Top         浮世絵文献資料館         『浮世絵師歌川列伝』凡例
                  「三世豊国伝」                 三世豊国は、もと歌川国貞と称し、一世豊国の高弟なり。角田氏、俗称庄蔵(【一に庄三郎又庄次郎】)、    後に肖造、一雄斎、五渡亭、香蝶楼、月波楼、富望山人、桃樹園、富眺庵、北梅戸等の数号あり。武州葛    飾郡葛飾領本所五ッ目、渡船場の舟師の子なり。初より浮世絵を好み、師なくしてよく画く。十五六歳の    頃一世豊国の内に入りて学ぶ。其の始めて臨本を与えられ浄書せし時、豊国一見して筆力の非凡なるを賞    し、他日かならず出藍の誉を得べしといえり。(類考に、始めて臨本をあたえ、浄書を見て豊国もその鍛    錬におどろきしといえり云々)。幾許ならずして、師名の一字国字を称するを許され、一雄斎国貞と称す。    文化五年、式亭三馬作吃の又平大津土産名画の助太刀八冊を画き、大に行わる。これ国貞が草双紙の初筆    なりとぞ。式亭三馬が雑記に、其翌(【文化五年】)春発市、吃の又平大津土産名画の助太刀八冊(【予    が著述国貞画】)、十軒店西村源六板にて売出せしが、雷太郎にまさりて大当りなりし云々。歌川豊国門    人国貞は、吃の又平の絵ぞうし初筆なり。此時大に評よくてその翌年よりますます行われて、今一家の浮    世絵師大だて物となれり。本所五ッ目渡し場の際に住す。則わたし場のあるじなり。俗称称五郎という。    柔和温順の性質なりとあり。       按ずるに、類考に文化五年出版、時鳥相宿咄(【伊賀越】)松武作、これ国貞が初筆なり。この時二十     三歳、口絵薄墨入云々とあり。式亭三馬は吃の又平をもて、国貞が初筆 なりという。いずれが是なる     を知らざれども、雑記は類考と異なり、その当時しるせしものなれば信を措かざるを得ざるなりと雑記     に従う。又仮名垣魯文が豊国略伝に、文化の初年山東京山初作の艸紙妹背山の板下を画きしより、出藍     の誉れ世に高く云々。目録集を閲するに、この妹背山をもて初筆として可なるがごとし。されどこの略     伝は誤謬多くして、信ずるに足らざるなり。既に妹背山の草紙を京山の初作とすれど、文化三年に京山     が初作息子株身持扇五冊あり。その疎漏なること此のごとし。よりて此の説に従うこと能わざる也。因     に時鳥相宿咄の作者松武は、一に松竹藤寿亭と号し、又千歳亭と号す。山口氏、馬喰町に住す。即今の     地本問屋山口藤兵衛の先代なり。    〈国貞の初筆作品として、飯島虚心は「類考」のあげる「時鳥相宿咄」を採らず、式亭三馬の「雑記」に信をおいて「吃の又平     大津土産名画の助太刀」とする。この点について、「早稲田大学所蔵合巻集覧稿(三)」(「鏡山誉仇討」解題『近世文芸研     究と評論』所収)は、山東京山の合巻『鏡山誉仇討』(文化五年・1808刊)の序に〝画は歌川の国貞がことし目見の初瀬川〟     とあること、また鈴木重三氏の指摘するところとして〝京山子のかゞみ山をかいたが初ぶたいそれからつゞいて三馬子のども     の又平で画作とも大あたり〟(『歳男金豆蒔』京山作・国貞画・文化九(1812)年刊)という書き入れのあることから、『鏡山     誉仇討』を国貞の初筆とする。なお「早稲田大学所蔵合巻集覧稿(三)」の「鏡山誉仇討」解題は「国貞は二十三才、草双紙     に手を染めたのは、下谷車坂町の油小間物問屋万屋四郎兵衛の景物本で「文化四年丁卯極月」の序文年記をもち、師走十七・     十八日の浅草寺年の市に際して刊行された馬琴作『不老門化粧若水』が最初であろうか」とする。国文学研究資料館の「日本     古典籍総合目録」は文化五年の国貞画作品を十四点(合巻十三・読本一)をあげる。歌川国貞はこの文化五年から本格的に浮     世絵師として活動し始めたのである〉      『吃又平名画助刄』 (早稲田大学図書館・古典籍総合データーベース)
   〈この早稲田大学図書館本は出版年不明、板元も西村源六ではなく鶴屋金助とする。挿絵は国貞画であるが表紙は勝川      春亭が担当している〉         『鏡山誉仇討』 (早稲田大学図書館・古典籍総合データーベース)      これより年々草双紙を画く多し。其の双紙は大抵山東京伝、同京山、曲亭馬琴、式亭三馬、烏亭焉馬、柳    亭種彦等の戯作にして、今一々揚ぐるにいとまあらず。    同七年、国貞豊国に代りて、式亭三馬著阿古義物語のさし画を画く。この頃国貞の名いまだ高からざりし    にや、かの鶴屋の伏稟書中に、作者三馬、画工国貞両人ともに、猶不相替御贔屓御取立之程奉願上候、未    だ年齢三十前後の未熟者共に御座候間、文体てには并に画法の事等おぼろげにて、甚だ疎漏に御座候得ど    も云々とあり。    同八年三月、向両国中村屋にて、式亭三馬が書画会を催せし時、国貞はその世話役の一人となりて、豊国、    国満、京伝、京山等と共に、周旋至らざるなかりしとぞ。三馬が雑記に、辛未三月十二日、両国橋向尾上    町中村屋平吉方にて書画会、会主三馬、晴天にてその日は諸君子駕を枉(マゲ)られ、存分の盛会なりし。    前日よりの世話役、中ばし槙町歌川豊国、同居国満、本所五ッ目同国貞、京橋銀座山東京伝、中橋槙同京    山、(中略)絵の具一式国貞子より賜物門人二人にて絵の具をときたる故事をかかずとあり。    類考別本に、国貞は文化七八年の頃より、東錦画を画きて、発行せるよしいえり。其絵は俳優の似貌画に    して、最も中村歌右衛門の似顔を画くに長ぜり。歌右衛門は加賀屋と称し、梅玉と号す。大阪の人なり。    此頃歌右衛門大阪より来り、梅若狂言猿廻し堀川の段、および富ヶ岡恋山開出村玉屋の狂言を演じて、大    に世の喝采を得たり。国貞これを画きて亦(マタ)大に賞せらる。(【類考別本に国貞が似顔画始めての板元    は西村与八なりと】)。又この歌右衛門が猿廻し与次郎の画、大に時好に称(カナ)いたるをもて、当時国貞    はこれを団扇に画きて発行せり、これより年々俳優似貌画を出板する事夥し。       按ずるに、類考に役者似貌画は師豊国にまさりて、俳優の故実を正し云々とあり。従来 俳優似貌画は、     一世豊国の所長にして自ら似顔絵師と称せしが、国貞その画法を伝えていよいよ精妙の域にいたる。他     人の企て及ぶ所にあらざるなり。        同十三年、柳亭種彦作正本製楽屋続絵(【初編六冊】)を画きて大に行わる。作者部類種彦の條に、文化    丙子の新板正本製という合巻物(歌川国貞画、西村与八板)時好に叶い、数編相続て出でたり。この合巻、    文を少くして画を旨とす。其画精妙文にまされりといえり。         按ずるに、此の正本製は毎年外題をかえ、情郎情婦のことを編(ツヅ)りしものにて、当時盛におこなわ     れしものと見えて、年々続出して十二編の多きに至り、天保二年に終わる。初篇は六冊阿仲清七、二篇     は六冊正本製後日絵双紙小いな半兵衛、三編九冊は当世積雪白標紙二代源氏時代物、四編六冊は正本製     余興七役双紙一名貌見世物語おきく幸助、五編三冊は正本製難波家土産二ッ蝶々、六編より以下外題同     名にして、七八九編に至る毎編六冊おそめ久松、十十一十二編は毎編四冊夕霧伊左衛門花咲綱五郎を綴     りたるなり。冊数すべて六十七冊、これ合巻続物の権輿(ケンヨ)というべし。        文政八年、一世歌川豊国没す。国貞深くこれを悼み、追善の為めに師の肖像を画き、みずから賛をなして    これを発行せり。事は一世豊国の伝に詳なり。豊国の世に行わるるや、国貞もまた行わる。よりて大に誇    れる色あるがごとし。合巻絵双紙の結尾における落款のごとき、師豊国にならいて、己の名を作者の上に    署して発行するに至れり。又俳優似貌画は戯場の興行ごとにかならず、五六板を発行して、皆世に賞せら    る。実に俳優似貌画に至りては、豊国の没後他に肩をならぶるものなかりし。    同十二年、柳亭種彦作偐紫田舎源氏の初篇を画く。これより編を次ぎ年々刊行して、天保十三年三十八編    に至りて終る。鶴屋喜右衛門の板なり。作者部類種彦の條に、文政十二年の春の新板田舎源氏という合巻    冊子、世上噪(サワ)がしきまに行われたり。これ画は国貞にて、其絵ますます妙なればなり。既に数編に及    べり(組二十丁合巻二冊と一編とす)是をもて当今草双紙の巨擘(キョハク)とせらる。其身に於ても自負甚し    というとあり。          按ずるに、偐紫田舎源氏は、種彦が一世の絶作にして、国貞が最も世人の賞誉を得たる所の双紙なり。     二篇三篇は文政十三年、四篇五篇は天保二年六七篇は同三年、八九十篇は同四年、十一十二十三篇は同     五年、十四十五十六十七篇は同六年、十八十九二十篇は同七年、二十一二十二二十三二十四篇は同八年、     廿五廿六廿七は同九年、廿八廿九三十 三十一は同十年、三十二三十三三十四は同十一年、三十五三十     六三十七は同十二年、三十八篇は同十三年に画きたり。此に至り幕府その発行を禁止せり。続太平年表     天保十三年十月十六日の條に、寺門五郎左衛門(号静軒、江戸繁昌記作者)、柳亭種彦(小説田舎源氏     作者)、為永春水(南仙笑杣人二世、人情本作者)、右三人当時の人情を穿ち、風俗に拘り候間、以来     右様の戯作被為停止旨叱り(但板木取上焼捨とあり)        同十四年、山東京山作小野小町浮世源氏絵、初篇二篇三篇四篇五篇と画く。後天保五年に至り、六篇を画    き、それより年々嗣出して、同九年十三篇に至りて終わる。板元は森屋治兵衛也。          按ずるに、浮世源氏は、七篇八篇は天保六年、九十十一篇は同七年に発行せり。この双紙一時大に行わ     れたれども、田舎源氏のごとく盛ならざりしをもて、十三篇に至りて終る。十三篇は歌川国貞の筆也。        天保二三年の頃、国貞英一蝶の画風を慕い、終にその裔*一珪の門に入りて学び、一螮と称し香蝶楼と号    す。香蝶楼は蓋し一蝶の名の信香の香字と、一蝶の蝶字をとりて号とせしものならん。     *天保十三年板江戸現在交益諸家人名録二篇に、一珪名は信重、北窓翁四世の孫、本所柳島、英一珪と      あり。(【此の註「小日本」にはなし】)          按ずるに、英一珪は、一蝶の後にして、名は信重一川の男なり。画法を父に学び本所柳しまに住す(後     に本所林町辺に住せしともいう)。天保十四年十一月没す、年九十六、辞世の句に、百まではなんでも     ないと思ひしに、九十六ではあまり早死     又按ずるに、国貞、一蝶の風を学びたれども、其の風少しも筆に入らざるが如し。されど一珪に就き学     びたる頃の草筆の墨画、頗る見るに足るものあり。恰(アタカモ)別人の筆の如し。豊原氏曰く、余が師英一     珪の門に入りし年月詳ならざれども、田舎源氏の七八篇を画きし頃なる由聞き及べり。七八篇を画きし     は天保二三年の頃也。        同四年、墨川亭雪麿作忠臣蔵替り伊呂波初篇二篇を画く。これより年々嗣出して、同十三年九篇に至りて    終る。板元は蔦吉也。         按ずるに、替り伊呂波は、天保六年に三篇、同七年に四篇、同九年に五篇、同十年に六篇、同十一年に     七篇、同十二年に八篇、同十三年に九篇を発行して止む。毎篇四冊也。       (墨川亭雪麿の略伝あり、略)      同五年、山東京伝作昔模様娘評判記の初へんを画く。これ又年々に嗣出して、同十三年六篇に至りて終る。    板元は和泉屋市兵衛也。         按ずるに、娘評判記の初篇は、阿半長右衛門のことを綴り、二篇は阿七吉三天保七年の出版、三篇は阿     駒才三同八年の出板、四篇に至り外題をかえて今昔娘評判記とし阿染久松同十年の出板、五篇は古今彦     惣同十一年の出板、六篇は阿菊幸助同十三年の出版にて終わる。毎篇六冊なり。        同九年五月の風聞書に(古画備考載する所)、当時役者画かき候画師、此両人計(バカリ)に候。其の内にも    国貞一人と可申、其子細は国芳の画は人物せい高くさみしく、国貞が画は幅ありて賑やかに候。且画もよ    き故に此画ばかり売れ候て、国芳の役者画は一向売れ不申候。但し武者画は至て巧者にて、画料国貞より    半分下直(シタネ)に候えども捌けかね候。国貞五ッ目渡場の株を持ち、五渡亭と号し五ッ目に住候。遠方よ    り絵双紙屋不断来候由。国芳は既に豊国になるべき事候えども、故ありて不申由。同国安と申は国貞につ    づきて役者絵よく画き候が、一昨年相果申候。国芳は職人風にて細帯をしめ仕事師のごとし。国貞は人が    らよく、常に一腰さして出候由とあり。    〈『古画備考』は「天保九年五月十四日聞」として上記記事を載せるが、歌川国安を「一昨年相果候」と記している。そうする     と天保七年の死亡となるが、『馬琴日記』は天保三年とする〉       按ずるに、当時豊国の後を継ぐものは国貞ならんといい、又国芳ならんといい世評甚だ噪がしかりしこ     とは、此の風聞書を見て知るべし。     又按するに一世豊国の没するや、門人豊重後を継ぎ、二世豊国と称えしが、家を出でて再び歌川豊重と     称せしことは、一世豊国の伝にしるせしが、其の家を出でし年月詳ならず。今此風聞書によりて見れば、     天保九年已前(イゼン)なること明かなり。        此の年山東京伝作(梅若松若)竹取物語の初篇二篇を画く。これまた追次出板して同十三年八篇に至りて    終る。         按ずるに竹取物語三篇は天保十年、四篇は同十一年、五篇六篇は同十二年、七篇八篇は同十三年の出板     にして、毎篇四冊、板元は森屋治兵衛なり。        同十年、山東京山作大晦日曙双紙の初篇二篇を画く。これまた追次に出版し、同十三年八篇に至りて終わ    る。又莞津喜(ニツキ)笑顔作児雷也豪傑譚の初篇を画く。これまた嗣出して慶応二年四十四篇に至りて終る。         按ずるに、曙双紙三篇四篇は天保十一年、五篇六篇は同十二年、七篇八篇は同十三年の出版なり。毎篇     四冊にして板元はつた喜なり。又児雷也譚は天保十二年二篇三篇、弘化三年五篇六篇七篇、嘉永元年八     九篇、同二年十十一篇、同三年十二篇を出だし、著者代りて柳亭種員となり、同年十三十四篇を出版せ     り。同四年十五十六篇に至りて国貞は筆を止めたり。十七篇已下は国輝、国盛、二世国貞、国芳、芳幾、     清種等の画く所なり。板元は和泉屋市兵衛。        すべて国貞が此の頃の絵双紙は、極めて緻密にして、彫刻頗る佳なり。又東錦絵の類は愈(イヨイヨ)精巧にし    て、彩色極めて華麗也。         按ずるに、目録集に天保年間、伊賀屋板鶴屋南北作の大都会俳優水滸伝五冊は、国貞の筆にして細画な     り。又天保七年板市川三升作(花笠文京代作)裏表忠臣蔵、初篇より三篇に至る十二冊の画、これ又細     密なる由いえり。        同十三年、幕府政事を改革して奢侈を禁じ節倹を行う。六月町触(マチブレ)を出だして曰く、錦画と唱え歌    舞伎役者、遊女、芸者等は、一枚摺に致候儀、風俗にかかわり候に付、以来開板は勿論、是まで仕入置候    分とも決して売買致間敷(マジク)候。其外近来合巻と唱え候草紙の類、絵柄格別入組、重に役者の似貌、狂    言の趣向等書綴、其上表紙上包等へ彩色を用、無益之儀へ手数を掛、高直(タカネ)に売出し候段、如何之儀    に付、是又仕入置候分共、決して売買致間敷候。向後似貌又は狂言の趣向相止め、忠孝貞節等を見立に致    し、児女勧善の為に相成候様書綴、画柄は際立(キワダチ)候程省略致し、無用の手数不相掛様急度(キツト)相改、    尤も表紙上包等の彩色相用候儀、堅く可為無用候。尤も新板出来之節は、町年寄へ差出し改めを請可申候。    但三枚続より上の続絵、好色本等の類、別て売買致間敷候。    此の町触は、実に浮世絵師の大厄難にして、当時皆筆を握りて唖然。為す所を知らざりしと。されど止む    べきにあらざれば絵柄を撰び、彩色を省き藍或は墨一遍摺の錦絵を画きて板行せり。これよりさき国貞は、    芳町の若衆および深川、品川、四ッ谷新宿、千住、根津、弁天、松井町、新地、常盤町、阿旅、谷中、三    田、三角等、各所の娼妓を画き、細々その風俗の異なる所を写して出版せしが大に行れ、人皆嘆賞して風    俗美人画の名人といへり。(古老の説に昔江戸各所に、娼妓を置きしものは、古来行われ来りし男色の弊    風を矯めんが為めなりと。蓋し然らん。)此の町触の発するにおよびて、国貞は嘗(カツテ)嘆賞せられし、    己が妙技をあらわすこと能わず。殊に己が長所として自ら許す所の俳優似貌画を画くこと能わず。恰も手    鎖の刑に処せられたるもののごとし。豈(アニ)憐むべきにあらずや。同年十一年にいたり、又町触あり曰く、    錦絵、三枚より余り候錦絵停止、但彩色七八遍摺限り、値段壱枚十六文已上之品無用、団扇絵同断、女絵    は上人、中人、堅く無用、幼女に限り可申事。東海道絵図并(ナラビ)に八景十二景六歌仙七賢人の類は、三    枚ズツ別に繕之、或上中下天地人などに記して、三枚ズツ追々摺出し可申分無構、勿論好色之絵可為無用    候。これより浮世絵師は、皆競いて東海道、または木曾街道、八景、十二景、など画き出だし、国貞は広    重国芳と合筆にて、東海道五十三次を出だし、又江戸の料理店を見立てたる風俗画を出したり。    弘化元年の夏、国貞師名を継ぎ、二世豊国と称す。実は三世なり。          按ずるに、国貞が師名を継ぎし事、仮名垣氏の略伝に、弘化二子年とあるは誤りなり。     同三年板小三馬作戯作花赤本世界に、歌川国貞ぬしおととしの夏、豊国と改名致されました云々、とあ     れば弘化元年の夏なる事明(アキラカ)也。     按ずるに三世豊国、何の故に二世を称せしにや詳ならず。彼は自ら二世と称すといえども、既に二世豊     国あれば、三世にあらずや。かの柳島妙見にある一世豊国が筆塚の裏面に、二代目豊国社中、国富、国     朝、国久云々。国貞社中、貞虎、貞房、貞秀云々、と刻しあることは、世人のよく知る所にして、蔽う     べからざる明証なり。然るに二世というをもて、当時世評甚(ハナハダ)噪しかりしなり。或人の狂歌に、     歌川をうたがはしくも名のり得て、二世の豊国にせのとよくに。一説に国貞嘗て、二世豊国の妻と通じ     て二世と追い出せりというは妄説なり。国貞は生来謹慎にして、此のごとき悪行をなす人にあらず。し     かして其の師名を継ぎしは、実に師恩をおもうの真心に出でたるものにして、蓋し師家の既に絶えなん     とするを悲み、永く師の墳墓を弔わん為めなるべし。されば己の墳墓は、亀井戸にあれど遺言によりて、     己の法号を三田功雲寺なる一世豊国の墓に刻ましめ、寄附金などして懇ろにあと弔いてあり。弘化三年     板戯作花赤本世界の巻頭に、小三馬および豊国其門人等の肖像を載せて口上書あり。(上略)当年の新     板何がなと、蔦吉主人の註文にはござりますれど、私事も此両三年俗用に追われ相休みおり、拙きうえ     に猶筆まわらず、新工夫などなかなか及ばぬ事と、たって辞退いたしましたる処、画工豊国ぬしの度々     のすすめ、(中略)さてわけて申上まするは、おなじみ歌川国貞ぬし、おととしの夏豊国と改名致され     ました。当人先師の名を汚し候事をいとい、種々辞退致されたる所、先師の画名なもなき末弟などにつ     がれんより、高弟なりみょうせき相続あらば、先師へ孝養ともなり、かたがた然るべき道なりと、歌川     社中豊国一族より合、たってすすみに、豊国と改名致されました。高名の自身、名をあらためほどふり     し先師の名を継ぐこと、実に師を敬うまごころと感じ入り、当人のためのみにはなく候えども、其実義     をかんしんのあまり、ついでながら此段申上奉り升(マス)。又うしろにひかえおりまするは、二代豊国門     人、国政、国麿、国道、国明、にござり升。此処にて御目見え致させまする。絵双紙はつ舞台のせつは、     御評判よろしく(下略)とあり。この口上書は、実に国貞が師名をつぎし顛末をしるに足るものなり。     一説に国貞師名を継ぎしが、世評甚だよろしからず、よりて小三馬をして、此双紙を作らしめ、巻頭に     口上書を掲げて、世評を消滅せんとす。拙手段というべしと。鑿説なるべし。     按ずるに、三世豊国が二世と称せしことは、蓋(ケダシ)別に深き意味あるにあらず。只二世の下に立つこ     とをいといたるものの如し。おのれの技術もとより二世の上に出ずるをもて、強いて二世を廃し、自ら     二世と称せしなり。しかして流系相続の変換すべからざるを知らざるなり。当時識者のこれを笑う亦宜     (ムベ)ならずや(【按ずるに、三世豊国が以下「小日本」になし】)         同二年、豊国俗称を改めて肖造と称す。一説に肖造の造は像に通わせて、肖像絵師、即似貌画師という意    なるべしと。或は然らん。此の頃かの町触の禁令漸く弛(ユル)びたり。ここに於きて豊国、俳優似貌に見立    (ミタテ)たる東海道五十三次の錦絵を、かき出だせしが大に世に行わる。かの岡崎駅中村歌右衛門の見立政    右衛門の如きは、来づ七千枚をすりたてたりとぞ。板本伊勢兼はこれを祝して、豊国および画工等を招き、    盛なる祝筵を開きたり。此の如く売れたる錦絵は、古来未だ聞かざる所なり。よく売れたりとて大抵三四    千枚に過ぎざるものなり(守川周重氏の話)。既に此のごとく俳優似貌は画きたれども、其の画中に俳優    の名を署することは猶許されざりし。        「東海道五十三次の内 岡崎駅 政右衛門」(山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム 浮世絵)       按ずるに、俳優似貌画に俳優の名を署することは、其の後猶久しく禁止ぜられてあり。しかして其の署     することを許されし年月、今詳ならざれども、文久二三年の頃かと覚ゆ。        此の年万亭応賀作、釈迦八相倭文庫の初編を画く。この双紙年々に嗣出して、明治四年五十八篇に至りて    終る。板元は常州屋金蔵也。         按ずるに、倭文庫は弘化三年に二篇三篇四篇、同四年に五篇六篇七篇、同五年に八九十篇、嘉永二年に     十一十二十三篇、同三年に十四十五十六十七篇、同四年に十八十九廿廿一篇、同五年廿二廿三篇、同六     年廿四篇に至りて豊国は筆を止む。以下は代りて二世国貞の筆なり。この年廿五篇、同六年廿六篇、同     七年廿七廿八廿九篇、同八年三十三十一三十二三十三篇、安政三年三十四三十五三十六三十七篇、同五     年三十八三十九篇、同六年四十四十一四十二篇、同七年四十三四十四四十五篇、万延二年四十六四十七     四十八篇、文久二年四十九五十、同三年五十一篇、同四年五十二五十三篇、慶応二年六十四篇に至り事     故あり、国貞は其上巻を画き、下巻は*河鍋狂斎画きたり。五十五篇より又国貞の筆にして、同三年五     十六篇、同四年五十七篇、明治四年五十八篇を発行して終る。      *河鍋狂斎の画きしは五十三篇也(此の註「小日本」にはなし)。     按ずるに、万亭応賀は、服部氏、旧幕の士、浅草三筋町に住す。老実なる人にして、一見小説家とはお     もわれず。明治十五六年ころ没す。年七十余。        同三年門人国政に、一女をあわせて国貞の名を与え、亀井戸の宅を譲りて家をつがしめ、己れは隠居して    柳島に地を買い移住せり。其の地は天神川を東にし、居宅の構造頗る美麗なりし高楼なり。西南に面し眺    望絶佳、遙に芙蓉峰をのぞむべし。よりて富望山人の号あり。山東京山嘗て過ぎて富眺庵の号をおくりた    りとぞ。又倉庫などもありて自富有の相ありし。         按ずるに、国政が国貞の名を譲られし年月は詳ならねども、かの赤本世界に門人国政云々とありて、国     貞の名なきをもて考うれば、弘化三年の春より以前にあらざること明らかなり。よりて今豊国が柳島移     住の時とする也。猶後考を俟つ。        嘉永二年、柳亭種員作白縫譚の初篇二篇三篇を画く。これより年々嗣出し、明治十三年七十二篇に至りて    終る。板元は藤岡屋慶次郎なり。         按ずるに、白縫譚は、嘉永三年に四篇五篇、同四年に六篇、同五年に七篇八篇を発行し、豊国は筆を止     め、代りて国貞九篇十篇、同六年十一十二十三十四篇、同七年十五十六十七篇、同八年十八篇、安政二     年十九二十廿一篇、同三年二十二篇、同四年廿三廿四廿五篇、同五年廿六篇、同六年廿七篇、同七年廿     八廿九篇に至り著者代りて二世柳亭種彦三十三十一篇、同八年三十二三十三三十四篇、文久二年三十五     三十六篇、同三年三十七三十八篇に至り、国貞筆を止め代りて芳幾三十九四十四十一篇、元治元年四十     二四十三四十四篇、慶応元年四十五四十六四十七篇、同三年五十二五十三五十四五十五篇、明治元年五     十六五十七五十八篇、同二年五十九篇、同三年六十篇、同四年六十一篇、同八年六十二篇、同十一年芳     幾に代りて小林氏六十三六十四篇を画き、周重代りて六十五六十六篇、同十二年六十七篇を画き、種清     代りて六十八六十九篇を画き、同十三年周延代りて七十一七十二篇を画きて終る。著者二人画工七人。         安政二年五月、両国中村楼に於きて、豊国一世一代の書画会を催せり。頗る盛会なりしと。其の時の報條    に、老拙今年七十歳を迎え云々、此会一世一代と聞てまたまた、八十も九十も百も祝ひせよ、客は仙人万    歳の春、と賀して五十余年の友、京山、八十七歳、板下の筆をとりて、乙卯五月吉日とあり。         按ずるに、豊国が書画会を催せしは、前後*只一回のみなりと。当時書画会盛に行われ、画工中には年     々催せし人も有たる也。      *文化戊寅夏、歌川国貞両国柳橋万八楼に於て書画会を催せり。此時の同席は市川三升、尾上梅幸、       烏亭焉馬、山東京山、式亭三馬、等おりし。其時の摺物清水氏所蔵せり。(此の註「小日本」には       なし)        文久二年、豊国七十七歳、柳島の自宅におきて喜の字の祝宴を催したり。この時の絶筆なりとて俳優の似    貌を画き出板せり。其の画に小文および俳句を載せてあり。曰く、年頃の願いも漸く時至りて、今度諸君    の許あれば筆をとどめて、老の身のしばし月光を詠めんことのうれしさに、入相の鐘きくあひの花見かな。    七十七翁豊国。          豊原氏曰く、豊国が喜字の宴会を催せし頃は、既に貯蓄金もありて生計頗るゆたかなりしと。        元治元年十二月十五日没す。年七十九、亀井戸村の天台宗光明寺に葬る。法名豊国院貞匠画僊居士。二世    国貞追善のため、師の肖像を画きて発行し、辞世の歌を載す。一向に弥陀へまかせし気のやすさ、たゞ何    事も南無阿弥陀仏。又句あり、命毛のきれてことしの別れかな。又門人国周、戯作者仮名垣魯文と謀りて、    師の肖像を画き、略伝をしるして出板せり。その伝に曰く、東都の浮世絵師、古今絶世の名工、二世歌川    豊国翁は、前一陽斎豊国先生の門人にして、初号一雄斎国貞といい、俗称角田庄蔵という。本所五ッ目の    産にして、天明六丙午の出生なり。幼稚の頃より、深く浮世絵を好み、師なくして俳優の似貌を画けり。    その父傍にこれを閲して其器をさとり、前豊国の門人とす。豊国始めて臨本を与えしとき、浄書を一見し    て大に驚き、此童の後年推し量るとて、称誉大抵ならざりしとぞ。文化初年山東京山、初作の双紙妹背山    の板下を画きしより、出藍の誉れ世に高く、是より年々発市せる。力士、俳優の似貌、傾城、歌舞伎の姿    絵、および団扇、合巻の板下、大に行われ画風おさおさ師におとらず、此頃は居所五ッ目なる渡船の株式    其家にあるをもて、蜀山先生五渡亭の号をおくらる。後亀戸町に居を移して、香蝶楼北梅戸と号し、且(カ    ツ)家の中より富岳の眺望佳景なりとて富望山人と号し、京山富眺庵の号をおくれり。翁国貞たりし壮年よ    り、先師の骨法を学び得て、別に一家の筆意をきわめ、傍に一蝶嵩谷が画風を慕い、懇望の余天保四癸巳    年、嵩谷の画裔高嵩凌の門に入りて、英一螮と別号す。此頃より雷名都鄙遠近に普(アマネ)く、牧童馬夫に    至るまで、浮世絵といえば国貞に限れりとおもい、斗筲(トシヨウ)の画者を五指にかぞえず。故に錦絵合巻の    梓客、門下服従して筆跡を乞うもの群をなせり。中興喜多川歌麿が板下世に行われしも、九牛が一牛にし    て、比競するに足らざるべし。近世錦画合巻の表題精巧を尽し、東都名産の第一たるは全く此人の功にし    て、前に古人なく、後に来者なき、実に浮世絵の巨擘というべし。于時弘化二子年、師名を相続して二世    豊国と改め、薙髪して逍造と称す。嘉永五壬子年門人国政に一女を嫁せて養子となし、国貞の名前および    亀井戸の居を譲りて、其身は翌年柳島に隠居して細画の筆を採らずといえども、筆勢艶容いよいよ備り、    老て益壮なり。近来は専ら役者似貌に密なる癖をかきたり。精神頗る画中にこもり、其人をして目前に見    るが如し、清女が枕の双紙にいえる云々、(中略)其中に当時発市の俳優似貌画の半身、大首の大錦画、    今百五十余番におよび、近きに満尾に至らんとす。こは翁が丹精をこらし画きたりしものにて、百年已来    高名の大立者を、一列にあつめて、見物す心地ぞせらる。嗚呼(アア)翁の筆、絶妙絶倫にして、神に通ぜし    ゆえ、普く世人の渇望せるも宜哉。惜むべし当月中旬常なき風に柳葉ちりて、蝶の香りを世にとどむ。た    だかりそめの病気とおもいしことも画餅となりし、錦昇堂に悼に代りて、知己の別をかこつものは、遊行    道人鈍阿弥なり、水茎のあとはとめても年波も、よせてはかへらぬ名残とぞなる。戯作者仮名垣魯文。    〈この仮名垣魯文の手になる「略伝」は「浮世絵師歌川雑記」p223にも掲載されている。本HPでは『浮世絵師歌川列     伝』の「か」行「豊国三代」に収録〉       按ずるに、この略伝行文頗(スコブ)る解しがたき所おおし。且事実の誤謬また尠なからず。仮名垣氏はも     と戯作者にして、事実の如何は知らずといえる一見識ある人なれば、深く責むるに足らざるなり。され     ど後人或はこの伝を読み、事実とせんをおそるるなり。よりて此に其の誤りを正す事左の如し。     天保四年巳年、嵩谷の画裔高嵩凌の門に入るというは誤りなり。英一珪の門に入りたることは前に述る     がごとし。且高氏に嵩嵺という人あれど嵩凌なし。     嘉永五壬子年、門人国政に一女を嫁せて、養子となし、国貞の名および亀戸の店を譲り、翌年柳島に隠     居し、肖造と号す云々は誤りなり。類考に弘化二巳年薙髪して肖造と号す、翌年柳島にへ移住なし、婿     国貞に亀井戸の居を譲れりとあるを正とすべし。         明治廿六年十一月、豊斎国貞(三世)、豊原国周等と謀りて、追善の為に一碑を亀井戸天神社の傍に建て    たり。碑面二世豊国および、三世豊国(【実は四世】)の肖像を彫りてあり。傍に、幹はみな老をわすれ    て梅の花、楳堂とあり。裏に三世香蝶楼国貞建之と記せり。三世豊国の人となり温順にして、且謹慎なり。    されど壮年の頃は、専ら幇間俳優などと交り、茶番狂言など最も得意にし、左の腕には先妻の名をほりつ    けてありし。天保四五年の頃より、更に品行をあらため、常に言語動作に注意して、漫(ミダリ)に人に接す    るを好まず。朝飯を喫すれば直に、絵画に従事し終日あくことなきが如し。    三世豊国が画きし絵本類は、役者夏の富士(【彩色摺】)、役者見立五十三次(同)、戯場顕微鏡(同)、    の類、又読本は馬琴作の侠客伝、同作の玉石童子訓、京山作の小桜姫風月奇観、徳升作の三都俳優水滸伝、    同作の芝居細見、焉馬作の芝居細見(【常磐津浄るり挿画】)、馬琴作の里見八犬伝の類にして、合巻画    双紙の類を画く最も多し。又にしき絵は俳優似貌画の外、その著明なるは源氏画なり。よく宮殿深閨のさ    まを写し出だして、品格賤しからず。図をかえ出板せしこと前後四五回に至れり。一枚画二枚つづき、三    枚続等なり。其の中二枚つづき*最も行れたり。又秘戯の図を画くおおし。中に就き晩年の田舎源氏、最    も精細にして且華麗なり。彩色摺五十有余遍の多きに至り、螺鈿など箝入してあり。これ彩色摺の極美な    るものなり。      *江戸名所百人美女東都高名会席尽、当世好男子伝(九枚)、忠臣蔵絵兄弟(小―二)、暦中段づく       し(風俗画十二枚)、古今今様色紙合(六枚)、擬絵当合(十)、見立三十六句撰、豊国漫画、三       組盃当世自筆鏡、役者見立東海道五十三次、豊国揮毫奇術鏡。(此の註、「小日本」にはなし)        聞く歌川家の画法を子弟に教ゆるや、先ず直線曲線円形橢円形等を学ばしめ、しかして衣服器具等の模様    を画かしむ。模様やや熟すれば彩色に従事せしめ、彩色熟して後に始めて人物を画かしむ。人物熟して後    に卒業す。その間大抵三年或は四年にして、師名の一字(【即国字】)を称するを許さる。これを名取と    いう。其の人物を画くに、みな刻出しの法を用いて、これを画く仮令(タトエ)ば面相を画くに左の如し    (【此の図「小日本」より】)         (*「刻出しの法」の具体例あり、略)        抑この教授法は、即西洋画を学ぶの法にして、筆尖の活動を専らとせざるもののごとし。これ他家の画法    と異なる所以なり。    織田氏曰く、余が父始め狩野家の画法を学びしが、後に浮世絵を志し、三世豊国を招きて画法を学びたり    しが、その浄書して刪正を乞う時は、豊国一見して一と細工して見るべしといい、筆を加えたりき。常に    自画をかくと言わずして、画を細工すといえりと。    関根氏曰く、余が下谷に住せし頃、豊国二人の門弟を従え年礼に来りしことありしが、其の人品賤しから    ざるのみならず衣服なども頗る美麗なりしかば近隣の人々は皆指さして、何(イズ)れの大家の旦那ならん    と評せし由。*      *文化八年板式亭三馬が戯作者腹の内に、京橋は元よりおとなしく、槙町はさけをやめたし、本所は       まじめ也云々、とあり、京橋は京伝をさし、槙町は一世豊国をさしていい、本所は国貞をさしてい       えるなり。文化八年は国貞が廿六歳の時也。されば性来まじめにておとなしき人なりしならん。       (此の註「小日本」になし)        織田氏曰く、豊国は酒を飲みしが、深く嗜まず。菓子も食いたれど、これ又深く嗜まざりし。唯向両国に    洲崎屋といえる鰻店ありしが、日々鰻をやかせてこれを嗜み食いたり。    又曰く、豊国の晩年常に質素にして、絵画を事とせしゆえ画料積みて山のごとく、貯金も少からざりし由。    唯衣服は頗る美麗なるを撰びて着したり。    守川氏曰く、豊国晩年は常に楼居して家を出でず。その交際甚だひろからず。俳優および狂言作者などは    常に来りしが、当時有名なる文人墨客などは来らざりし。俳優市川団十郎は年来の知己と見えて頗(スコブ    ル)親しかりし。    又曰く、豊国は旅行せしこと甚稀なり。一度大阪に至りたれど幾許ならずして、江戸に帰れり。大阪にて    画きたる錦画ありと。    或人曰く、豊国は初め五ッ目に住し、後に亀井戸天神前に住し、柳島に移転して、江戸に住みしことなし、    本所のみにて一生をおくれり。         按ずるに、三世豊国が木曾街道六十九駅を、俳優に見立てて画きたる錦画は、人物半身にして、その背     後に駅々の景色を、うき画にして見せたるは可なれども、豊国いまだ木曾路を知らざるをもて、木曾山     中の嶮を平遠の山水に画きたるは笑うべし。浪速の人速水春暁斎、嘗(カツテ)蕙斎政美が東海等名所図絵     により、絵本忠臣蔵のさし画を画き、江戸を向になし、品川を手前にして、義士品川より高輪に至るの     図を画き、識者の笑を招きしこと、類考に見えたり。此木曾街道の錦画、また春暁斎が忠臣蔵と同日の     論なり。     中根氏曰く、豊国嘗て亀戸菅廟門前に住す、曾(たまたま)人の託を受け、婦人賊に遇うの図を製す、     意匠未だ動かず、一夕外出し、久しく返らず、其婦坐して俟つ。夜将に参半ならんとす、盗有り戸を排     して入る、婦䠖跙狼狽、為す所を知らず。既にして盗面を露わし、徐に曰く、懼るる勿れ懼るる勿れ、     婦廻睇之を視れば、即ち其の夫なり。復た驚きて泣く、明に至り、豊国遂に図を作りて之を遣る、図様     巧妙、其人大に懌び、厚く瓊瑶の報を作す。蓋し古人、心を用うるの極、往々此の若き者有り、然れど     も此れ所謂、一無るべからざるに二有るべからざるの事なり。     豊原氏曰く、此の一話久しく人々に膾炙すといえども疑うべし。如何となれば、三世豊国は、もと謹慎     の人なれば、たとい画道用意の極に至るも、此の如き事をなすの理あるべからず。これに反し一世豊国     は、或は此の如き所行ありしか知るべからず。蓋しこの一話は誤伝なるべし。     〈中根氏曰く云々の挿話は、中根淑著『香亭雅談』下巻に出ている。本HP歌川国貞の項、明治十九年記事を参照のこと〉        豊国の妻、その名詳ならず。茅場町の茶亭某の娘なりしが、さきたちて死せり。年月詳ならずかの豊国の    左腕に彫りてありし妻の名というは、即この娘の名なりとぞ。後妻は名は阿粂、新吉原の芸妓なり。一に    娼妓というは非なり。豊国の薙髪せるや、共に薙髪して傍にあり。其の没するや仏門に入り、婿国貞、即    ち四世(【自称三世】)豊国の家にありて死せしが、明治十七八年の頃なりしと。    四世豊国は、もと国政と称し、又国貞と称す。亀井戸辺の農家の子なり。幼より豊国に就きて浮世画を学    び、終(ツイ)に国貞の名を譲られ、家を継ぐ豊国の没するや、三世豊国と称す。実は四世なり。明治十三年    七月没す。錦画及び絵双紙など画きたれど行われず。    豊国三女なり、皆後妻の生む所なり。男子なし。よりて門人国政を養い子となし、国貞の名を譲り、一女    名は阿鈴を嫁わせて家と継がしむ。一女は門人国久に嫁し、発狂して死し、一女は早世なり。門人おおし。    貞虎、貞秀、国政、国周、の徒その名最もあらわる。貞秀は橋本氏、俗称兼次郎、玉蘭斎、また五雲亭と    号す。絵本画双紙のるい、風俗画および山水花鳥等を画くおおし。頗る画道に熱心なりしが行われず。没    年詳ならず。松田氏いわく、貞秀は、他の浮世絵師とことなり、よく書画会に出でて席画をかきたりと。    (「小日本」───依田氏嘗て貞秀の事を記して曰く、(上略)学友何某が知る人に、歌川貞秀という者    あり。其号を玉蘭斎という。一陽斎豊国の門人にして、世にいう浮世絵というものを画けり。一日何某を    伴い、貞秀が本所亀戸村の草庵を訪いしに、其の家は亀戸天神の前にありて、膝を容るるばかりの狭き住    居なり。流石に庭の草木なども、程よく栽なして、主人は窓の下に画をかきて居たりしが、余等が来りし    をみて、筆をとどめて物語す。其頃は西洋画というものは、世に多からざりしが、貞秀は、いかがして蓄    (タクワエ)けん、帖に作りたる洋画を多く出して、余等に示し、且いえらく、和漢の書を多く見たれども、洋    画ほど世に妙なるものはあらじ。文雅学士の画は、委(クワ)しくは知り侍らねど、和漢の俗画、多くは一種    の偽体ありて、すべて画を見る人の為にのみ、前面を画き、其の人物山川の向背に心を附るものなし。殊    に我国の俗画は、皆戯場俳優の所為をのみ旨とし画くをもて、婦女の形容に至りても、多く戯場の身振と    いうことを写して、尋常居動には、あるべきようもなき形のみ多し、戦闘の状に至りては、其弊甚しく、    英雄豪傑、奮勇苦戦の形状をして、俳優戯子の所為と異なることなからしむ。実に笑うべく、嘆ずべきの    至りなり。(下略)洋々社談に出ず)。    国周は荒川氏、また豊原氏と号す。よく俳優の似顔を画く。その門人に国松(【二世豊国門人国鶴の子也】)、    周延(【楊洲】と称す)、周重、あり今皆行わる。    無名氏いわく、三世豊国は俳優似貌画の名手なり。一世豊国といえどもあるいは及ばざるところあるが如    し。画品賤しからずして、よく時好に投ぜり。されど風俗美人画にいたりては、古人に及ばざること遠し。    かの江戸名所娼妓の画、および源氏画等は、さいわいにして世人の喝采を得たりといえども、其の実はた    だ彩色の華美なるのみにして、人物の骨相、および挙動等生気なきに似たり。玉蘭斎貞秀いわく、我が国    の俗画はみな、戯場俳優の所為をのみ旨として画くをもて、婦女の形容に至りても、おおく戯場の身振と    いうことを写して、尋常挙動にはあるべきようもなき形のみおおしと。豊国の風俗美人画またこの弊をま    ぬかれざるなり。唯(タダ)此の弊を免かれざるのみならず、更に目を拭い注視すれば、豊国は土佐狩野を    本とせずして、みだりに西洋画に拠り、割出し寸法を専らとし、筆勢の如何をかえりみざるもののごとし。    其の生動のいきおいなきもまた宜ならずや。豊国また此等の弊をしるゆえに、みずから似貌画師と称し、    他の浮世画師と異なるを表し、似貌の専門なることを明らかにせり。しかして風俗美人画の古人に及ばざ    るは、自期するところなり。嗚呼豊国は真の似貌画師なる哉。    式亭三馬が略伝中に、文政九戌年刻成なる梅精寄談魁双紙といえる読本五巻は、浪速の書肆文金堂河内屋    太助、江戸の書賈仙鶴堂つるや喜右衛門とはかりて、合梓にて発市におよべり。繍絵は国安ぬし画けり、    いぬる文政三年辰の秋三馬子より原稿五巻を予に托して浄書せしむ。おのれ拙筆をもてしたためんも本意    ならねば、固辞しつれども許されず、ついに其意にしたがい毫をとりたれども、遅筆にして稍(ヨウヤク)翌春    におよび辛うじて落成しぬ。大人予にいえるは原此の草紙さし画は、豊広が男豊清をして画かしめたれど    も、彼れ不幸にして世を早うし、その画なかばにも至らずして死す。其のさし画の繍絵三五丁を出だし見    せらる。さて其の後国直に画かせんとて、稍ひさしく彼方へ遣わし置たれども、出来ざれば取戻したりと    の話なりし。巳(ミ)の春予が浄書卒(オエ)てより、凡そ一年を経て戌(イヌ)のはる国安子の筆にて出たり    (【式亭三馬が略伝中に以下「小日本」にはなし】)