国のごとくさかんに世に行われしめば、浮世絵の衰う    ること、蓋(ケダシ)今日のごとく甚しきに至らざるべし。噫〟    〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そしてそれを     保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その題材故に陥り     がちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけた「骨法筆意」があ     るからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉守一、清長、歌麿、北斎、     そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉