Top         浮世絵文献資料館         『浮世絵師歌川列伝』凡例
                   「歌川豊春伝」                浮世絵師歌川流の元祖は歌川豊春     〈鳥山石燕記事あり。中略。鳥山石燕の項、参照のこと〉
   安永年間、豊春の画名既に世に噪し、武江年表同年間の條に、鳥居清長、吉左堂春潮、恋川春町、歌川    豊春行わるとあり。この頃豊春は四十歳前後にして、俳優画、美人画なども画きたれど、最も絵看板を    画くに長ぜり。類考に土佐結城座の操看板を画くに、彩色最もうるわしく、めずらしき図取を画きて、    度々評判せられし由を載せたり。操人形の看板のみにあらず、天明六年桐座の絵看板、および顔見世番    附をも画きたり。従来戯場の絵看板および番附は、鳥居家にて画くこと常の例にして、余人は嘗てこれ    を画かざりしなり。天明五年鳥居三代清満没して、画くものなかりしかば、豊春かわりて画きたるもの    なるべし。画風よく鳥居風を写し出だして妙なり。         〈鳥居家の記事あり。中略。鳥居派の項、参照のこと〉          又按ずるに寛政十年猿若座の顔見世番附に、絵師歌川新右衛門筆とあり、新右衛門は即ち豊春なり。     この時何の故に又鳥居家に代りて画きたるものか猶考うべし。艶容歌妓結(ハデスガタオドリコムスビ)(文化     十四年板、式亭三馬作、歌川国貞画、西宮板)三冊、中冊標紙の見かえし、操看板に画を載せて、上     に「操看板の絵は歌川一龍斎豊春の筆なりしが三十余年の後」勝川九徳斎春英戯に画けるよし、仍て     近来の看ばん人皆愛玩せり、ここには当時の画風九牛が一毛をあらわせり。(【艶容歌妓結、以下     「小日本」にはなし】)        又浮画に長じ、これを錦画になして発行し、大に行わる。類考に浮絵を錦画にし、多く画き出せり、宝    暦頃の浮画にまされりと。又稗史臆説年代記(三馬作)に、歌川豊春うき絵に名ありと。此浮画の錦画    は、多くは遠景の山水および庭園等にして、中に人物を画く、その人物は遠景にあるによりて、恰生け    るがごとく見ゆるなり(横画多し)これ即西洋の油画の法によりて画けるもの也。         按ずるに浮画は訓みて、ウキエ、又ウカシエ、漢名遠視画、芸苑日渉に池北隅談を引きて、「西洋製     スル所ノ玻璃器、奇巧多シ」云々、又「楼台宮室ヲ画キ、図ヲ壁上ニ張リ、数十歩ノ外ヨリ之ヲ視レ     バ、重門洞関、層級数ウベシ」云々、又虞初新誌、黄荘小伝を引きて、「遠視画有リ、遠視画、即浮     画也」と。もと西洋油画の伝法にして、其の我国に伝わりしは、いずれの時なるを知らざれども、慶     長元和のころ既に伝えり。あめりかの博物館にある、伊達家の臣支倉六右衛門の肖像は、これ其の伝     えて最古きものなるべし。この頃国史眼を閲するに、万治年間の條に、明暦災後より江戸に放火行わ     れ、厳命すれども熄(ヤマ)ず。島原の党与山田右衛門作原免ぜられて江戸にあり、西洋我を能くす。松     平信綱命じて放火者の状を描かしめ通衢に掲ぐ。これより犯者稍(ヨウヤク)止むと、これ蓋し油画なるべ     し。元文延享の頃に至り、浮世絵師奥村政信、油画の法により、山水人物を画きて上木し、大に世に     行わる。これを浮画という。類考政信の條に、俗に浮画とて、名所或は富士牧狩の図、曾我十番切に     遠景を奥深くみゆる図をかき板行せしなり。其の後大に行わる云々。安永天明年間に至り、歌川豊春     浮画を錦画になして、大に行わる(類考豊春の條の注に、本朝油画の祖というべしとあるは非なり)。     この頃より戯場遠景の道具、及び見世物の看板等は、みなこの画法を用いることとなりたり。享和年     間司馬江漢長崎に至り、更に西洋油画の画法を伝えしより、其の法益々世に行わる。かの北斎、広重     の山水、またみなこの法によれるなり。     又按ずるに豊春、既に西洋の画法を伝う、よりて後の歌川流を学ぶ者、また皆西洋の画法を慕わざる     はなし。其の授業の方法の如きに至りても、大に西洋法に類する所あり、事は三世豊国の伝に詳(ツマビ     ラカ)にすべし。         寛政年間、日光神廟修繕の時、豊春狩野家に従い、町絵職人の頭となり、門人を率いて廟内の彩色に従    事せり、時人これを栄とす。         按ずるに、類考に寛政の頃、日光山御修復の節、彼地に職人頭を勤めしとぞあり。此の時町絵職人の     頭となりて日光に至りしは、豊春のみにあらず、かの本郷の侠客泉守一なども、門人等を率いて赴き     たり。         文化二年、豊春、押上春慶寺の普賢堂の額を画く。その図は日蓮上人龍の口遭難の所にして、豊春七十    一画豊信補画とあり。         按ずるに豊春は、日蓮宗にして、普賢菩薩を尊信せり。よりて此の額を画きたるものならん。豊信補     画とあれど其の何人なることを詳にせず。石川豊信にあらざることは既に前に詳にせり。(【「小日     本」或は石燕の門人にして、豊春が長者か、猶考うべし】)     又按ずるに、豊春は額面、看板、錦画などは多く画きたれど、絵本および読本、艸双紙の類は、画か     ざりしと見えて、類考豊春の條に、艸双紙の類は多くかかずとあり、よりて試みに青本年表を閲する     に果して豊春の名なし。されば生涯艸双紙は画かざりしか、これ又一見識のある所ならん。         同十一年正月十二日、豊春没す、歳八十、浅草菊屋橋の法華宗妙満寺派本立寺に葬る【今浅草南松山町    四十五番地】法名は歌川院豊春日要信士。         按ずるに、豊春の没年、および墓所は、類考其他の諸書に見えざれば、これを知る者は甚だ稀なり。     一日豊原国周氏を訪う。同氏曰く、豊春の墓は未だ拝せざれども、浅草菊屋橋の際なる日蓮宗の寺に     ありと。余これを聞き、直に車を走せて、菊屋橋に赴き、日蓮宗なる本立寺に入り、これを問うに寺     僧指して其所在を知らしむ。行きて見れば苔むしたる墳墓の台石に、歌川と大字に彫りてあり。さて     正面には、上に露山了玄信士(享保八卯八月十二日)、清心妙林信女(年月なし)とありて、下に歌     川院豊春日要信士(文化十一甲戌年正月十二日)、要行院妙進日性信女(寛政八丙辰十月初五日)と     あり。右側に銀翁永宝信士、常在味散信女、花屋永春信士と有、又左側には了山志覚信士(明和六己     丑五月六日)、了性起玄信士(文化六己巳七月四日)、清山宗林信士、清悟妙歌信女(文化十一甲戌     年正月七日)とあり。     按ずるに、正面上の露山、清心の二つは、蓋し豊春の父母なるべし。本寺の過去帳に、享保年間の所     欠たれば詳ならず。歌川院は過去帳に、文化十一甲戌年正月十二日 歌川院豊春日要歌川昌樹事とあ     り。同帳は皆亡者の俗称を記せるを例としあれば、豊春は落髪して昌樹を呼びたる事疑いなし。要行     院は同帳に、寛政八年丙辰十月五日、要行院妙進日性(中橋)歌川豊春内あり。これ豊春の妻にして、     中橋に住せし時に死したるなるべし。右側の銀翁、常在、花屋の三人は、蓋し豊春の祖父、祖母、お     よび曾祖父なるべし。年号月日なければ詳ならず。左側の了山は、同帳に実相院旦那、田所町歌川庄     次郎とあり(寺僧曰実相院は当寺の末にして 此寺中にありしが後に廃して、当寺に併せたりとぞ)、     これ蓋し豊春の長男なるべし。豊春もと庄次郎といいしが、其の名を長男に与えて、おのれは新右衛     門と改めたるものならん。田所町に住せし頃、此の長男死したるなるべし。又了性は、同帳に文化六     己巳年七月四日、了性起玄、歌川昌樹の子とあり、これ蓋し豊春の次男なるべし。清山は同帳に、文     化十一甲戌年正月七日、清悟妙歌、歌川昌樹娘とあり。これ豊春の娘にして、父に先だつ僅に五日に     して死せるなり。     又按ずるに、豊春は二男一女ありしが、皆子なくして、父にさきだちて死し、豊春の血脈は全く絶え     たるがごとし。此の墳墓のあたりに、歌川の氏を刻せし碑石の見あたらぬのみならず、過去帳にも豊     春の歿後、今日に至るまで、八十年間に歌川氏の文字見えざれば、其の家絶えたること疑なし。試み     に寺僧に問うに、此の墓ははやくより無縁になりしという、嗚呼悲哉、歌川流の盛んなる今日に当り、     此の祖先の墓をして無縁になしおくは、蓋しその流の人々の恥る所なるべし。家に帰りてこれを豊原     国周氏にかたるに、同氏嘆息して他日かならず法会を執行し、以来香花を供して絶ざらしむべしとい     えり。        豊春の没するや、門人等ふかくこれを悼み、亡師が嘗て信仰せし押上春慶寺の普賢堂の傍らに、一碑を    建てて記念となし、永く追慕の情を伝う。碑面に、花は根に名は桜木に普賢象、のりのうてなも妙法の    声、正面文化十一年戌春、二代目歌川豊春、行年八十、元祖歌川昌樹、歌川妙歌、歌川貢、大野規行、    歌川豊秀、歌川豊国、歌川豊広と刻してあり。         按ずるに、二代目歌川豊春は、何人なるを知らず。ちか頃発行の画家人名辞書に、二代目豊春は文政     中の人とのみありて、錦画、絵ぞう紙、読本類のうちに、其の名見えざれば、詳かならず、蓋し門人     が師名を継ぎて称えしものならん。     類考に後年豊春を名のりしものあり、文政のはじめなりしとあり。或はこれか、なお考うべし。また     妙歌は娘にして、貢、規行の二人詳ならず。豊秀は門人なるべし。類考に京師板行のよみ本に、歌川     豊秀というものあり。豊春の門人なるが、いまだ詳ならず、車僧轍物語、甲賀三郎巌物語、聚義法談     等あり、最も拙しとあり。     又按ずるに、この歌は門人が【豊国か豊広か】詠みたる歌なるべし。師をしたうの情甚だ深し。その     大意は、はなは根にかえり、人は死して土にかえる。はかなきものはいのちなりと、師の画名はなが     く桜木にのこりて、減ずることなしというこころより不減と普賢と、象と像、をかよわせていい、さ     らに乗と法をかよわせ、仏法の場にても、妙法ととなえて声するは、師の画を賞誉するがごとしと。     師を慕い師を尊びてよめるなり。         門人多し。豊国、豊広、豊久、豊丸の徒、皆傑出の名手なり。中に就き豊国、豊広の名最も著わる。    無名氏いわく、安永年間浮世絵師の世に行われしは、鳥居清長、歌川豊春の徒をもて、最もさかんなり    とす。清長は美人画、および俳優画に長じ、豊春は看板画、および額面画に長ぜり。おのおの其の長ず    るところをもて一世に著わる。今試みに二人の画を評すれば、清長は艶麗にして力あり、気韻頗る高し。    鳥居の風を脱して、一機軸を出ださんとするの志し、自ら其の筆尖にあらわる。豊春は野人の気象あり、    質朴にして、かたく師風を守れども、優美の風なく頗る圭角おおし。清長をもてまされりとすべきか。    然れども豊春は、よく門生を教ゆるの道に長ぜしにや、豊国のごとき、豊広のごとき、みな其の門に出    でて一時の名手と称せられ、歌川の流洋々乎として、今日なお盛んなるは、これみな豊春の功にあらず    して何ぞや、蓋し偶然にあらざるなり。