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☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎浮世絵師名一覧
〔宝暦10年(1760)9月12日?~ 嘉永2年(1849)4月18日・90歳〕
 姓名 中島鉄蔵 幼名 時太郎  別称 勝川春朗 俵屋宗理 為一 画狂人 画狂老人 可候 狂人卍翁 魚仏 鏡裏庵梅年 群馬亭 是和斎     穿山甲 前北斎 戴斗 戴斗翁 時太郎可候 辰政 白雪紅 百琳 卍老人 宗理 北斎宗理 錦袋舎     狂人北斎 九々蜃 雷震 月癡老人 前北斎爲一 不染居爲一 卍翁〈以上〔国書DB〕参照〉      三浦屋八右衛門 土持仁三郎  戯作名 可候 時太郎可候   ※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録データベース」「国書データベース」〔国文学研究資料館〕   ②〔早稲田〕   :『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』〔『近世文芸研究と評論』三五~七〇号に所収〕   ③〔早大集覧〕  :『【早稲田大学所蔵】合巻集覧』〔日本書誌学大系101・棚橋正博編集代表〕   ④〔早大〕    :「古典籍総合データベース」早稲田大学図書館   ⑤〔東大〕    :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕   ⑥〔書目年表〕  :『【改訂】日本小説書目年表』    〔漆山年表〕  :『日本木版挿絵本年代順目録』 〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』    〔中本型読本〕 :「中本型読本書目年表稿」   〔江戸読本〕:「江戸読本書目年表稿(文化期)」    〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」   〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』    『稗史提要』 比志島文軒(漣水散人)編      『黄表紙總覧』棚橋正博著・日本書誌学系48    『葛飾北斎伝』飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣    『俗曲挿絵本目録』の〔~〕は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演データ     角書は省略。◎は表示不能文字  ☆ 宝暦十年(1760)    ◯『葛飾北斎伝』p31   〝北斎は、宝暦十年九月本所割下水に於きて生る。一説に本所猿江に生るといふは非なり。【一説に宝暦    九年正月三日生といふは非なり。北斎嘉永二年に死して年九十なれば、其の生年は即宝暦十年なり。小    林氏所蔵大黒天の画幅に翁自筆して宝暦十年甲子の日生とあり】〟    〈小林氏とはこの『葛飾北斎伝』の発行者小林文七〉    ☆ 安永四年(1775)    ◯『葛飾北斎伝』p36   〝為一翁云(いわ)く、此の書の末六丁ほどは、予が彫刻なり。此の節十六歳なり云々、十九歳まで産業    とし、是より此の業を廃し、画師になりし云々〟    〈「此の書」とは安永四年刊の洒落本『楽女好子』(雲中舎山蝶作。正しくは『楽女格子』らしい)〉    ☆ 安永六年(1777)    ◯『葛飾北斎伝』p37   〝安永六年、鉄蔵十九歳の時、彫刻の業を廃し、浮世絵師勝川春章の門に入りて、画法を学び、数年なら    ずしてよく師風を得たり。よりて勝川の氏を称するを許され、勝川春朗といふ〟     ☆ 安永八年(1779)    ◯『吉原細見年表』(安永八年刊)    勝川春朗画    『金農町(アキノテフ)』横小本 序「花柳羅生門河岸 峩眉菴 文祇戯識」安永八年秋 鱗形屋板     署名「勝川春朗画    〈『江戸吉原叢刊』の解題は「春朗の最初の作品としては、安永八年八月頃の細判役者絵「岩井半四郎のかしく」等が     挙げられてきたが(永田生慈『葛飾北斎年譜』)、本書の挿図はそれよりも若干早い時期の作例である」とする〉    ☆ 安永九年(1780)    ◯『稗史提要』p357   ◇黄表紙(安永九年刊)    作者の部 通笑 文渓堂 四国子 錦鱗 可笑 山東京伝 臍下逸人 窪田春満 常磐松    画工の部 清長 春町 政演 春常 北尾三次郎 春朗 闇牛斎秋童 春旭 松泉堂    板元の部 鶴屋 蔦屋 伊世次 奥村 松村 西村 山本 岩戸 村田 鱗形    時評〝春朗は勝川春章門人にして、一家の風をなす。後に俵屋宗理と改め、享和の頃より北斎辰政、ま       たは戴斗といひし人なり〟    ◯『黄表紙總覧』前編(安永九年刊)    勝川春朗画『驪山比翼塚』「勝川春朗画」西村屋板     〈備考、春朗の黄表紙の初出。本年、春朗の黄表紙、他にありとするも、確認できないとする〉    ◯「国書データベース」(安永九年刊)   ◇黄表紙    勝川春朗画『大通一寸廓茶番』「勝川春朗画」万里述 版元未詳    ◯「日本古典籍総合目録」(安永九年刊)   ◇洒落本    勝川春朗画『喜夜来大根』梨白散人作    〈『洒落本大成』補巻「洒落本写本年表」は、『喜夜来大根』を『奴通』(安永九年刊か)の改竄本とし、刊年を天明     年間とする〉    ☆ 天明元年(安永十年・1801)    ◯『菊寿草』〔南畝〕⑦226~241(四方山人著・安永九年一月刊)   「絵草紙評判記(丑年新版絵双紙惣目録)   ◇p226   〝上上吉 【本性名所】有難通一字(ありがたいつうのいちじ) 松村座         指切丸をかくし置いけの中村助五郎〟    〈「松村座」は板元・松村〉     ◇p227   〝作者之部     喜三二 芝全交 通笑 可笑 南陀伽紫蘭      是和斎 風車  婦人亀遊〟    〈是和斎、初筆でありながら高い評価を得たのである。南陀伽紫蘭は浮世絵師・窪俊満の狂歌・戯作名〉     ◇p241   〝上上吉(版元「松村」印)【本性銘者】有難通一字(ありがたいつうのいちじ) 二冊    頭取 此度似(ニ)た山ふ通太にて、ゆび切丸の一腰をぬすみ、かういふ所は先友右衛門といふ身だ、し    かし友右衛門にはちつと男がよすぎて、けんぶつのうけがわるかろうとはよいぞ。おしつけ客をつらま    へのゑんまどう、たづねいだして天上みたの五十蔵も有がたい〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇黄表紙(天明元年刊)    是和斎画『有難通一字』自作〈葛飾北斎〉    ◯『洒落本大成』第十一巻(安永十年刊)    勝川春朗画『公大無多言』「勝川春朗画」行成山房大公人(雲中舎山蝶)作    ☆ 天明二年(1782)    ◯『岡目八目』〔南畝〕⑦262(四方山人著・天明二年一月刊)   ◇黄表紙(天明二年刊)   (内題は『【稗史(えぞうし)評判】岡目八目』)  〝作者之部      喜三二 恋川春町 芝全交 京伝 可笑 通笑 岸田杜方 南陀伽しらん     宇三太 雪岨   豊里舟 魚仏 風物 古風から井さんせう           画工之部       鳥居清長 北尾政演 北尾政美 勝川春常 春朗 国信〟    〈天明二年の魚仏名、黄表紙作品は『鎌倉通臣伝』。作画には春朗の署名。「画工之部」に載ったことで、絵師として     も認められようになったはずだ。さて、この年には是和斎作・春朗画の『四天王大通仕達』もあるが、作者之部には     その名がない。魚仏名もこの一作のみ。岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏は魚仏について「絵師と同     一人とする確証はない」として、是和斎=北斎説同様否定的である(p340)〉    ◯『稗史提要』p361   ◇黄表紙(天明二年刊)    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 可笑 岸田杜芳 紫蘭 宇三太 雪岨 豊里舟 三椒         魚仏 風物 古風    画工の部 清長 重政 政演 政美 春常 春朗 国信    ◯『黄表紙總覧』前編(天明二年刊)    勝川春朗画(葛飾北斎)    『四天王大通仕達』「春朗画」是和斎作  松村板    『鎌倉通臣伝』  「春朗画」東都魚仏作 鶴屋板    ◯『洒落本大成』第十一巻(天明二年刊)    勝川春朗画『富賀川拝見』「春朗画」蓬莱山人帰橋作    ◯『江戸小咄辞典』「所収書目解題」(天明二年刊)    勝川春朗画『間女畑』天明二頃    〈『噺本大系』巻十二「所収書目解題」は天明年間の刊行とし、署名は「春朗画」とする。また左記解題によれば、林     美一氏は天明元年刊の由である〉    △『戯作者撰集』p75(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   (天明二年の項)   〝魚仏  前北斎戴斗為一翁の事也〟    〈『戯作者撰集』天明元年の記事参照。これも「是和斎」同様、石塚豊芥子が直接北斎に確認した上での記載であろう〉    〈岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏は戯作名「魚仏」を「絵師と同一人とする確証はない」としている〉    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天明二年刊)    葛飾北斎画    『笑本股庫嘉里◎志』墨摺 中本 一冊「勝春朗画」闇雲山人(春朗)序 天明二年     (白倉注「北斎の艶本の初作と考えられるもの。内容は怪談話」)〈◎は女偏+象〉    ☆ 天明三年(1783)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(天明三年)   ④「春朗画」(日の出に舞鶴)〈大の月の漢数字を組み合わせた漢字もどきの字あり〉    △『狂歌師細見』(平秩東作作・天明三年刊)   (巻末「戯作之部」に続いて)   〝画工之部    哥川 豊春    北尾 重政 同 政演 同 政美    勝川 春章 同 春朗 同 春常 同 春卯 同 春英 同 春暁 同 春山    関  清長      うた麿 行麿〟    ☆ 天明四年(1784)    ◯『稗史提要』p366   ◇黄表紙(天明四年刊)    作者の部 春町 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 亀遊女 楚満人 四方山人 窪春満 万象亭         唐来三和 黒鳶式部 二本坊寉志芸 飛田琴太 古河三蝶 幾治茂内 里山 邦杏李          紀定丸    画工の部 清長 重政 政演 政美 春町 春朗 古河三蝶 勝川春道 哥丸    ◯『黄表紙總覧』前編(天明四年刊)    勝春朗画    『野曾喜伽羅久里義経山入』「勝春朗画」井久治茂内作    『運開扇之花香』     「春朗画」      松村板    『鵺頼政名歌芝』     「春朗画」      村田屋板    『咸陽宮通約束』     「ミたのだい町春朗画」伊勢幸板    ☆ 天明五年(1785)    ◯『稗史提要』p368   ◇黄表紙(天明五年刊)    作者の部 喜三二 通笑 京伝 全交 三和 恋川好町 蓬莱山人帰橋 夢中夢助 二水山人 鳴瀧         録山人信鮒    画工の部 清長 重政 政演 政美 春朗 哥丸 勝川春英 旭光 道麿 千代女 勝花 柳交    ◯『黄表紙總覧』前編(天明五年刊)    勝川春朗画    『怨念宇治蛍火』「勝春朗画」              松村板    『親譲鼻高名』 「春朗改メ群馬亭画」「作者可笑門人雀声」松村板     〈備考、雀声と群馬亭を同人とする説を採らず〉    ◯『葛飾北斎伝』p42   〝天明五年、春朗名を改めて群馬亭と称す。此の年某の戯作【作者の名詳ならず】『親親譲鼻高名』を画    き、巻末に、春朗改群馬亭と署せり〟    ☆ 天明六年(1786)    ◯『稗史提要』p370   ◇黄表紙(天明六年刊)    作者の部 喜三二 通笑 京伝 全交 杜芳 万象 三和 三蝶 好町 帰橋 琴太 山東鶏告 芝甘交         白雪・道笑・半片・自惚山人・虚空山人    画工の部 清長 重政 政演 政美 春朗 春英 三蝶 好町 蘭徳    〈板元の部の出版書目には「二一天作二進一十」「我家らく鎌くら山」「蛇原紋腹の仲丁」の三点が春朗画となってい     る。「日本古典籍総合目録」に当たると、この年の北斎関係の黄表紙は四点。『二一天作二進一十』は通笑作・春朗     画、『我家楽之鎌倉山』は群馬亭作・画、『蛇腹紋原之仲町』は白雪紅作・群馬亭画、『前々太平記』自惚山人作・     春朗画である。また『蛇腹紋原之仲町』作者・白雪紅を北斎としている。ところで「日本古典籍総合目録」は『蛇腹     紋原之仲町』の画工名を群馬亭とするが、板元の部の出版書目では、榎本板のところに画工春朗として出る。なお群     馬亭の号は「日本古典籍総合目録」上では、天明五年に一点、同六年に二点、合計三作品で使用されている〉    〈岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏は「自画作とするは疑問」とする〉      〈群馬亭の号に関していうと、「日本古典籍総合目録」には天明八年(1788)と享和元年(1801)にも群馬亭の画名で黄     表紙が出版されている。しかし天明八年刊の道笑作・群馬亭画『人間万事二一天作五』は、天明六年の通笑作・春朗     画『二一天作二進一十』の改題本であり、群馬亭とあるものの再版に当たって仮に付けたと考えられる。また享和元     年刊の聞天舎雀声作・群馬亭画『下界騼鼻落天狗』も、天明五年の雀声作・群馬亭画『親譲鼻高名』の改題再刷本で     ある。従って黄表紙の作画に群馬亭の画名を使用したのは実質的には天明五年と六年の二年間とみてよいのであろう〉     ◯『黄表紙總覧』前編(天明六年刊)    群馬亭・勝川春朗画    『二一天作二進一十』「群馬亭画」   道笑作   松村板    『我家楽之鎌倉山』 「群馬亭画」         榎本屋板    『蛇腹紋原之仲町』 「春朗改群馬亭画」白雪紅作  榎本屋板     〈備考、白雪紅を北斎の仮名とする説を採らず〉    『新蛇腹細見臍』  「画工群馬亭」  雀声作   榎本屋板    『前々太平記』   「勝春朗画」   自惚山人作 榎本屋板     〈備考、本作は黄表紙ではなく史実の絵解きとする〉     ◯『黄表紙總覧』中編    寛政五年刊『東大仏楓名所』(作者・画工名なし・板元不明)の項    本書は『大仏左捻』白山人可候作・天明六年(1786)刊の改刻改題再板本。白山人可候を北斎一時の戯    号とする説あり。そうすると、北斎、黄表紙の初作は天明六年ということになるが、棚橋氏はこれを否    定して、可候を石山人(物蒙堂礼、狂名盥雨盛)と同人とし、併せて、北斎作『竃将軍勘略之巻』(寛    政十二年(1800)刊)の跋文に「初而之儀ニ御座候得ば(云々)」とあることから、天明年間の北斎の黄    表紙著作はないとする    ☆ 天明七年(1787)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(天明七年)   ③「春朗画」(団十郎「暫」に似顔絵)2-46/70     歳旦狂歌 のみてうなごんすみかね(烏亭焉馬)     〈大小の刀に大小の月、団十郎の着る大紋に小の月〉    ◯『狂言絵本年代順目録』(漆山又四郎(天童)著)   ◇絵本番付(天明七年刊)    勝川春朗画?     二月  中村座「大銀杏根元曽我」不記名・春朗風     十一月 桐 座「三去睦花娵」  不記名・春朗風     十一月 森田座「兄弟群高松」  不記名・春朗風    ☆ 天明年間(1781~1788)    ◯『黄表紙總覧』後編「刊年未詳・補遺」(天明年間刊)    。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春朗画〔大つう〕「勝川春朗画」「万里述」板元不明     〈備考、春朗は天明五年に群馬亭に改名するので、本作品は天明初年刊かとする〉     ◯『洒落本大成』第十巻(天明年間刊)    勝川春朗画『喜夜来大根』「春朗画」梨白散人作    〈『奴通』(安永九年刊?)の改竄板。跋文を省き、序文・挿画を差し換える〉    ◯『噺本大系』巻十二「所収書目解題」(天明年間刊)    勝川春朗画『間女畑』「春朗画」鉄棒序 天明頃    〈後の葛飾北斎自作・自画とされる。林美一氏は天明元年、北斎二十一歳の作と推定の由。『江戸小咄辞典』「所収書     目解題」は天明二年頃とする〉    ☆ 寛政元年(天明九年・1789)    ◯『稗史提要』p375   ◇黄表紙(天明九年刊)    作者の部 春町 通笑 京伝 全交 三和 鶏告 桜川慈悲成 三橋喜三二 一橋山人 陽春亭         内新好 伝楽山人 伐木丁々 美息斎象睡    画工の部 重政 政演 政美 柳郊 栄之 蘭徳 春朗 歌川豊国    ◯『黄表紙總覧』前編(天明九年刊)    勝川春朗画    『福来留笑顔門松』〔勝春朗画〕通笑作       伊勢治板    『臭気靡◎倉栄子』「春朗画」 錦森堂軒東作    西村屋板    『流行謡混雑唱舞』「春朗画」 美足斎象睡作    秩父屋板    『六歌仙虚実添削』「春朗画」 たけ光のさや南り作 秩父屋板     〈備考「たけ光のさやなり」春朗の仮名かとする説あるも保留する〉    ☆ 寛政二年(1790)    ◯『狂言絵本年代順目録』(寛政二年刊)   ◇絵本番付    勝川春朗画?    正月  市村座 「うれしく存曽我」不記名・春朗風 松本屋    十一月 市村座 「岩磐花峯楠」  不記名・春朗歟 松本屋     〈「狂言絵本年代順目録」は寛政3年とするが、「未刊随筆百種」十一巻所収『江戸芝居年代記』は寛政2年冬、      〔立命館・歌舞伎年表〕は寛政2年11月01日とする〉       十一月 河原崎座「大侯勧進帳」  不記名・北斎歟    〈「狂言絵本年代順目録」は寛政3年とするが、「未刊随筆百種」十一巻所収『江戸芝居年代記』は寛政2年冬、      〔立命館・歌舞伎年表〕は寛政2年11月12日とする〉    ◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)    勝川春朗画『恋癖仮妻菊』(富本)春朗画 瀬川如皐述 蔦屋板 寛政二年十一月〔寛政02/11/01〕    ☆ 寛政三年(1791)    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政三年刊)    勝川春朗画『龍宮洗濯噺』「春朗画」西村屋板     〈備考、自作画かとする〉    ◯『狂言絵本年代順目録』(漆山又四郎(天童)著)   ◇絵本番付(寛政三年刊)    勝川春朗画?     八月  市村座 「仮名書室町文談」不記名・春朗歟 松本屋板     十一月 市村座 「金目貫源家角鍔」北斎 松本屋板    ◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)    勝川春朗画    『百千鳥蝶羽根書』(富本)春朗画 瀬川如皐述 蔦屋板 寛政三年正月   〔寛政03/01/15〕    『褄緘踀振袖』  (富本)春朗画 瀬川如皐述 蔦屋板 寛政三年二月十六日〔寛政03/02/16〕    『桂川連理柵』  (富本)春朗画 瀬川如皐述 蔦屋板 寛政三年三月   〔寛政03/03/03〕    『女夫合愛相鉄槌』(富本)春朗画 瀬川如皐述 蔦屋板 寛政三年十一月  〔寛政03/11/01〕    ☆ 寛政四年(1792)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政四年)   ①「春朗画」(師匠が「子子子子子子子子子子子子」の読みを弟子に教える図)2/68     〈読み「猫の子仔猫 獅々の子仔獅子」12の「子」の字の大小で大小月を表示。衝立にはこの年の甲子や庚申の日付〉    ◯『稗史提要』p380   ◇黄表紙(寛政四年刊)    〈画工の部に春朗の名はないが、板元・蔦屋の出版書目欄に「桃太郎発端咄」と「実語教おさな講釈」に京伝と春朗の     合い印があり、また「女荘子胡蝶の夢」にも黒木と春朗の合い印が付いている。この年の春朗画黄表紙は五点を数え     る〉     ◯『黄表紙總覧』中編(寛政四年刊)。    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春朗画    『実語教幼稚講釈』「春朗画」京伝作 蔦屋板    『桃太郎発端話説』「春朗画」京伝作 蔦屋板    『女荘子蝴蝶夢魂』「春朗画」黒木作 坂本屋板     〈備考、作者黒木を伊藤蘭洲とする〉    〔花春虱道行〕   〔馬琴作・春朗画・蔦屋板〕     〈備考、山東京山の『蛛の糸巻』に本書の記事があるが、板本未確認、「烏有の書名」(実在しない書名)とする〉  ◯「国書データベース」(寛政四年刊)   ◇黄表紙    勝川春朗画『鵺頼政名歌芝』「春朗画」南杣笑楚満人作 村田屋板    ◯『狂言絵本年代順目録』(漆山又四郎(天童)著)   ◇絵本番付(寛政四年刊)    北斎画?     正月  市村座「若紫江戸子曽我」不記名・北斎風     九月  市村座「妹背山婦女庭訓」不記名・北斎風 松本屋板     十一月 市村座「菊伊達大門」  不記名・北斎歟 松本屋板    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛政四年刊)    葛飾北斎画『間女畑』墨摺 小本 一冊「春朗画」北斎画・作 寛政四年     (白倉注「小咄本。序に「鉄棒(坊)ぬら/\と書」とあり、幼名鉄坊こと北斎である」)    ☆ 寛政五年(1793)    ◯『稗史提要』p382   ◇黄表紙(寛政五年刊)    作者の部 京伝 全交 三和 石上 楚満人 曲亭馬琴 鹿杖真顔 桃栗山人 畠芋助    画工の部 重政 政美 春朗 豊国 清長    △『戯作者撰集』p152(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   (寛政五年の項)   〝可候 画前北斎    白山人と号す〟    〈「日本古典籍総合目録」によると、白山人可候名の黄表紙が四点ある。天明六年(1786)刊の『大仏左捻』・寛政五     年(1793)刊の『東大仏楓名所』、そして共に刊年記載のない『大仏餅東総仏名所』『大仏餅由来』。このうち後者     二点は寛政五年刊の『東大仏楓名所』と同内容だという。しかもその寛政五年の作がまた天明六年刊『大仏左捻』の     改題再版とされる。つまり白山人可候名の黄表紙は天明六年の一点あるのみ。「画前北斎」とは、どういう意味なの     であろうか。可候作『東大仏楓名所』の画工を前北斎が担当したという意味か。それとも可候は「前北斎」だという     のであろうか。『戯作者撰集』の編者石塚豊芥子は、北斎とは面識があるから直接これを確認したのであろうか〉    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政五年刊)    勝川春朗画    『貧富両道中之記』「春朗画」京伝   蔦屋板    『智恵次第箱根結』「春朗画」春道草樹 榎本屋    ◯『狂言絵本年代順目録』(漆山又四郎(天童著)   ◇絵本番付(寛政五年刊)    北斎画?     二月 桐 座「松太夫雪伊達染」不記名・北斎風     二月 市村座「貢曽我冨士差綿」不記名・北斎歟 松本屋板    ☆ 寛政六年(1794)    ◯「絵本年表」(寛政六年刊)    葛飾北斎画    『狂歌三十六歌仙』一冊 葛飾北斎画 赤松正恒(三陀羅法師)編〔目録DB〕               〈〔漆山年表〕は柳々居辰斎画とする〉    『聯合女品定』  二巻 細工叢春朗 同立川船朝 板木屋鉄次郎〔漆山年表〕               (本書巻頭に回向院境内開帳奉納千秋連と署せり)               〈〔目録DB〕三陀羅法師撰。角書は「回向院奉納狂歌」とある〉    ◯『稗史提要』p384   ◇黄表紙(寛政六年刊)    作者の部 京伝 全交 森羅亭 石上 慈悲成 真顔 馬琴 式亭三馬 千差万別 本膳亭坪平          築地善好    画工の部 重政 政美 春朗 春英 豊国    板元の部 鶴屋 蔦屋 榎本 西村 西宮 泉市 村田〟    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政六年刊)。    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春朗画    『福寿海无量品玉』〔勝川春朗画〕馬琴作    蔦屋板    『覗見喩節穴』  〔勝川春朗画〕本膳亭坪平作 榎本屋板    『七々里富貴』  〔勝川春朗画〕       村田屋板  ◯「国書データベース」(寛政六年刊)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政六年刊)    葛飾北斎画     『回向院奉納狂歌聯合女品定』一冊 勝川春朗画 三陀羅法師撰  版元不記載    『狂歌三十六歌仙』一冊 葛飾北斎画 赤松正恒(三陀羅法師)編 版元不記載    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛政六年刊)    葛飾北斎画『会本松の内』墨摺 半紙本 三冊 紫色雁高(春朗)画 寛政六年頃  ☆ 寛政七年(1795)    ◯『【狂歌歳旦】江戸紫』狂歌堂主人(鹿津部真顔)序 萬亀亭主人(江戸花住)跋 寛政七年刊   〝(狂歌賛)河井物梁     ゆつたりと春の日あしも長袴 田寉のあゆみと見ゆる年礼     (長袴の礼者の後姿図)宗理画〔◯中に「完」の印〕〟    ◯『葛飾北斎伝』p43   〝同七年群馬亭、俵屋宗理の画風を慕ひ、名を改めて菱川宗理と称す〟     〈「同七年」は天明七年だが、この記事に岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏は次のような脚注をしている〉        「北斎の俵屋宗理改号は寛政六年末か七年。また菱川宗理を名乗らぬことは既述」    ◯『稗史提要』p385   ◇黄表紙(寛政七年刊)    作者の部 通笑 森羅亭 三和 楚満人 慈悲成 馬琴 善好 坪平 十返舎一九 黄亀    画工の部 重政 政美 栄之 豊国 春朗 二代目春町 長喜 一九    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政七年刊)。    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春朗画    『しわみうせ薬』〔勝川春朗画〕本膳坪平作  榎本屋板     『手前漬赤穂◎』〔勝川春朗画〕本膳亭坪平作 榎本屋板     〈◎は「辛+塩」合成文字。シオカラと読む〉    ◯「絵入狂歌本年表」(寛政七年刊)    百琳宗理画『狂歌江戸紫』一冊 歌麿・宗理等画 四方歌垣・万象亭・江戸花住編 花屋久次郎〔狂歌書目〕    ☆ 寛政八年(1796)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政八年刊)    百琳宗理『帰化種(シキナミクサ)』狂歌 一巻 百琳宗理画 万象亭叙 清涼亭菅伎跋    ◯『稗史提要』p387   ◇黄表紙(寛政八年刊)    作者の部 京伝 石上 馬琴 一九 善好 宝倉主 誂々堂景則、楽山人馬笑 春道草樹    画工の部 重政 豊国 一九 春朗     ◯『黄表紙總覧』中編(寛政七年刊)。    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春朗画『朝比奈御髭塵』〔勝川春朗画〕桜川慈悲成作 西村屋     〈備考、春朗画は聊かためらうとする〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政八年刊)    百琳宗理画『帰化種』一巻 百琳宗理画 正木桂長清編    ☆ 寛政九年(1797)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政九年刊)    葛飾北斎画    『駒組童観抄』春朗画 鶴屋喜右衛門板(寛政二庚戌歳末秋)     〈〔目録DB〕によると、これまで安永八年・天明五年・寛政二年の版本が出版されている。寛政九年、春朗画で再刻した      のであろうか、それとも春朗画の寛政二年版をこの年再版したというのであろうか。高久隆編の将棋本〉    『柳の絲』一帖 等琳画・鄰松・華藍・北斎宗理 浅草庵序 華渓老漁跋 蔦屋重三郎板〔漆山年表〕    ◯『よものはる』〔江戸狂歌・第四巻〕四方歌垣編・寛政九年(1797)刊(一説に同八年)   〝大黒も年始に来ませみ蔵まち門の俵をしをりにはして  北斎宗理〟    ◯『柳の糸』〔江戸狂歌・第五巻〕浅草庵市人編・寛政九年刊    (口絵)「橋場初乗」   「等琳画」(堤等琳)   (挿絵)「寿老人」    「鄰松画」(鈴木鄰松)       「にひよし原」  「栄之」 (鳥文斎栄之)       「鞍馬ふごおろし」「等琳〔印「等琳」〕」       「鶯宿梅」    「華藍〔印「北峰」「紅翠斎主」〕」(北尾重政)       「江島春望」   「北斎宗理〔印「北斎」「宗理」〕」(葛飾北斎)    ◯『稗史提要』p389   ◇黄表紙(寛政九年刊)    作者の部 京伝 楚満人 石上 慈悲成 唐丸 馬琴 三馬 一九 馬笑    画工の部 重政 豊国 一九 春朗    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政九年刊)。    〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    勝川春朗画『塩焼文太都物語』〔勝川春朗画〕「芝桜川慈悲成写」西村屋板    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇狂歌(寛政九年刊)    葛飾北斎画『【菅江追善】狂歌梢の雪』一冊 北斎画 菅江門人編    ☆ 寛政十年(1798)    ◯「絵本年表」〔目録DB〕(寛政十年刊)    北斎画『男踏歌』一冊 栄之・重政・易祇・歌麿・北斎画・等琳 他画 浅草市人撰 蔦屋重三郎板    ◯『稗史提要』p390   ◇黄表紙(寛政十年刊)    作者の部 京伝 三和 楚満人 石上 慈邪成 馬琴 三馬 一九 唐丸 恋川春町遺稿          壁前亭九年坊 傀儡子 聞天舎鶴成    画工の部 重政 豊国 可候 清長 業平榻見 栄昌 春亭    〈この年の可侯画は山東京伝作の『化物和本草』一点のみ。「日本古典籍総合目録」に、この年の春朗画の黄表紙はない〉    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政十年刊)    可候画『化物和本草』「画工可候」京伝 山口屋板  ◯「国書データベース」(寛政十年刊)   ◇黄表紙    宗理画『素後壮雪信』「宗理画」芝全交遺作 鶴屋板    〈八丁表の屏風絵に「宗理画」の落款あり〉    ◯「絵入狂歌本年表」(寛政十年刊)    葛飾北斎(宗理)画    『狂歌男踏歌』一帖 栄之・重政・易祇・歌麿・北斎宗理画・等琳 浅草市人撰 蔦屋重三郎板〔大英博物館所蔵本画像〕    『深山鴬』  一冊 重政・宗理画 山家広住撰 流露窓板〔狂歌書目〕〈この宗理は二世(北斎)か三世か〉    ☆ 寛政十一年(1799)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政十一年)   ②「北斎画」(羽箒に小松)〈大小表示不明、新年の配り物か〉    「秣仲成」回文狂歌賛   ③「宗理改北斎画」(商家の正月、姉弟の書き初め 帳面に「寛政十一己未年 正月吉日」)1-6/23    「光◎亭」狂歌賛〈大小表示不明。〉    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政十一年刊)    不染居北斎画『こすゑのゆき』狂歌 一巻 不染居北斎画 籬菊丸画 秀成画 西田文右衛門板    俵屋宗理画    『今日歌百猿一首』狂歌 一巻 国政画 春好左筆 勝春英画 俵屋宗理画 立川談洲楼焉馬編 上総屋利兵衛板    北斎画『東遊』狂歌 一巻 画工北斎 浅草庵序    ◯『古寿恵のゆき』〔江戸狂歌・第六巻〕朱楽菅江門人編・寛政十一年(1799)序   (朱楽菅江一周忌追善集)   (口絵)朱楽菅江肖像 「籬菊丸画」   (挿絵)菅江の辞世入り石碑を配した図絵 「不染居 北斎画」       菅江の「淮南堂」を写した図絵  「秀成」(赤松亭秀成)    ◯『今日歌白猿一首』(立川焉馬編・寛政十一年刊)    挿画「中村座櫓」図 「俵屋宗理画」(三陀羅法師の賛入り)    〈寛政十年十一月、中村座の顔見世興行において、二十一歳の六代目団十郎が初めて座頭を務めることのなった。その     とき、寛政八年の引退以来、成田屋七左衛門と称して隠居していた五代目が、約二年ぶりに舞台に復帰して市川白猿     の名で口上を述べた。これを江戸の人々がこぞって大歓迎し、狂歌を詠んで祝意を表した。この狂歌集はそのとき披     露された口上や白猿自身が詠んだ狂歌、また人々から寄せられた狂歌などを編集してなったもの。俵屋宗理(北斎)     はこの挿絵の他に、次のような狂歌を詠んでいた〉     〝白猿はとしのこうより亀の甲 龍宮までの噺しつたへに 俵屋宗理〟    〈なおこの時、北斎と同様に狂歌と絵を寄せた浮世絵師は、勝川春英・勝川春好・勝川春英・歌川国政。狂歌を寄せた     のは、左尚堂俊満・歌川豊国・勝川春潮であった〉    ◯『葛飾北斎伝』p54   〝寛政十一年宗理画風を一変し、其の名を門人宗二に譲り、北斎辰政(ときまさ)と号す。妙見を信仰す    るをもて名づく。妙見は、北斗星、即(すなわち)北辰星なり。其の祠、今本所柳島にあり。又嘗(か    つ)て柳島妙見に賽せし途中、大雷のおつるに遇ひて、堤下の田圃に陥(おちい)りたり。其の頃より    名を著はしたりとて、雷斗と名づけ、又雷振といふ。【一に信雷】〟    〈岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏によると、雷斗、信雷号の使用例見られずという。ついでに云うと、     式亭三馬の『浮世絵類考』の識語「其名(北斎辰政)を門人に譲り与へて、雷信と改む」の雷信も使用例未見とする〉    ◯『天明記聞寛政記聞』〔未刊随筆〕②293(著者未詳・天明元年~寛政十一年までの記事)   (「三囲稲荷開帳」寛政十一年四月一日参詣記事)   〝(前略)提灯十、絵絹にてはり、色々之浮世絵をかく、北斎之筆にて、其巧ミに見殊なる譬ふべき物な    し、台ハ皆黒びろうどにて縫ぐるみ、金物は金糸にて縫出せり、此外に提灯壱対、北斎之筆にて、極綵    色之画なり。其他色々様々の提ちん、思ひ/\の行燈数不知駿河町三井店よりとして米弐百俵、又諸方    より奉納之青銅五十貫ツヽ、積立し処、三十箇所程もあり、白狐弐疋、丈三尺余、毛ハ白絹糸にて植、    眼ハ是も水晶なり、此壱対手際といへ恰好といへ誠に霊狐之姿備はり尊く、身ノ毛も動く計リ也、狂哥    或ハ徘諧連中之額数々有リ、ふちハ多分雲形又ハ唐草、金之高ぼり、口画色々有ル内、婦人之驚きしに    蚊帳を釣りし体至ておかしく、また見殊なり、此分都て北斎の画、(以下略)〟    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政十二年)   ③「北斎画」(猿の面、笹竹に鯛の飾り)3/23〈大小の表示は不明だが、猿面から申歳と見た〉   ③「北斎画」(猿頭の願人坊主二人 大道芸)1-4/23〈着物の描線に大の月〉     ◯「絵本年表」(寛政十二年刊)    葛飾北斎画〔漆山年表〕    『屋万田の穂並』一冊 北斎画 榎本珍盈編    『東都景勝一覧』一巻 画工北斎辰政 浅草庵著 蔦屋重三郎板    『春帖』 狂歌 一巻 北斎画 鸚鵡斎撰 桂林堂序    葛飾北斎画〔目録DB〕    『江戸名所』地誌 一冊 葛飾北斎画  ◯『稗史提要』p394   ◇黄表紙(寛政十二年刊)    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 馬琴 一九 石上 鈍々亭和樽 色主 可候 蘭奢亭香保留    画工の部 重政 可候 豊国 子興    時評〝かまど将軍は北斎の画作なり。可候は仮に設たる名なり。是より二三年続て出る〟    〈時太郎可侯作・画はこの年は『竈将軍勘略巻』一点のみ。二三年続て出るとあるが「日本古典籍総合目録」には翌十     三年に一点あるのみ〉    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政十二年刊)    時太郎可候    『竃将軍簡略之巻』時太郎可候 蔦屋板     〈作者・時太郎可候の板元・蔦屋宛舌代(口上書き)に次のようにあり〉    〝初而之儀ニ御坐候得者あしき所ハ曲亭馬琴先生へ御直し被下候様、此段よろしく奉願候〟     〈備考はこの舌代の「初而之儀」を根拠に、本作品を北斎の黄表紙初作とし、従来北斎の戯作名とされてきた是和斎      ・魚仏を別人とする。また白山人可候と北斎は別人としつつ、可候名は白山人より譲り受けたかとする〉    群馬亭画    『人間万事二一天作五』「群馬亭画」通笑門人道笑 山口屋板    ◯「絵入狂歌本年表」(寛政十二年刊)    葛飾北斎画     『狂歌三十六歌仙』一冊 北斎辰政画 千秋庵三陀羅撰 蔦屋重三郎板〔狂歌書目〕    『東都勝景一覧』 二冊 北斎辰政画 蔦屋重三郎他板〔目録DB〕〈『東都名所一覧』の改題本。〔狂歌書目〕は寛政十年に収録〉    『春帖』一冊 葛飾北斎画 淮南堂行澄編 〔目録DB〕    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(寛政十二年刊)    葛飾北斎画『好色堂中』小本一冊          序「助兵衛山人股くらをむくつかせて好色堂中に序す            かのへさるのむつまし月ひつ書く」          跋「雁高菴題」            〈北斎の庚申は寛政十二年だが。書誌データは刊年を記さず〉     ◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)    勝川春朗画?『道行瀬川の仇浪』(富本)春朗風画 蔦屋板 寛政十二年二月二日〔寛政12/02/12〕<    ◯『狂歌三十六歌仙』〔江戸狂歌・第四巻〕   〔編者〕千秋庵三陀羅   〔画者〕書名なし。北斎か。   〔版元〕西村与八板、蔦屋重三郎板、西村新六板、三説あり。   〔刊年〕寛政六年(漆山又四郎『絵本年表』)       寛政十二年とするも、同九年、十年、文化元年を併記(永田生慈著『葛飾北斎年表』)    ☆ 寛政年間(1789~1800)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政年間刊)    北斎宗理画『春興帖』一帖 京伝・宗理画 森羅万象編〈〔目録DB〕はこの宗理を二世、北斎宗理とする〉    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱447(寛政十二年五月以前記)   〝古俵屋宗理名ヲ続 二代目 宗理 寛政十年の頃北斎と改ム  三代目 宗理 北斎門人    これまた狂歌摺物の画に名高し。浅草に住す。すべてすりものヽ画は錦画に似ざるを尊ぶとぞ〟    〈「古俵屋宗理」が住吉広守(内記)門人で初代の宗理。「これまた云々」は二代目宗理(北斎)に関する記事〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇洒落本(寛政年間刊)    葛飾北斎画『讃極史』千代丘草庵主人作    〈『洒落本大成』第十九巻の解題は〝日本名著全集「洒落本集」解題は、口絵を北斎画とするが、何にもとづくか不明〟     とする〉    ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「寛政年間記事」2p18   〝浮世絵師 鳥文斎栄之、勝川春好、同春英(九徳斎)、東洲斎写楽、喜多川歌麿、北尾重政、同政演    (京伝)、同政美(蕙斎)、窪俊満(尚左堂と号す、狂歌師なり)葛飾北斎(狂歌の摺物読本等多く画    きて行はる)、歌舞伎堂艶鏡、栄松斎長喜、蘭徳斎春童、田中益信、古川三蝶、堤等琳、金長〟
  ◇「寛政年間記事」2p18(『武江年表補正略』喜多村筠庭記事)   〝北斎は画風癖あれども、其の徒のつはものなり。政美は薙髪して、狩野の姓を受けて紹真と名乗る。こ    れは彼等窩崛(カクツのルビ)を出て一風をなす、上手とすべし。語りて云ふ、北斎はとかく人の真似をなす、    何でも己が始めたることなしといへり。是は「略画式」を蕙斎が著はして後、北斎漫画をかき、又紹真    が江戸一覧図を工夫せしかば、東海道一覧の図を錦絵にしたりしなどいへり〟    ☆ 享和元年(寛政十三年・1801)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(享和元年)   ⑧「北斎画」Ⅴ-6「白猿の再勤」(廻国巡礼の六部に扮した白猿(五代目団十郎)     笈に「寛政十三酉年(以下大の月を記す)」     〈寛政10年の顔見世で取り立てを願った6代目が同11年急逝。翌12年に孫が7代目を襲名する、この孫のため白猿は再      び舞台に立った〉     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享和元年刊)    葛飾北斎画『隅田川両岸一覧』三巻 画工北斎辰政 壺十楼成安序 前川六左衛門板  ◯『古今雑談思出草紙』〔大成Ⅲ〕④126(東随舎著・天保十一年序)   ◇「戯場役者市川団十郎家伝の事」の項    〝享和元年酉年七月、或人、三囲閑居の心をたはれ歌に読とて、三囲の絵、浮世絵師北斎が書しに讃を望    みぬれば     七年以前に世の勤めを捨て、庵さきに遁れたる草の庵に、或日、何某の君の音信給ひて、此絹、汝じ     が隠遁の心を狂歌によめとの仰せに、頓に書付て奉るのみ      芝居事遁れても又かしましや松が琴ひく竹の笛にて 行年六十一歳 反故菴白猿越書鼻〟    〈「三囲閑居」とは庵崎の五代目市川団十郎白猿の隠居〉    ◯『稗史提要』p396   ◇黄表紙(寛政十三年刊)    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 馬琴 三馬 一九 傀儡子 可候 和樽 竹塚東子 香保留         福亭三笑 玉亭     画工の部 重政 可候 豊国 春亭 子興 歌川豊広    ◯『黄表紙總覧』後編(寛政十三年刊)    時太郎可候画『児童文殊雅教訓』画作時太郎可候 蔦屋板    〔国書DB〕の絵題簽「辛酉春北斎画作」    ◯『洒落本大成』第二十二巻(享和元年刊)    葛飾北斎画『【仕懸幕莫】仇手本』「画狂人北斎筆」小金あつ丸作          口絵に「風雅でもしやれもなくせう事なしの山の手に画狂人北斎筆」         『【仇手本後編】通神蔵』「画狂人北斎筆」小金あつ丸作    〈解題は両本の享和元年の刊年について、確証がないとしている〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(享和元年刊)    葛飾北斎画『浅間山麓の石』一冊 曲木正墨・尚左堂俊満・北斎宗理画 芝の屋山陽編 和泉屋市兵衛板    ☆ 享和元~二年(1801~02)    ◯『一筆斎文調』(「早稲田大学演劇博物館所蔵 芝居絵図録1」・1991年刊)    〈一筆斎文調の七回忌が六月十二日、柳橋の万八楼で行われた。その時の摺物に、当日席書に参加したと思われる絵師     たちの絵が添えられている。絵師は次の通り〉      「豊廣画・堤孫二筆・豊国画・春秀蝶・寿香亭目吉筆・画狂人北斎画・歌麿筆・雪旦・春英画」       〈この摺物には刊年がない。ただ北斎が「画狂人」を名乗っていることから、ある程度推定が可能のようで、『浮世絵     大事典』の項目「一筆斎文調」は「享和元年~二年(1801~02)頃のもの」としている。それに従った。なお摺物の     本文は本HPの「一筆斎文調」か「窪俊満」の項を参照のこと)    ☆ 享和二年(1802)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享和二年刊)    葛飾北斎画    『狂歌新五十人一首』一巻 北斎画 千秋庵著 蔦屋重三郎板    『五十鈴川狂歌車』 一巻 画工北斎辰政 千秋庵撰 蔦屋重三郎板    『絵本忠臣蔵』三巻 東都画工北斎辰政 桜川慈悲成著・序 西村屋与八板    『画本東都遊』三巻 画工北斎 浅草庵序 蔦屋重三郎板           (本書原版寛政十一年狂歌を載せたり)     『潮来絶句集』一冊 北斎画 富士唐麻呂著 梭江漫士序    『同風集』  一巻 狂歌 画狂人北斎・武川亭永艃画 節松嫁々序    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(享和二年刊)    北斎辰政画『風流五十人一首 五十鈴川狂歌車』色摺(口絵・肖像)〔国書DB〕    奥付「画工 北斎辰政」千穐庵三陀羅編 蔦屋重三郎 享和二年正月刊  △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年刊)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世    北斎辰政  (他の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』 式亭三馬自画作 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)     〝春朗改 俵屋宗理     処改 北斎辰政画    これより青本を休〟
  〝青本 青本大当りを袋入に直す。表紙の白半丁に口のりをつけぬ事起る    画工 春好、続いて似顔絵を書出す。俗にこれを小つぼと称す。但し役者、角力也    同  蘭徳斎春道一たび絵の姿かはる。春朗同断。此頃の双紙は重政、清長、政美、政信(ママ)、春町       通笑、全交、喜三二、三和、春町、万象、杜芳、いづれも大当りある〟
  〝青本 青本の趣向甚だ高慢になる。袋入のあとを青本にすることはやる    画工 絵のかき方また/\当世に移る。北尾、勝川、歌川、おの/\その名高し    同  歌麿当時の女絵を新たに工夫する。北斎独流のの一派をたつる    同  豊国、役者似顔絵に名誉。歌麿の錦絵、北斎の摺物世に行はる    作者 いづれもめでたし/\。千秋万々歳〟
  〝画工名尽【これは来くさざうし/板下を休の部】    鳥居 関 清長  勝川九徳斎春英    喜多川 歌麻呂  北斎 辰政    北尾 政演    蕙斎 政美〟    〈この画工たちは来年(享和三年)出版予定の板下を担当しないというのだろうが、国文学研究資料館の「日本古典籍     総合目録」によれば、享和三年の刊行として、北斎には、時太郎可候名で二点、北斎名で二点計四点の黄表紙作品が     ある〉     ◯『五十鈴川狂歌車』〔江戸狂歌・第六巻〕千秋庵三陀羅法師編・享和二年(1802)刊    「風流五十人一首」(「百人一首」をまねて仮装の画像と狂歌を配した狂歌本)   (刊記)「画工 北斎辰政/書 富士唐丸/享和二年壬戌孟陬 蔦屋重三郎板」
   ◯『狂歌萩古枝』〔江戸狂歌・第六巻〕浅草庵市人編・享和二年(1802)刊   (桑楊庵頭光七回忌(享和二年四月十二日)追善集)   〝月  俵屋宗理      花とちれ雪をしらけよ秋の夜はちからまかせの米のつき影〟    〈この宗理は北斎宗理であろうか、それとも北斎から宗理号を譲られた前名宗二の宗理であろうか。この狂歌が桑楊庵     光の七回忌の追善にあたってこの年に詠まれたのであれば、前名宗二の宗理ということになるのだが、この狂歌集に     は平秩東作のような故人のものも収録されているから、そうとも限るまい。北斎は北斎宗理名で狂歌を詠んでいるか     ら、この俵屋宗理を北斎と見ることはできると思う〉  ◯「国書データベース」(享和二年)   ◇黄表紙    時太郎可候画『新板塵劫記』「画作 時太郎可候」板元未詳  ☆ 享和三年(1803)     ◯「絵本年表」   ◇絵本(享和三年刊)    葛飾北斎画    『狂歌五十之歌見』一冊 葛飾北斎画 頭の光編〔目録DB〕    『嗚呼唇気楼』三冊 葛飾北斎画 感和亭鬼武作〔目録DB〕    『小倉百句』 一巻 川柳 画工北斎辰政 反古庵白猿序 西村源六板〔漆山年表〕    ◯『稗史提要』「青本之部」   ◇黄表紙(享和三年刊)    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 三馬 一九 可候 鬼武 三笑 石上 虚呂利 板本舎邑二 楓亭猶錦         萩庵荻声 徳永素秋 薄川八重成    画工の部 重政 豊国 可候 豊広 長喜 一九 春亭 秀麿 一九門人ゑい女    板元の部 鶴屋 蔦屋 榎本 西村 西宮 泉市 村田 岩戸 山口    ◯『黄表紙總覧』後編(享和三年刊)    時太郎可候    『不厨庖即席料理』「時太郎可候画作」蔦屋板    『胸中筭用嘘店卸』「時太郎可候画」 鶴屋板    葛飾北斎画    『嗚呼蜃気楼』「北斎画」曼亭鬼武作 山口屋板  ◯「国書データベース」(享和三年)   ◇黄表紙    可候画『和漢蘭雑話』「可候画」曼亭鬼武作 板元未詳    ◯「読本年表」〔目録DB〕(享和三年刊)     葛飾北斎画 『蜑捨草』葛飾北斎画 山家人広住作〈広住は流霞窓広住〉    ◯「咄本年表」〔目録DB〕(享和三年刊)    葛飾北斎画『はしか落噺』穿山甲(葛飾北斎一世)    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(享和三年刊)    北斎辰政画『絵本 小倉百句』挿絵〔跡見1198 異種〕〔目録DB〕    奥付「画工 北斎辰政」反古庵白猿序 西村源六以下三板元 享和三年正月刊  ◯『細推物理』〔南畝〕⑧351(享和三年閏一月十九日明記)  〝名和氏にて、北斎をむかへて席画あり。山道高彦なども来れり。島氏の女、ならびに赤の歌妓お久米来    れり〟    〈名和氏は「細推物理」に頻出、遊山や酒宴での交遊が多い。山道高彦は狂歌名で山口彦三郎という田安家臣、馬蘭亭     とも称した。南畝とは天明初年以来の交渉がある。この頃、馬蘭亭での狂歌会は毎月二十五日に行われており、南畝     もよく参加していた。「島氏の女」は島田お香と言い南畝の妾とされる人。そして赤坂の芸者。この席画は賑やかな     こと、芸者の三絃付きであった〉    ◯『細推物理』〔南畝〕⑧359(享和三年三月十五日明記)  (竹垣柳塘の亀沢町別荘にて)  〝烏亭焉馬はとくより別荘にして、北斎をもよびて席画あり〟    〈竹垣柳塘は幕臣、南畝とは古書画等で同好の士。烏亭焉馬とも南畝は大変親密であった。この頃の北斎、生活の糧の     中にはこのような席画もあったのであろうか〉    ◯「日本古典籍総合目録」(享和三年刊)   ◇黄表紙    葛飾北斎画『和漢蘭雑話』   ◇読本    葛飾北斎画『蜑捨草』葛飾北斎画 山家人広住(流霞窓広住)作    ☆ 享和年間(1801~1803)    ◯『増訂武江年表』2p27(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「享和年間記事」)   〝江戸浮世絵師は、葛飾北斎辰政(始め春朗、宗理、群馬亭、後北斎戴斗、又為一と改む)、歌川豊国、    同豊広、蹄斎北馬、雷洲(蘭画をよくす)、盈斎北岱、閑閑楼北嵩(後柳居)、北寿(浮絵上手)、葵    岡北渓〟    ☆ 文化元年(享和四年・1804)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化元年刊)    葛飾北斎画    『みそか葛籠』初編一冊 画狂人北斎画 方六庵白水撰      『山満多山』 二冊 北斎画 大原亭主人撰 蔦屋重三郎板    ◯『黄表紙總覧』後編   ◇黄表紙(享和年刊)〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    時太郎可候画    『娘敵討陸友綱』「時太郎可候画」虚呂利作 岩戸屋板    葛飾北斎画    〔年男笑種〕〔葛飾北斎画・紀尾佐丸作・板元不明〕    『はなし亀』〔葛飾北斎画〕十口舎富久助作 鶴屋金助板  ◯「国書データベース」(文化元年・享和四年)   ◇黄表紙    時太郎可候画    『【前編ハ猿仇討全部 後編ハ陸友綱合巻】両面出世鑑』内新好序 岩戸屋板     前編「豊国画」「虚呂利戯作」後編「時太郎可候画」「虚呂利作」    ◯「読本年表」〔目録DB〕(享和年刊)    葛飾北斎画『小説比翼文』北斎辰政画 曲亭馬琴作    ◯「咄本年表」(享和年刊)    葛飾北斎画    『年男笑種』紀尾左丸作〔『噺本体系』巻十八〕    〈文政二年刊・咄本『落咄福寿草』に関する「所収書目解題」より。なお書名は『落咄福寿草』ではなかったかとする〉    『はなし亀』葛飾北斎画 十口舎富之助作〔目録DB〕  ☆ 制作年未詳(寛政~文化)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(制作年未詳)   ③「画狂人北斎画」(注連飾りの雪の鳥居 恵方詣りする揚げ帽子の婦人)1-5/23    「役柄堅木」狂歌賛〈標題あるも不鮮明。大小表示不明〉   ③「北斎画」(農村女房の若菜摘み)1-18/23    「具連堂凹・狂歌堂」狂歌賛〈大小表示不明。春興の配り物か〉    ☆ 文化元年(1804)  ◯「国書データベース」(文化元年・享和四年)   ◇黄表紙    時太郎可候画    『【前編ハ猿仇討全部 後編ハ陸友綱合巻】両面出世鑑』内新好序 岩戸屋板     前編「豊国画」「虚呂利戯作」後編「時太郎可候画」「虚呂利作」    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化元年)   ⑧「画狂人北斎画」Ⅰ-21「鼠の雪だるま」(吉原の路上、鼠の雪だるまに目鼻を入れるを見る      飄客・振袖新造・筆箱をもつ禿の図)野道春◎の狂歌に「甲子のはる」とあり     〈塀越しに咲く紅梅に大の月。筆を持つ「喜」の字羽織のものは喜助(若い者)か〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(文化元年刊)    葛飾北斎画『山満多山』一冊 葛飾北斎画 小野炭方撰 蔦屋重三郎板  ◯ 文化元年四月十三日、護国寺境内における葛飾北斎の席画、大達磨半身像に関する記事    北斎曲筆 大達磨(『一話一言』所収記事ほか)    ◯『増訂武江年表』2p30(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化元年」)   〝三月より護国寺観世音開帳あり。四月十三日画人北斎本堂の側に於いて、百二十畳敷の継紙へ半身の達    磨を画く〟      ◯「(大田南畝)書簡 76」〔南畝〕⑲104(文化一年十月十二日付)  〝近藤重蔵へ北斎画五十三次摺物壱帖、〈中略〉貸し置候〟    〈長崎滞在中の南畝より長男宛の書簡。近藤重蔵は北方領土の探検で知られた幕臣。南畝とは同僚であり、書籍収集お     よび書誌等の面で同好の士。「東海道五十三次」の摺物は享和四年正月(二月十一日改元して文化一年)の出版。南     畝は発売と同時に入手したのであろう。もっとも南畝の「蔵書目録」等には見えない〉    ☆ 文化二年(1805)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化二年刊)    葛飾北斎画『百囀』一冊 東都画工画狂人北斎 桑楊庵序 西村屋与八板    ◯『洒落本大成』第二十三巻(文化二年刊)    画狂人画『野圃の玉子』増井山人作    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化二年刊)    葛飾北斎画    『復讐竒話繪本東嫩錦』画狂老人北斎画 小枝繁作 〈文化六年刊の後印本がある由〉    『新編水滸画伝』初編初帙 葛飾北斎画 曲亭馬琴作    ◯「咄本年表」〔目録DB〕(文化二年刊)    葛飾北斎画『筆はじめ』葛飾北斎画    ◯「絵入狂歌本年表」(文化二年刊)    葛飾北斎画    『百囀』一冊「東都画工 画狂人北斎」桑楊編 西村屋与八板〔目録DB〕      〝江戸 子をしかる母のことばにお◎さまのあれめを見よや春の青柳 蹄斎北馬〟    『狂歌かゆ杖』一冊 菱川宗理・北馬其他 版元不記載〔狂歌書目〕    ☆ 文化三年(1806)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化三年)   ①「かつしか北斎画」(文化三年の暦帳と印籠)14/68〈大小表示不明〉    「浅瀬菴永喜」狂歌賛     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(文化三年刊)    葛飾北斎画    『遠州流挿花百瓶図式』一冊 菱川宗理画 如月庵馬丈著    『北斎疏画』葛飾北斎画(注記「絵本の研究」による」)    ◯『黄表紙總覧』後編   ◇黄表紙(文化三年刊)    時太郎可候画『恩愛猿仇討』後編「時太郎可候画」岩戸屋板     〈備考、文化元年板『恩愛猿仇討』と『娘敵討陸友綱』の改題再板本。前者を前編、後者を後編とする。      なお前編にあたる『恩愛猿仇討』は歌川豊国画〉    ◯「読本年表」(文化三年刊)    葛飾北斎画〔江戸読本〕    『春宵竒譚繪本璧落穂』前編 葛飾北斎画 小枝繁作    葛飾北斎画〔目録DB〕    『石堂丸苅萱物語』 葛飾北斎画 曲亭馬琴作    『新田功臣録』前編 葛飾北斎画 小枝繁作    『霜夜星』     葛飾北斎画 柳亭種彦作    ◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)     葛飾北斎画?『神子』(長唄)画工北斎歟 大坂屋板 〔文化03/02/08〕内題「いなか神子」     〈北斎画歟とあり、断定出来ないようである〉    ◯『葛飾北斎伝』p98(岩波文庫本の校注者・鈴木重三の脚注)   「馬琴作・北斎画の読本『苅萱後伝玉櫛笥(かるかやごでんたまくしげ)』の馬琴序に「丙寅年画工北斎、    わが著作堂に遊ぶこと、春より夏のはじめに至て三四箇月」とある文から、文化三年(一八〇六)に北    斎が馬琴宅に食客となっていたと解されている」    ☆ 文化四年(1807)
 ◯『市川白猿追善数珠親玉』(立川談州楼序・文化四年正月刊)    〈白猿追悼の肖像画。早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」所収の画像より〉      (白猿の似顔絵)「向島隠居之像葛飾北斎写之」      (他に豊国画・鳥居清長筆・笑艸筆・六十四歳春好左筆 菱川宗理画・政奴画・辰斎画・北鵞画)      〈追悼詠〉    〝鳴神のをとに涙の大雨は此世の注連のきれてゆく雲 歌川豊国〟    〝いにしへ一切経を取得たるハ三蔵法師 今台遊法子と戒名もいとたふとし       念仏の百首をよみて西遊記孫悟空にもまさる石猿 かつしか北斎〟    〝写してもうつりてかなし氷面鏡 春好〟    〝はつ雪やきゆるものとハ知ながら 菱川宗理〟    〝我みちの筆も涙のこほりかな 清長〟    〝秀鶴が身まかりし比の句をおもひいでゝ 今又念仏百首     よまれて極楽の舞台に同座せらるゝ御仏にゑかう申て      仲蔵がましじやとおもふ暑哉といひしましらも南無阿弥陀仏 尚左堂俊満〟    ◯「合巻年表」〔目録DB〕(文化四年刊)    葛飾北斎画『遊君操連理餅花』葛飾北斎 曲亭馬琴     〈これは享和四年(1804)刊『小説比翼文』の改題後印本とされる(高木元著『江戸読本の研究』「第三節 馬琴      の中本型読本」)〉    ◯「読本年表」(文化四年刊)    葛飾北斎画〔江戸読本〕    『鎭西八郎爲朝外傳椿説弓張月』前編 葛飾北斎画 曲亭馬琴作    『新編水滸画傳』 初編後帙 葛飾北斎画 曲亭馬琴作    『墨田川梅柳新書』葛飾北斎画 曲亭馬琴作    『新累解脱物語』 葛飾北斎画 曲亭馬琴作    『敵討裏見葛葉』 葛飾北斎画 曲亭馬琴作    『そのゝゆき』  葛飾北斎画 曲亭馬琴作    葛飾北斎画〔中本型読本〕    『苅萱後傳玉櫛笥』葛飾北齋画 曲亭馬琴作    葛飾北斎画〔目録DB〕    『忠孝潮来府志』 葛飾北斎画 談洲楼焉馬作    『新田功臣録』  後編 葛飾北斎画 小枝繁作〈文化四年序〉    『阿波濃鳴門』  葛飾北斎画 柳亭種彦作    ☆ 文化五年(1808)    ◯「合巻年表」(文化五年刊)    葛飾北斎画    『敵討身代利名号』表紙「葛飾北斎画」絵題簽「北斎画」曲亭馬琴作 鶴喜板 ②     〈補注は「北斎が馬琴の合巻に挿画した唯一のもの」とする〉    『狂訓己が津衛』 画狂人北斎画 十返舎一九作 板元未詳 ⑥     〈備考に「表紙は貞重画」とあり〉    『北畠女教訓』 「画狂人北斎画」十返舎一九作 岩戸屋板 ①    『勇略女教訓』 「画狂人北斎画」十返舎一九作 鶴金板  ①    『仇討報蛇柳』  葛飾北斎画  松下井三和(唐来三和)作 蔦重板 ①    ◯「読本年表」(文化五年刊)    葛飾北斎画〔江戸読本〕    『鎭西八郎爲朝外傳椿説弓張月』後編 葛飾北斎画 曲亭馬琴作    『春宵竒譚繪本璧落穂』後篇 葛飾北斎画 小枝繁作 〈前編文化三年〉    『頼豪阿闍梨恠鼠傳』 前編 葛飾北斎画 曲亭馬琴作〈前編正月、後編同年十月刊〉    『三七全傳南柯夢』葛飾北斎画 曲亭馬琴作    『近世怪談霜夜星』葛飾北斎画 柳亭種彦作    『由利稚野居鷹』 葛飾北斎画 萬亭叟馬作    『阿波之鳴門』  葛飾北斎画 柳亭種彦作〈文政七年(1824)に後印本〉    『飛弾匠物語』  葛飾北斎画 六樹園飯盛作    『國字鵺物語』  葛飾北斎画 芍薬亭長根作    葛飾北斎画    『復讐快事駅路春鈴菜物語』俵屋宗理・歌川豊広画 節亭琴驢作〔中本型読本〕〈琴驢は岡山鳥〉    『安褥多羅賢物語』葛飾北斎画 振鷺亭作  〔目録DB〕    『雙蛺蝶白糸冊子』葛飾北斎画 芍薬亭長根作〔目録DB〕             ◯『馬琴書翰集成』年不詳五月二十三日(馬琴宛・葛飾北斎 第六巻・書翰番号-来54)⑥273   (文化五年と推定される)    〝(馬琴筆朱書貼紙「北斎、はじめは剞劂をまなびしが捨て画を勝川春章にまなびて、画名を春朗とい    へり。後に俵屋宗理が名氏を冒し、又その名氏を弟子にゆづりて北斎に更め、又これを弟子にあたへて    戴斗と更む。只北斎のミ世にあらハれたり。居を転ずると名ヲかゆるとは、このをとこほどしば/\な    るハなし。壮年、その叔父御鏡師中嶋伊勢が養子になりしが、鏡造りのわざをせず、こと子をもつて職    を嗣せしが、そハ先だちて身まかれり〟       〝(表書「曲亭先生 机下  かつしか北斎拝」)    尚々、大坂之儀、参上御面談ニて可申上候。以上昨日は京橋へ御出之由、御空庵へ下画差上申候。今日    御校合相済候へば、何卒此ものへ被進可被下候。当年中出来之積りニ相認メ可申候。明朝は平林主人被    参候間、其節為朝之写本三丁斗り持参被致候間、是又御差図可被下候。御遠慮等、決而御無用ニ御座候。    以上      二白。御家内様へもよろしく御寄声奉願上候。以上       五月廿三日〟    〈北斎が馬琴の許に届けた「下画」は「為朝之写本」「平林主人」とあるから『椿説弓張月』のものと考えられる。平     林主人は「弓張月」の板元平林庄五郎。従って「かつしか北斎」の署名で使いにもたせたこの手紙は、文化三年~文     化七年(「弓張月」の前編は文化四年の刊行、残編は文化八年)の間と考えられよう。「hokusai-paintings.com」     を主宰する久保田一洋氏のご示教によると、「大坂之儀」とは「文化五年十月に、大阪で『椿説弓張月』が興業され     た時に、それに関して何らかの打ち合わせに、馬琴のもとに改めて赴くという意だと思われます。その摺物が残って     おり、そういった類の打ち合わせと推測されます」とのことで、文化五年のものとされている。従いたい。ところで     「御差図」とは馬琴の画稿上の指示をいうのであろうか。「御遠慮決して御無用」と北斎はいう。満々たる自信であ     る。しかし馬琴にすれば〝北さいも筆自由ニ候へ共、己が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ〟で意の     ままにならない北斎であった。(天保十一年(1840)八月二十一日 殿村篠斎宛(第五巻-書簡番号-56)⑤201参照)     所詮、自分の画稿のままを画工に指図する馬琴と、自身の創意を画中に反映させようとする北斎とは相容れないので     ある。馬琴が北斎から離れたのもやむを得ない〉      〈下記『歌舞伎年表』⑤416(伊原敏郎著・昭和三十五年刊)の項目参照。この下画は大坂中の芝居、十一月の顔見世     『嶋巡月弓張(シマメグリツキノユミハリ)』の摺物用と思われる。2010/04/18追記〉  ◯『本の覚』(三村竹清著「本道楽」・昭和十四・五(1939-40)年)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「笠つくしほめ言葉」   〝三丁一冊、首の半丁に色刷の芝居絵ありて、大阪中の芝居惣座中を誉る笠つくし、江戸曲亭馬琴述、葛    飾北斎画、筆耕駒知道、剞劂小泉新八、板元江戸深川森下町榎本平吉とあり。      笠つくしほめこと葉    江戸 曲亭馬琴述    (本文省略。本HPのTop「その他(明治以降の浮世絵記事)」所収の「三村竹清集」に全文あり)〟   〈この冊子の出版年代については、馬琴自身が『近世物之本作者部類』の中で次のように言及している〉   「この年の秋九月 大坂道頓堀中の芝居にて この読本の趣を狂言にとり組て 名題を舞扇南柯話(ハナ    シ)といふ」(木村三四吾編 八木書店 1988年刊)   〈「この年」とは『三七全伝南柯夢』が出版された文化5年(1808)をいう。「舞扇南柯話」は、立命館ARC「日本芸能・演劇    総合上演年表データベース」によると、同年9月(菊月)大坂中の芝居において上演されている。この冊子の外題は『大阪    中の芝居惣座中を誉る笠つくし』で、板元の木蘭堂榎本平吉は『三七全伝南柯夢』の板元でもあった。なお、この冊    子の書誌・翻刻・画像が、高木元氏の「『笠つくし褒め詞』について」という論考の中にあるので紹介する〉    「笠つくし褒め詞」について 書誌・翻刻・画像 高木元著    ◯『浮世絵師之考』(六樹園(石川雅望)編・文化五年八月三日補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝宗理【春章門人なれども破門の後独歩し一流を立つと云】    これまた狂歌すりもの絵に名高し、浅草第六天神脇に住す。すべてすりものは、錦画に似ざるを貴ぶと    ぞ、初め春朗・俵屋宗理の名をつぎて二代目を称したれど、寛政末の頃北斎と改む【時太郎可候トモ    門人多し】〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』をベースに、勝川派からの破門記事と住所を加筆〉    ◯『柳亭種彦日記』p115 文化五年八月八日   〝北斎老人北雲会ふれにきたる〟    〈北斎門人、葛飾北雲。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、版本は文化十三年から文政九年にかけ     て、絵本が一点、読本六点である。署名はすべて東南西北雲。種彦作品の挿画担当はない。北斎は弟子のために画会     の宣伝もしたのであろうか〉     ◯『柳亭種彦日記』p117 文化五年八月十七日   〝北斎老人の許を訪ひ、あけ巻かんばん袋へうしをたのむ〟    〈「あけ巻」とは読本『総角物語』後編(柳亭種彦作・葛飾北斎画・文化六年刊)。「かんばん袋へうし」は看板袋表     紙であろうが如何なるものか未詳〉    ◯『歌舞伎年表』⑤416(伊原敏郎著・昭和三十五年刊)   (「文化五年(1808)」の項)   〝十一月十三日、大阪嵐座(中)かほみせ「嶋巡月弓張(シマメグリツキノユミハリ)」    馬琴述、北斎画の摺物出来る。江戸本所松坂町二丁目平林庄五郎版なり。為朝を中央に二人の塩汲女を    左右に「祝言 為朝の名題 芝居にあくるかな弓はり月のいるあたり とて    蓑笠隠居 あづまぶり新曲弓張月(文句略す(ママ))    余が著述の稗説(ヨミホン)「弓張月」に据(ヨリ)て、浪花中の芝居の顔見世、今茲(コトシ)仲冬十三日より、新    に場をひらくと聞えしに贈るとて、かつしかの翁の画るまゝに書肆平林堂の需に応じて、曲亭馬琴のぶ    並書〟    〈上記『馬琴書翰集成』年不詳五月二十三日 馬琴宛・葛飾北斎(第六巻・書翰番号-来54)参照。ところで「馬琴述」     以下の記事の出典は何であろうか〉    ☆ 文化六年(1809)    ◯「合巻年表」〔目録DB〕(文化六年刊)    葛飾北斎画『玉櫛笥石堂丸物語』葛飾北斎画 曲亭馬琴作 伏見屋嘉兵衛板(大坂)     (注:石堂丸刈萱物語の改題本、日本小説年表による)    ◯「読本年表」(文化六年刊)    葛飾北斎画〔江戸読本〕    『假名手本後日之文章』葛飾北斎画 談洲楼焉馬作    『山桝太夫榮枯物語』 葛飾北斎画 梅暮里谷峨作    『於陸幸助戀夢艋』  葛飾北斎画 楽々庵桃英作〈後編は鬼卵作・馬円画で文化十一年刊〉    『忠孝潮來府志』   葛飾北斎画 談洲楼焉馬作    葛飾北斎画〔中本型読本〕    『総角物語』  後編 葛飾北斎作 柳亭種彦作     ◯『柳亭種彦日記』文化六年(1809)   ◇六月四日 p123   〝今暁八ッ頃、三筋町西町に火事あり、火事見まひに三筋町へゆく、それより北斎方へゆき、日めもすあ    そぶ〟    〈種彦は下谷御徒町住。三筋町は目と鼻の先。武家屋敷街だから知り合いの見舞いにいったのであろう。「それより北     斎方へゆき」とある、北斎の住居は蔵前浅草近辺か〉     ◇十二月十一日 p131   〝梭江君子ぇ手紙遣す、北斎主より宝船板来る〟    〈梭江は柳川藩留守居・西原新左衛門(号松羅館)。北斎から来年正月の初夢に用いる七福神宝船の板画が届いたので     あろう〉     ◇十二月廿二日 p132   〝蝶々許一寸訪ひ、桃川子訪にゆき、雪ふり出せしまゝ傘かり来る(中略)北斎歳暮にきたるよしあわず〟    〈蝶々は蝶々庵百花か〉    ☆ 文化六年(1806)  ◯『浅間嶽面影草紙』読本 蘭斎北嵩画 柳亭種彦作 文化六年正月刊〔国書DB〕    巻末〝俵藤太一代記 玉の井冊子 北斎の画(ゑ)種彦絵釈(ゑとき)の読本 来午の新板 当冬本うり出       し申度〟    〈「来午」とは七年。「俵藤太一代記」とは『勢田橋竜女本地』(文化8年刊)か。「玉の井冊子」は不明〉    ◯『街談文々集要』p167(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化六年(1809)「三朝之改名」)   〝(文化六年)当顔見世、市村座大名題『貞操花鳥羽恋塚』尾上松助、松録と改名、尾上栄三郎、松助と    改名【忰にて二代目松助】、此節、山東京伝狂歌あり、      子の日する野辺の小松にゆづる名を千代のためしにひゐき連中    三芝居、顔見世の内、第一の大当り、遠藤武者盛遠、松本幸四郎・渡辺左衞門尉亘、板東三津五郎、両    人石段のタテ大評判なり、袈裟御前、岩井半四郎、崇徳院蔵人満久、植木売、松実源朝長、松助【栄三    郎改名】・清盛【しばらくうけ】、義朝の霊、松緑【松助改名】・渋谷金王【しばらく】、猪の早太、    八丁磔、嘉平次、団十郎、余爰ニ略す、歌舞伎年代記ニくわし。    此節二番目狂言招牌一枚、北斎画キたり、中評なり、看板は鳥居ニとゞめたり〟    〈歌舞伎の看板絵といえば、鳥居派の様式がやはり絶対的なようで、北斎をもってしても、評判はいまひとつなのであ     る。文化八年にも看板を画いた記事あり〉    ◯『街談文々集要』p133(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化六年(1809)」記事「時世為変化」)   〝(加藤曳尾庵の随筆『我衣』からの引用記事)    寛政の末ニ、山東京伝子著せし忠臣水滸伝といへる、五冊物、絵入読本ニ、通俗水滸伝の如く口絵とい    ふ物を附て、世ニ流布せしより、近来五冊ものゝ大ニ行れて、初春を待兼て、来ル年の冬の初より争ひ    求て視る事はやる。作者は馬琴【滝沢清右衛門】一九【重田】振鷺亭【猪苅】焉馬【大和屋和助】芍薬    亭【本あミ】真顔【北川嘉右衛門】六樹園【ぬりや七兵へ/宿や飯もり】鬼武・小枝繁・三馬・種彦・    京山其外猶あるべし、或ハ中本・小本夥しく、画ハ名におふ豊国・北斎・豊広・国貞、是等其英傑成ル    ものなり〟    ☆ 文化七年(1810)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化七年刊)    葛飾北斎画    『己癖君羊夢多字画尽』一冊 葛飾北斎戯画 涎操著 蔦屋重三郎板    『仝』後編      一冊 葛飾北斎戴斗画 蔦屋重三郎板    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化七年刊)    葛飾北斎画    『鎭西八郎爲朝外傳椿説弓張月』拾遺 葛飾北斎画 曲亭馬琴作    『雙蛺蝶白糸冊子』葛飾北斎画 芍薬亭長根作    『阥阦妹背山』  葛飾北斎画 振鷺亭主人作     「江都本荘両国橋辺隠士 縦画生 葛飾北斎〔亀出蛇足〕印」〈目録DB画像〉  ◯『却説浮世之助話』巻末広告(合巻・歌川国貞画・式亭三馬作・鶴屋金助板)   (早稲田大学「古典籍総合データベース」の画像より)   〝東海道五十三駅(とうかいだうごじふさんつぎ)北斎画 出来     箱入にしき絵秋葉ほうらい寺いり〟    〈この東海道五十三駅は鶴屋金助板。秋葉街道の鳳来寺が入る特製。箱入とあるからセットで販売されたか〉    ◯『柳亭種彦日記』文化七年(1810)     ◇正月十日 p136   〝北斎年初ニきたる。種彦道ニてあふ、来年の大小もらふ、北嵩子晴山子夜五ッ半時迄物語ル〟   ◇正月十二日 p137   〝一昨日北斎主来、辛未年大小もらふ、なくしそふなる故かきつけおく     大 二四六七九十十二     小 正二(閨)五八十一      凡三百八十四日也〟     ◇二月朔日 p140   〝廻状来ル、石井氏ぇ順達、昼前北嵩子の家へ行、北斎子へゆきおらんだの十露盤けいこなす、夜こりう    子とひ留守、玉豕子とふるす、晴山子これもるす、ついに縄人許ニ而晴山子ニあふ〟    〈石井氏は未詳。「おらんだの十露盤けいこ」とは如何なるものか〉   ◇二月十二日 p143   〝北斎子八代粂(クメ)蔵殿より使来ル。石原へ刀をかへす、少し風たつ    今日もしやくけにて筆をかます    夜石原酔水亭へ行、駒人来ル〟     ◇二月廿六日 p144   〝南江子政吉飯島氏来ル、種彦北斎主知道ぬし訪ふ、知道ぬし留守にてあわず〟    〈南江子、政吉飯島氏は未詳。知道は筆耕石原知道〉     ◇三月廿六日 p148   〝種彦昼頃より北斎子知道子の許(モト)をとふ、(中略)    書画および三味線花の会、なにゝもあれ会となのつきたるハ、ミな法度となるよしきく、又北斎之弟子    北周名をあらためて雷周とかよぶ者、祖母孝行にて銀三枚一せう一人ふち、御ほうびにくだしおかれし    由きく、いまにはじめぬことながらありがたき御代なり、雷周住居ハしんばざいもく丁とをり松屋橋と    かいふかたハら也〟    〈四月朔日記事参照〉     ◇四月朔日 p149   〝此頃北斎門人北周改名して雷周といふ者、祖母ぎんに孝行ゆへ、白銀三枚ぎんへ一人ぶちくださる、住    居ハ本材木町七丁目なり、此孝行之次第北斎かたよりたのミ来リ、梅塢主人とゝもにさくをなしけるが、    北斎かたよりとりにきたらず、一九がさくにて先へねがひにいでたる由、これらの故ニや〟    〈北周の雷周改名と祖母孝行で褒美を頂戴したという記事。梅塢は如実道人、荻野梅塢。喜多村筠庭の考証『瓦礫雑考』     (文化十五年(1818)刊)に序を寄せた人。その『瓦礫雑考』(『日本随筆大成』第一期二巻)の解題には「梅塢名は     長、字元亮、号は蛇山病夫とも称した。幕府天守番で、台教に精しく仏教学者として当時名を成していた」とある。     また、文政三年(1820)、平田篤胤の『仙境異聞』によれば、天狗にさらわれて仙境に遊歴したという寅吉の見聞を妄     説として退けた人でもあり、文政八年には名妓玉菊の墓誌『遊女玉菊之墳記』を残している。北斎が依頼した雷周の     孝行次第は、結局、十返舎一九の原稿が先になったようである〉   ◇四月廿六日 p150   〝北斎子とふ〟     ◯『滝沢家訪問往来人名録』上p52(曲亭馬琴記・文化七年一月十六日)   〝庚午(文化七年)春処々発会覚 ◯印ハ出席  ◯正月十六日 両国三河や 北斎    〈両国三河屋での北斎画会。馬琴は出席〉    ◯『歌舞伎年表』⑤459(伊原敏郎著・昭和三十五年刊)   (「文化七年(1810)」の項)   〝十一月市村座、顔見世「四天王櫓礎」    顔見世看板、此時一枚、北斎画なりしは珍らし〟    ◯『葛飾北斎伝』p88   〝文化七年、北斎市村座顔見世狂言の看板を画く。人々奇なりとて、行きて見る者多かりしが、人物痩せ    て、甚(はなはだ)見苦しかりしかば、歌舞伎の画看板は鳥居風にかぎれりと、人々云ひあへり。おの    れの自(みずから)悔(くい)たりとぞ。【『類考』別本】。    (鳥居派に関する按記あり、曆)    蓋し北斎の画看板は、拙なるにあらず。人々見なれざる故に、排斥せしものならん〟    〈岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏曰く「別本とするも、従来偶目する『浮世絵類考』諸本には見当た     らず」と〉    ☆ 文化八年(1811)    ◯「合巻年表」(文化八年刊)    時太郎可候画『月熊坂』時太郎可候作・画 蔦重板 ①    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化八年)    葛飾北斎画    『蘭菊の幤帛尾花の幤帛勢田橋竜女本地』葛飾北斎画 柳亭種彦作    『鎭西八郎爲朝外傳椿説弓張月』残編  葛飾北斎画 曲亭馬琴作    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB画像〕(文化八年刊)    葛飾北斎画『瀬川仙女追善集』一冊 遠桜山人(蜀山人)序・四方歌垣跋    (菊図) 豊国・鳥居清長・栄之・辰斎・北馬・秋艃・曻亭北寿・五清・春亭・春英・北斎等画    (追善詠)三馬・飯盛・馬琴・京伝・京山・焉馬等     〈〔目録DB〕は成立年を文化七年とするが、三代目瀬川菊之丞は文化七年十二月五日没、この追善集は一周忌のも      のである。すると刊年は文化八年ではなかろうか〉    ◯「日本古典籍総合目録」(文化八年刊)   ◇滑稽本    葛飾北斎画『滑稽二日酔』二冊 葛飾北斎画 十返舎一九作    △『近世物之本江戸作者部類』p174(曲亭馬琴著・天保五年成立)   〝(『椿説弓張月』)文化七年に至て結局団円す。八年の春、板元平林庄五郎、作者に報ふに潤筆の外に    金十両を以す。且北斎に為朝の像を画かせ、曲亭に賛を乞ふて、これを懸幅にして祭れり、その贏餘多    きをもて徳とする所也〟      ◯『街談文々集要』p243(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化八年(1811)」記事「天民翁書幕」)   〝辛未霜月、葺屋町市村座ニおゐて、沢村源之助、四代目沢村宗十郎と改名す、小田原町より宗十郎へ贈    りもの、幕壱張、沢村宗十郎丈へ、小田原町よりといへる文字を、詩人天民書しなり、むかしより芝居    の幕などを、かゝる人の書たるといふ事をきかず、めづらしき事なり、去年も当座の顔ミせに看板壱枚    ハ、葛飾北斎が画し也、是も昔より鳥居家にて画き来りしに、時うつりかハれば、いろ/\さま/\に    なりゆくものなり、末々にハ二八そばや・煮うりミせのかんばんなども、諸家某が書て、奸坊の印など    押すやうにもなりゆくべし、筆任セ抄書〟    〈天民は大窪天民。北斎が看板を画いたという記事は文化六年の顔見世の時、文化八年のこの記事では「去年も」とあ     るから、あるいは七年も画いたか。「筆任セ」は文宝亭(二世蜀山人)の書留〉      〈この芝居は『厳島雪の官幣(ミテグラ)』。文化六、七と連続して市村座の顔見世興行の絵看板を担当したのである。上     記『歌舞伎年表』⑤459参照。2010/04/18追記〉    ☆ 文化九年(1812)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化九年刊)    葛飾北斎画    『堀川太郎百首題狂歌集』一冊 葛飾北斎・曲阿・閑林・菊雞筆 六樹園序 蔦屋重三郎    『略画早指南』初編 戴斗画 北斎老人 鏡裏庵梅年序 角丸屋甚助・鶴屋金助板    『画道独稽古』三冊 北斎画 蔦屋重三郎板     〈〔目録DB〕は『略画早指南三編 画道独稽古』とし文化十二年刊とする〉     ◯「読本年表」   ◇読本(文化九年刊)    葛飾北斎画〔江戸読本〕    『三七全傳第二編占夢南柯後記』葛飾北斎画 曲亭馬琴作    『青砥藤綱摸稜案』前・後集葛飾北斎画 曲亭馬琴作〈前集は正月刊、後編は同年十二月刊〉    『經島履歴松王物語』葛飾北斎画 小枝繁作    葛飾北斎画〔目録DB〕    『北越奇談』葛飾北斎画 橘茂世作    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕〔白倉〕(文化九年刊)    葛飾北斎画『つびの雛形』色摺 大判組物 色摺 十二枚揃 文化九年     序「(前略)彼(かの)菱川が十二番(つがひ)を写してより ながれは絶ずしてしかも原(もと)の       画風にあらず(後略)唇でとるみす紙に 女好軒主人しるす」     14図 屏風の書に「紫色雁高書」     (白倉注「女好軒主人は渓斎英泉、紫色雁高は英泉か。従来北斎画か娘のお栄(応為)画かとの二説あるが、北斎工房      作と考えた方がよかろう。そこに英泉が関与していたらしい」)    ◯『北斎漫画』初編(文化十一年(1814)刊)    (半洲散人の序、文化壬申(九年 1812)陽月(十月)、北斎の名古屋滞在記事)   〝今秋、翁たま/\西遊して我が府下に留る。月光亭墨仙と一見相得て驩はなはだし 頃亭中に於て品物    三百余を図をうつす。仙仏士女より初て鳥獣草木にいたるまで、そなはざることなく(以下略)〟    〈「驩(ヨロコビ)はなはだし 頃(シバラク)」と判読してみたが自信はない。文化九年の秋、北斎が名古屋の牧墨僊宅に滞在     し、その間に画いた森羅万象の図像、これが『北斎漫画』の原稿になったようだ。なお、これに「漫画」の名称を与     えたのは北斎自らとある〉    ☆ 文化十年(1813)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十年刊)    葛飾北斎画    『北斎画譜』一帖 近江屋与兵衛他板    『手ぐねふり 勝鹿図志』一冊 雪山 等琳筆 北斎筆 金堤画・編                大田元貞序    ◯「読本年表」(文化十年刊)    葛飾北斎画     『小栗外傳』葛飾北斎画 小枝繁作  〔江戸読本〕    『初瀬物語』葛飾北斎画 栗杖亭鬼卵作〔目録DB〕    『皿皿郷談』葛飾北斎画 曲亭馬琴作 〔目録DB〕    ◯『馬琴書翰集成』⑥323 文化十年(1813)「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」    〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉    ☆ 文化十一年(1814)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十一年刊)    葛飾北斎画    『北斎写真画譜』一帖 葛飾北斎画    『北斎漫画』  一編 東都画工葛飾北斎筆 半洲散人序 永楽屋東四郎板               尾陽名古屋校門人 北亭墨僊・東南西北雲    葛飾戴斗画    『略画早指南』三編 戴斗画(本書刊年不明なれども二編の次にのせたり)    『独学』   一冊 戴斗画 天狗堂熱鐵序 鶴屋金助他板    〈〔目録DB〕『略画早指南』後編・文化十一年序。『略画早指南三編/画道独稽古』文化十二年刊とする〉    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化十一年刊)    葛飾北斎画『寒燈夜話小栗外傳』葛飾北斎画 小枝繁作    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(文化十一刊)    葛飾北斎画『喜能会之故真通』色摺 半紙本 三冊     序「甲の小松寐にかよふ猫の恋する春の夕部(ゆふべ)徒然のあまりぬら/\と書のめすことしかり       つるんでぬけぬ戌のはつ春  紫雲菴 雁高誌」     〈これを甲戌の制作年とみなすと、文化十一年となるのだが。書誌データは刊年を記さず〉    ☆ 文化十二年(1815)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十二年刊)    葛飾北斎画    『浄瑠璃絶句』一冊 東都画工葛飾北斎筆 月光亭墨僊序 角丸屋甚助板    『北斎漫画』 二編 東都画工北斎改葛飾戴斗 六樹園序              校合門人 魚屋北渓・斗円楼北泉 名古屋校合門人 月光亭墨僊・東南西北雲           三編 東都画工北斎改葛飾戴斗 蜀山人序 角丸屋甚助板    『踊独稽古』 一冊 葛飾北斎画 藤田新三郎補正 鶴屋金助板     〈〔目録DB〕の別書名は『略画早指南三編 画道独稽古』〉    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化十二年刊)    葛飾北斎画    『文覺上人発心之記橋供養』葛飾前北斎翁・雷洲画 小枝繁作    『寒燈夜話小栗外傳』葛飾北斎画  小枝繁作     『皿皿郷談』    前北斎戴斗画 曲亭馬琴作    ◯「艶本年表」〔白倉〕(文化十二年刊)    葛飾北斎画『富久寿楚宇』大錦 十二枚組物 淫水亭女好(英泉)序 文化十二年頃     (白倉注「手彩色入り、後摺本『浪千鳥』および『會本佐勢毛が露』の原本。北斎画として間違いない組物で、彼の      代表作」)    ◯『六々集』〔南畝〕②234(文化十二年三月記?)  〝北斎漫画後編序  目に見へぬ鬼神をゑがきやすく、〈以下略〉〟    〈南畝の序。初編は文化十一年刊であった〉    ◯『七々集』〔南畝〕②277(文化十二年十一月記)  〝載斗子三体画法序  書に真行草の三体あり。画も又しかり。〈以下略〉    文化乙亥のとし雪のあした 蜀山人〟    〈天明の〝画工之部 春朗〟以来、南畝は北斎の存在を意識していたようだ。絵本の序を依頼されたのは、南畝の北斎     画に対する高い評価の現れと考えてよいのだろう。ことに寛政期の北斎摺物への評価は俊満とともに高い。また、席     画記事は享和三年のものしか残されていないが、これは日記の残っている年がたまたまその年しかなかったからなの     であって、おそらく記録のない他の年にも機会はけっこうあったような気がする〉    ☆ 文化十三年(1816)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十三年刊)    葛飾北斎画    『北斎漫画』五編 東都画工北斎改葛飾戴斗 六樹園序 角丸屋甚助板     〈〔目録DB〕はこの年四編と五編刊〉    『三体画譜』一冊 東都画工北斎改葛飾戴斗 蜀山人序 角丸屋甚助板     序 「乙亥のとし霜月雪ふりたる朝、蜀山人書」〈乙亥は文化十二年〉     刊記「東都画工 北斎改葛飾戴斗 同校合門人 魚屋北渓 斗円楼北泉/        尾陽名古屋校合門人 月光亭墨僊 東南西北雲」〔ARC古典籍ポータルデータベース画像〕    ☆ 文化十四年(1817)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十四年刊)    葛飾北斎画    『北斎漫画』     四編 東都画工北斎改葛飾戴斗 綘山漁翁識   角丸屋甚助板〈〔目録DB〕文化十三年刊とする〉     六編 東都画工北斎改葛飾戴斗 食山人文宝堂序 角丸屋甚助板     七編 東都画工北斎改葛飾戴斗 式亭三馬序   角丸屋甚助板     八編 東都画工北斎改葛飾戴斗 綘山序     角丸屋甚助板〈〔目録DB〕文政元年刊〉    『画本早引』初編 葛飾前北斎戴と老人筆 十返舎一九序 和泉屋市兵衛板    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(文化十四年刊)    葛飾北斎画『富久寿楚宇』一帖 葛飾北斎画 文化十四年頃刊      (注記「上製本に「浪千鳥」あり、改題本に「会本佐勢毛が露」あり、日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯ 文化十四年十月五日、名古屋における葛飾北斎の席画、大達磨半身像に関する記事     (事前に頒布された摺物および当日の様子を記した高力種信著『北斎大画即書細図』の抄出)
   北斎曲筆 大達磨    ☆ 文化十四年~十五年(1817~08)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「本所 画家・浮世画」〝戴斗 先北斎 号錦貨(ママ袋)舎 石原片町 中島鉄蔵〟    ☆ 文化年間(1804~1817)    ◯「絵入狂歌本年表」(文化年間刊)    葛飾北斎画    『日本歳時記狂歌集』一冊 戴斗(北斎の別号)文々舎撰 葛飾連〔狂歌書目〕    『狂歌大つとゐ』  一冊 北斎・蘭渓画 萩の屋等編〔狂歌書目〕    『狂歌三愛集』   一冊 北斎画 浅草庵編〔目録DB〕  ◯「おもちゃ絵年表」(文化八年~十三年刊)    葛飾北斎画    「京清水花見の図」「しんはんくミ上ケとふろうゑ 北斎画」大錦判 ⑨切組灯籠絵(2枚続)     丸屋文右衛門板 文化八年~十三年製(「極」印と地本問屋行事「蔦十」印あり) ◯『寛天見聞記』〔燕石〕⑤323(著者未詳・寛政~天保年間記事)   〝文化に合巻といふ草双紙出てより、画も豊国、北斎など巧を尽し〔頭書〕【北斎は合巻の画の板下をか    ゝず、黄表紙に少々あり】連年出板夥し〟    ◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸〟     ☆ 文政元年(文化十五年・1818)    ◯「絵本年表」(文政元年刊)    葛飾北斎画〔漆山年表〕    『伝心画鏡』一冊 東都画工 葛飾北斎筆 前川六左衛門板          序「文化十あまり五とせの春 城北滋賀雪丘散人識」          尾張名古屋門人 月光亭墨僊・戴璪・北鷹・月斎歌政    『秀画一覧』一冊 東都画工 葛飾北斎筆 雪丘山人序    『萍水奇画』二冊 東都北斎(人物)浪華立好斎(山水)永楽屋東四郎板    葛飾北斎画〔目録DB〕    『北斎漫画』八編 葛飾北斎画 角丸屋甚助他板    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文政元年刊)    葛飾北斎画『秀画一覧』一冊 北斎画 諸家同詠 自家出版?〈〔目録DB〕の統一書名は『伝心画鏡』〉    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕〔白倉〕(文政元年刊)    葛飾北斎画『津満嘉佐根』色摺 半紙本 三冊 文政元年     序「看板に偽(いつはり)なし然(しか)も大キな 鼻山人誌」     (白倉注「序題は「徒間佳左寐」なおこの序題を採つて、為永春水序、渓斎英泉の別の艶本がある」)    ◯「日本古典籍総合目録」(文政元年刊)   ◇絵本    葛飾北斎一世画『挿花四季詠』宗理画 森一訓編(早大の写本に「文化一三巣雲斎菱宗理写」とある由)    ◯『馬琴書翰集成』①39 文政元年(1818)五月十七日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-15)   (頭書)〔「雪中奇観」画工の事〕   〝古人玉山ハ、自然と板木の画に妙を得たる人也。さして学問ハなけれど、才子なるべし。著述の事ハい    ざしらず、此人世にありて絵をたのミ、野生著述いたし候はゞ、尤よろしかるべし。江戸ニては北斎の    外、この画をかゝすべきものなし。乍去、彼人ハちとむつかしき仁故、久しく敬して遠ざけ、其後ハ何    もたのみ不申、殊に画料なども格別の高料故、板元もよろこび申まじく候。しからバ、誰ト壱人ニ定め    ず、『東海道名所図絵』のごとく、唐画・浮世画、そのムキ/\ニて、より合画ニいたさせ可申哉。こ    れも画師一人ならねバ、諸方のかけ合、格別わづらハしく候へ共、山水などハ、江戸の浮世絵師の手際    にゆく事にあらず。又、婦人その外市人の形は、うき世絵ニよらねバ損也。両様をかねたるものは、北    斎のミなれども、右の意味合あれバ、より合画ニ可致哉と存候事〟    〈「雪中奇観」とは『北越雪譜』のこと。この当時、この書名は揺れ動いていた。一時、著者・鈴木牧之が挿絵を依頼     した京都の岡田玉山については、馬琴も高い評価を与えており、自分と組めば最高とさえ云っているが、しかし結局、     玉山は故人となり『北越雪譜』とは縁がなかった。では現在の江戸で、『北越雪譜』に相応しい画工は誰がというと、     唐画(山水画)と浮世絵両様に自在な北斎以外ないと、馬琴はいう。だが、北斎は「むつかしき」性格ゆえ敬遠され、     自分も読本の挿絵を頼まなくなってしまった。また画料も高く、版元も歓迎しまい。したがって、煩わしいが、唐画     と浮世絵の「より合画」にする必要があるのではないかと、馬琴の鈴木牧之宛の提案であった。もっともこれも実現     しなかったのではあるが。2011/07/14訂正〉    ☆ 文政二年(1819)    ◯「絵本年表」(文政二年刊)    葛飾北斎画〔漆山年表〕    『北斎漫画』     九編  東都画工北斎改葛飾戴斗 六樹園序 角丸屋甚助他板        (同 校合門人 魚屋北渓/斗圓楼北泉 尾陽名古屋校合門人 月光亭墨僊/月斎哥政)     十編  同上 ◎櫚台老人序(校合門人名、上掲九編に同じ)     十一編 柳亭種彦序 刊年不明 永楽屋東四郎板    『北斎画式』一冊 東都画工先北斎先生葛飾戴斗筆 東都景山処士 永楽屋東四郎他板             摂陽浪花校合門人 千鶴亭北洋/雪花亭北洲/春陽斎北敬    『画本早引』二編 前北斎戴斗筆 十返舎一九序(初編ハ文化十四年刊)    葛飾北斎画〔目録DB〕    『北斎水滸伝』一冊 葛飾北斎画 竹川藤兵衛板    ◯『噺本大系』巻十八「所収書目解題」(文政二年年刊)    葛飾北斎画『落咄福寿草』紀尾左丸作    〈改題、本書は文化元年刊の『年男笑種』を元板とし、その前半部分を新刻した嗣足再板本〉    ◯「日本古典籍総合目録」(文政二年刊)   ◇地誌    葛飾北斎画『木曾名所一覧』一帖 葛飾北斎〈版本ではなく写本〉    ☆ 文政三年(1820)      ◯「絵本年表」(文政三年刊)    葛飾北斎画    『北斎麁画』一冊 東都画工葛飾戴斗筆 酒人序 角丸屋甚助板〔漆山年表〕            (尾陽名古屋 校合門人 月光亭墨仙/戴璪/北鷹/月斎哥政)             〈金沢美術工芸大学図書館「絵手本DB」より〉    『良美灑筆』一冊 葛飾北斎画(注記「改題本に「北斎麁画」あり、絵本の研究による」)〔目録DB〕     ◯『増訂武江年表』2p65(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (文政三年の正月から八月の間に興行された大造の見世物記事)   〝麦藁張細工(同所(浅草奥山)へ出、七丈余りの青龍刀、十二支の額、其の外北斎の下絵にて見事なり。    大森の職人これをつくる)〟    <正月 見世物 造り物(虎)両国東広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「千里嶽 虎あそび 口上(略)」摺物 画工 北斎画    <二月 見世物 貝細工 浅草奧山・麦藁細工 浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)    「麦藁張細工 口上(略)大森細工人 山本久蔵・源次・亦次郎・栄蔵・新四郎」     摺物二枚続 「下画 校合 北斎戴斗 改葛飾為一」鶴屋金助板(二月)    〈この年から為一を名乗る〉   「麦藁細工(青龍刀・孔明・丹頂鶴)」錦絵四枚続 北斎画 林忠板    <七月 笊細工(鯉の滝登り)東両国広小路・瀬戸物細工 両国回向院境内>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「【清水粟田】瀬戸物細工 口上(略)京都細工人欽古堂亀祐・松風亭周平」摺物 北斎画     ☆ 文政四年(1821)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(文政四年刊)    葛飾北斎画『藐姑射山』一冊 前北斎画 六樹園編 東壁堂板           (注記「画本両筆の改題本、尾張竹意菴・龍廼屋校」)     ◯『洒落本大成』二十七巻(文政四年刊)    北斎・北秀画『東海探語』 口絵「前北斎為一筆」美芳埜山人著           挿画「かつしか北秀筆」「戴藻舎北秀筆」    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文政四年刊)    葛飾北斎画『草のはら』一冊 北斎・北渓・抱一其他 六樹園撰 彷徨亭    ◯「艶本年表」〔白倉〕(文政四年刊)    葛飾北斎画    『万福和合神』色摺 半紙本 三冊「和合堂主人」序 北斎画・作 文政四年     (白倉注「一貫したストーリー展開(二人の娘、おさね、おつびの性遍歴)を持った最初の艶本。北斎自筆の代表作の      一つ)    『多満佳津良』色摺 半紙本 三冊「女好キの隠人」序 文政四年     (白倉注「序文が女好軒こと渓斎英泉ということで、英泉の自画作と見る説もある」)    ◯「日本古典籍総合目録」(文政四年刊)   ◇滑稽本    葛飾北斎画『雑司ヶ谷記行』二編 葛飾北斎画 十返舎一九作 伊藤与兵衛板     ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       〝三馬按、春朗ハ勝川春章ノ門人ナリ。俗称鉄五郎。後年破門セラレテヨリ。勝川ヲ改メ叢春朗ト云。其    後俵屋宗理ガ跡ヲ継テ二代宗理トナル。後ニ故アリテ名ヲ家元ヘ返シ、北斎辰政ト改ム。其名ヲ門人ニ    譲与テ雷信(ママ)ト改ム。再ビ門人ニ与テ戴斗ト改ム。此ヲモ門人ニ与テ、当時ハ為一ト改ム。本所ノ産。    住居アマタカハレリ。御用鏡師ノ男也。委クハ別記ニアリ。門人枚挙スベカラズ。    〈「雷信」は雷震の誤記か。岩波文庫『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏によると、北斎の「雷信」号の使用例は未     見の由である〉     ☆ 文政五年(1822)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政五年刊)    葛飾北斎画『諸職画譜』二冊 前北斎改葛飾為一(『今様櫛◎雛形』と同本なり)    ◯「読本年表」〔中本型読本〕(文政五年刊)    葛飾北斎画『一本駄右衞門東海横行記遠のしら浪』(葛飾北斎)画 十返舎一九作     〈文政五年刊『太田道灌雄飛録』巻四に巻末広告に「葛飾北斎戴斗画」とある由。葛飾戴斗二世か〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文政五年刊)    葛飾北斎画『蓮華台』徳成父対善集 一冊 抱一・北斎他画 山田徳成版〈〔目録DB〕は文政九年刊〉     ◯「艶本年表」(文政五年刊)    葛飾北斎画    『津弓廼飛奴満』一帖 北斎画〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『偶定連夜好』 中錦 十二枚組物 大腎虚陰精(北斎か)序 文政五年〔白倉〕     (白倉注「北斎工房作か、『縁結出雲杉』とも書く。改題再摺本に『津万廼飛奴満』あり」)  ◯『北斎骨法婦人集』関口政治郎臨写・出版 明治三十年(1897)六月刊    内題「北斎こつぽう婦人あつめ」(国立国会図書館デジタルコレクション)   (序文)※( )は本HPが施した送りかなや注記   〝此絵ハ去文政五午年の春、かつしか北斎翁、根岸御形の松、雪山等林(ママ)の宅に同居せし時、婦人画を    ば種々かけり、其下画を等林弟子何某、翁より申(し)請(け)、後日一巻となせり。其後或る金満家の宝    蔵に入(る)、それをまた(ヱンヤラヤツト)で我が手にいれたり、ひして楽しむこゝろねに、さすがわ    翁の骨法をひろく世界へみせばやと、しあんなかばへつけ智へハ、かの北斎の画巻より美人ひとりぬけ    出(いで)て(モシアナタ)ネエーいつそ版にしなましナ、はやく世に出しておくんなんし、後生ザま    すよ、またみなはんも見世へ出次第(キツトザマスヨ)ト云ふ。此きつとざますよと云ふ事は、多分買    に来てくれといふ事なるべし       明治廿八年未の初春                   廓津通書〟   〈文政五年(1822)春、北斎は根岸御行の松にある雪山等琳の宅に同居していた。この等琳は三代目であろう〉    ☆ 文政六年(1823)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政六年刊)    葛飾北斎画    『今様櫛◎雛形』三冊 北斎改画狂老人画図 角丸屋甚助板               序「前北斎改葛飾為一記」    『一筆画譜』  一冊 東都画工葛飾北斎筆 永楽屋東四郎板    ☆ 文政七年(1824)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政七年刊)    葛飾北斎画    『狂歌花鳥風月集』一冊 北斎・北泉画 六樹園撰    『教訓仮名式目』 一冊 画図前北斎為一 金沢実時序 森屋治兵衛板    『新形小紋帳』  一冊 北斎画 柳亭種彦序〈〔目録DB〕は「前ほくさゐ為一筆」〉    ◯「往来物年表」〔国書DB〕(文政七年刊)    葛飾北斎画『最明寺殿教訓仮名式目』奥付「画図 前北斎為一〔よしのやま〕印」    中沢庄兵衛他 文政七年正月刻成(森屋治兵衛他板もあり)  ◯『江戸買物独案内』「ほ」中川芳山堂撰 文政七年三月刊    口絵「浅草観世音富貴市之図」「北斎改 葛飾為一画」    ☆ 文政八年(1825)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政八年刊)    葛飾北斎画『料理通』二編 一冊 北斎改為一筆 抱一筆 文晁筆 渓斎筆 鳴門 赤子筆                    鵬斎興序 八百善跋 甘泉堂板  ◯『江戸流行料理通』後編 八百善主人著 北斎改為一画 和泉屋市兵衛 文政八年刊(国書データーベース)    挿絵「北斎改為一筆〔不明〕印」(八百善亭増築光景)渓斎筆・鳴門・赤子    鵬斎老人序・八百善自序 抱一筆/蜀山人賛・文晁筆/詩仏賛    ☆ 文政九年(1826)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政九年刊)    葛飾北斎画    『還魂紙料』随筆二冊 為一縮図 柳亭種彦編 西村屋与八板    『狂歌の集』一冊 北渓 西山 文晁 南湖 閑林 国貞 蹄斎 抱一 国直 嶌蒲 桜川慈悲成賛              辰斎 為一筆 六十翁雲峰 六樹園序 徳成蔵板  ◯『還魂紙料』上下巻(柳亭種彦編 文政九年(1826)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇上之巻(縮写したもの)    千年飴売りに扮した中村吉兵衛:「為一写」享保年間一枚絵(いがや板)模写    若衆(浮世)人形:「為一写」明暦寛文貞享頃の土人形模写    浄土双六 :「為一摸」土佐光忠の浄土双六模写    手遊び来迎:「為一図」古老談からの復元図    ◇下之巻(縮写したもの)    小町踊(七夕踊):「為一摸」正保頃の画巻(松蘿館蔵)摸写  ◯「書林永寿堂新刻目録」西村屋与八 巻末広告   (『笹色猪口暦手』歌川豊国(初代・二代)画 柳亭種彦作)(国書データベース)   〝今様櫛◎(きせる)雛形 前北斎為一先生画 櫛のまきゑ きせるの彫となるべき絵様を 品々画れたれ    ば 此二品にかぎらず画習ふ人は更也 すべて雅品を製するものゝ手本と成べし〟   〝百橋一覧 右同画 一枚摺    百有餘の橋かたち皆異にして 目なれざる様を一枚に画つらねたる いとめづらしき図画也〟   〝押絵雛形 前北斎為一画 一枚絵也    是に傚ふて押絵を作さば いづれの形も成らずということなし〟    ◯「日本古典籍総合目録」(文政九年刊)   ◇狂歌    葛飾北斎画『狂歌正流百花鳥』一冊 北斎・北渓画 全亭正直編    ☆ 文政十年(1827)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政十年刊)    葛飾北斎画『安詞乃比斗茂渡』俳文 一冊 北斎改為一筆 田喜庵南濤護物輯    ◯「日本古典籍総合目録」(文政十年刊)   ◇俳諧    葛飾北斎画『俳諧三十六句仙』一冊 葛飾為一画 松雨編    <この年 見世物 大道具からくり 浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「月宮殿嫦娥之遊 口上(略)」摺物「北斎改為一画」森屋治兵衛板  ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 北斎だねと摺物を撥で寄せ  「柳樽52-34」文化8【続雑】     〈三味線の稽古中に披露宴の案内(北斎画の摺物)が届いたところか〉   2 為一は大きな馬で名をひろめ「柳樽96-14」文政10【続雑】注「百二十畳の紙に馬の絵」   3 為一が馬のきん玉八畳じき 「柳樽96-14」文政10【続雑】     〈北斎は百二十畳の紙に馬の絵を画いたとされる。2はさもありなんと穿った句。なお【続雑】は「ためいち」      と呼んでいる〉   4 北斎が美女は三歩が大にしき 「柳多留96-14」文政10【柳多留】     〈北斎の画く錦絵の美女は、揚げ代金三歩の吉原最高級の遊女のようだと〉   5 漫画とは言へどみだりで無手本「柳多留96-14」文政10【柳多留】     〈十編が文政2年(1819)、十一編が刊年未詳、十二編が天保5年(1834)刊〉    ◯『わすれのこり』〔続燕石〕②125(四壁菴茂蔦著・安政元年成る?)   〝北斎大馬 本所合羽干場にて、せんくわ千枚つぎに墨画の大馬を画きたり、桟敷をかけて見せたり〟    〈上掲の川柳によれば、この記事は文政10年の曲画パフォーマンスに関するものとも思われる〉  ☆ 文政十一年(1828)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政十一年刊)    葛飾北斎画    『絵本庭訓往来』初編 画工前北斎為一写 六寿園序 西村屋与八板    『盆画独稽古』 初編 為一筆 光一筆 月花永女著 存斎光一校 西村与八板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(文政十一年刊)    葛飾北斎画『新編水滸画伝』二編 葛飾北斎画 高井蘭山訳      ◯『馬琴書翰集成』①208 文政十一年正月十七日 殿村篠斎宛(第一巻・書翰番号-41)   〝『水滸画伝』著述之事、去冬あらまし得貴意候通り、板元并ニ画工へも意味合有之、其上『水滸伝』ハ    勧懲之為、愚意ニ応じ不申もの故、堅くことわり、綴り遣し不申候。依之、板元英や、高井蘭山ニ訳文    ヲたのミ、画ハ北斎ニかゝせ、彫立候よしニ御座候。『けいせい水滸伝』より『通俗水滸伝』も引立ら    れ候而、はやり出し候事故、出板候ハヾ、『画伝』も多くうれ可申候半哉と存候。但し蘭山ハ、相識ニ    ハ無之候へ共、『三国妖婦伝』など著し候仁にて、下谷三絃堀ニ罷在候。漢文ハよみ候へ共、小説もの    などハ一向疎く、且戯作之才ハなき老人のよし、及承候。この人の訳文、いかゞ可有之哉、心もとなき    事ニ候へ共、切落しの見物ハ、文之巧拙ニも拘り不申もの、多く御座候故、北斎の画ニてうれ候半と被    存候〟    〈馬琴が『水滸画伝』の著述を引き受けないのは元の板元とのトラブルだけでなく、画工の北斎とも訳有りだったから     のようだ。ただし、北斎の技量に関しては、さすがに馬琴、高く評価して別格あつかいである〉  ◯『絵本庭訓往来』葛飾北斎画 文政十一刊〔目録DB〕    六樹園序〝童子のさとしがたきものあり 月痴老人これを愁て例のこまやかなる筆にうつしとりてかう    絵本とはなしぬ〟〈六樹園とは(狂歌師)宿屋飯盛・(国学者)石川雅望〉    月痴老人画 和泉屋市兵衛・永楽屋東四郎板    (ベルリン国立図書館)本の袋「前北斎為一老人画 高雄文蜘堂主人書 尾張 永楽屋東四郎」    〈月痴老人とは北斎を指すことがわかる。なお同本巻末広告に載る『絵本女今川』は〔目録DB〕の書誌には     弘化元年とあるから、ベルリン本の刊年は弘化元年以降である〉    ☆ 文政十二年(1829)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政十二年刊)    葛飾北斎画『忠義水滸伝画本』一冊 葛飾前北斎為一筆 自序 萬极堂板     ◯『馬琴書翰集成』①239 文政十二年(1829)二月十一日 殿村篠斎宛(第一巻・書翰番号-49)   〝高井蘭山あらはし候『水滸画伝』第二編、旧冬出板、当早春借りよせ候て、致一覧候。貴兄ハ未被成御    覧候よし。如貴命、画ハさすがに北斎ニ候ヘバ、不相替よろしく候。乍去、作者より画稿を出さず、画    工の意に任せ、かゝせ候と見えて、とかく画工のらくニ画れ候様にいたし候間、初編にハ劣り候様に被    存候。(中略)この出像の巻ハ、さすがに北斎なれバ評判よろしく、屹度売れ可申候と存候。出板之節    見候て、いよ/\出来候ハゞ、その所斗求置可申存候事ニ御座候〟    〈「作者より画稿を出さず、画工の意に任せ、かゝせ候と見えて、とかく画工のらくニ画れ候様にいたし候間、初編に     ハ劣り候様に被存候」。馬琴は初編において、蘭山とは違い、北斎の意に任せたりせず、画稿を作成して画工を支配     下に置いたのである。ここに自分の狙いを隅々まで徹底させようとする馬琴の強い意志を見てとることができるので     あるが、この人任せにできない狷介さがまた、周囲との摩擦や軋轢となって現れるのである。北斎にしてなお然りで     あろう〉    ◯「文政十二己丑日記」②132 七月廿八日(『馬琴日記』第二)   〝画工英泉、昼前来ル。予、対面。金ぴら船七編五より八迄画出来、見せらる〟      〝白砂糖壱斤被恵之。外に、頼み置候筆五本、持参(中略)北斎画水滸伝百八人像、過日英平吉よりかひ    取置候全一冊、今日、英泉え遣之〟    〈馬琴が北斎画を英泉に遣わしたのは参考にせよという意味であろうか〉    ◯『真佐喜のかつら』〔未刊随筆〕⑧311(青葱堂冬圃著・安政初年(1854)成立)   〝唐藍は蘭名をヘロリンといふ、この絵の具摺物に用ひはじめしは、文政十二年よりなり。(中略)    藍紙の色などは光沢の能き事格別なる故、狂歌、俳諧の摺物は悉く是を用ひぬ、されど未だ錦絵には用    ひざりしが、翌年堀江町弐丁目団扇問屋伊勢屋惣兵衛にて、画師渓斎英泉【英山門人】画きたる唐土山    水、うらは隅田川の図をヘロリン一色をもつて濃き薄きに摺立、うり出しけるに、その流行おひたゞし    く、外の団扇屋それを見、同じく藍摺を多く売出しける、地本問屋にては、馬喰町永寿堂西村与八方に    て、前北斎のゑがきたる富士三十六景をヘロリン摺になし出板す、これまた大流行、団扇に倍す、その    ころほかのにしき絵にも、皆ヘロリンを用る事になりぬ〟    ☆ 文政年間(1818~1829)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕   ◇狂歌(文政年間刊)    葛飾北斎画    『狂歌正流百花鳥』二冊 北斎・北渓画 全亭翁撰    『狂歌国尽』   一冊 北斎等画 巴扇堂等編 瀬川路蝶    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(文政年間刊)    葛飾北斎画『狂歌画賛集』挿絵 表紙「葵岡北渓画 鈍々亭撰」〔跡見221〕    巻末「菊花図」落款「北斎改 為一筆〔不明〕印」〈印はひらがなを組み合わせたもの〉    〈〔目録DB〕の書誌は『狂歌画賛集』を文政年間刊とする〉  ☆ 文政~天保  ◯「【江戸】戯作画工【次第不同】新作者附」東邑閣 辰正月〈文政3年・天保3年か〉   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (番付中央 行事・勧進元に相当するところ)   〝梅鉢紋 葛飾北斎 飛田財蔵 歌川豊国〟   (番付上段 東方)    〝新画工作者之部      画工 歌川豊国  同  蹄斎北馬  同  盈斎北岱  同  歌川国貞  作者 曲亭馬琴     羽栗多輔     画工 北斎◎◎〟    〈刊年等については本HP・Topの「浮世絵師番付」参照のこと〉  ☆ 天保元年(文政十三年・1830)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保元年刊)    葛飾北斎峰画『書画帖』一帖 文晁・文一・法橋雪旦・杏斎雪堤・雲峰・為一・其一・武清・蹄斎・                 崋山等画 大窪詩仏序    ☆ 天保初年(1830~)    ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②309(天保初年刊)   〝東都画 池田英泉・鳥居清満・立斎広重・勝川春亭・葛飾北斉(ママ)・歌川国貞・歌川国芳・歌川国直・        柳川重信・柳川梅麿・葵岡北渓・静斎英一〟    ☆ 天保二年(1831)  ◯「文政十四年辛卯春新版発行」(西村屋与八 巻末広告)   (『漢楚賽擬選軍談』三編 歌川国安画 曲亭馬琴作 西村屋与板 天保二年刊)   〝冨嶽三十六景(ふじさんじふろくけい)前北斎為一翁画    此絵ハ冨士の形ちのその所によりて異なる事を示す、或ハ七里か浜にて見◎かたち 又ハ佃島より眺    る景など総て一やうならざるを著し山水を習ふ者に便す、此ごとく追々彫刻すれば、猶百にもあまるべ    し、三十六に限るにあらず    藍摺一枚 一枚ニ一景づゝ追々出板〟    〈「冨嶽」に「ふじ」のルビがふってある、当時は「ふじさんじゅうろっけい」と読んでいたようだ。「百にもあまる     べし、三十六に限るにあらず」西村屋は、最初から三十六景以上になると予想していた。江戸のみならず様々な角度     から見える冨士の諸相を、渡ってきたばかりの藍(ヘロリン)を使って画けば、人気を博するという確信めいたもの     はあったのだろう。本HPはこの広告記事を文政12年の項に置いていたが天保2年に訂正した。2022/05/14〟
   出版目録 西村屋与八板『漢楚賽擬選軍談』三編(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)  ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(天保二年刊)   「鎌倉江ノ嶋大山新板往来双六」「前北斎為一図」西村屋・鶴屋合梓(東博)(都立)(大集合)柳亭種彦撰   〈双六に刊記はないが、下掲西村屋与八の合巻の巻末広告により天保二年刊とした〉  ◇「東都書林永寿堂新鐫目録」(天保二年刊合巻『昔々歌舞妓物語』の巻末広告)   「江の島鎌倉大山往来双六」前北斎為一画 柳亭種彦撰    〝為一翁かの地に往来のとき 真景を写しおかれしに 柳亭子国図および諸画を考へ 間の宿村名小名    里数までを正されたれば 童子のもてあそびのみにあらず これをひらきて見給へば その地に遊ぶ    こゝちして興あるべき双六なり〟  ☆ 天保三年(1832)    ◯「絵本年表」(天保三年刊)    葛飾北斎画    『卍翁艸筆画譜』一冊 葛飾北斎画(成立年「天保三序、同一四刊」)〔目録DB〕    『唐詩選画本』 五冊 前北斎為一画 高井蘭山著 小林新兵衛板〔漆山年表〕     〈〔目録DB〕は北斎画『唐詩選画本』(六編五冊)の刊行を天保五年とする〉    『画本独稽古』 一冊 葛飾北斎画〔目録DB〕    ◯『卍翁艸筆画譜』奥付「前北斎 卍翁筆」金幸堂 天保十四年正月刊〔国書DB〕    東條琴台序「天保壬辰之春」(三年)  ◯『漢楚賽擬選軍談』三編 歌川国安画 曲亭馬琴作 西村屋与板 天保二年刊   (西村屋与八 巻末広告「文政十四年辛卯春新版発行」)   〝冨嶽三十六景(ふじさんじふろくけい)前北斎為一翁画    此絵ハ冨士の形ちのその所によりて異なる事を示す、或ハ七里か浜にて見るかたち 又ハ佃島より眺    る景など総て一やうならざるを著し山水を習ふ者に便す、此ごとく追々彫刻すれば、猶百にもあまるべ    し、三十六に限るにあらず    藍摺一枚 一枚ニ一景づゝ追々出板〟    〈「冨嶽」に「ふじ」のルビがふってある、当時は「ふじさんじゅうろっけい」と読んでいたようだ。「百にもあまる     べし、三十六に限るにあらず」西村屋は、最初から三十六景以上になると予想していた。江戸のみならず様々な角度     から見える冨士の諸相を、渡ってきたばかりの藍(ヘロリン)を使って画けば、人気を博するという確信めいたもの     はあったのだろう。本HPはこの広告記事を文政12年の項に置いていたが天保2年に訂正した。2022/05/14〟
   出版目録 西村屋与八板『漢楚賽擬選軍談』三編(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)  ◯『馬琴書翰集成』天保三年(1832)六月二十一日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-37)   ◇②153   〝先年、英平吉ほりかけ候『水滸画伝』の板株ハ、大坂河内や茂兵衛買取候よし、此度初て聞知申候。右    蘭山作ハ、百回迄稿本出来、北斎画も三十五冊め迄出来居候而、右板ニ添、かひ取候間、ほり立、当節    河茂方ニて、又十冊うり出し候よしニ御座候。乍去、英平吉うり出し候節、二編の評判宜しからず候間、    丁子屋ニてハ引受不申、断候ニ付、河茂甚こまり候よし申候。右ニ付、『水滸略伝』と申ものヲ被頼候。    是ハ、柳川画キ候『水滸伝』百八人の像、略画のやうニ画キ候もの、先年狂歌連ニて出来いたし候。右    板を、丁子やかひ取候よりの思ひ付ニ御座候。なれ共、『水滸伝』ハ株物ニ付、丁平のミにてハ出板い    たしかね候間、河茂と合刻ニいたし、右百八人の像を口画ニいたし度旨申候。この略伝ハ、少々著し可    申心も有之、且附録ニ「水滸伝略評」を加へ、五六冊ニ書とり可申候旨、約束いたし候。稿本出来次第、    来年彫刻いたし度旨、両板元申居候。此附録の「水滸伝の評」ハ、後世へ遣し度心も御座候間、手透次    第、来年より創し可申存候事に御座候〟    〈『新編水滸画伝』はもともと馬琴と北斎の組み合わせで、文化二年と四年に初編として出していたもの。ところが、     板元の角丸屋甚助及び北斎と馬琴との間にトラブルが生じて、この出板から馬琴が降りてしまい、以降途絶していた。     それを文政十一年、板元英平吉が高井蘭山訳・北斎画の組み合わせで二編として出版した。(文政十一年正月十七日     付、殿村篠斎宛(『馬琴書翰集成』第一巻・書翰番号-41)こんどの出版はそれ以来のものであるが、二編の評判     があまりよくないこともあって、英平吉にかわってこの板株の持ち主になった河内屋茂兵衛が『水滸略伝』なる企画     を馬琴に持ち込んだのであった。これは狂歌連が制作した略画のような『水滸伝』すなわち『狂歌水滸画伝』(芍薬     亭長根編・柳川重政画・文政十三年跋)に着想を得たものらしい〉     ◇②154   〝『水滸画伝』新刻、評判あしく候間、手入をいたしくれ候様、河茂より被頼候得ども、是ハかたく断り    申候。そのかハりに、『水滸後画伝』といふものを稿し遣し可申候旨、申聞置候。是ハ、『水滸後伝』    を通俗ニいたし、『後伝』のわろき処ハ書直し、『画伝』のごとく画入ニいたし候つもりニ御座候。    『画伝』、終り迄出来の上、命あらバつゞり遣し候つもりニ御座候〟    〈高井蘭山訳・北斎画の『水滸画伝』三編も評判があがらなかったらしく、河内屋より手入れを頼まれたようだが、馬     琴はよほど文化四年頃の角丸屋と北斎とのひと悶着にこだわっていると見えて、かたくなに拒否している。そのかわ     り河内屋の窮状を察してか、『水滸後画伝』なるものの約束をしている。これは結局日の目をみることはなかったが、     馬琴の「水滸伝」に対する執着の一端をうかがうことができよう〉    ◯『増訂武江年表』2p85(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (天保三年十一月二十八日の柳川重信死亡記事に続いて)   〝筠庭云ふ、柳川重信は志賀理斎の子なり。師なくして画をよくせり。北斎の風なりしが、本所一ッ目弁    天の前なる髪結床の障子に、午の時参りする女を野ぶせりの乞食等が犯さんとする図を書きて、いと能    く出来たり。北渓これを見て、画は社中の風なるが、かばかり書かんものを覚へずとて、其所に問ひし    とぞ。夫より相知りて、北渓これを引きて北斎が弟子とす。其の後北斎これを養子とせしが、如何した    りけん、義絶におよべり。夫より重信頻りに板下を書きしを、北斎これを板下に禁じて、互いに意趣を    含みけるを、柳亭種彦双方をなだめて事和らげり。(以下略、全文は柳川重信の項参照)〟    ◯『無可有郷』〔百花苑〕⑦404(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   (「画の工夫」の項、天保三~九年の記事)   〝先比葛飾北斎翁御上覧の画をかきしとき、鶏尾に藍水を濡し、足に臙脂を濡し、紙上を走らせしかば、    自然と龍田川を成せりといふ。何れも画の工みなるのみならず、工夫もまた常人の及ぶところにあらず〟    〈この「先頃」とは天保三年以前と思われる〉    ☆ 天保四年(1833)    ◯「合巻年表」〔東大〕(天保四年刊)    葛飾北斎画『出世奴小万伝』歌川国直 表紙前北斎為一 柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保四年刊)    葛飾北斎画『絵本西遊全伝』三編 葛飾北斎画 岳亭丘山訳  ◯『画本唐詩選』六編 天保四年刊(日本古典籍総合目録データベース)   (見返し)高井蘭山著 前北斎為一画 嵩山房梓   (奥付) 天保四年癸巳春正月 彫工 杉田金助 東都書林 日本橋通貳町目 小林新兵衛    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③310(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝葛飾為一【明和ノ生レ、寛政ヨリ、享和、文化、文政、天保ノ今ニ至ル】     俗称(空白)、幼名時太郎、後鉄二郎、居始本所横網町、数十ヶ所ニ転居ス、今浅草寺前ニ住ス、     姓氏(空白)、江戸本所ノ産也、数号アリ、改名左ニ記ス    始めは、業を勝川春章に受く、勝川春朗と画名す、故ありて破門せられ、叢春朗と云り、古俵屋宗理の 跡を継て、二代目菱川宗理となり、其比画風をかへて、【宗理ノ頃ハ狂歌ノ摺物多シ、錦画ハカヽズ】 一派をなさず、【堤等琳孫二ノ風ヲ慕フ】亦、門人宗二に宗理に譲り、【三代目宗理トス】名を家元へ 帰せり、于時寛政戊午の末年、爰に至り、一派の画風を立て、北斎辰政雷斗と改む、【一説、北辰妙見 ヲ信ズ、故ニ北斎ト改シト云、其頃ハ東都ニ明画ノ風大イニ行レ、画心有モノハ唐画ヲ学ブ事専ラ流行 ス、俗ニ従ヒテ画風ヲ立シハ、世ニ出ルノ時ナリ、雷斗ノ画名ハ重信ニユヅル】北斎流と号し、明画の 筆法を以て浮世絵をなす、古今唐画の筆意を以て画を工夫せしは、北翁を以開祖とす、爰に於て世上の 画家【俗ニ云本画師】其画風を奇として、世俗に至る迄大にもてはやせり、一時に行れて、門人多く、 高名の妙手となれり、従来、書を読み学才あれば、戯作の絵双紙多く、草双紙の画作を板行す、作名を 時太郎可候と云り、【叢春朗ノ頃ハ役者ノ錦絵ヲ出セリ、北斎ニ至リテ錦画ノ板下ヲ画カズ、狂言摺物 画ヲ多クカケリ、錦画風アラヌヲ以テコト/\ク北斎ノ画風ヲ用ユ、摺テ奇巧ナリシ】    画狂人ノ号ハ、門人北黄ニ譲ル、北黄ハ板下ヲカヽズ、専ら画狂人葛飾北斎と画名して雷鳴す、画風、 錦画、草双紙等の尋常にあらず、繍像、読本の插絵を多くかきて世に行れ、絵入読本此人より大いにひ らけり、【此頃、画入読本世ニ流行ス、画法草双紙ニ似ヨラヌヲ以テ貴トス、亦時ニアヘリ、読本画ト テ別ニス、杏花園蔵書浮世絵類考ニ云、北斎宗理ハ狂言摺者ノ画ニ名高シ、浅草ニ住ス、スベテ摺物ハ 錦画ニ似ザルヲ貴トスト云】京師、大坂より、雷名を慕ひ、門人多く、学ぶ者多し故、尾州名古屋を始 として、京、大坂に至れども、必覿する画家絶てなし、板刻の密画に妙を得て、当世に独歩す、数万部 の刊本枚挙すべからず、漫画と題して、画手本を発市す、大に世に行る数篇を出せり、【始板元江戸麹 町角丸屋甚助ナリシガ、故有テ、後尾張名古屋永楽屋東四郎蔵板トナレリ】再名を門人に譲りて、錦袋 舎戴斗と改たり、前北斎戴斗と云【二代目北斎ハ本所ノ産ナリシガ、後吉原仲ノ町亀屋ト云茶屋ナリ △両国回向院ニテ大画錦袋ヲカケリ、錦袋舎名弘メ画会アリ、大画ハ十六間四方、十八間四方、名古屋 ニテハ釈迦出山ノ図ヲカケリ】是をも、文化の末門人北泉に譲り与へて、前北斎為一と改名す、門人に 臨本を与ふる遑あらず、画手本を画が為に板刻して、数十冊を世に行しむ、生涯の面目は、画風公聴に 達して、御成先に於て席画上覧度々あり、稀代の画法妙手といふべし、    〈岩波文庫『葛飾北斎伝』(飯島虚心著)の校注者・鈴木重三氏は、北斎に「雷斗」の使用例はないとする〉     板刻の画手本書標目      北斎漫画【自初編至十三編】 櫛□雛形      戴斗画譜          地文雛形      北斎画譜          画本独稽古      同 画叢          画本早引      一筆画譜          三体画譜      為一画譜          北斎写真画譜     画手本数部枚挙すべからず、僅に其一二を爰にしるすのみ、世以て知る処なり、委くは別記に譲る
   「葛飾為一系譜」       其他数百人、板刻の画をかゝざるものは爰に載せず、しかれども、僅に刻本を画し人は、洩たるもの     あるべし【北斎は俳諧を好み、川柳狂句をよくす】    伝に曰、為一翁は曲画を善す、【升、玉子、徳利、筥、スベテ器財ニ墨ヲツケテ画ヲナス、左筆モ妙ナ リ、下ヨリ上ヘ書キ上グル逆画ヲカケリ、ナカニモ爪ニテ墨ヲスクヒカク画ハスグレテ妙也、筆ニテ画 タル如シ、画ク所ヲミザレバ、其実ヲシルベカラズ、△刻本ノ春画ヲヨクカケリ、一派ノ風アリテ情深 シ】彩色に一家の工風をこらして、一派の妙を極めたり、総て総身に画法充満したる人にて、一点の戯 墨も画をなさずと云事なし、稀代の名人なり、和漢の画法に委し、骨法自ら宋明の筆意ありて尋常の画 風にひとしからず、真を写すに、一家の筆法、画体、悉く異りといへども、能其真に似たり、【狩野ニ テモ、似テ似ザルヲ画法ノ第一トス、画中不全シテ画ヲナスヲ以テ善トス】自ら云、数年諸流の画家に 入、其骨法を得て、一派の筆法、画道の業に於て、筆をこゝろみ得ずとせざる事はなし、と云り、香具 師の看板画より、戯場操の看板、油画、蘭画に至る迄、往々新規の工風を画き、刻本の細密、定規引き の奇行なる一家の画法を起せしは尤妙なり、他郷に至るも、画者皆門に入て業を学ぶ、京師、浪花は、 悉く翁の画風を学びて名を改ずといへども、門弟にならぬはなし、【為一翁転居スル事一癖アリ、数十 ヶ所ニ住ヲカヘル】浪花発市の絵本を見て世にしるところなり、紅毛よりも画を需に応じて、二三年の 間数百枚を送りしかば、蘭人も大いに珍重す、故有て是を禁ぜられたり、天保の今に至るまで六十余歳、 筆法少も衰へず、いよ/\老年に及び筆に潤あり、近年錦画を多く出せり、【諸国の山水、花鳥尽し、 三十六富士、百鬼夜行、琉球八景、滝尽し】肉筆彩色は、他に勝れて見事なり、珍敷画法多く世にしる ところなり、別に為一翁が画伝を誌す、委しくは其書を見るべし〟    〈「為一翁が画伝」は未詳〉    ☆ 天保五年(1834)    ◯「絵本年表」(天保五年刊)    葛飾北斎画〔漆山年表〕    『北斎漫画』十二編 一冊 葛飾北斎画 永楽屋東四郎他板    『富嶽百景』初編  一冊 七十六齢前北斎為一改 画狂人卍筆 柳亭種彦序 角丸屋甚助他板    『絵本忠経』一冊  葛飾前北斎為一老人画 高井蘭山序 小林新兵衛板    葛飾北斎画〔目録DB〕    『絵本孝経』二冊  葛飾北斎画 高井蘭山解    ◯『異聞雑考』〔続燕石〕②246(曲亭馬琴・天保五年二月二十四日記事)   〝(筆者注、天保五年正月刊『江戸名所図絵』について)この画工雪旦は、予も一面識あれども、かゝる    細画はいまだ観ざりき、縦北斎に画かするとも、この右に出ることかたかるべし〟    ◯『葛飾北斎伝』p138(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)   〝天保五年、北斎翁『富嶽百景』の初編を画きし時、名を改めて卍といふ。これより落款には、かならず    画狂老人卍、或は前北斎卍と書す〟    ☆ 天保六年(1835)    ◯『絵本和漢誉』(山崎美成序・和泉屋市兵衛板 天保七年刊)   (巻末の挿絵に)〝画本和漢誉 豆州ノ旅客 前北斎改画狂老人卍筆 時七十六歳〟  ◯『絵本魁』(日本古典籍総合目録DB)   (巻末の挿絵に)〝天保六乙未年四月 齢七十六翁北斎為一改 画狂老人卍筆〟嵩山房    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(天保六年刊)    葛飾北斎画    『画本千字文』一冊 葛飾前北斎為一画 水玉堂板    『富嶽百景』二編 一冊 前北斎為一改画狂老人卍筆 廬山孝序    『料理通』 四編 時年七十五前北斎為一他画 永楽屋東四郎他板  ◯『江戸流行料理通』四編 八百善主人著 和泉屋市兵衛 天保六年二月刊(国書データーベース)    挿絵「時年七十五 前北斎為一筆」(人物器財編) 挿絵 文晁・南溟・椿年    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保六年刊)    葛飾北斎画『絵本西遊全伝』四編 葛飾北斎画 岳亭丘山訳    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保六年刊)    葛飾北斎画『烏亭焉馬追善集』一冊 為一・武清画 二世焉馬編    ◯「北斎書簡」嵩山房・万笈堂・衆星閣宛 天保六年二月   (『葛飾北斎伝』所収 岩波文庫本 p146・7 飯島虚心著)    署名「前北斎事 画狂老人 乞食坊主 卍九拝」      「天保六 二月中旬 卍翁」  ◯『後の為の記』(曲亭馬琴著・天保六年自序・国会図書館デジタルコレクション所収)   〝北斎為一は一男一女あり、長男【名は富】は短命なりき、女子は柳川重信に嫁したるが、不縁にてかへ    りしより、父の許にをり又嫁せず、この女子のうみたる外孫を北斎寵愛して、養育したるが、人と成る    に及て放蕩也、よつて是を重信に返せしに、鳶の者にならんことを欲りして、実父の家にもあらずなり    きに〟    ☆ 天保七年(1836)    ◯『絵本魁』(日本古典籍総合目録DB)   (見返し)〝書林 嵩山房/北林堂 梓〟   (自序)〝天保七 丙申の艶陽 前北斎改 画狂老人卍述   (巻末の挿絵に)〝天保六乙未年四月 齢七十六翁北斎為一改 画狂老人卍筆〟   (奥付)〝七十七齢 前北斎改 画狂老人卍筆/彫工 杉田金助 江川留吉〟    〈艶陽は晩春三月〉  ◯『絵本和漢誉』(野田市立図書館・電子資料室)〈野田市本は嘉永三年刊〉   (巻末の挿絵)〝画本和漢誉 豆州ノ旅客 前北斎改 画狂老人卍筆 時七十六歳〟   (刊記)〝天保七丙申年八月発行 書肆 秋田屋太右衛門 和泉屋市兵衛ほか〟    (奥付)〝七十七齢 前北斎改 画狂老人卍筆/彫工 江川留吉〔五常亭〕〟   〈北斎伊豆滞在とあるが、下掲天保七年、月日不詳の嵩山房宛書簡には「浦賀旅人」の署名とあり、居所に食い違いがある。    下掲7年刊『【江戸現在】公益諸家人名録』では、北斎は「居所不定」となっている。これは住所を知られたくないた    めにとられた措置とも思われるのだが、その一方で世間に流布する版本にわざわざ自らの住所を記入したのはなぜなの    か不審である。なお潜居の理由については下掲月日不詳「北斎書簡」参照のこと〉  ◯『絵本武蔵鐙』(日本古典籍総合目録DB)   (見返し)〝書林 嵩山房/北林堂 梓〟   (奥付)〝七十七齢 前北斎改 画狂人卍筆/彫工 江川留吉〟   (刊記)〝天保七年丙申年八月発行 書肆 秋田屋太右衛門 小林新兵衛ほか〟  ◯『画本唐詩選』七編 天保七年(日本古典籍総合目録データベース)   (見返し)〝高井蘭山著 画狂老人卍翁画 天保七年丙申秋発兌 嵩山房梓〟   (奥付) 〝彫工 一之巻 三之巻 杉田金助/二之巻 四之巻 五之巻 江川留吉〟        〝天保七丙申年九月 書肆 江戸日本橋通貳町目 小林新兵衛〟    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保七年刊)    葛飾北斎画    『諸職絵本新鄙形』一冊 齢七十七前北斎為一画狂老人卍筆 須原屋茂兵衛板    『唐詩選画本』  五冊 画狂老人卍筆 高井蘭山著 小林新兵衛板 〈嵩山堂〉    『絵本武蔵鐙』  一冊 前北斎画狂老人卍筆七十七齢 嵩山堂他板    『絵本和漢誉』  一冊 画狂老人卍筆 秋田屋太右衛門板    『絵本魁』初編  一冊 七十七齢前北斎改画狂老人卍筆 永楽屋東四郎板    ◯『【江戸現在】公益諸家人名録』初編「補遺」〔人名録〕②55(天保七年刊)   〝画 北斎【名戴斗、字雷震、一号為一、一画狂人】居所不定 葛飾北斎〟   〈下掲「北斎書簡」参照。この頃の北斎は意図的に居所を隠していた。理由は、北斎の外孫(初代柳川重信の男)の放蕩が引    き起こす迷惑から逃れるためとされる。孫の放蕩については上掲天保6年馬琴の『後の為の記』を参照のこと。また潜    居先については、下掲の日付不詳の嵩山房宛「北斎書簡」には「浦賀旅人」と自ら記しているので、相州浦賀のようである。    但し、上掲『絵本和漢誉』(和泉屋市兵衛板・天保7年8月刊)の巻末挿絵の署名に「豆州ノ旅客」とあるのはどうしてなの    か不審である。一時的にでも相模の浦賀から伊豆に移っていたのであろうか。とはいえ、そもそも居所を知られたくな    いのなら、世間に出回る版本の中に「豆州ノ旅客」などと自ら入れるのは不自然であろうに〉     ◯「北斎書簡」嵩山房小林新兵衛宛 天保七年正月十七日付   (『葛飾北斎伝』所収 岩波文庫本 p149 飯島虚心著)    署名「画狂老人 卍」      「遠慮之儀御座候間、旅住之場所は、したため申さず候       天竺浪人 画狂老人 万翁」  ◯「北斎書簡」嵩山房小林新兵衛宛 年月日不詳   (『葛飾北斎伝』所収 岩波文庫本 p149 飯島虚心著)   〝先日は、江川之一件云々【中略】唐詩選残丁三丁半、差上申候。毎度恐入候得共、画料四十二匁(云々)     小林新兵衛様 浦賀旅人 画狂老人卍 三拝〟   〈「唐詩選」は『画本唐詩選』七編(嵩山房 天保7年9月刊)。「江川之一件」とは『画本唐詩選』の彫工江川留吉のこと、天    保6年2月付嵩山房宛書簡で、北斎は彫に江川の起用を要望している。ただし「一件」が何を指しているかは未詳。この書    簡では「残り三丁」とあるから、この書簡は天保6-7年にかけてのものと推定される。北斎の版本での画料を知ることが    できる。「残り三丁」「四十二匁」の画料とあるから、半丁の単価が6匁である。上掲正月十七日付書簡には「旅住之場所は    したため申さず」とあるが、この書簡では「浦賀旅人」となっている〉  ◯「大江都名物流行競」(番付 金湧堂 天保七年以前)   (早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 番付「ちり籠」所収)   〝文雅遊客    海内 明ジン下 八犬伝馬琴 /無双 カツシカ  百冨士北斎   〈馬琴の神田明神下から四ッ谷信濃阪への移転は天保7年10月4日。また北斎の版本『富嶽百景』は初編が天保5年、二編が    天保6年である。これらから番付に刊記はないが、天保5-7年頃の刊行と思われる〉  ☆ 天保八年(1837)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保八年刊)    葛飾北斎画『日光山志』五冊 花菱斎北雅筆 可庵武清筆 齢七十二画狂老人卍筆                  二世柳川重信 文晁 須原屋伊八他板    ◯「【東都高名】五虎将軍」(番付・天保八年春刊・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝秀業 ウキヨ絵 葛飾前北斎・コキウ 鼓弓庵小輔・三味セン 播广太夫蟻鳳       雛師  原舟月 ・飾物 葛飾整珉〟          〝浮世画師 歌川国貞・歌川国直・葵岡北渓・歌川国芳・蹄斎北馬〟      〈浮世絵師として国貞・国直・北渓・国芳・北馬の名が見える。しかし、北斎は別格と見え、斯界の第一人者である     三味線の鶴沢蟻鳳や雛人形師の原舟月などと共に「秀業」の部の方に名を連ねている。やはり浮世絵師の中では飛     び抜けた存在なのである。それにしても、一立斎広重と渓斎英泉の名が見えないのは不思議な気がする〉    (参考までに他の分野は以下の如し     「儒者 亀田綾瀬・大窪天民・佐藤一斎・菊地五山・浅川善庵」     「作者 曲亭馬琴・山東京山・立川焉馬・墨川亭雪麿・柳亭種彦」     「俳優 市川白猿・岩井杜若・市川団蔵・岩井紫若・尾上梅幸」)    ☆ 天保九年(1838)    ◯『馬琴書翰集成』⑤13 天保九年(1838)二月六日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-3)   〝(『絵本三国志』)右画工の事、第三編ニ葛飾戴斗トあれバ、桂窓子ハ云云被申候へども、前の北斎也    と思召候よし。それハ乍憚、思召ちがひニて可有之候。後の北斎ハ、俗称近藤伴右衛門ト云、麹町平川    天神前、高家衆京極飛騨守殿家臣也。文化中、金七両ヲ以、その師ニ葛飾北斎戴斗の名号を譲りうけし    者是也。この後、前の北斎為一と称し候。これらニて御了然たるべき歟。その画の拙、彼近藤伴右衛    門ならバ、さこそと致想像候〟   〈『絵本通俗三国志』(池田東籬亭校正・葛飾載斗画・天保七年~十二年刊)の画工葛飾戴斗を、小津桂窓は「前の北斎    (為一)」と勘違いしていたのである。文化年間「葛飾北斎戴斗」の名号を七両で譲渡したという。それにしてもこの譲    渡、後に小津桂窓のような誤認が出るのは当然予想されたと思うのだが、版元等はそれをどう見ていたのであろうか。    馬琴はこの『絵本三国志』の出来栄えを「拙」とした。おそらくこの評価は馬琴に限らないであろうから、「前の北斎」    の画力が低下したという評判が広まるおそれはあった、北斎はそれを考慮しなかったのであろうか……。分からない、    しかし名号に頓着しなかったことは確かである〉    ☆ 天保十年(1839)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保十年刊)    葛飾北斎画『源氏一統志』北斎為一画 松亭金水作    〈「書目年表」は「弘化三年版が初摺本カ」とする〉    ☆ 天保十一年(1840)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保十一年刊)    葛飾北斎画『和漢陰隲伝』一冊 前北斎改画狂老人卍筆 藤井懶斎著 岡田屋嘉兵衛他板      ◯『馬琴書翰集成』⑤201 天保十一年(1840)八月二十一日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-56)   〝(『三七全伝南柯夢』文化五年(1808)刊)稿本といん本と御引くらべ被成御覧候処、ほく斎さし画稿    本とは同様ニハ候へども、人物之右ニ有ヲバ左リニ直し、或ハ添もし、へらしも致候。此心じつヲ以云    々被仰示候御猜之趣、少しも無違、流石ニ是ハ君なるかなと甚堪心仕候。小生稿本之通りニ少しも違ず    画がき候者ハ、古人北尾并ニ豊国、今之国貞のミに御ざ候。筆の自由成故ニ御座候。北さいも筆自由ニ    候へ共、己が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ。依之、北さいニ画がゝせ候さし画之稿    本に、右ニあらせんと思ふ人物ハ、左り絵がき(ママ)遣し候へバ、必右ニ致候。実ニ御推りやうニ相違御    座無候〟    〈六月六日、馬琴は『三七全伝南柯夢』の稿本を殿村篠斎に譲渡していた。篠斎は版本と稿本を比較して、人物の位置     や数が違うことを指摘し、北斎のこの作為に猜疑心を抱いたことを、馬琴に書き送っていたのであろう。作者の稿本     に従わない北斎も相当な天の邪鬼だが、馬琴もしたたかである。北斎のこうしたつむじまがりを計算に入れて、右に     配置したい人物をあらかじめ左に置いて稿本を画いていたのである。もっともこのような両者が長続きするとは思え     ない。画工まかせに出来ない馬琴と我が道をゆく北斎とでは、並び立つことは所詮無理である。文化十年(1813)の読     本『皿皿郷談』が最後になったのもやむを得まい。なおこの頃、馬琴は秘蔵していたかなりの量の自作稿本を殿村篠     斎に譲渡している〉    〈馬琴によれば、当方の注文(稿本の下絵によって示す)通りに挿絵や口絵の板下絵を画いた画工は、北尾重政と初代の     歌川豊国と国貞の三人のみだという。馬琴には、作者の稿本通りに画くのが画工の使命だという強い自覚がある。一     方、国貞には次のような言があると伝わる「自分は、絵によつて渡世する身であるから、客の注文に応じて是非なく     書く」(注)。これは言わば絵かき職人として自覚なのだろうが、重政や初代豊国にも共通するものでもあったに違い     ない。ここでは戯作者と画工との呼吸は一致している。馬琴は、版元や戯作者の求めに応じて画くためには、運筆が     自由自在でなければならないともいう。当然のことで、注文が何であれ、えり好みなしに画かねばならないのだから、     高い伎倆を身につけておくことは必須である。ところが北斎の場合は、高い伎倆の持ち主ではあるのだが、厄介なこ     とに「己が画ニして作者ニ随ハじ」で、作者が望むような方向にその伎倆を用いない、つまり呼吸が合わないのであ     る。馬琴や重政・豊国・国貞等が共有している自覚を、北斎は欠くというか、画工としての間尺に合わないのである。     しかし、この従来の枠組みにとらわれない北斎の姿勢が、逆にこれまでにない作品を生み出すエネルギー源になった     ともいえよう。江戸市中の江戸市民の「おらが富士」を集成した『富嶽三十六景』、江戸市民の日常・非日常の活写     である『北斎漫画』、これらの作品は、洛中洛外図のような城郭や権威から見下ろしたものではない、江戸の市中の     人々と同じ視点で見たものである〉     (注)市島春城著『芸苑一夕話』下巻が引く三代豊国(初代国貞)の言葉。本HP「浮世絵事典」【お】の「応需」か、国      立国会図書館デジタルコレクションの同書◇四六 一陽斎豊国の項(118/236コマ)参照)    ◯『古今雑談思出草紙』〔大成Ⅲ〕(東随舎著・天保十一年序)   ◇「浮世絵、昔しに替る事」の項 ④98   〝今は浮世絵さかんにして、金岡にまさりて芝居役者の似顔生写しに書る者多し。勝川(ママ)春信おなじく    春章が類とし、風流なる傾城の写し絵、当世の姿、貴賤男女の遊興の気しき、四季ともに歌麿、北斎な    ど筆意を争ふ〟     ◇「戯場役者市川団十郎家伝の事」の項 ④126   〝享和元年酉年七月、或人、三囲閑居の心をたはれ歌に読とて、三囲の絵、浮世絵師北斎が書しに讃を望    みぬれば     七年以前に世の勤めを捨て、庵さきに遁れたる草の庵に、或日、何某の君の音信給ひて、此絹、汝じ     が隠遁の心を狂歌によめとの仰せに、頓に書付て奉るのみ      芝居事遁れても又かしましや松が琴ひく竹の笛にて 行年六十一歳 反故菴白猿越書鼻〟    〈「三囲閑居」とは庵崎の五代目市川団十郎白猿の隠居〉  ◯『日本美術画家人名詳伝』補遺(樋口文山編 赤志忠雅堂 明治二十七年一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション) (86/108コマ)    署名「眼鏡不用 画狂老人卍筆 齢八十一歳」〈印譜にあり。但し出典不記載〉    ☆ 天保十二年(1841)    ◯「絵本年表」(天保十二年刊)    葛飾北斎画〔漆山年表〕    『名頭武者部類』一冊 北斎改葛飾為一筆 花笠外史序 和泉屋市兵衛板    『双錦画鑑』  一冊 前北斎為一老翁  松亭主人序 西村屋与八板    『花の十文』  一冊 八十二叟画狂老人卍筆・北渓  橘樹園早苗述    葛飾北斎画〔目録DB〕    『北斎雛型』  一冊 葛飾北斎画    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保十二年刊)    葛飾北斎画『釈迦御一代記図会』前北斎卍老人画 山田意斎叟編    ◯「往来物年表」(本HP・Top)    葛飾北斎画『永楽新童訓往来』葛飾北斎 永楽屋東四郎 天保十二年〔国書DB〕  ◯「日本古典籍総合目録」(天保十二年刊)   ◇往来物    葛飾北斎画『永楽新童訓往来』一冊 葛飾北斎画 永楽屋東四郎板   ◇川柳    葛飾北斎画『新編柳樽』北斎画 川柳風叟五世編(成立年「天保一二以降」とあり)    ◯『馬琴書翰集成』⑤325 天保十二年(1841)十一月十六日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-94)   〝当夏より丁子屋ニて「漢楚軍談絵本」彫立候。絵ハ前之北斎ニ画せ候由。北斎ハ当年八十二三歳ニ成候    処、細画之写本ヲ画キ候事、細心之至りニ候。文ハ為永春水ニ綴らせ候よし。春水、『通俗漢楚軍談』    之訳ざまわろしとて、板元より多く引書を取よせ、黒幕の内ニて助候人有之由ニ候得共、春水が文盲に    て、如何可有之やはかり難く、丁平夏中、小子ぇ序文頼候得ども、不眼ニ托してかたく断、不書候〟    〈丁子屋板『絵本漢楚軍談』初編は天保十四年刊。北斎の細心の筆意、八十路を過ぎてなお衰えず。それにしても馬琴     の春水嫌いは徹底している。黒幕とは誰のことであろうか。『通俗漢楚軍談』とは、元禄七年(1693)の跋をもつ夢梅     軒章峯・称好軒徽庵のものか〉    ☆ 天保十三年(1842)    ◯「合巻年表」〔東大〕(天保十三年刊)    葛飾北斎画『児雷也豪傑譚』四編 香蝶楼国貞 美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板          (袋画工 山田抱玉 国貞 前北斎)      ◯『【江戸現在】公益諸家人名録』二編「ナ部」〔人名録〕②78(天保十三年夏刊)   〝画 画狂【名為一、一以前北斎行、号画狂老人、又卍】居所不定 中島鐵蔵〟    ☆ 天保十四年(1843)    ◯「絵本年表」(天保十四年刊)    葛飾北斎画〔漆山年表〕    『北斎画苑』初編   前北斎卍翁筆 金幸堂    『北斎漫画』草筆三部 前北斎卍翁筆    『卍翁草筆画譜』一冊 東都前北斎翁卍翁筆     (以上三書、殆ど同本にして序文刊年版元彫刻の署名が皆同じ)    葛飾北斎画〔目録DB〕    『初心画鑑』一冊 葛飾北斎画(注記「絵本の研究」による)    ◯「読本年表」〔目録DB〕   ◇読本(天保十四年刊)    葛飾北斎画『絵本漢楚軍談』初輯 葛飾北斎画 為永春水編    ◯『三省録』〔大成Ⅱ〕⑯109(志賀理斎著・天保十四年刊)   (「青雲堂蔵板目録」)   〝北斎老人画 唐土名所之画 一枚     唐土四百餘州の山川名所をくはしく画き、粉色(イロドリのルビ)にてわかち見安からしむれば、詩文はさ らなり漢楚三国志の軍談を読んにも、この地図をかたはらに置く時は古戦場に至りて軍ものがたりを 聞がごとく、いさざかも解せざることなし〟    ☆ 天保年間(1830~1843)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保年間刊)    葛飾北斎画    『花鳥画賛歌合』一冊 葛飾北斎画 春秋庵・錦鳳堂編 錦鳳堂版    『花鳥画賛集』 一冊 北斎画 秋長堂撰     ◯『嗚呼矣草』(大坂書林、河内屋茂兵衛出版目録・年代未詳)   ◇「大阪書林 河内屋茂兵衛梓」 ⑲274   〝北斎為一老人画/絵手本水滸画伝/全一冊    此画は画狂老人の筆にして水滸伝一百八人の省像(セイゾウのルビ)を丹精を凝(コラシ)細筆に画れし画手本第    一の書なり〟    〈「国書基本DB」に『絵本水滸伝』葛飾為一画・文政十二刊とあるのがこれか〉    ◇「浪花書房 河内屋茂兵衛蔵板」⑲278  〝釈尊御一代記図会/浪花 山田意齋叟参考 江戸 前北齋老人画/全部六冊    (本書の梗概・広告文略)〟    〈「国書基本DB」には『釈迦御一代記図会』六巻六冊、天保十二年刊とする〉    ◯『無可有郷』〔百花苑〕⑦382(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   (「浮世絵評」の項)   〝予が論ずる所は浮世絵なれば、右の論(画に王道覇道のありしこと)益なしといへども、筆意の説論ぜ    ざるべからざるものあり。北齋似㒵をかゝず、あたはざるにあらず。せざるなり。国貞山水花鳥をなさ    ず、あたはざるにあらず、是またせざる也。これ王道ならざる故なり。此二人覇気の甚しきもの故、下    してやすきにつく事能はず、おもふまゝに、おのれが長をもちひ、いやしくも人の上に出でんことを欲    す。故に長ずる所は各古今一人なり。其餘名人多しといへども、みな王覇をかねて而して漸なるゆゑに、    何にても出来ると雖も、彼二人長ずるところの如くならず。世北斎筆意よし国貞形似よしといふ。皆誤    りなり。北斎の画ところ山水花鳥人物みな如此、筆者(ママ)ならざるべからず。是を哥川家にて絵かゝば    あしからん。国貞の画く俳優人物、その餘の機械また如此。筆意ならざるべからず。是を北斎流にて画    けばあしゝ、ゆゑに各相容れず、一流を立ること其宜しきを得たり。然るに柳川重信、哥川国直の徒相    混じて用ゆ。愈其至らざるを見る。予その人に為に一言して迷ひを解かんと欲す。北斎の画を見るとき    は、人其筆の曲を見てよろこばしむ。繪よふはいかなるものなりとも構ふことなし。人物の形は只奇な    るをよしとし、人物鳥獣の形ちも其理なきことをかきて、人を驚かす。何ぞ其人物鳥獣に相似たるを期    とせんや。往々鬼魅魍魎を画く、此其長ずる所なり。其画くところの人物鳥獣生動のもの少しも心あり    て働くものなし。みな作り物なり。其働く様はみな北齋絲を引き心を入て働らかすなり。その物々の心    にあらず。故に見て奇なり。国貞が絵は、似がほ美人其餘春本の仕組といへども、皆世人の目にありて、    只他人のかゝざるを恨みて居たる所を、其侭画くあり、たま/\未見ざることを画くといへども、人々    心の内にかくあらんと思ひ、夢などにて見るやうなることなり。故に見る人其心を忖度されたるに驚き    て、筆意などのことに及ぶに暇あらず。然ども筆意無理多ければ、人人往々其見るに邪魔なるを覚ゆる    ことならん。国貞な<ママ>し。また筆のきゝたる者にあらずして何ぞや。況や春本は作者の用意を汲取、    邪正男女老若此人々の五情を備へざれば本本に當らず。就中柳亭の芝居がゝりは、狂言の筋のみにあら    ず、役者の身振りを専らとす。故に役わり其人を得ざれば趣向面白からず。国貞其意をしり、此人此役    をするときは、如此ならんと、心の思ふ処を計りて画くゆへに、人みたることもなき古人なども、成程    如此ならんと思ふ。これは長ずる所なり。如此論じて而して後初て平等ならんかし〟    〈鈴木桃野は「其筆の曲を見てよろこばしむ。繪よふはいかなるものなりとも構ふことなし」と言い、「みな作り物な     り。其働く様はみな北斎絲を引き心を入て働かすなり。その物々の心にあらず」とも言う。つまり北斎の本質は自在     な運筆の妙であり、また写生を超えた作為にあるのだと言えよう。写生してその物自体に宿っているものが自ずと気     韻生動を発現しているのではなく、北斎が絵図に自ら魂を吹き込んでいるというのである〉     ◯「江戸自慢 文人五大力」(番付 天保期)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝風流時勢粧 倭画    香蝶楼国貞 歌川国直 歌川国芳 柳川重信 渓斎英泉〟    〈「時勢粧」とは現代流行の風俗という意味、それを画く「倭画」とはすなわち「浮世絵」のこと。国貞を筆頭とするこれら     の面々が当時の浮世絵界を代表する大立者であった。ただ不審なのは北斎の不在。北馬のように画家として別に登場     するわけでもなく、この番付には北斎の痕跡がないのである〉  ◯『江戸風俗総まくり』(著者・成立年未詳)〔『江戸叢書』巻の八 p28〕   (「絵双紙と作者」)   〝独り北斎裁(ママ)計は、寛政度、天明度迄は勝川春朗と呼ばれ、筆力の評も得られざりしが、俳諧狂歌の    摺りものよりして画妙の一風をあらはして、実に是独歩の名人にして、山水の筆勢人物の細密浮世絵師    にもなく真妙の画工にて、北尾重改が筆力を試る斗也、文化の豊広頗る筆をふるひしが中に北斎が上に    たゝん事かたし〟    〈北斎は生前から浮世絵師の範疇を超えた画人として人々の前に聳え立っていたのである〉  ☆ 天保十四年~弘化四年(1843-47)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「新版万国人物双六」「北斎図」西村与八 改印「村」① 白馬山人作    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯「絵本年表」〔目録DB〕(弘化元年刊)    葛飾北斎画『絵本女今川』一冊 葛飾北斎画    ◯「往来物年表」(本HP・Top)    葛飾北斎画『北斎女今川』北斎画 永楽屋東四郎他 弘化元年刊 〔国書DB〕    〈刊年は三康図書館本書誌より〉    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・弘化元年(1844)記)   ◇長寿の人 p463   〝十二月、長寿の人    水口寿山  百五才   末吉石舟  百一才    花井白叟  九十八才  大岡雲峰  八十才    前北斎為一 八十五才〟    ◯『増訂武江年表』2p105(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「弘化元年」記事)   〝今年長寿の人、水口寿山(百五歳)、末吉石舟(百一歳)、花井白叟(九十八歳)、大岡雲峯(八十歳)、    前北斎為一(八十五歳)〟    ◯「【当世名人】芸長者華競」(番付・弘化元~二年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝万画 北斎 卍/稀人 曲亭馬琴〟   〝浮世 香蝶楼/程吉 一勇斎〟   〝画景 一立斎広重/画作 一筆庵英泉〟        〈この番付には「甲乙なし」とあるが、字の大きさや配置からすると、一番格上なのが、戯作の第一人者・馬琴と対     になっている北斎、次ぎに香蝶楼国貞と一勇斎国芳、そして広重・英泉のようである。北斎の肩書は「万画」、ど     んなものでもお手のものという意味なのだろう。他の浮世絵師は国貞・国芳、広重・英泉と浮世絵師同士の組み合     わせだが、北斎だけが馬琴である。北斎に匹敵する浮世絵師はいないという寓意をこめているのかもしれない〉      ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)    (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝葛飾為一 明和の生れ、寛政の頃より天保の今に至つて盛なり     俗称 幼名時太郎、後鉄二郎 居 始本所横網町、数ヶ所に転宅して今浅草寺前に住す     姓 葛飾を以氏の如くす。江戸本所之産なり(三馬云、御用鏡師の男なり)       数度号を改む。左に記す。弘化丁未八十八歳なり    始めは業を勝川春章に受て、勝川春朗と画名す。故有て破門せられ、叢春朗と云り。古俵屋宗理の跡を継    て〔二代目菱川宗理の跡を続て〕二代目菱川宗理となり、其比画風をかへて一派をなせり(堤等林孫二の    画風を慕へり。宗理の頃は狂歌の摺物多し、錦画はかゝず)亦門人宗二に宗理を譲り(三代目宗理トス)    名を家元へ返せり。于時寛政〈十〉戊午年、一派の画風を立て、北斎辰政雷斗と改む(一説、北辰妙見を    信ず、故に北斎と云、此頃は東都に明画の風大に行れたり。     欄外(月岑按るに、群馬亭とも号せり)     欄外(雷斗の画名は重信にゆずる)    流俗に依て画風を立しは、世に出るの時也)北斎流と号して、明画の筆法を以て浮世絵をなす。古今唐画    の筆意を以て浮世絵を工風せしは、此翁を以祖とす。爰において世上の画家、其画風を奇として、世俗に    至る迄大ひにもてはやせり。亦戯作の絵草紙多く〈寛政の頃〉草ざうしの画作を板刻す。作者を時太郎可    候といへり。(叢春朗の頃は役者の錦絵を出せし也。北斎に改て錦画の板下を不画、狂歌摺物画を多く出    せり。錦画の風にあらぬを以て悉く北斎の画風を用られたり。又切組燈籠の画もあり、浅草雷門、あはも    ち、銭湯、天の岩戸〈石橋合セン、江島、御茶の水〉玉藻前、見せ物のとうろう画、其外もありしが忘れ    たり)専ら画狂人北斎と書し、又葛飾北斎と書す(画狂人の号は門人北黄にゆづる。板下はせず)繍像読    本の差絵を多く画きて世に賞せられ、絵入読本此人よりひらけたり。(此頃、画入よみ本世に流行す、画    法草双紙に似よらぬを以て貴しとす。読本画とて別派とす。類考に曰、北斎宗理は狂歌摺物の画に名高し。    浅草に住す。すべて摺物の画は錦画に似ざるを貴しとす云々)京師大阪より雷名を慕ひ、門人多く来って    学ぶ者夥しかりし。尾州名古屋を始として、京大阪に必覿する者なし、板刻の密画に以て、世に独歩す。    数百部の刻本枚挙すべからず〈文化の末より〉漫画と題するもの殊に行れて数篇を出せり(始板元江戸角    丸屋甚助、後尾州名古や永楽や東四郎と成)再名を門人に譲りて、雷信、錦袋舎戴斗と改めたり。前ノ北    斎戴斗と書す(二代目北斎は本所の産なりしが、後、吉原仲の町亀屋 アキ と云茶やに成、両国回向院にて    大画の布袋を書り、錦袋舎名弘の画会あり。大画は度々なり。十六間四方、十八間四方、名古屋にては出    山の釈迦を画り)是をも文化の末、門人北泉に譲り(北泉にゆづる)前北斎為一と改名す。門人に臨本を    与ふるに遑あらずとて、是が為に画手本を板刻して、数十部を世に行しむ。生涯の面目は、画風公聴に達    して、御成先に於て席画上覧度々あり。稀代の画仙妙手といふべし。     板刻の画手本      北斎漫画(自初編至十三篇)     櫛きせる雛形(中本横本)      戴斗画譜(空白)冊         地文雛形      北斎画鏡              画本独稽古 (初編より四編迄中本)      北斎画叢              画本早引  二冊(いろはに分て画 不明 す)      三躰画叢 一冊(真草行を分て画し也)為一画譜      写真画譜(折本)一冊     画本魁  一冊    武蔵鐙  一冊      隅田川両岸一覧(彩色摺狂歌入 二冊 文化の頃)   浄瑠璃絶句 一冊     読本目録 此外中本数多あり。草そうしは殊に多ければしるさず         (按ずるに京伝作の読本一部も画ず)     椿説弓張月  廿九巻  馬琴作      (三七全伝)南柯の夢 (空白)冊  馬琴作     忠孝潮来節   五冊  焉馬作       玉の落穂     十冊  小枝繁作 戊辰     怪談霜夜星   五冊  柳亭〈テイ〉作 戊辰 東嫩〈フタバ〉の錦 五冊  小枝繁作     国字鵺物語   五冊  芍薬亭作 戊辰   阿波鳴門     五冊  柳亭作 戊辰     仮名手本後日文章 五  焉馬作 己巳    新累解脱物語   五冊  馬琴作    〔忠孝潮来武志〕     立川焉馬作     敵討裏見葛葉   五冊  馬きん作     双蝶々白糸双紙 五冊  芍薬亭       阥阦妹背山  六冊  振鷺亭作 密画殊に勝れたり    (お陸〈リク〉幸介)恋夢盤〈ユメノウキハシ〉 三冊 楽々庵桃英作 文化六     隅田川梅柳新書 六冊  馬琴作      (標注)そのゝ雪  五冊  馬琴作     水滸画伝        馬琴作       頼豪怪鼠伝    十冊  馬琴作 戊辰     百合稚埜居鷹  萬亭叟馬作 五冊      松王物語     六冊  小枝繁作 文化壬申     上欄外〈新田功臣録 十 繁作〉          青砥藤綱模稜案 十冊  馬琴作       勢多橋竜女本地  三冊  種彦作 辛未                                        殊に密画なり 朝倉伊八刀     飛騨匠物語   六   飯盛作 文化六己巳 皿々郷談     六冊  馬琴作     橋供養     五冊  小枝繁作      小栗外伝    十六冊  小枝繁作     北越奇談    六冊  橘茂世作 文化九申 濡衣草紙     五冊  芍薬亭作     山荘太夫    五冊  谷峨作       漢楚軍談  絵本三国誌
   「葛飾北斎系譜」         伝に曰、為一翁は曲画を善す(升、玉子、徳利、筥、すべて器財に墨をつけて画をなす。左筆も妙也。下    より上へ書き上る逆画をかけり、中にも爪にて墨をすくひて画はすぐれて妙也。筆にて画たる如く也。画    く所をみざれば、其意を知べからず。北斎は俳諧を好み、川柳の狂句を能す)自ら云、数年諸流の画家に    入、其骨法を得て一派の筆法を立、画道の業において、筆をこゝろみ〔得〕〈ゑ〉とくせざる事はなしと    云り。香具師の看板画より芝居操の看板、油画、蘭画に至る迄、往々新規の工風を画き、刻本の細密定規    引きの奇行なる、類すべきものなし。京師浪花は悉く翁の画風を学びて、名を改すといへども、門弟にな    らざるはなし。紅毛よりも需に応じて二三年の間数百枚を送りしかば、蘭人も大ひに珍重す。後是を禁ぜ    られたり。天保の今に至るまで六〈七〉十余才、筆格少も衰へず、近年錦画多く出せり(諸国山水、百鬼    夜行、三十六景の富士、諸国瀧廻り、花鳥尽し、張交画、琉球八景、百人一首の意、其外多し)肉筆の彩    色殊に見事也(為一翁宅を転する事一癖なり。数十ヶ所、一二月にして易る事幾度といふを知らず)刻本    春画数篇あり)     欄外〈為一翁は嘉永二酉年四月十三日九十歳にて卒、浅草八軒寺町誓教寺に葬         辞世  人だまで行気さんじや夏の原        南惣院奇誉北斎信士〟  ☆ 弘化二年(1845)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(弘化二年刊)    葛飾北斎画『画本独稽古』一冊 北斎画 松亭のあるじ序(北斎漫画初編中の画なり)布袋屋市兵衛板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(弘化二年刊)    葛飾北斎画『絵本漢楚軍談』二輯 葛飾北斎画 為永春水編    ☆ 弘化三年(1846)  ◯「古今流行名人鏡」(番付 雪仙堂 弘化三年秋刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝幟書 天明 三井親和  画工 文政 喜多武清   略画 天保 葛飾北斎    戯作 文化 式亭三馬  落咄 文化 朝寝坊夢楽  狂作 文化 立川故焉馬(ほか略)〟  ☆ 弘化初年(1844~)    △『戯作者撰集』(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   (石塚豊芥子が北斎の言として取り上げた記事)   ◇「安永八年」の項  p64   〝窪田春満    為一翁云、通けり猫のわざくれと云、回向院前猫茶屋を戯作せし草そうしあるよし〟    〈「日本古典籍総合目録」によると『通鳧寝子の美女 (かよいけりねこのわざくれ)』は安永八年(1779)刊の黄表紙で、     俊満は黄山堂の名称で戯作、作画は北川豊章(歌麿)。『戯作者撰集』の編者・石塚豊芥子は、この北斎の証言を、     おそらく俊満戯作の初筆として、受け取ったものと思われる〉        ◇「天明元年」の項 p69   〝是和斎 北斎先生也 後鏡師中島伊勢悴     後魚仏又可侯      同苗鉄蔵                 後に三浦屋八右衛門    嘉永二己酉年四月十八日 終る 九十歳    法名 南照院奇誉北斎信士 浅草六軒寺町 誓教寺    辞世 人魂て行きさんじや夏のはら〟    〈記事自体は北斎没後に書かれたものであるが、天明元年(1781)の項に、是和斎の戯作名で記載したのは、この年の黄     表紙作品『有難通一字』が是和斎名の初筆にあたるからだと思われる。「北斎先生」と敬意を込めて書き留めたのは、     『戯作者撰集』の編者・石塚豊芥子。彼は生前の北斎とは面識があって、『戯作者撰集』のために聞き書きをしてい     るくらいだから、この記事の事実確認もしたはずである。翌二年にも是和斎作の草双紙は一点あるが、それ以降使用     された形跡はない。また是和斎名はこの年の評判記『菊寿草』の「作者之部」に載っているが、翌二年の『岡目八目』     には見当たらない。そのかわり魚仏名で載っている〉    〈岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏は戯作名「是和斎」を「春朗の戯号とする確証はない」としている〉     ◇「天明二年」の項 p75   〝魚仏  前北斎戴斗為一翁の事也〟    〈『戯作者撰集』天明元年の記事参照。これも「是和斎」同様、石塚豊芥子が直接北斎に確認した上での記載であろう〉     ◇「天明三年」の項 p80   〝楚満人 南杣笑    北斎為一翁云、元板師なりと云〟    〈楚満人の黄表紙は天明三年が初登場。三点刊行された。二点は北尾政美、もう一点は鳥居清長が画工を担当している〉      ◇「天明六年」の項 p96   〝自惚山人    横山町一丁目、池田屋久三郎と云。産業煙管屋也。後見世を廃し、浅野幸六右衛門、後に北水と号し、    天門歴(ママ)学、十日の内に師南すと云て、諸国遊行せし由、終をよくせざりしと北斎翁の話也〟    〈自惚山人の黄表紙は二点しかないが、その初作『前々太平記』が天明六年(1786)の刊行、画工は春朗〉     ◇「天明八年」の項 p108   〝黒木    北斎翁為一云、京伝方に寓居せし黒山人と云ものあり、学者にて、京伝の片腕なるものゝよし、後、東    海道三しま宿に住居し頓死すと云    天明三年に    女荘子小蝶夢と云出板【序文京伝】、是壱部のみか〟    〈〔国書DB〕には『女荘子胡蝶夢魂〕(黄表紙・黒木作・勝川春朗画・寛政四年刊)とある〉     ◇「文化九年」の項 p245   〝鶴屋南北 稗史作名姥尉助と云、高砂町に住         本所亀井戸に住す         元浜町紺屋伜勝次郎と云、後に戯場作者と也 北斎為一翁の話なり〟    〈『戯作者撰集』の記述例からすると、姥尉助の初作は文化九年ということになるのだが、「日本古典籍総合目録」に     よると、合巻の初出は文化五年(1808)刊の『敵討乗合噺』(画工国貞)である。豊芥子が文化五年のものを見逃した     のであろうか。文化九年の合巻は『恋女房讎討雙六』で、画工は歌川国長である〉    ☆ 弘化三年(1846)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(弘化三年刊)    葛飾北斎画『絵本武者部類』一冊 北斎ナルベシ 松亭金水撰 清光楼梓                 (頭注 有疑、再調ヲ要ス)    ◯「読本年表」〔書目年表〕(弘化三年刊)    葛飾北斎画『源氏一統志』北斎為一画 松亭金水作    〈『日本小説書目年表』は天保十年刊とするが『改訂日本小説書目年表』は「弘化三年版が初摺本カ」とする〉    ☆ 弘化四年(1847)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(弘化四年刊)    葛飾北斎画『烈女百人一首』一冊 細画葛飾卍老人 肖像一陽斎豊国 緑亭川柳編    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(弘化四年刊)    葛飾北斎画『列女百人一首』口絵・挿絵・肖像〔跡見88〕    奥付「細画 葛飾卍老人 肖像 一陽斎豊国」緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板 弘化四年正月刊    ☆ 弘化年間(1844~1847)    ◯「日本古典籍総合目録」(弘化年間刊)   ◇絵本    葛飾北斎画『北斎漫画早指南』葛飾北斎画 弘化頃 初・二編二冊      ☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)    ◯「絵本年表」(嘉永元年刊)    葛飾北斎画〔漆山年表〕    『秀雅百人一首』一冊 画工渓斎英泉 柳川重信 一陽斎豊国 一勇斎国芳 前北斎卍老人               緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板    『絵本庭訓往来』中下編 画工前北斎為一写 中編山禽外史 下編六樹園跋 永楽屋東四郎板    『彩色通』初二編 前北斎卍老人著 二編豊芥子序 錦耕堂他板    葛飾北斎画〔目録DB〕    『地方測量之図』葛飾為一画    『花鳥画伝』初編 葛飾戴斗画 須原屋新兵衛板    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(弘化五年刊)    葛飾北斎画『秀雅百人一首』色摺口絵・挿絵・肖像〔目録DB〕〔国会〕    奥付「画工(口絵・肖像)前北斎卍老人(肖像)一勇斎国芳 柳川重信 渓斎英泉 一陽斎豊国」    1ウ2オ口絵の署名「八十八歳卍筆」    緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板 弘化五年正月刊    ◯「【流行】長者盃」(番付・嘉永元~二年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝画(行事)雲峯・武清・椿年〟      〝浮世画 国芳・卍老人・豊国    〈喜多武清は大岡雲峯や大西椿年と共に行事として番付の中央に位置している。町絵師の中でも別格の扱いである。     卍老人は北斎、そしてこの豊国は三代目(初代の国貞)。国芳・北斎・豊国、彼等がこの時代を代表する浮世絵師     なのである。ただ、そこに広重が入っていない点、現代の感覚とはズレがあるようだ〉    ◯『葛飾北斎伝』p168   〝嘉永元年、北斎翁、本所より移りて浅草聖天町の遍照院の境内に住せり〟       ◯『名聞面赤本(なをきけばかおもあかほん)』一冊 渓斎英泉画 英魯文作〔目録DB〕    〈野崎左文の「仮名垣魯文伝」によると、この摺本は英魯文(後の仮名垣魯文)の戯号披露の摺物で、本来は嘉永元     年(1848)の頒布を予定していたが、資力不足で延引、刊行は同二年の春の由。(明治28年2月刊『早稲田文学』81     号所収)したがって弘化四年(1847)の詠と思われる〉   〝為一百翁 まだ生てゐるかと人にいはれてもかくこそ長かれ筆の命毛〟      〈浮世絵師で歌と句を寄せた人々は以下の通り〉    柳川重信・葵岡北渓・一筆庵英泉・朝桜楼国芳・墨川亭雪麿・為一百翁(北斎)・香蝶楼豊国    ☆ 嘉永二年(1849)(四月十八日没・九十歳)     ◯「絵本年表」(嘉永二年刊)    葛飾北斎画〔漆山年表〕    『続英雄百人一首』一冊 画工玉蘭斎貞秀 一勇斎国芳 柳川重信 一陽斎豊国 前北斎卍老人                緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板    『北斎漫画』十三編 葛飾為一老人筆 山禽外史序 東壁堂板    『北斎漫画』十四編 百南翁序 永楽屋東四郎板     (本書刊年不明なれども十三編の次に出たり。本編ハ翁没後の出版にして翁の遺墨を集めて一書となせるなりといふ。      十五編ハ明治十一年の出版なり)    『北斎画譜』三冊 永楽屋東四郎板    葛飾北斎画〔目録DB〕    『北斎画帖』一冊 葛飾北斎画    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永二年刊)    葛飾北斎画    『続英雄百人一首』上中下 口絵・肖像〔跡見91-93 異種〕     奥付「画工 口絵出像 前北斎卍老人 出像 一勇斎国芳 玉蘭斎貞秀 柳川重信 一陽斎豊国」     緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板 嘉永二年正月刊    ◯『百人一首女訓抄』広重画 頂恩堂本屋又助 嘉永二年正月再刻〔目録DB〕   (頂恩堂 巻末広告)   〝前北斎卍老人筆 卍翁叢書 全一冊    老先生九十年長寿にして 今猶壮年の人も及ばず 独学一家の妙筆更に衰へず 実に伝神開午(ママ)目出    度画手本也〟    〈「卍翁叢書」とは天保14年刊の平林堂版『卍翁草筆画譜』か。頂恩堂が平林堂から板株取得したものと思われる。北     斎はこの正月で九十、長寿を宣伝文句にして売り込もういうのである〉    ◯「【俳優画師】高名競」嘉永二年刊(『浮世絵』第十八号  大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション画像)(21/25コマ)   (番付中央)    上段(行事)  秋津島 坂東三津五郎 漫画 前北斎卍翁 三国志 玄龍斎戴斗    中段(年寄)  千里鏡 歌川国丸   兼  尾上梅寿  摺物  葵岡北渓    下段(勧進元) カネル 中村歌右衛門 一陽斎豊国〟    〈『北斎漫画』の葛飾北斎がこの当時の浮世絵師の第一人者という処遇である。続いて弟子の玄龍斎二代目戴斗と葵岡     北渓、時代は歌川派全盛であったが、北斎門流の浮世絵師も一目置かれていたのであろう。本HP「浮世絵事典」【う】     「浮世絵師番付」嘉永二年の項参照〉  ◯「嘉永二年己酉日記」二月廿五日 ④525(『馬琴日記』第四巻)   〝中村勝五郎来る。九年以前願候四天王序文の事ニて来ル。右の序文ハ、稿被置候まゝ、種本其儘返し遣    ス。    (中略)画工北斎、此せつ大病のよし、勝五郎の話也〟    〈中村勝五郎は板元。この「四天王」序文とは、天保四年(1833)十月二十五日記事〝画工北渓来ル。予、対面。手みや     げ、被贈之。先比、中村や勝五郎頼候武者画本之事、北渓此節手透(二字ムシ)画に取かゝり度よし、申之。依之、     右画の注文、示談。先、頼光の四天王より画はじめ候様、示談〟とあるものであろう。「九年以前願候」とは天保十     一年頃に相当する、天保四年の記事とは年数に隔たりがあるが、このあたりの事情については分からない。ともあれ、     中村勝五郎は馬琴に預けておいた「種本」を取りに来たのである。その中村から北斎大病の消息を聞いた。この頃に     なると、出版関係者の来訪記事は大変珍しい。馬琴の死後、日記には、蔵書の貸出記事はあるが、筆工・画工・板元     に関する記事はほとんど見あたらない。これ以降、浮世絵師に関する記述もない。奇しき縁とでもいうべきか、北斎     が滝沢家日記に登場する最後の浮世絵師になるとは。記述は、故馬琴の嫡子故宗伯の妻・路(みち)〉    ◯『葛飾北斎伝』p169   〝嘉永二年、翁病に罹り、医薬効あらず。是よりさき医師窃(ひそか)に娘阿栄に謂(いい)て曰く「老    病なり、医すべからず」と。門人および旧友等来りて、看護日々怠りなし。翁死に臨み、大息し「天我    をして十年の命を長ふせしめば」といひ、暫くして更に謂て曰く「天我をして五年の命を保たしめば、    真正の画工となるを得べし」と、言訖(おわ)りてす。実に四月十八日なり。歳九十。浅草の誓教寺に    葬る〟    〈岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏によると、お栄が北斎門人の北嶺に送った死亡通知が現存する由、     文面は以下の通り〉   「四月十八日、深川下の橋北嶺様 栄拝 葬式明十九日朝四ツ時 卍儀病気の処、養生不相叶 今晩七ツ    時に病死仕候 右申上度早々如此御座候 以上 四月十八日」    ◯『増訂武江年表』2p117(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)    (「嘉永二年」記事)   〝四月十三日、浮世絵師前(サキノのルビ)北斎為一(イイツ)卒す(九十歳なり。浅草八軒寺町誓願時に葬す)辞    世句「人魂でゆくきさんじや夏の原」。翁名は辰政といふ。始め勝川春章に学び春朗と号す。後俵屋宗    理に学びて二世の宗理となる。一号群馬亭ともいへり。自ら一化をなして葛飾北斎と改む。夙齢の頃草    双紙の画作ありて時太郎可候としるせり。文化の末より戴斗又為一と号す。寛政の頃より嘉永の今に至    りて、刻板の密画、読本のさしゑいくばくと云ふことを知らず。「北斎漫画」其の時の粉本世に行はれ、    九旬に及びて筆力衰ふることなく、三都其の外門人数ふるに遑あらず。娘栄女も又板本多く画けり〟    〈四月十三日はあやまり。十八日が正しい〉     △『戯作者考補遺』(木村黙老編)   ◇p315   〝北斎為一翁 三浦屋八右衛門    俗称を中島鉄蔵といふ。名は辰政(トキマサ)、字を雷震(ライシン)といふ。初め北尾氏の門に入て、北尾と称    し、又春朗(シユンロウ)ともいふ。中頃、俵屋宗理と改め専ら歳旦等の摺物の絵を画く。又群馬亭、錦袋舎、    葛飾為一等の数号あり。艸双紙の作をなすに、時太郎可候と号す。此翁、名と住居を替るの癖ありて、    当時は本荘辺に住すといふ。弘化二年の頃、年齢八十余歳、浮世絵を排斥して和画をなすに、細画をも    かく。壮なりといふべし。俗に諂(ヘツラ)はず一畸人なり。娘ありて柳川重信に嫁せしが、離縁して今家    にあり。此婦人も畸人にて当時【弘化二年】三十歳余、画をよくし、且至て器用なり。土偶人(ツチニンギ    ヨウ)を造るに妙手なり。一日土を以て町家の娘と町芸者と深川妓婦三人にて、遣(ヤ)り羽子(ハゴ)を突く。    偶人を作るに其情態髪形の体、真のごとし。又此婦人至て火事を好みて、夜中といへども十町廿町の場    へ見物に往く事屡(シバシバ)なれども、北斎も敢て足をとどめず。倶に畸人といふべし。    (頭注)【爰に此娘を柳川重信に嫁したる人とせしは伝聞の誤なり。北斎、女子三人有、重春に嫁せし         女は早世にて死したり。二女も他へ嫁したりと云。今内に在て爰にいふ所の女子は第三女也】    北斎の門人夥し。江都のみならず、京摂尾張などにも多し。画ける版行の本数多なり。北斎漫画【十編    十冊】。通俗三国志【十編五十冊】。通俗水滸画伝【三十五冊】。其余枚挙に遑あらず。委しくは浮世    絵類考に出たり     嘉永二年己酉四月十七日没     法名 南総院奇誉北斎信士 行年九十歳〟     ◇p448)   〝戴斗 先北斎 石原片丁 錦袋舎  中島鉄蔵〟    〈『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)に同じ〉    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p162   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 まだ生(イキ)て居るかと人に言はれても斯(カク)こそ長けれ筆の命毛(イノチゲ)    為一百翁    魯曰、前北斎為一翁号一号卍老人、初号勝川春朗改めて二代目俵屋宗理、又更に北斎辰政一号戴斗、後    北斎の名を門人に譲り前北斎画狂人卍翁と記名す、壮年安永の頃黄表紙青本(アオボン)の画作を共にし一    筆庵可候と号し又時太郎とも署名せり、此の作名は翁の幼名なりしもの歟、此翁の奇聞最も多くして尽    しがたし其伝は友人只誠が筆記誠垓只録(セイガイシロク)中に詳細に挙げたり、嘉永二己酉年四月十八日九十    歳の高齢を以て歿す法号南総院奇誉北斎、浅草新寺町誓願寺に墓あり、建石の左側に「人魂で行く気さ    んじや夏の原」の辞世あり、実に近世我が浮世絵師の巨擘独立一家の画風、今に於て独り内国人のみな    らず支那欧米各国の活眼者此翁の画風を観て奇に驚き妙を賞せざるはなしと聞けり〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している〉    ◯『国字小説通』〔続燕石〕①303(木村黙老著・嘉永二年序)   〝読本繍像之精粗    文化の初に至て京伝が忠義水滸伝の口絵、唐山の水滸繍像に傚ひて、北尾重政が筆を奮ひて画きしより、 殊外に評判よかりし故、馬琴作の翻釈水滸画伝のゑを葛飾北斎画がき、京伝作の善知鳥全伝をば歌川豊 国絵がきて、皆々巧妙の手を尽せしより、諸作みなみな新奇を争ひて絵がくことゝは成たり〟    〈「馬琴作の翻訳水滸伝」は『新編水滸画伝』初編(文化二年、四年刊)〉    ☆ 刊年未詳    ◯「日本古典籍総合目録」(刊年未詳)   ◇絵本・絵画    葛飾北斎画    『唐詩選五言絶句』二冊 葛飾北斎画(注記「明治一三版あり」)    『みやこどり』一帖 葛飾北斎画(注記「シカゴ美術館蔵は享和2年刊」)    『初心画本』 二冊 葛飾北斎画(注記「絵本の研究による」)    『漫画』 戴斗翁画    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(刊年未詳)    葛飾北斎画    『日宮奉額狂歌合』一冊 葛飾北斎画 千種庵撰    『狂歌百人一首』 一冊 葛飾北斎画 富士唐書    『狂歌両筆画図』 一冊 葛飾北斎画 立好斎     『掛合狂歌問答』 一冊 勝川春朗画    『みやこどり』  一帖 葛飾北斎画    『春之曙』    一帖 喜多川歌麿画 百琳宗理(北斎一世)芍薬亭長根編    『月花帖』    一冊 北斎画 浅草庵編    ◯「艶本年表」(刊年未詳)    葛飾北斎画〔日文研・艶本〕    『喜能会之故真通』色摺 半紙本 三冊      序「甲の小松寐にかよふ猫の恋する春の夕部(ゆふべ)徒然のあまりぬら/\と書のめすことしかり        つるんでぬけぬ戌のはつ春  紫雲菴 雁高誌」       〈これを甲戌の制作とみなすと、文化十一年となるのだが。書誌データは空欄である〉    『陰陽淫蕩の巻』 墨摺 半紙本 一冊 序「大羅発志腎満」    『好色堂中』 小本一冊      序「助兵衛山人股くらをむくつかせて好色堂中に序す かのへさるのむつまし月ひつ書く」      跋「雁高菴題」           〈北斎の庚申は寛政十二年だが。書誌データは空欄である〉    『誉おのこ』   色摺 大判 一帖 序「沈淫主人述」    葛飾北斎画〔目録DB〕    『喜能会之故真通』三冊 葛飾北斎画(注記「艶本目録による」)    『絵本つひの雛形』一帖 葛飾北斎画    『春色二人娘』  三冊 北斎画? 鶏卵亭主人(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『倡定逸能好』  一冊 葛飾北斎画    『万福和合神』  三冊 葛飾北斎画〈下掲『本之話』参照〉    『漢楚艶談』   三冊 北斎画  (注記「艶本目録による」)    『浪千鳥』    一帖 葛飾北斎画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)  参考  ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (出典『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   〝和合神といふ書、挿絵は北斎と伝ふれど、実は柳川重信なるべし、北斎ならばもつと胴がつまつてゐま    すと、先代の村幸主人いひし事あり 此版木一枚 某士大阪にて求めたりとて秘めもたりけるが、それ    は其の書の末の方なりし、今は如何しけむと、或人かたれり〟    〈白倉敬彦著『絵入春画艶本目録』の書誌は〝『万福和合神』色摺 半紙本 三冊「和合堂主人」序 北斎画・作 文     政四年〟とする。村幸主人とは芝の古書店主・村田幸吉。古書店主の直感が是か非か、参考までに言えば、この艶本     は無署名〉    ☆ 没後資料    ☆ 嘉永三年(1850)頃    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永三年刊)    葛飾北斎画    『義烈百人一首』一冊 画工 玉蘭斎貞秀 一猛斎芳虎 一勇斎国芳 一陽斎豊国 前北斎卍老人               緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板    『絵本和漢誉』一冊 前北斎画狂人卍筆 山崎美成序(天保七年初版)    『絵本孝経』 二冊 前北斎卍老人画 天保五甲午孟春 高井蘭山序 嵩山房板           (初版は天保五年刊)    『万職図考』四・五編 葛飾戴斗先生画 四編序松亭漁父 五編序金水陳人 河内屋茂兵衛板           (初編文政十年、二・三編天保六年刊)    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永三年刊)    葛飾北斎画『義烈百人一首』口絵・肖像〔跡見102 異種〕    奥付「画工(口絵・肖像)前北斎卍老人(肖像)一勇斎国芳 一猛斎芳虎 玉蘭斎貞秀 一陽斎豊国」    緑亭川柳編 山口屋藤兵衛 嘉永三年正月刊    ◯「読本年表」〔目録DB〕(嘉永三年刊)    葛飾北斎画『平将門退治図会』北斎為一・柳川重信二世・玉蘭斎貞秀画 中村定保編  ◯「【高名時花】三幅対」(番付・嘉永三年五月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   (番付中央)   〝古人 松本錦升・豊一法師・尾上梅寿・曲亭馬琴・菊地五山・谷文晁・北斎為一・桃林東玉・豊竹靭太夫〟    〈谷文晁(天保十一年没)馬琴(嘉永元年没)北斎(嘉永二年没)は、故人として別格扱い〉    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   ◇中p1386
   「宮川長春系譜」〝春朗 今改宗理俵屋〟     ◇中p1418   〝北斎 始勝川春朗ト云、中頃宗理ノ名跡ヲ継、俵屋宗理ト称ス、寛政十年頃、改北斎、住浅草、後住葛       飾、是又狂歌摺物ノ画ニ名高シ、浮世絵類考br>    文化元年三月、護国寺観世音開帳アリ、四月十三日、画人北斎、本堂ノ側ニ於テ、百二十畳敷の継紙ヘ、    半身達磨ヲ画ガク【武江年表】    葛飾北斎辰政、始春朗、宗理、群馬亭、後北斎戴斗、又為一ト改【同書】
   北斎往年、林町三丁目、家主甚兵衛店ニ住シ、某ト隣家ニテ懇意ニ致セシ也、其頃長崎ヨリ出府ノ紅毛    カピタンノ誂ヘニテ、我邦町民ノ児ヲ産タル図ヲ始メトシテ、年々成長ノ所、稽古事致、又年タケ遊里    ナドヘ通ヒ候体、家業ヲ勤ル図ヨリ、老年ニ及ビ命終ノ体マデ、男子ト女子ト一巻ヅヽ二巻ニ画キ畢、    又カピタンニ付参候紅毛ノ医師モ又其通リ二巻誂ヘ、又画成テ旅宿ヘ持参シ、兼テ約シ候如ク、カピタ    ンヨリ二巻ノ挨拶、百五十金請取、ソレヨリ医師ノ部屋ヘ参リ、是ヘモ渡シ候時、医師申ハ、カピタン    ハ夫ダケノ有力ユヱ、百五十斤差出シ候ヘドモ、此方ノ身分ニテハ又同様ニハ謝シ難シ、半減七十五金    ニテ済シ申サレ候様申ニ付、北斎答テ、左様ノコトニ候ハヾ、何故最初ニ不被申候哉、初ニ承候ヘバ、    画ハ同様ニ見エ候テモ、彩色其外ニ略シ様モ候ヘドモ、今更聊モ引申難シ、又カピタン主ヘ対シ候テモ、    不相成候ト申候ヘバ、左候ハヾ、二巻ノ内男子ノ方一巻計ニ致、定価ノ半金渡シ可申ト申候ヘ共、二巻    之内一巻分候儀ハ致ガタシ迚、二巻共持帰リシ折節、某モ参居候所ヘ帰リ、其由ヲ語リ候ヘバ、家婦、    夫ハケシカラヌ御了簡違也、異国ナレバコソ此方ニテハ珍ラシカラヌコトヲ悦、画ニ頼候ヘ共、誠ノス    タリ物ニテ、其間ノ隙ヲ費、雑用ヲカケ候ダケノコト、皆損失ト也、反故同前ノカクニ候、何程ニテモ、    先方ノ申通ニ遣サルベキコトナルヲ、御心付無之哉ト申候ヘバ、サレバトヨ、此方ニテハ、モトメ候者    モナクスタリ物トナルコトハ、弁ヘザルニ非ズ、然レドモ異国ノ者、左様ニ不正ノコトヲ申候ヲ、其通    リニ致遣シ候テハ、自分ノ損毛ナク候共、日本ノ恥辱ニ候間、其所ヲ存ジ、持帰リタル也ト答ヌ、サス    ガ俗画ニ致セ、都下ニ雷鳴致程ノ画師ハ気性格別ノ事也ト、某深ク感候、其後カピタン聞之、以ノ外ノ    コト也トテ、自分ヨリ金子ヲ出シ定価ニテ調、国ヘ持参候由、末世ト申セドモ、我邦ノ人気、大和魂侍    リ候事、予モ又深クコレヲ感称シテ記置了【天保十年六月八日針医某話】
   北斎男子ハ御小人目付ヘカ家ヲ継、加瀬多吉郎トテ本郷ノ組屋敷ヘカ別宅ス、娘お栄トカハ才子也、外    ニ孫ノ男子二人アリ、北斎其後、林町ヨリ外ヘ転宅ス、其後、年経テ途中ニテ逢候所、孫両人共ニ、放    蕩ニテ甚困リ候ニ付、只今ハ本郷ノ倅方ニ同居致候ト被申候、一昨年【天保八年】ノ頃没シ被申候由、    加瀬氏ハ墓所一覧ニ漏タル名家ノ墓所ヲ編集致サレ候と也【同人話】
   宗理、是又狂歌俳諧の摺物に名高く、浅草第六天神の脇町に住、すべて摺物も錦画に似ざるを尊ぶとぞ
     [印章]「宗理」(朱文方印) (補)[署名]「北斎筆」[印章]「刻字未詳」    〈画料をめぐる阿蘭陀医師とのトラブル、明治の人も興味をもったようで、多少の脚色を加えて次のように伝えている〉    葛飾北斎伝(太華山人著・明治26年刊)    画人逸話 (吉山圭三編・明治42年刊)  ◯『画家大系図』(西村兼文編・嘉永年間以降未定稿・坂崎坦著『日本画論大観』所収)
   「宮川・勝川画系(北斎派)」    ☆ 安政元年(1854)
 ◯『わすれのこり』〔続燕石〕②125(四壁庵茂蔦著・安政元年序)   〝北斎大馬    本所合羽干場にて、せんくわ千枚つぎに墨画の大馬を画きたり、桟敷をかけてみせたり〟    ☆ 安政三年(1856)
   ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②90(岩本活東子編・安政三年成立)   〝北斎     北斎、号を錦袋舎といふ、初め春朗といひて、勝川春章が門人也、俗称鉄五郎、後年破門せられてより、    勝川を改め、叢春朗といふ、其後、俵屋宗理が跡を続て、二代目宗理となる、後、故ありて名を家元に 帰し、北斎辰政【寛政十年のころ】と改む。其名を門人に譲りて、雷信と改め、再門人に与へて、戴斗 と改め、是をも門人にあたへて、為一とあらたむ、本所の産にして、住居数多かわれり、御用鏡師中島 伊勢が男也、作名を時太郎可候といふ、又、是和斎といひ、魚仏ともいふ。嘉永二己酉年四月十八日没 す、年九十、浅草六軒寺町誓教寺に葬る、     法号 南照院奇誉北斎信士      辞世 人魂でゆくきさんじや夏の原〟
   「北斎肖像」(早稲田大学・古典籍総合データベース・『戯作六家撰』)    ◯『真佐喜のかつら』〔未刊随筆〕(青葱堂冬圃記・安政初年成立)   ◇(二代目北斎記事)⑧309   〝前北斎為一老人は其名四方に高く、幼童といへどもしる程なり、師の弟子に深川高橋に住ける橋本某が    倅喜三郎といふものは、幼年の頃堀江六間町なる砂糖店の丁稚奉公につかはしけるが、客のいとまある    時は筆をとりてゑがく、されば自然主人の心に叶ず、終に家にもどる、父も心に任せ北斎門人とす、或    日浅草観音へもふで、堂内の掛額の中、雪山等林が筆をふるひし韓信市人の胯潜の図をよくみて、師の    かたへ行、等琳が筆意、眼をおどろかすばかりなれど、一の失あり、うしろのかたにたち居る衆人の足、    小指のあるべき方に大ゆびありとかたる、師すぐさま喜三郎を同道して、かの額をみるに、喜三郎がい    ふにたかはず、是まで数年多くの人こゝろ付ずありしを、若年のもの見出し候は不思議なりと語られし    が、此喜三郎二代北斎となり、終惜しいかな新吉原遊女屋の養子となり、画名発せず、末はいかゞなり    しや〟
  ◇「ヘロリン」記事 ⑧311   〝此絵の具摺物に用ひはじめハ、文政十二年よりなり、(中略)されど未錦絵には用ひざりしが、翌年堀    江町弐丁目団扇問屋伊勢屋惣兵衛にて、画師渓斎英泉【英山門人】画たる唐土山水、うらハ隅田川の図    をヘロリン一色をもつて濃き薄きに摺立、うり出しけるに、其流行おひたゝしく、外団扇屋それを見、    同くじ藍摺を多く売り出しける、地本問屋にては、馬喰町永寿堂西村与八方にて、前北斎のゑがきたる    冨士三十六景をヘロリン摺になし出板す、是又大流行、団扇に倍す、其ころ外にしき絵にも、皆ヘロリ    ンを用る事になりぬ〟       ◇「葛飾ぶり」⑧259   〝世に鳥羽絵と云て、人のかたちいと痩たるさまにおかしく絵かきたる也、此のはじめは鳥羽僧正覚猷の    工夫により此名有、北斎翁、葛飾ぶりと唱へて、彼鳥羽絵に反して、人の形肥えふとりたる躰、姿おか    しくゑがき初しが、鳥羽絵ほどもてはやさずやミぬ、名人の上にも失はある者也〟    ☆ 文久二年(1862)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文久二年刊)    葛飾北斎画    『北斎画本雛形』一冊 画狂人北斎画 山々亭有人序 若林喜兵衛板            (本書はもと一板彩色摺にて出でたるもの此年一部の書とはなしたり)    『北斎翁道之志遠里』飯島虚心の『葛飾北斎伝』引用     「此書は翁筆にあらず。柳川重信か或は阿栄の画ならん」     「又翁が壮年の比画き置きたるを彫刻せしものか」     ☆ 元治元年(文久四年・1864)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(文久四年刊)    葛飾北斎画『孝経絵入』二冊 北斎画 高井蘭山撰    ☆ 刊年未詳(幕末)  ◯「【中興/近代】流行名人鏡」(番付 一夢庵小蝶筆 板元未詳 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (中段 西)   〝戯作 正徳 西鶴  画工 文政 喜多武清  略画 天保 葛飾北斎  戯作 文化 式亭三馬〟  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)  ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪187(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「宮川長春系譜」     〝(北斎)女子 門人柳川重信雷斗ノ妻トナル。男アリ。為一実孫也〟   〝(北斎)女子 御鏡御用ノ家ニ嫁ス。早世ナリ〟   〝(北斎)女子 始南沢ニ嫁シテ離別ス。父ニ学ンデ画ヲ能ス。栄女〟    ☆ 明治十年(1876)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治十年刊)    葛飾北斎画『北斎臨画』一冊 筆者故人葛飾北斎 榛園主人秋津序 吉川半七板    ☆ 明治十一年(1878)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治十一年刊)    葛飾北斎画『北斎漫画』十五編 一冊 葛飾北斎遺墨 片野東四郎編 東壁堂板   〈十五編の出版については、以下のような事情があった〉   『葛飾北斎伝』(飯島虚心著 蓬枢閣(小林文七) 明治二十六年(1893)刊)   (鈴木重三校注 岩波文庫本p129)   〝織田杏斎氏【名古屋の人、同所元重町に住す。画を善くし、陶器に画き、又七宝の下画を画く。予の名    古屋にある、一日同氏を訪ふ、同氏の年齢四十五六】曰く「『北斎漫画』の十四編十五編は、北斎翁の    遺墨をあつめたるものなれど、十五編に至り、丁数不足して、一冊となすこと能はず。永楽屋大(おお    い)に苦しみ、終に予をして他書にある北斎の画をあつめて、画かせ、一冊となしたり。十五編の中に、    桜の精霊および児島高徳などの画は、皆予が北斎にならひて、画きたるものなり」又曰く「北斎の門人    は、当地には、四五人もありし由なるが、今は皆死んで跡なし。かの『漫画』十五編のかきたしも、実    は其の画風の人に画かせたきことなれど、其の人あらざれば、終に予に依頼せしなり」〟    ◯『百戯述略』〔新燕石〕(斎藤月岑著・明治十一年成立)   ◇④226   〝葛飾北斎は、始春章門人にて春朗と申、後菱川宗理が門人と成候由、是は一流をなし、山水、人物草木、    禽獣、虫魚、何にても画き、格別の巧者にて、寛政の比より嘉永まで、年来、読本、草双紙、一枚画、    数多画き、九十歳にて終り申候、其画風何れにも依らず、一流にて一癖有之を嫌ひ、且賤しめ候輩も有    之由に御座候へども、先づ稀成る画者に御座候、其画本「北斎漫画」其外数部、諸国へわたり被行申候、    後年戴斗と改、又為一とも号し申候〟     ◇④227   〝切組燈籠画、西京より下り候が元にて、活洲其外上方の図にて、寛政の末より享和の頃、江戸にて再板    いたし、夫より、蕙斎政美、葛飾北斎の両人、工夫いたし画出し〟    ☆ 明治十四年(1881)  ◯『第二回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (第二回 観古美術会〔5月1日~6月30日 浅草海禅寺〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第三号(明治十四年五月序)   〝葛飾北斎 春日神社景  一枚(出品者)中川昇         葛飾北斎筆  一幅(出品者)四方梅彦  ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)    葛飾北斎画 婦人 画扇 一本〟  ◯『新撰書画一覧』(伴源平編 赤志忠雅堂 明治十四年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝葛飾北斎 名ハ戴斗、字ハ雷震、為一、画狂人ト号ス、画風一家ヲ成シ、其名高シ、江戸ノ人〟  ☆ 明治十六年(1883)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十六年刊)   ◇画譜     葛飾北斎画『北斎人物画譜』前北斎老人「画工 故人 北斎為一」山静堂(6月)  ◯『第四回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治十六年刊)   (第四回 観古美術会〔11月1日~11月30日 日比谷大神宮内〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十六年十一月序)   〝葛飾北斎 朝鮮征代屏風 一双(出品者)服部親民〟  ◯『明治画家略伝』(渡辺祥霞編 美術新報鴻盟社 明治十六年十一月版権免許)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝祖宗略象 第四区 菱川・宮川派之類    葛飾北斎     初ノ名ハ時太郎又銕次郎ト称ス、中嶋氏、群馬亭ト号ス、勝川春章ノ門ニ入リ春朗ト曰フ、後一家ヲ     成ス、北斎辰政ト号ス、後号ヲ門人ニ譲リ、雷震ト号ス、又譲リテ戴斗ト改メ、又譲リテ為一ト曰フ、     嘉永二年四月十三日没ス〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝北斎    徳川家鏡師ノ男ナリ。葛飾氏、通称初メ時太郎、後チ銕二郎ト云フ。初名ハ春朗、後チ宗理ト改メ、又    北斎、辰政、雪信、戴斗、卍老人ト改ム。後チ葛飾翁為一ト云フ。江戸本所ノ人、住居ヲ度々転ゼシト    云フ。初メ画ヲ勝川春章ニ学ビ、後チ先哲ノ遺跡ヲ追慕シ、浮世絵ヲ捨テ大ニ画学ヲ修シテ、遂ニ一家    トナス。時ニ称賛セtラル。其ノ画ク所、宮殿・楼閣・神社・仏寺・有職衣冠ノ人物及ビ山水草花鳥獣    共狂画ニ至ル迄、悉ク其ノ真ヲ画ク。コトニ名高キハ狐ノ嫁入行列・朝鮮征伐ノ図屏風等ナリ。筆力健    壮ニシテ勢ヒ紙外ニ溢レ人ヲシテ感嘆セシム。曾テ北斎漫画ヲ著シテ世ニ行ハル。是レニテモ其ノ名手    ヲシルベシ、既ニ漫画数編ヲ外国ヘ購求シ翻刻シテ発売スト云ふフ。其ノ画、設色淡彩水墨或ハ麁密共    ニ妙ナラザルハナシ。実ニ近世浮世絵中ヨリ出テ一派ノ画風ヲナス。其ノ功績思フベシ。又設色緻密ノ    潔作ナルモノハ円山応挙ニ似タリ。水墨ノ麁ナルモノハ文晁ノ水墨画法ニ似タリ。此ノ人初メ浮世絵ヲ    学ビシ故、聊カ名ヲ賤メタレドモ、最初ヨリ狩野、土佐或ハ円山四條等ヨリ出テ、カク上達セバ応挙文    晁ト雖ドモ三舎ヲ避ケンカ。惜シムベシ先入師トナリタリ。現今遺蹟ヲ購求スル人多シ。嘉永二年四月    十三日没ス、九十歳。江戸浅草八軒寺町誓教寺ニ葬ル。法名南照院言誉北斎信士ト云フ。明治十六年迄    三十五年〟  ☆ 明治十八年(1885)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十八年刊)    北斎画    『大日本東海道五十三次』   横本 葛飾北斎  若井兼三郎(10月)    『中古名家画帖 北斎遺画之部』横本 葛飾為一画 葛西嘉久二編 弘文社(11月)②     〈富嶽の諸相を描いた画集。冒頭には富士山で修行したとされる役行者の図像を配す〉  ◯『第六回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治18年刊)   (第六回 観古美術会〔10月1日~10月23日 築地本願寺〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第三号(明治十八年十月序)   〝葛飾北斎 羽田渡図 一幅(出品者)真田英         鍾馗図  一幅(出品者)真田英〟  ◯『東洋絵画叢誌』第十三集 明治十八年十二月刊(復刻版 ゆまに書房・1991刊)   〝葛飾北斎伝    葛飾北斎 名卍、別号ヲ為一トイフ。又戴斗、画狂人等ノ称アリ。其画自ラ一家ヲナシ、人物鳥獣魚介    ヨリ山水花卉等ニイタルマデ皆能クセザルナシ。近来泰西人殊ニ其画ヲ珍愛シ、仏国好事家ハ北斎講ト    云フ者ヲ設ケ愛慕ノ意ヲ表シ、又彼国ニ於テ北斎漫画ノ類ヲ翻刻セシ画譜アリト云フ。本会員竹本石亭    氏、北斎ノ事蹟ヲ記シテ以テ寄セラル。因テ原文ヲ次第スレバ即チ左ノ如シ。藤堂凌雲氏ノ祖母氏北斎    ノ母ト交リアリ。其言ヲ聞クニ、北斎ハ吉良上野ノ孫ニ当リ、上野介一女アリ、赤穂ノ遺臣、吉良邸ヲ    襲ヒシ時、其女二歳ナリシガ、乳母ノ懐中ニ在リテ共ニ遁レ、吉良滅ビテ乳母己ガ子トナシ、長ジテ産    ム所ノ子ハ即チ北斎ナリ。故ニ北斎終身赤穂士ノ事蹟ヲ画カズ。又之ヲ語リタルコトナシト云フ。石亭    曰年代ヲ以テ推ス時ハ其事差アルガ如シ。想フニ吉良氏孫女ノ生メル所ニアラズヤ。乃チ曾孫ト云ハヽ、    蓋シ殆カランカ。或云フ、吉良氏従臣小林平八郎ノ後ナリト。初メ北斎勝川春草(ナナ)ノ門ニ入リ、春朗    ト称ル。又俵屋宗理ト曰ヒシコトアリ。或時日光神廟ノ修造アルニ当リ、狩野融川絵事ヲ以テ之ニ赴キ、    門人等随テ行キタリ。宇都宮ニ宿スルトキ旅亭ノ主人画ヲ請フ。融川輙チ一童子竿ヲ揚ゲ枝上ノ柿実ヲ    取ルノ図ヲ作ル。門人中島鐵三之ヲ見テ竊ニ刺リテ曰、竿端已ニ柿子ニ接シ、童子猶足ヲ跰(ママ)テタル    ハ甚ダ理ナキナリ。師何ゾ画理ニ疎キヤ。人アリ之ヲ告グ。融川罵テ曰、余ガ此図ヲ作ル意ナキニアラ    ズ。全ク童猛ノ智ナキヲ見ハ◎ガ為ナリ。彼ノ未熟ノ輩意匠ノ在ル所ヲ察セズ、謾ニ誹謗ノ語ヲナシテ    師ヲ辱ム其心術憎ム可シト謂了テ、直ニ弟子ノ籍ヲ削リ之ヲ放逐ス。鐵三亦之ヲ憤リ自ラ機舳ヲ出シ、    曾テ曰、吾レ師授スル所ナク自得シテ画ヲ造ルト。即鐵三ハ北斎ガ初名ナリ。石亭曰、融川年歯相若ケ    リ然ルニ之ガ門人ト称シタルハ、凡ソ日光ノ修繕アル時ニハ、其絵事ハ狩野家中ノ表絵師、之ヲ司リ門    生ヲ携テ同山ニ赴クヲ常トス。倘シ門生足ラザルトキハ更ニ画工ヲ募リテ相従フ、故ニ北斎モ其募ニ応    ジテ門人ニ列ニ入リタルモノカ。或ハ云、北斎和画ヲ住吉内記広行ニ学ビ、洋画ヲ司馬江漢ニ受クト。    然ルニ自ラ師授スル所ナシト称セシハ疑フ可キニ似タリト雖モ、夫レ古ヨリ大名ヲナス者ハ常ニ師ナク、    四方ニ奔走シテ諸家ヲ訪ヒ諸説ヲ究メ淘冶咀嚼シテ以テ己ガ奇気ヲ養ヒ、其発シテ文墨ノ上ニ見ハルヽ    ニ及ビテハ、則己ガ有ナリ。豈独リ北斎ニ於テ之ヲ怪マンヤ。北斎天性快活ニシテ志気剛壮ナリ。世ノ    浮世絵師ト大ニ其趨舎ヲ異ニシ時様ノ婦女俳優ノ小照及猥雑ノ図ノ如キハ之ヲ作ラズ。或ハ貴戚権門資    ヲ厚フシテ一紙ヲ請フモノアリトモ、意ニ適セザレバ需メニ応ジ肯ンゼズ。家貧キコト甚シケレドモ富    貴ヲ視ルコト塵芥ノ如シ。偶々潤筆銭ヲ得タルコトアレバ、其数ヲ算スルコトヲナサズ、封紙ノ儘ニテ    米薪塩蔬ノ家、或ハ宿坊銭ニ充テヽ一日モ之ヲ留ムルコトナシ。房主及米塩ノ商モ亦タ其洒落ニ服シテ    猥リニ其債ヲ責メズ。一日火災ニ罹リ文房具皆ナ烏有ニ帰シタリ。因テ一ノ貧乏徳利(酒器ノ極メテ疎    ナルモノヽ名ナリ)ヲ獲テ、之ヲ割リ其底ニハ水ヲ容レテ筆洗トナシ、自余ノ大小砕片ハ画具碟ニ代ヘ    常ニ此ヲ以テ画ヲ作リテ以テ怪マズ。北斎固ヨリ定マレル家ナク、萍跡飄蕩シテ南街北市屡々居ヲ遷シ、    其数遂ニ百ヲ以テ之ヲ算フルニ至ル。或時墨水ノ畔リニ寓シ其女ト共ニ居ル家只膝ヲ容ルヽノミ、且釜    ノ設ケナク、父子俱二一膳飯屋(飯椀ニ盛一椀一食ニ充テ其価ヲ定メテ之ヲ売リ、飲食店中最下等ノモ    ノニテ馬丁輿夫ノ常ニ飲食スル所ナリ)ニ至リ、三飯ヲ買フヲ以テ飢ヲ療シ、家ニ於テハ敢テ火ヲ上ル    コトナシト云フ。女名ハ栄、画工柳川重信ニ嫁ギシガ、夫死シテ再醮セズ。亦画ヲ善クス。北斎運筆自    在ニシテ指爪或ハ鶏卵茶碗等ヲ以テ画キ、其奇術人目ヲ驚カスニ堪タリ。嘗テ清水侯、浅草観世音ニ詣    ルノ次デ、北斎ヲ伝法院ニ招キ揮毫ヲ需メシニ、北斎急ギ刷毛ヲ以テ藍水ヲ紙上ニ抺シ、雞ヲ捕テ其足    ヲ予メ溶スル所ノ朱碟中ニ浸シ、而テ之ヲ紙上ニ放ツニ鶏ノ踏ム所ロ、又点々顕晦シテ恰モ流水楓葉ノ    観ヲナス。輙チ頓首シテ曰、昰竜田川ノ景ナリト。侯大ニ悦ブ。又其大画ニ至リテハ回向院庭上ニ於テ    十八間ノ紙面ニ就テ一ノ布袋ヲ画キ、其小ナルモノニ至リテハ米粒上鳥雀ヲ画ク等ノ筆アリ。或ハ方形    ヲ集メテ人物トナシ、円形ヲ重ネテ花鳥トナシ、昰レ都テ学画ノ捷径ヲ示スナリ。平生得意ノ筆ヲ以テ    万象ヲ図スルモノヲ集メテ、此ヲ木ニ上セ数冊トナシ北斎漫画ト名ケテ以テ世ニ伝フ。北斎初メ滝沢馬    琴ト善シ、馬琴小説作者ヲ以テ其名大ニ著ル。書冊中ノ挿画ハ多ク北斎ガ筆ニ成ル。因テ罵テ曰、著作    ノ用ラルヽハ吾ガ画ノ力ナリト、馬琴聞テ之ヲ怒リ昰ヨリ遂ニ交ヲ絶チタリト云フ。蓋シ二人ハ一時一    対ノ名流ナリ。所謂両虎相争フモノ歟。北斎嘉永二年四月齢九十ヲ以テ歿ス。浅草誓願寺域中ニ葬ル。    因ニ曰、北斎ハ近世ノ人ナリ其行事ノ世ニ伝ハルモノ想フニ当ニ此ニ止マラザル可シ。故ニ他日捜索ヲ    遂ゲ重テ録スル所アルベシ。今姑ク寄書ノ記スル所ニ随テ之ヲ掲ゲテ以テ小伝ニ充ツト云〟     〈「趨舎」は進退、「碟」は小皿、「再醮」は再婚、「顕晦」は現れるの意味〉  ☆ 明治十九年(1886)  ◯『第七回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治19年刊)   (第七回 観古美術会〔5月1日~5月31日 築地本願寺〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十九年五月序)   〝葛飾北斎 清少納言 一幅(出品者)若井兼三郎〟  ◯「読売新聞」(明治19年5月16日付)   〝第七回観古美術会品評      葛飾北斎 清少納言の図 着色    北斎は本所の産にして 通称を鉄五郎といふ 辰政 雷斗 画狂人 雷信 錦袋舎等の数号あり 始め    勝川春章の門に入りて春朗といふ 曾て明画の法を以て浮世画を工夫し 終に一大事をなす 嘉永二酉    年四月十三日没す 年九十 法名南牕院守誉北斎居士〟    〈上掲「目録」参照〉  ◯『香亭雅談』下p44(中根淑著・明治十九年刊)   〝古より画人の寿域を躋(のぼ)る者、指僂(かが)むに暇あらず、而して其の上寿に達する者、彼に在りて    は黄公望、我に於ては北斎翁是なり、翁年八十八にして、彩色通を著はす、題言に言有り、吾将に九十    にして画格を変じ、百歳にして此の道を改めんとす、其の矍鑠(かくしゃく)想見すべし、人と為り犖落    (卓犖=突出)、人の羈束(束縛)を受けず、嘗て馬琴と水滸伝画を作す、馬琴は謹厳詳密、議多く諧(と    との)はず、遂に豊国をして己を代えしむ、又酒を飲み財を糜(へら)し、貧自ずから聊かならず、乃ち    其の名を質として金を借る、因て卍老人と号す、翁は画品甚だ高からずと雖も、宇内万象、見るに随ひ    て手をいれざるなし、其の健筆、古来稀に見る所なり、著はす所の北斎漫画、西洋画人の称する所と為    る〟    〈馬琴と北斎が関係した水滸伝とは読本『新編水滸画伝』初編(前帙文化2年刊・後帙文化4年刊)のみ。二編(文政11年)以降     北斎は担当を続けるが、馬琴は手を引き高井蘭山に代わる。豊国との関係は不明〉  ☆ 明治二十年(1887)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十年刊)    北斎画『北斎略画』編者不詳 大川碇吉刊(11月)〈画中に落款等なし。題簽に『北斎略画』〉    ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※( )はグループを代表する絵師。◎は判読できなかった文字   (番付冒頭に「無論時代 不判優劣」とあり)   〝大日本絵師     (西川祐信)勝川春章 菱川師房  西村重長 鈴木春信  勝川春好 竹原春朝 菱川友房 古山師重     宮川春水 勝川薪水 石川豊信  窪俊満    (葛飾北斎 川枝豊信 角田国貞  歌川豊広 五渡亭国政 菱川師永 古山師政 倉橋豊国 北川歌麿     勝川春水 宮川長春 磯田湖龍斎 富川房信    (菱川師宣)〟  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 上野公園列品館 4月10日~5月31日)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」    葛飾北斎     十二ヶ月扇面帖   一帖(出品者)黒川新三郎     本多忠勝・加藤清正 二幅(出品者)田中宗確     清少納言 賛鵬斎  一幅(出品者)若井兼三郎     歌妓図       一幅(出品者)若井兼三郎     少年相思図     一幅(出品者)若井兼三郎     美人        一幅(出品者)黒川新三郎     月下美人図     一幅(出品者)黒川新三郎〟  ◯「読売新聞」(明治21年5月31日付)   〝美術展覧会私評(第廿五回古物 若井兼三郞出品)     葛飾北斎の清少納言は亀田鵬斎(ぼうさい)の讃あり      林下風流壓風流 香爐峯雪捲簾看 一編施簒無人続 自許騒情千古難  鵬斎老人題〟  ☆ 明治二十二年(1889)    ◯「絵本年表」   ◇絵本(明治二十二年刊)    葛飾北斎画『北斎画譜』扇面一帖 「前北斎為一筆」本間光則版(国立国会図書館デジタルコレクション画像)    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十二年刊)    葛飾北斎画『北斎今様雛形』葛飾北斎 大倉孫兵衛(10月)    〈文政6年刊『今様櫛◎雛形』(前北斎為一画)の図様に同じ。◎は竹冠に木+金、読みは「きせる」〉  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※( )はグループの左右筆頭   〝日本絵師    (葛飾北斎)西川祐信 勝川春章 菱川師房 西村重長 鈴木春信 川枝豊信  角田国貞 勝川春好     竹原春朝 歌川豊広 倉橋豊国 石川豊信 勝川薪水 古山師重 五渡亭国政 菱川師永(菱川師宣)〟  ◯『明治廿二年美術展覧会出品目録』1-6号 追加(松井忠兵衛編 明治22年4・5月刊)   (日本美術協会美術展覧会 上野公園桜ヶ岡 4月1日~5月15日)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝葛飾北斎 六歌仙 六幅(出品者)若井兼三郎〟  ◯『明治廿二年臨時美術展覧会出品目録』1-2号(松井忠兵衛・志村政則編 明治22年11月刊)   (日本美術協会美術展覧会 日本美術協会 11月3日~)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝葛飾北斎       芽刈図     一幅(出品者)山田松三郎     樵夫観月図   一幅(出品者)キヨソネ     大原女図    一幅(出品者 キヨソネ     山水      二幅(出品者)清水彦太郎     農婦製糸図   一幅(出品者)ブリングリー     饅頭屋図    一幅(出品者)ブリングリー     鍾馗図     一幅(出品者)ブリングリー     達磨      一幅(出品者)渡辺昇     花月屏風 六曲 一双(出品者)小林文七〟  ◯『美術園』第七号「雑報」明治22年5月 ※ 読点は原文に従う   〝故人北斎の扁額    府下墨水牛嶋神社の拝殿に掲げたる、故人北斎卍老人が六十八歳のとき、画きし扁額ハ素盞雄尊(すさ    のをのみこと)が厄神より手形を取らるゝ図にて、老筆といひながら、筆力活(い)くるが如く、今日に    至るまで、着色鮮明にして、葛飾流(かさいりう)の摸範ともすべきものなるが、この頃或る外国人一見    して、感服の余り、金五百円にて購求せんといひこみたれど、同社においてハ、仮令(たとひ)千万金を    出さるゝとも、一旦奉納せられたものハ、現在寄附人在らざるも、曩(さき)に永代の取極(とりきはめ)    もあれバ、売払ふこと能ハずと、謝絶せしといふ、区々一扁額にして外人に五百円の大金を擲たしめん    とす、老人筆力の精妙なること知るべきのみ〟    ◯『美術園』第八号「雑報」明治22年6月 ※ 読点は原文に従う   〝北斎の画    我が邦の絵画中、尤も外人の賞賛を得たるものは、北斎翁の画なり、従ひて北斎漫画の輸出も多く、今    ハ種(しな)切れとなり、戸田某の所蔵に係るものは、日本無二を称するものゝよしにて、絵画の輸出を    業とするもの、現今頻りにその譲与を申し込み、最高価ハ三百五十円まで達せりといふ〟  ◯『皇国古今名誉競』東京(児玉又七編集・出版 明治二十二年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(『番附集』所収)   (例 智仁忠 勝安房  智仁孝 平 重盛)   〝新画白 猩々坊暁斎  上画罪 英 一蝶    新画  柴田是真   仏画  どもの又平    細画  葛飾北斎   名画  瀧 和亭〟    〈この「皇国古今名誉競」は。明治14年の番付集『東京じまん』が収録する同名番付を踏襲したものだが、今回は     北斎と瀧和亭が加わる〉  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝近世名人 寛政 葛飾北斎    嘉永二、四月歿す、年九十〟    〈記事は殆どないが、「中古妙手」の英一蝶とともに番付の中央に位置づけられ、別格扱いされている〉    ◯『浮世絵類考』(本間光則編・明治二十二年刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝(北斎)生涯の面目は画風公聴に達して、御成先に於て席画上覧度々あり。稀代の画仙妙手を云べし。    往年、御成先上覧の節、大きなる紙に刷毛にて藍を長く引、鶏の両足(マナ)を画けり。朱にて鶏の足へつ    け、藍の上と(ママ)所々押形付◎の上竜田川の景に御座候と申上候よし、右写山翁の話也〟    〈岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏は、◎の字を「髟(カミガシラ)」+「首」と判読しているが、全体として     文意がいまひとつはっきりしない。写山楼は谷文晁。この竜田川の挿話は、明治十八年十二月号『東洋絵画会叢誌』所     収の「葛飾北斎伝」に詳しい。また飯島虚心著『葛飾北斎伝』(明治二十六年刊にもあるので、参照のこと〉    ☆ 明治二十三年(1890)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十三年刊)    葛飾北斎画    『葛飾真草画譜』葛飾北斎画 市川来次郎編 松村孫吉版(8月)〈市川来次郎は市川甘斎〉    ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会〔3月25日~5月31日 日本美術協会〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝葛飾北斎       花月屏風      六曲一双(出品者)小林文七 再出     美人図   絹本    一幅(出品者)黒川新三郎     牡丹燈籠図 絹本 横物 一幅(出品者)福井七兵衛〟     浮世画扇子 扇掛共   十本(出品者)帝国博物館      北斎・歌丸・豊国・一珪・国貞・国芳・清信・清長・栄之・嵩谷  ◯『明治東京逸聞史』①p182「錦絵」明治二十三年(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   〝錦絵〈国民新聞二三・五・二一〉     元禄堂主人というのは、内田魯庵であろうか。「古本相場」と題して、江戸時代の文学書の高くなっ    たことを書いている。そしてその中に、「北斎、歌麿の錦絵を、五十銭も一円も出して欲しがる世間な    れば」の一句がある。今から見ると、北斎も歌麿も、まだまだ問題でない。けれども江戸の錦絵が、邦    人にも注意せられるものになろうとしている〟  ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊))   〝浮世派諸大家    格 別     弘 化  葛飾 北斎     明 治  河鍋 暁斎   浮世絵師 歴代大家番付     寛 保  月岡 雪鼎〟    ☆ 明治二十四年(1891)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治二十四年刊)    葛飾北斎画    『北斎花鳥画伝』初二編 著画者前北斎為一 大倉孫兵衛版     『北斎写真画譜』一冊  葛飾北斎画 目黒十郎版     〈以上、国立国会図書館デジタルコレクション画像あり〉  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十四年刊)    北斎画    『浄瑠璃図絵』乾坤 奥付「前北斎葛飾翁筆 三島文顕摸写」戸田忠恕編集・出版(9月)    『北斎模様画譜』葛飾為一筆 聚栄堂(11月)  ◯『近世画史』巻二(細川潤次郎著・出版 明治二十四年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの。(文字)は本HPの読みや意味)   〝葛飾北斎 初名春朗、叉宗理と名づけ、後ち辰政と改む。字為一、八五郎と称し、後八右衛門と改む。    叉卍老人と号す。江都の人なり。家世徳川氏の銅鏡工なり。北斎少(わか)き時、画を勝川春章に学ぶ。    春章は春水門人なり。是に由りて風俗図を善くす。後ち更に前人の真蹟を摸し、以て師資と為す。楼閣・    人物・花卉・翎毛、一つとして能はざる無し。而れども戯筆の画、尤も妙なり。変態百出、観る者の頤    (おとがい)を解く。蓋し其の天稟、画趣を饒かにするならん。而れども其の初め正派より門に入らず。    遂に俗を免かること能はず。賞鑑家は率(おおむ)ね取らず。其の著はす所の北斎漫画若干巻、大いに世    に售(う)れ、印板之の為漫滅するに至れり。余、米国華盛頓(ワシントン)に在し時、一画士を訪(たづ)ぬ。    乃ち架上の漫画数巻を抽(ぬ)きて余に示し、嗟賞して輟(や)まず。蓋し北斎の画、参に洋法を以てす    (洋法を参考にした)。其の用筆縦逸にして拘らざるに似たりと雖も、遠近向背、定度を失はず。故に特    に洋人の喜ぶ所と為る。嘉永二年四月歿、年九十。著す所、漫画数編の外、彩色通参巻、摸様画譜一巻〟    〈著者・細川潤次郎の訪米は明治4年(1871)。北斎の画は一見自由奔放に見えるが、遠近向背(前後)の表現は西洋画法の     基本通りだから、西洋人には好まれるというのである〉  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付(樋口正三郎編集・出版 明治二十四年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝和画諸流 無論時代    (グループⅠ、字の大きさはグループ最大。全絵師収録)    (筆頭)西京 円山応挙 東京 谷文晁    〔西京〕駒井源琦 長沢芦雪 尾形光琳 松村呉春 岡本豊彦 山口素絢 松村景文 円山応震        中島来章 円山応瑞 浮田一蕙 奥文鳴    〔大坂〕森狙仙  月岡雪鼎 西山芳国〔東京〕菊池蓉斎 酒井抱一〔三河〕渡辺崋山     (グループⅡ、字の大きさはグループ1と同じ最大。全絵師収録)    (筆頭)東京 葛飾北斎 英一蝶     西京 岸駒   森寛斎  田中訥言 尾形乾山 田中日華 久保田米仙 原在泉 横山晴暉 松村月渓     大阪 長山孔寅 守住貫魚 西山完瑛 橋本雅邦 森一鳳  松村月渓  岡田玉仙(山?)     東京 瀧和亭  辛野楳嶺 ・尾張 勾田臺嶺    〈このグループⅠ・Ⅱは同格。北斎が応挙・文晁・一蝶とならび筆頭絵師。浮世絵師でこのグループ1・2に入っている      のは北斎のみ、やはり北斎は浮世絵師の範疇を超えた別格なのである〉  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十五年刊)    葛飾北斎画『北斎漫画早指南』序「前北斎為一◎人題」富山堂(8月)    〈◎は「老」であろうが画像上では不明瞭〉  ◯『今古雅談』(堀成之著 金港堂書籍 明治二十五年(1892)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝葛飾北斎交(まじはり)を滝沢馬琴に絶つ(57/228コマ)    浮世絵を以つて有名なる葛飾北斎は性、快活瀟洒 貧を以つて意に介せず 俗塵の煩はしきを厭ひ 江    戸の春木馬場と称する静閑の地に居を卜したれども 家は極めて狭隘にして 只だ膝を容るゝに足るの    み 冬時火炉を擁して纔かに寒を凌ぎ 衣服を換ふることなきが故に 虱之れに生ずれども晏如あり     曾つて豪商某来り訪ふて揮毫を乞ふ    ◯『日本美術画家人名詳伝』上p(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝葛飾北斎    徳川家鏡師ノ男、中島氏、初時太郎ト称シ、後鉄二郎ト改ム、可侯・卍老人・群馬亭ノ号アリ、江戸本    所ノ人数々居所ヲ変ズ、初浮世画ヲ勝川春章ニ学ビ春朗ト号シ、錦絵ヲ画ク、後破門セラレテ先哲ノ遺    跡ヲ追慕シ、浮世絵ヲ捨テヽ大ニ画学ヲ修メ、遂ニ一家ヲナス、俵屋宗理ト号ス、其号ヲ門人ニ譲リテ、    画狂人北斎辰政ト号シ、又譲リテ雷震ト号ス、又譲リテ錦袋舎戴斗ト曰ヒ、又改テ為一ト曰フ、其画ク    所ノ宮殿、楼閣、神社、仏寺、有職衣冠ノ人物及ビ山水、草花、鳥獣、狂画ニ至ル迄、悉ク其ノ真ヲ写    ス、特ニ有名ノモノハ狐ノ嫁入行列、朝鮮征伐ノ図等ナリ、筆力健壮ニシテ勢ヒ紙外ニ溢レ、人ヲシテ    感嘆セシム、曾テ北斎漫画ヲ著ハシテ世ニ行ハル外人既ニ其ノ数編ヲ購ヒ翻刻シテ発売スト云フ、其画    設色淡彩水墨粗密共ニ巧妙ニシテ、其潔作ナルモノハ円山応挙ニ似タリ、水墨ノ粗ナルモノハ谷文晁ノ    水墨画法ニ類ス、近世浮世絵中ヨリ出テ一派ノ画風ヲ為シタルモノナリ、此ノ人初浮世絵ヲ学ビタルガ    故ニ稍々名ヲ下シタリト雖ドモ、若シ狩野、土佐、或ハ円山、四條等ヨリ出テ斯ク上達セバ、応挙文晁    モ及ブ可カラザル所アランカ、現今遺蹟ヲ購求スル人多シ、嘉永二年四月十三日歿ス、九十歳、江戸浅    草八軒寺町誓教寺ニ葬ル、法名南照院言(ママ)誉北斎信士ト云フ、著ス所ノ画譜多シ(燕石十種・人名辞    書)〟     ☆ 明治二十六年(1893)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治二十六年刊)    葛飾北斎画『士農工商』一帖 北斎画 石版古画出版 鎌田善次郎版     〈国立国会図書館デジタルコレクション画像あり〉  ◯『葛飾北斎伝』(太華山人著・明治二十六年五月刊)   (高橋省三編『少年雅賞』所収 全文翻刻)    葛飾北斎伝 太華山人著(国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯『古代浮世絵買入必携』p8(酒井松之助編・明治二十六年六月刊)   〝葛飾北斎    本名  〔空欄〕 号  勝川春朗、菱川宗理、為一、雷斗、辰政、戴斗、雷信、卍老人    師匠の名〔空欄〕 年代 凡四十年前年より百十年迄    女絵髪の結ひ方 第八図・第九図 第十二図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 錦絵各種及摺物絵本、肉筆等    備考 女絵に限らず如何なる図にても買入るべし。絵本は彩色摺の物にあらざれば高価のものなし。彩       色摺にても『東遊』『東都勝景一覧』は其割合に価廉なり。墨摺及淡彩色の絵本は何程にもなら       ず。其中にも『北斎漫画』『万職図考』其他武者絵、及雛形類の絵本は買取せざるを良しとす。       二代北斎の肉筆にも落款は単に北斎とのみあるを以て不馴の人は間違易し。二代北斎の肉筆は画       の粗なる上落款は多く楷書体にて認めあれども、初代北斎の落款は草書又は行書多し〟    ◯『内外古今逸話文庫』1編(岸上操編 博文館 明治二十六年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)     ※ 原文は漢字に振り仮名付き。(かな)が原文の振り仮名   (第一編「文芸」の項)   〝北斎の絵、裸体に衣裳を装ふ(18/426コマ)※(かな)は原文の振り仮名    葛飾北斎、一の人物を画くに、往々一日を費(つひや)して僅(わづか)に一人を作る、或は一人三数日に    渉りて成るもあり、其故を聞くに、初め裸体を描きて、先づ体格の尺度四肢の長短を定め、然る後にこ    れを衣裳を加へ、これを下絵として別に本図を作る、ゆゑに右の如く日時を費すと、されば画成るに及    びて、自然の恰好を具することは、余人の実に及ばざる所なり、是は元人王淵が法に原(もと)づくなり    とぞ〟   (第一編「豪爽」の項)   〝葛飾北斎大達磨を画く(49/426コマ)    文化甲子の春、護国寺観音大士(だいし)の開帳ありて、子女雲集す、一日画人北斎観音堂の側に就き、    半身の達磨を画く、紙数百帳を接て巨幅と為し、大さ百二十畳、烏麦稭(むぎわら)を下に鋪きて、以て    紙底に襯(しん)し、四斗樽及び銅盆を以て墨を貯へ、藁(わら)帚、棕(しゆろ)帚、地膚(くさ)帚を以て    筆に代へ、臂を攘(かゝ)げ裳(しやつ)を蹇(かゝ)げ、紙上を周旋して縦横(じうわう)捕洒(ほさい)す、    観るもの環立し、嘖々賞嘆す。されど平地に在(あつ)ては其全体を尽すこと能はず、堂に登り俯して瞰    (うかゞ)ひ、始めて全身を見るを得、肩背(けんはい)突兀(とつこつ)、姿態壮偉、其口大なること弓の    ごとく、眼中人を容るべし、真の絶技なり〟    〈この逸話を伝えるものは他にもあり、文化元年参照〉   (第三編「文芸」の項)※(かな)は原文の振り仮名   〝葛飾北斎画に無性ならず(187/426コマ)    北斎は面白き男なり、一生裏店に賃居して蜜柑箱を机にかへ、炭俵を火鉢の脇にたて、食事は買食ひし    て器(き)を洗はず、寝床は敷詰(しきづ)めにして掃除せしことなし、室汚くなれば居を移して、引越し    九十三度の多きに及べり、かばかり無性(ぶせう)なれど画は至つて無性ならず、数々(しば/\)百二十    畳敷きの大紙に藁筆(わらふで)振(ふる)つて達磨の像をゑがきしことあり、又徳川将軍家斉公、北斎の    妙技を聞き、放鷹の途次、写山楼文晁及び北斎を浅草伝法院に召して、席上画(せきじやうゑ)を画かし    む、文晁先づ画く、次ぎに北斎将軍の前に出で、従容としておそるゝ色なく、筆を揮ふて先づ花鳥山水    を画く、後に長くつぎたる唐紙(とうし)を横にし、刷毛をもて長く藍を引き、さて携へたる鶏を籠中よ    り出し、さらに補へて趾(あし)を朱肉につけ、これを紙上に放ち、趾痕(しこん)を印残(いんざん)せし    め、是はこれ立田川の風景なりとて拝一拝して退(しろぞ)きたり、人皆其奇巧に驚く、此時、写山楼傍    に在りて手に汗を握りしと〟〈席上画の挿話は天保三年参照〉   (第三編「品藻」の項)   〝葛飾北斎の浮世絵(245/426コマ)    北斎の画は浮世絵なり、浮世絵を画く者は板下似顔抔(など)を生業(なりはひ)とし、鎖事(さじ)卑俗を    旨としたれば、人も卑(いやし)み、己(おの)れも何時(いつ)しか職人根性となりて、高尚の趣味を解す    るもの少なし、されど画材の自由なると画境の真相を描取するの一段に至つては、此(この)派に如(し)    くものなきがごとし、詩家の用語例もて云へば、此派は実相派とも云ふを得(う)べく、漫(そゞろ)に塗    抹(とまつ)して雅趣風韻に隠るる空想派に比すれば、将来望みあるは此派ならん、北斎は浮世絵師なり    と雖(いへど)も、尋常(よのつね)の浮世絵師にあらず、弓張月、南柯夢、水滸伝等の挿画(さしゑ)及び    数十冊の画譜画帖は、後の画家より云へば趙壁も啻ならざる賜物なるべし(時事新報)〟   (第四編「洒落」の項)   〝北斎虱を捻りて馬琴を罵る(296/426コマ)    葛飾北斎、性快活瀟洒、貧を以て意とせず、俗塵の煩はしきをいとひ、屡々(しば/\)遷(うつ)りて居    を定めず、老年に及び春の木馬場に住し、娘栄女と俱に居り、家只膝を容(い)るゝのみ、冬時火炉を擁    して纔(わづ)かに寒を凌ぎ、衣を換ゆることなきゆゑに、虱之に生ずれども晏如(あんじよ)たり、幕府    の用達鶴の屋某、一日薬商千葉某を共に来りて、画帖の揮毫を乞ふ、翁時に南軒に坐して虱を拈(ひね)    りながら答へて曰く、我れに差掛りの急用あり、乞ふに応じ難しと云ふて、更に衣縫(ぬいめ)を翻へし、    其子母を拾ふて止まず、二人頻りに乞ふて承諾を得、顰蹙して其家を出づ、行くこと数十歩、北斎之を    呼び謂(い)つて曰く、他人若(も)し我が居宅を聞くことあらば、清潔華美を以て答へよと、北斎初め滝    沢馬琴と善し、馬琴南柯後記を作り挿画を乞ふ、図は刀屋道次が立廻りの場なり、馬琴道次をして口に    草履を含み裙(すそ)を褰(かゝ)ぐるの様を望む、即ち笑つて曰く、此の汚穢物誰か此を口にすべき、若    し然(しか)らずとせば、君先づ之を口にせよ、馬琴大ひに怒る、これより二人交(まじはり)を絶つと云    ふ。亦三世川柳と交はる、一句あり      河童の子三味線堀で弾き習ひ    其洒落(しやらく)思ふべ、晩年門人等に語つて曰く、今の画工は道具屋の手代なり、画工没後にあらざ    れば画に価値(ねうち)なく、価値は只道具屋の手にありて、子孫は徒(いたづ)らに他人が祖先の利益を    占むるを健羨(けんせん)するのみ、実に迂(う)なる業(わざ)ならずやと(葛飾為一)〟  ◯『葛飾北斎伝』(飯島虚心(半十郞)著・蓬枢閣(小林文七)・明治二十六年九月刊)   ◇三世等琳との交友 p51   〝彫工勝友の話に、北斎壮年の頃、三世等琳と友たり。一日共に品川の妓楼に遊び、流連(イツヅケ)して    戯れに画きたり。楼主二人の合筆を請ふ。等琳は車を画き、北斎は、其の上に載せたる花籃を画く。染    筆絶妙なりとぞ。今楼名を失す。惜むべし〟    〈三世等琳との交友については文政五年を参照のこと〉      ◇将軍上覧の席画 p77   〝時に徳川将軍家斉公【徳川十一世文恭院殿】北斎の妙技を聞き、放鷹の途次、写山楼文晁および葛飾北    斎を浅草伝法院に召して、席上画を画かしむ。文晁先づ画く、(将軍の鷹狩りに関する按記あり、略)    次ぎに北斎、将軍の前に出で、従容として、おそるゝ色なく、筆を揮って先づ花鳥山水を画く。左右感    嘆せざるものなし。後に長くつぎたる唐紙を横にし、刷毛(はけ)をもて長く藍を引き、さて携へたる    鶏を籠中より出だし、さらに捕へて、趾に朱肉をつけ、これを紙上に放ち、拝一拝して退きたり。人皆    其の奇巧に驚く。此の時写山楼傍(かたわら)にありて、下に汗を握りしと。【写山楼の話】〟    〈明治二十二年の本間光則編『浮世絵類考』の竜田川挿話参照。なお、岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三     氏よると、「鶏の足に爪のあるところから、紙をそこねることが考えられ、疑問視する説も近年出ている」とのこと。     天保三年参照〉    ◯『浮世絵師便覧』p205(飯島虚心著・蓬枢閣・明治二十六年九月刊)   〝北斎(ホクサイ) 中島氏、俗称鐵蔵、又八右衛門、勝川春章門人、春朗、宗理、可候、雷斗、雷震、戴斗、    辰政、辰斎、為一、画狂人、卍翁等の号あり、嘉永二年死、九十〟    〈岩波文庫『葛飾北斎伝』(飯島虚心著)の校注者・鈴木重三氏は、北斎に「雷斗」の使用例はないとする〉    ◯『明治廿六年秋季美術展覧会出品目録』上下(志村政則編 明治26年10月刊)   (日本美術協会美術展覧会〔10月1日~10月31日 上野公園桜ヶ岡〕)     (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝葛飾北斎 筑摩祭美人図 一幅(出品者)小林文七〟  ◯『古今博識一覧』番付(大坂 自択散人編 赤志忠七出版 明治二十六年十二月)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※◎は判読できなかった文字   〝明治廿七年午の新板 日本画家一覧 及文人諸流派    【年数ハ粗々終年ヲ印ス/事物ハ成功発表ヲ印ス】   〝葛飾北斎 東都 嘉永二 四十六年     初名春朗、後ニ宗理ト改メ、北斎・辰政・雷信?・戴斗・卍老人・◎◎◎為一ト云フ(数文字不鮮明)     嘉永二年四月十三日没ス、年九十〟  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯「読売新聞」(明治27年1月13日記事)   〝北斎の画ける大蛇(おろち)の屏風    北斎翁は信州高井郡小布施駅高井鴻山(儒者)といへる名家に暫く身を寄せたる当時 主人の懇望によ    り精神を凝らすて八枚折の屏風に一頭の大蛇を揮毫したるよしにて 其の形貌着色の妙なる 一目真に    活けるが如く 其の丈(た)け殆んど六間有余に及び 実に翁の作中天下一品とも称すべき 世に有名の    ものなり 故に好事家は此事を聞き及び 曾て東京(とうけい)等よりも同家に杖を曳き 親しく観覧を    請ひたるものも多き趣きなるが 此頃故ありて同郡須坂町の郵便電信局長たる 同地の豪家小布施三十    郎氏の手に移れり 尚其他小布施駅の祥雲寺の有(いう)たる 翁の作富士越の龍及び観音の像の二品も    是亦小布施氏の所有なりしを以て 氏は此(かく)の如き稀有の珍品を 片田舎に秘め置くも あたら惜    しきものとて 此度(たび)氏の母初子が東京見物に出京の序(つひで)之を所持し来り 神田表神保町の    旭楼に投宿し 本月十六七日頃迄 何人にても観覧に供するよし 孰(いづ)れも珍品なれば 蓋し美術    家の参考の資(し)となすに足らん〟  ◯『内外古今逸話文庫』6編(岸上操編 博文館 明治二十七年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)    ※ 原文は漢字に振り仮名付き。(かな)は原文の振り仮名   (第八編「文芸」の項)   〝画工は道具屋の手代(164/410コマ)※(かな)は原文の振り仮名    葛飾北斎晩年門人某に語りて曰く、今の画工は道具屋の手代なり、画工の没後にあらざれば画に価値な    く、価金は只(ただ)道具屋の手に渡りて、画工の子孫は徒(いたづ)らに、祖先の為めに道具屋が利を占    むるを羨み見るばかりなりと(青々園)〟    〈手代とはこの場合商家の奉公人。画工が貰うのはその時の作画料ばかりで、死後上昇した分についてはすべて道具屋の手に     渡る。これでは画工は道具屋の奉公人と同じではないかというのである〉  ◯『明治節用大全』(博文館編輯局 明治二十七年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※(かな)は原文の読み仮名   「古今名人列伝 技芸家の部」(113/644コマより)   〝葛飾北斎伝    北斎は江戸本所の産。明和年間に生る。始め業を勝川春章に受け勝川春朗と称す。故ありて破門せられ    叢春朗といへり。古俵屋京理(ママ)の跡を続(つ)ぎて、二代目菱川宗理と号す。当時画風を改めたりと雖    も、未(いま)だ一派を成(な)さず。門人宗二に宗理の号を譲り、更に一派の画風を起して、北斎辰政雷    斗と改む。時に寛政十年の末なり。其画風を北斎流と称し、明画の筆法を以て浮世絵を描く、古今唐画    の筆意を以て絵画を工夫したるは氏を以て開祖となす。茲に於て其画風大(おゝい)に行はれ、門に入る    もの多し。従来書を読むことを好(この)み、閑を以て著作に従事す。作名を時太郎可候(かこう)と称す    当時画名三都に鳴り、天下に独歩す。漫画と題して画手本数帖を発行し、大に世に行はる。後ち名を門    人に譲り、錦貸(ママ)舎戴斗と改め、前北斎戴斗といふ。文化の末(すへ)復(ま)た其号を門人に与へ、前    北斎為一と改名す。画風将軍の公聴に達し縷(しば/\)御成先に於て席画をなし上覧に供す。稀代の名    画なり。死後今に至つて数十年、洋人大に翁の絵画を称し、千金を擲(なげう)ちて求め帰る〟  ◯『名人忌辰録』上巻p25(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝葛飾北斎 戴斗    本姓中島氏、幼名時太郎、後鉄三郎、又八右衛門、始春朗、又宗理、此他数号有り。嘉永二酉年四月十    三日歿す、歳九十。浅草八軒寺町、誓教寺に葬る〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   ◇「歌川豊広伝」p118   〝文化年間の戯作者、浮世絵師の見立相撲番付に、東西の大関は京伝豊国、関脇は三馬国貞、小結一九北    馬等にして、行事は馬琴を中にし、右に北斎、左に豊広を載せてあり。豊広をして北斎に対せしむるは、    少しく当たざるが如し。これ等の番付を見て、画工の腕力を評するは、恰もかの九星を算えて人の一生    を卜するがごとし。愚もまた甚し。然れども当時の世評を知らんとするは、蓋しこの番附にしくものな    かるべし。抑(ソモソモ)相撲の行事は関関脇と異なり。よく古実を知り、又よく撲手を知るものにあらざれ    ば、善くする能わざるものなりとぞ。今この番附に、北斎、豊広を、行事の所におくものは、二人の画    道における、和漢古今の諸流は皆実の手中にありて、よく骨法に通じ、用筆に達せるをもてなるべし。    豊広は固より北斎に及ばずといえども、画理に精しくして、画く能わざるものなし。殊に浮画をよくし、    各地の勝景および宮殿楼閣の遠景を画くに巧なり。又細密なる刻板の画を善くし、微細の所におきて、    更に筆力をあらわせり。かの豊国、国貞のごときは、よく時好に投じ、一時世に行わるるといえども、    関のみ、関脇のみ。其の実地老練の力に至りては、みな豊広に及ばざるなり。豊広を推して、行事の席    にあらしむるは、これ蓋し過誉にあらざるべし〟
   「文化十年見立相撲番付」     ◇「歌川豊広伝」p122   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟    〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そして     それを保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その     題材故に陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけ     た「骨法筆意」があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉     守一、清長、歌麿、北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉     ◇「歌川国芳伝」p190   〝按ずるに、国芳が画道を研究するや、己は豊国の門にありといえども、自ら以て足れりとせざるなり。    よりてひそかに、葛飾および勝川の諸流をしたい。其の長所をとりて己れが有となさんとす。其の熱心    なる実に賞すべし。露木孔彰氏いわく、国芳嘗て独楽廻し竹沢藤治の画看板を画きしとき、葛飾北斎門    人大塚道菴といえる人を雇い、この看板画を補筆せしめたり。国芳この道菴によりて、北斎に面会せん    ことを請う。北斎曰く、余は国芳に面会すべし。されど一面の後しばしば往来するは彼のためによろし    からず。如何となれば彼は歌川家屈指の妙手なり。然るに今屡(シバシバ)我が家にきたらば、人或は画法    を変じ、葛飾風とならんを疑うべし。且人の子弟を引きて、我が門に入らしむるは我が欲せざる所なり    と。国芳終に北斎に面会し画法を談ずるの図を画きたり(此の図今某の家にあり)。類考に国芳の画風    は、北斎の風ありというは、国直が画風によれる故なりといえるは非なり。国芳が画風、国直に似たる    所あるは、論を俟(マ)たざれども、北斎の風もまたこれあるなり。これ深く北斎をしたいしをもてなり。    国芳嘗て北斎を塚原卜伝に比し、宮本武蔵に己を比して、二枚続きの錦画を発行せんとせしが、北斎こ    れを拒みたるをもて、終に止めたることあり。これ等即(スナワチ)国芳が北斎を慕いし一証とすべし。事は    拙著葛飾北斎伝に詳なり〟    ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『鑑定必携日本画人伝』一~十三 京都版(北村佳逸編 細川清助 明治二十八年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (巻之三【カ】ノ部)   〝葛飾北斎    初ノ名ハ春朗、後宗理トイフ、通称時太郎、後鉄二郎トイフ、北斎、辰政、雪(ママ)信、戴政、卍老人ト    号ス、又葛飾翁為一トモ書スルコトアリ、江戸ノ人ニシテ、処々ニ転居セリ。勝川春章ニ学ンデ、浮世    絵ニ妙ナリ、山水、花鳥、人物、鳥獣、家屋等ニ到ル、一トシテ妙ナラザルハナシ。又狂画ヲ筆スルヤ、    世態人情ヲ穿チ看者ヲシテ、頤ヲ解カシム。北斎漫画ヲ筆シテ、其名当世ニ喧シク、異邦ヨリ之ヲ求ム    ルモノ多シトイフ、浮世絵ヲ主トスルヲモテ、人ニ卑賤視セラルヽト雖モ、筆勢雄峭ナル画家ノ模本ト    シテ可ナリ、嘉永二年没ス、年九十。    (印章)「ふしのやま」〈ひらがな方印〉 「嶽」〈崩し字方印〉        「(冨士の形)」〈図形方印〉   「旦」〈漢字方印。正しくは「百」。「旦」は印を逆さまに読んだもの〉〟    北斎落款〈現在、ひらがな印は「よしのやま」と読まれ、崩し字印は不明とされている〉  ◯『明治廿八年秋季美術展覧会出品目録』下(梯重行・長嶋景福編 明治28年11月刊)   (日本美術協会美術展覧会〔10月1日~11月5日 上野公園桜ヶ岡〕)     (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝葛飾北斎 岡本楼妓朝妻船図 大田南畝賛 一枚(出品者)岡田真一郎  ◯『新古美術展覧会出品目録』(藤井孫兵衛編 合資商法会社 明治28年10月刊)   (京郵美術協会 新古美術品展覧会 元勧業博覧会場内美術館 10月15日~11月25日)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝葛飾北斎 子母狗図 一幅(出品者)下京区 池田清助君蔵〟  ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『名家画譜』上中下(金港堂 12月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝下巻 目録 故葛飾北斎「官女」〟  ☆ 明治三十年(1897)  ◯『読売新聞』記事(小林文七主催「浮世絵歴史展覧会」1月18日-2月10日)   ◇1月20日記事   〝陳列中優逸にして 一幅百円以上三百余円の品    (第百七十四番)宗理筆 美人愛狗図    (第百八十番)葛飾北斎筆 花下美人図 (第百八十三番)同筆 七夕図    (第百八十八番)同筆 西王母図 (第百九十一番)同筆 水禽図〟    〈一幅100円~300余円の作品中、北斎が4点(宗理を北斎と見れば5点)。これに次ぐのは歌麿の2点で、あとは1点ずつ。     北斎がやはり群を抜く。「番」は陳列番号〉   ◇1月26日記事   〝浮世絵歴史展覧会の外人の評     英人アーネスト・ハールト氏    葛飾北斎の画く処は神社仏閣宮殿楼台より山水花卉に至る迄 悉(ことごと)く真に迫り 又狂画を善く    せり 其想像の豊富なる 日常の光景は言ふに及ばず 宇宙の実景を画くにも 常に同情真実精密の三    者を具備せる事 他人の及ばざる処なり 北斎の絵画世界の天才として尊敬せらるゝも亦宜(むべ)なら    ずや〟     仏人ヒユルチー氏    葛飾北斎の画は癖最も甚し 然れども一旦其妙趣を会得するに至りては観る事 愈々(いよ/\)久しう    して愈々感嘆に堪へざるものあり 予(よ)徧(あまね)く古来の画を見るに 意匠富達にして運筆自在な    るはリユーバンスの右に出づるものなく 而して森羅万象を筆頭に懸(か)け 縦横画界に馳聘する者は    独り北斎あるのみ〟  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都    (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝近代国画名家〈故人の部〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈この江戸時代を代表する絵師の中で、版画の下絵も画くいわゆる浮世絵の画派から生まれてきた絵師は北斎と為斎     のみ。しかもこの番付の「浮世画大家」の欄にも収録されている。北斎は浮世絵師にして浮世絵師を超えた存在なのである〉     ◯「絵本年表」   ◇絵本(明治三十年刊)    葛飾北斎画『北斎骨法婦人集』一冊「臨写印刷兼発行者 関口政治郎」〔漆山年表〕     〈国立国会図書館デジタルコレクション画像あり〉  ☆ 明治三十一年(1898)    ◯『明治期美術展覧会出品目録』(東京文化財研究所編)   (明治美術会展 創立十年記念・明治三十一年三月開催・於上野公園旧博覧会跡五号館)   〝葛飾北斎 橋下ノ図 木版〟  ◯『高名聞人/東京古跡志』(一名『古墓廼露』)(微笑小史 大橋義著 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(33/119コマ)   ※(原文は漢字に振り仮名付だが、本HPは取捨選択。半角括弧(かな)で示す)   〝葛飾北斎 (浅草)永住町 誓教寺    筆力剛健一種の面白味、実に画人中の一豪傑、容斎すら一時は是に学びしほどの事、今や盛(さかん)に    世に行はる、亦ゆへなしとせざるなり、本名は中島八右衛門又鉄蔵とも称したり、台石に川村氏とある    は、何の訳か未だ考へず、右の横に「ひと魂でゆく気散じや夏の原」と誌し、正面は即ち前に挙げたる    図の通り、(p35図「画狂老人卍墓」「川村氏」)因みに云ふ其画号、一に戴斗と唱へ、又或は俵屋宗    理の名を嗣て、二代目宗理といひし事もあり、然(しか)して晩年に至ては、北斎の名を橋本庄兵衛と云    者に譲り、戴斗は近藤伴右衛門と云ふに譲りぬ、されば其後の画には、自ら前北斎とせしもの、今も世    に多くあり、世人或は疑ふものあらんかと、特に聊か考証するになん、北斎漫画数巻あり、今専ら世に    行はる〟  ◯『書画名器古今評伝』月巻(西島・高森編 岩本忠蔵 明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(9/74コマ)   〝葛飾為一 初名春朗 俵屋宗理 辰政 雷斗 北斎 画狂人 及(ビ)錦袋舎 戴斗 前北斎為一 画狂    老人 卍 雪(ママ)信ト号(ス)〟    ☆ 明治三十二年(1899)    ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)82/218コマ   〝葛飾北斎    初め時太郎と称し 後鐵二郎と改む 名は春朗 後宗理と改む 辰政・雪信・戴斗・卍老人・群馬亭等    の別号あり 江戸本所の人なり 後其の号を門人に譲りて 葛飾翁為一といふ 初め勝川春章に師事し    て画法を学び 頗る其の趣きを得たり 後其の画格の野鄙なるを 卑しみ先哲の遺蹟を追慕し 刻苦し    て一格を出し 当時の名家と称せらる 筆力壮健 勢ひ紙端に躍り 観る者をして額手驚嘆せしむ 其    の技 実に応挙・文晁に劣らず 然れども浮世絵より変化し来れるの故を以て 世人稍之を賤しむ 其    の画く所の宮殿・楼閣・有職・衣冠の人物 山水・草花・鳥獣皆共に真に逼り 設色・淡彩・水墨・粗    密 一つとして能くせざる所なし 遺蹟の尤も著名なるものは 朝鮮征伐の図の屏風・狐の嫁入行列の    図等なり 後世此の人の遺蹟を追慕するもの多し 誠に稀世の名工といふべし 嘉永二年四月十三日没    す 年九十 江戸浅草八軒寺町誓教寺に葬る 法名を南照院言誉北斎信士といふ(扶桑画人伝 燕石十    種 名家全書 浮世絵類考 鑑定便覧)〟  ◯『浮世画人伝』p108(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝葛飾北斎(ルビかつしかほくさい)    北斎は、初め勝川春章に就きて、春朗と称せしなり。幼名は時太郎、後に鉄太郎と改め、又八右衛門と    も名告りぬ。画名は春朗の外に、辰斎、雷斗、雷信、戴斗、錦袋舎、是知翁、為一、画狂老人、魚仏、    群馬亭、卍翁の数号あり。是等の号は、いづれも門人等に授けて、己れ幾度も其の号を換へたるによる。    本姓は中嶋氏にて、その葛飾と称せしは、江戸本所に生れしを以てなり。父は中嶋伊勢とて、幕府用達    鏡師なりき。母は吉良上野介義央の家臣小林平八郎とて、武芸絶倫の聞えありしが、孫女とかや。平八    郎は、元禄十五年、赤穂の義士復讐の夜に、防戦して斃(タオ)れしが、この時八歳なる女子一人あり、吉    良家滅亡の後、親戚に寄りて成長し、他家に嫁して女子を生めり。此の女子中嶋伊勢の妻となりて、宝    暦九卯年正月三日、本所割下水の家に北斎を生みたり。    北斎幼児、狩野融川に就きて画を学び、天稟の意匠ありて、往々人を驚かしき。寛政の始め、融川、日    光廟の修営にさゝれて門人等を率て下りしが、北斎、少年にして亦その中にあり。途上宇都宮の旅亭に    宿りし時、亭長、画を融川に請へり。融川、やがて一童子の、竿をあげて高き梢の熟柿を落さんとする    図をなせり。北斎、側にあり、之を熟視し、退きて同門の徒に語りけるは、此の図、童子が持てる竿の    端ほと/\柿子に近づく、今すこし踵(キビス)をあげなば、達すべし。師の君、何ぞ画理に疎きやと、門    生密かに之を融川に告ぐ、融川、怒りて云はく、余初めより、然(シカ)心づかぬにあらねど、全く童蒙の、    無智無心なる体を写さむが為なるを、未熟の輩(ハイ)深くも察せずして、妄(*ミダリ)に師を誹譏(ヒキ)する    よと、執拗して聴かず。遂に北斎を逐ひて、師資の緣を絶ちぬと云ふ。此の後しばらく、住吉内記広行    に従ひ、又洋画の法を、司馬江漢に学びしが、終に勝川春章に就きて、浮世絵の風をならひ、後又不和    の事ありて、其の門を脱し、叢春朗と称せり。其の後天明七年、北斎廿八の時、俵屋宗理の遺跡を続ぎ    て、二世菱川宗理と称したりき。是よりさき、春朗と号せし頃は、俳優の小照をも画きしが、宗理の名    跡を継ぎしよりは、専ら自重して、品格よき画題をのみ撰みたりとぞ。されば、北斎の画は、当時坊間    の需求少く、随ひて窮困甚しくなり、果ては操(ミサオ)も作りあへず。さりとて既に家産を破り、別に営    むべき活業もなきまゝ、浅ましくも七色唐がらしを売り、市中を呼びありきしに、是れさへ買ふ者少く、    僅かに両日にして止みぬ。次に柱暦を売りありきしが、生憎なるかな、浅草蔵前の町に於て、兼ねて不    和なりし、春章夫婦に行き合ひたるに、北斎進退谷(キハマ)り、汗水になりて、赤面せし由、此の二事は、    北斎晩年に至り、親しく山口屋藤兵衛といふ、書肆の主人に語りしを、藤兵衛のちに物語りぬ。かゝれ    ば、一度は断然画筆を擲(*ナゲウ)ちて、業を転ぜんと覚悟せしに、たま/\人あり、五月幟(ノボリ)の画    を誂へたり。仍(*ヨリ)て、紅もて鍾馗の像を描き与へしに、筆勢非凡なりとて、その人いたく喜び、謝    金弐両を贈りたり。北斎その意外なるに驚き、且喜びて、是れより亦(マタ)志を励まし、絵画に従事して    独(*ヒトリ)つらつら按ずるに、かくまで貧困に迫り、家道立ち難くなりにしも、畢竟(ヒッキョウ)わが画術の    未熟にして、世に知られざればなりとて、柳嶋妙見菩薩に立願し、遠きをも厭(イト)はずして、日々に参    詣しつゝ、家に帰りては、画事の工夫に余念なかりき。是よりさき、堤等琳の画風を慕ひ、門人宗二に    宗理の名跡を譲りて、之を三世宗理と呼ばせ、己れ別に画風を創(ソウ)して、北斎辰政と改称せり。蓋(ケ    ダ)し平常、北辰妙見を信ずるによるならん。此の時、更に和漢の古風に法(*ノット)り、諸名家の妙を萃    (*アツ)め、洋画の写真をも参へて、浮世絵中に新規の骨法を剏(*ハジ?)めし也けり。時に寛政十一年、    北斎四十才の程なりき。これより錦絵を描かず。その後も、絶えず柳嶋へ詣でしが、ある夏の夕ぐれ、    驟雨(シュウウ)霹靂(ヘキレキ)、落雷にあひ、北斎驚き堤(ドテ)下の畠中に陥(オチイ)りたり。然れども、此れい    よ/\、雷名の揚るべき兆(チョウ)ならんと、心に勇みて号を雷斗と改め、後此の号を、女婿柳川重信に    譲りて、戴斗と云ひしが、これをも門人北泉にゆづり、また画狂人の号を、北黄に譲り、北斎の号をも、    橋本庄兵衛といふに譲りて、後は前北斎為一と称せり。此の前後、北斎の門に入りて画を学ぶ者夥(オビ    タダ)しく、一々扮(ママ)本を描き授くるに遑あらずとて、書肆角丸屋某に謀(ハカ)りて、画手本数十部を    版行せり。中にも「北斎漫画」の如き、新意絶妙にして、普く世にもてはやされ、書肆の嬴利量るべか    らずと云へり。(【後此の版尾張の永楽屋東四郎が蔵となれり】)    当時曲亭馬琴、柳亭種彦等が、戯作の艸子(サウシ)に、挿画を請はれしも少なからず。中には、北斎が名    画のために、書籍の声価を増したるもありきと聞ゆ。元来北斎は、尋常浮世絵師の流ならねば、往々自    己の意匠のまゝに筆を揮ひ、作者の誂へに従はず。さしもの曲亭すら、遂に己れを屈して、彼れに従ふ    に至りにき。そは馬琴が「三七全伝南柯夢」を著したる時、例の挿画を北斎に需めたり。然るに北斎、    三勝半七が情死をはかる所を描き、傍に、野狐の食をあさるかたをかき添へて、馬琴の許へ送りけるに、    馬琴一見眉を顰(ヒソ)めて曰く。是れこそ蛇足なりれ。かくては、この男女、ただ野狐に誑迷せられしに    似たり。此の狐を除かざれば、情死の趣向見ゆべからずと、その旨を使者に含めて、その画を北斎の許    に返しけるに、北斎拂然(フツゼン)としていふやう、彼れ馬琴の著は、余が画筆のために、光彩を放つを    しらずや。強ひて余の画く所に容啄(ママ、ヨウタクのルビアリ、容喙(ヨウシ)?)せんとならば、自今(ジコン)彼が著    書には、筆を染めじと憤(イカ)りければ、版元たる書肆、双方に奔走して、馬琴を宥め、北斎を慰めけれ    ば、両人遂に和解せり。其の後、馬琴「絵本水滸伝」を著しゝが、挿絵の様態につきて、又北斎と意見    を異にし、双方確執して聴かざりしかば、版元たる者、大に困じて、遂に江戸の書肆一統を、某所に会    し、衆の意見を問ひたりけるに、皆いふやう、馬琴の文、北斎の画、素より伯仲しがたし、然れども、    本書は絵本水滸伝と題し、既に絵本と冠するからは、画工の意に任すべきにやと、仍(ヨ)りて此の旨を    馬琴に通ぜしかば、馬琴苦笑して、しぶ/\に諾(ダク)しつといふ。    是のみならず、北斎が絵事につきて、世語りに伝ふるものあまたあり。文化元年四月十三日の事かとよ。    音羽護国寺に於いて、観世音の開帳ありし時、堂前の広庭に、麦稗を市(シ)き、上に百廿畳継(ツギ)の    大紙を延べ、四斗納(イリ)の酒樽数個に、墨汁を湛(*タタ)へ、藁箒(*ワラボウキ)の大なるを筆に代へて、恰    も落葉を掃ふが如く、之を擁して紙上に走り、右(カ)ゆき左(カク)ゆき、忽ち異様の山水めく図をなせり。    然れども、観者(ミルモノ)その何たるを認め得ず。北斎、衆をさし招きて、堂上に昇れといふ。いふがまゝ    に、高欄に凭(*ヨ)り観下(ミオロ)せば、是れなむ半身の達磨なりける。其の大さ、口に馬を通(ツウ)すべく、    目に人坐して余りあり。しかも筆勢非凡、健腕の程現はれて、人々あと叫ぶこゑ、暫しは鳴りも止まざ    りきとぞ。此の後、又本所某市の、広場に於て、紙筆かたの如く敷設(フセツ)して、逸馬の大画を試み、    看者の魂を奪ひたる事もありき。かゝる曲筆妙技聞え、世上に高くなりにしかば、市井の画工にしては、    無上の栄誉を博したる事もありき。そは徳川十一代の将軍、文恭院家斉公、ある時放鷹のかへるさに、    北斎を御座近く召されて、席画を命ぜり、此時、北斎、鶏趾に朱を塗り、点々紙上に投じて、紅葉のち    りかふに擬し、聊(*イササ)か筆を加へて、龍田川の秋色を描けり。此の外、鶏卵酒器の類を筆に代へて、    種々の物態を画くに、咄嗟(トッサ)の意匠、奇を極め、妙を尽くして、大に感賞を蒙れり。北斎の名画は    当時既に海外人にも知られて、長崎に渡来の蘭人、頻りに彼れが筆跡を購(アガナ)ひ求めき。されど三年    程ありて、官禁を蒙れり。    北斎の性質行状を按ずるに、平生素朴謙遜にして、自ら傲(ホコ)らず。然れども意を枉(マ)げて、人を諛    (ヘツラウ)ることなく、頗(スコブ)る侠任(ケフニン)の風あり。曾て同業者歌川豊国が、両国辺の某楼に於て、    書画会催しゝに、たま/\風雨烈しく、参会する者極めて少し。独り北斎、蓑笠にわらんじはきて、葛    飾の百姓が参り候ふぞと。案内いひ入れ、席に上りて終日筆を揮ひたるとぞ。又随分に奇癖もありて、    世のすねものなりけらし。家の表札には「百姓八右衛門」としるし、壁に「おじぎ無用、みやげ無用」    とかきて張りたり。又家を移す癖あり、生涯八十七度におよび、甚だしきは一日の中両三度、移り住み    たる事もありき。是れ新居の四隣に、厭はしきものある時は、片時も忍ぶこと能はざりしによるとぞ。    その移り住める家は、いづくにもあり。絶えて清掃する事なし。席上常に臥具を敷きて、昼夜その中に    あり、眠りを催す時は、衾(*フスマ)を引かつぎて臥し、覚むれば筆を執りて絵をものす。衣食の美、素    (モト)より好まず。人の鮮魚を贈るがあれば、割烹の煩ひありとて、そのまゝ貧民に取らせけり。調度器    財、はた貯ふる所なし。仏壇だになかりしを、書肆山口屋藤兵衛より、ある時一箇の仏像をもらひうけ    て、喜びながらも、安置すべき所なければ、遂に春慶ぬりの重箱といふ器を、横さまに、釘して取りつ    け、其中にぞをさめたる。その画名天下に轟くに至りても、かくひたすら清貧を楽しみ、名利を欲せざ    りしこと、頗(スコブ)る古隠者の風ありき。    ある時の事とぞ聞く。三代目尾上菊五郎(始栄三郎、後梅寿)当時俳優中の巨擘(キョハク)にして、傲気    (ガウキ)人を凌ぐ。曾て幽霊の画を欲して、北斎を招けども、例のすねものなれば、俳優を賤業者と卑み    て行かず。梅幸やむを得ず、駕輿(カゴ)うちはへて彼れが茅屋を訪ひたるに、室内の不浄いはん方なし。    梅幸元来潔癖あり、しばしも得(エ)堪(タ)へず。駕中の氈をとりて、席に敷かんとす。北斎その不礼なる    を怒り、背きて一語も発せざりしかば、梅寿も眼を恚(イカ)らし、遂に語を交へずして去りぬといふ。    北斎の妻をことゝ云ふ。文政十一年六月五日、夫に先だちて歿しき。一男三女あり。北斎また文雅の才    あり。小説戯作を好みて、時太郎可候、また是知斎魚仏とも名告り。又狂句にも巧なりき。    一男は、幼少多吉郎といふ。幼き時、故有て本郷竹町の市人、勘助といふものに養はれ、長じて幕府の    御家人、加瀬某の嗣子(シシ)となり、喜十郎となのりて、御小人目付より、累進して御天守番までなり昇    れり。年ごろ俳諧を楽みて、葛飾蕉門の宗匠となり。椿岳菴木峨と号し、本郷丸山鎧坂に住せり。長女    は柳川重信に嫁せしが、不熟の事あり、家に帰りて早世し、二女は幼き程に身まかりて、三女お栄とい    ふが、北斎の老躯を介抱せり。お栄も、始め南沢等明【堤等琳の弟子】に嫁せしが、父の性質を亶(ママ    稟?)けて奇癖ありければ、離別せられて家にありき。母が没後は、家事万端、此の女の理(リ)すべきが    常なるに、さる細事(サイジ)に携はるを欲せず。剰(*アマツ)さへ食を調じ、衣を裁する事をさへ厭ひ、猶    (ナオ)麁食弊衣を恥とせず。例の室内を掃はずして、父の業をたすけ絵事を勤めて日を送れり。その画又    巧妙にして、美人を描ける、父北斎にも劣らずとぞ。誠に北斎が女なりけり。    さて北斎は嘉永二年、四月十八日、本郷丸山なる、加瀬家にありて病没せり。享年九十、辞世の句と聞    えしは、      人魂でゆくきさんじや夏の原    浅草八軒寺町(現今栄久町)誓教寺に葬る法名南総奇誉北斎信士とす、刊行せし北斎の画帖は北斎画式、    北斎画筆、北斎漫画、北斎画譜、北斎画鑒、北斎麁画、略画早稽古、略画早指南、略画早引、戴斗画譜、    戴斗三体画譜〟
   「葛飾北斎系譜」    ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角(かな)は本HPの補記   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(169/225コマ)    葛飾北斎    初名は春朗、後ち宗理と更め、又北斎、辰政、載(ママ)斗、卍老人と更む。勝川春章の門に入りて業を受    け、又竊(ひそ)かに狩野某に就きて画報を学び、又堤等琳の画を慕ひ、又司馬江漢に就きて西洋画をも    研究せり。彼れが筆の勁健なるは、多くは等琳より得たる其の画組雪舟の筆意に由れるもの、又其の画    の写実なるは江漢を学びしものにして、又其の緻密なる図立(ママ)の法は、全く明画を傚へるものなり。    北斎天縦の異才と多年の苦学とを積みて、自家特得の画風を創し、運筆縦横、意匠豊富、生活上の実況    を始め宇宙の万般の諸顕象を曲写し、一々其の妙を尽さざるはなし。寛政享保(ママ享和か)の間、稗史    (はいし)小説の著作を兼ね、文化に亘りて多く馬琴等が著作の挿画を画く。当時其の門に遊ぶもの極め    て多く、其の弟子の夥多なる為め、一々臨本を与ふるに遑あらざるが為め、画手本数十部を刻せり。北    斎の名声遂に遠迩に馳せ、蘭人の需(もとめ)に応じて万年数百幀を画き、以て其の国に贈るい至る      玉川図(第百九十二図)東京 本間耕曹蔵     本邦の名所中に六所の玉川ありて、何れも風光絶佳、古今の人の吟詠少なからず。一は陸奥に、一は     紀伊に、一は山城に、一は武蔵に、一は近江に、一は摂津にありて、各々其の景物によりて著はる。     茲に掲ぐるものは六景中の二景にして、北斎の筆になれり。用筆勁健、色彩鮮麗、北斎中亦有数のも     のなるべし    〈「稗史小説」は民間の小説、この場合は黄表紙を云うか。「遠迩」は遠近(おちこち)と同義〉  ☆ 明治三十五年(1902)  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(鳥井正之助編集・出版 明治三十五年正月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※ⅠはⅡより字が大きい。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師   〝故人皇国各派不判優劣   Ⅰ(江戸 谷文晁 〔平安〕森狙仙 円山応挙 長沢芦雪 松村呉春 越前介駒岸)    〔江戸〕酒井抱一 菊池容斎〔平安〕浮田一蕙 山口素絢〔大坂〕上田公長 〔オハリ〕田中納(ママ)言   Ⅱ(平安 尾形光林 土佐光起〔江戸〕伊藤若冲 狩野元信 葛飾北斎 河辺暁斎)    〔大サカ〕長山孔寅 蔀関月〟  ☆ 明治三十八年(1905)  ◯「集古会」第五十三回 明治三十八年五月(『集古会誌』乙巳巻之四 明治38年9月刊)   〝有田兎毛三(出品者)源氏かるた  北斎画 一組    秋山要治 (出品者)道化百人一首 北斎  一組〟  ◯「集古会」第五十六回 明治三十九年一月(『集古会誌』丙午巻之二 明治39年3月)   〝清水晴風(出品者)北斎筆 鶴図 一幅 右は天保八酉年北斎八十八(ママ)歳の筆にかゝる〟  ☆ 明治三十九年(1906)  ◯「集古会」第五十九回 明治三十九年九月(『集古会誌』丙午巻之五 明治39年12月刊)   〝村田幸吉(出品者)北斎筆 東海道五十三次錦絵〟  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯「集古会」第七十一回 明治四十二年一月(『集古会誌』己酉巻二 明治42年9月刊)   〝西沢仙湖(出品者)北斎筆 鶏図 一幅〟  ◯『画人逸話』(吉山圭三編 画報社 明治四十二年十月)    〈画料をめぐる阿蘭陀医師とのトラブル譚。内容は嘉永3年『古画備考』明治26年『葛飾北斎伝』と同じ〉    画人逸話  ◯『滑稽百話』(加藤教栄著 文学同志会 明治四十二年十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ※半角(よみ)は本HPの補注   〝葛飾北斎鶏を走らして画を作る(109/123コマ)    葛飾北斎、徳川将軍に召されて曲書をなせし時、一鶏を持ち来りて其の尾(に)藍を浸し、足に臙脂を含    ませて紙上に走らす、一條の青藍洋々たるの間、班々たる赤点紅葉浮び、龍田川の幽趣自然に全幅に横    溢す〟  ◯「集古会」第七十五回 明治四十三(ママ二)年十一月(『集古会誌』庚戌巻一 明治43年12月刊)   〝吉田久兵衛(出品者)北斎画 櫛◎雛形 横三冊 櫛と煙管の模様集〟〈文政6年刊〉  ☆ 明治四十三年(1910)  ◯「集古会」第七十九回 明治四十三年九月(『集古会誌』庚戌巻五 明治44年7月刊)   〝吉田久兵衛(出品者)北斎画 絵本狂歌山満多山 大三冊 大原亭主人撰〟  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯「集古会」第八十一回 明治四十四年一月(『集古会誌』辛亥巻二 大正1年9月刊)   〝村田幸吉(出品者)北斎筆 五段目図 一枚〟  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊)    (絵師)   (画題)  (制作年代) (所蔵者)    〝葛飾北斎  「歌留多」  文化頃    高嶺俊夫  ◯「集古会」第八十四回 明治四十四年九月(『集古会誌』辛亥巻五 大正2年4月刊)   〝広瀬菊雄(出品者)北斎画銅版摺(木版) 近江八景図 一帖〟  ☆ 大正元年(明治四十五年・1912)    ◯「集古会」第八十六回(明治四十五年一月)(『集古会誌』壬子巻二 大正2年9月刊)   〝大橋微笑(出品者)北斎筆 子の福神 一幅〟  ◯「集古会」第八十九回 大正元年九月(『集古会誌』壬子巻五 大正3年5月刊)   〝村田幸吉(出品者)北斎筆 日本橋図 一枚〟    ◯「集古会」第九十回 大正元年十一月(『集古会志』癸丑之一 大正3年5月刊)   〝村田幸吉(出品者)     北斎筆 諸国名橋一覧ノ中 佐野船橋・摂州天満橋 各横一枚     同筆  富嶽卅六景の中  江尻田子浦景 横一枚     同筆  琉球八景図 各図皆船を画けり  横八枚  ◯「集古会」第九十二回 大正二年(1913)三月(『集古会志』癸丑之三 大正4年7月刊)   〝竹内久一(出品者)北斎画 水滸伝人物絵摺手本 一帖〟  ◯「集古会」第百回 大正三年(1914)十一月(『集古会志』乙卯一 大正5年7月刊)   〝林若吉(出品者)北斎 組立灯籠 湯屋図 五枚続〟  ◯「集古会」第百一回 大正四年(1915)一月(『集古』庚辰第四号 昭和15年9月刊)   〝三村清三郞(出品者)春朗画 桃太郎発端話説 一冊 京伝作〟  ◯『浮世絵』第七号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵手引草(二)」(23/25コマ)   〝・北斎の二冊物「道中画譜」は北渓の筆なり    〈北斎画『五十三次北斎道中画譜』(刊年未詳)は、北渓の絵入狂歌本『狂歌東関驛路鈴』(文政十三年刊)の挿絵を流用     している〉    ・春宵秘戯の画に北斎と称するもの多くは北斎の娘栄女の筆に成れり  ◯「浮世絵漫録(一)」桑原羊次郎(『浮世絵』第十八号 大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝(明治四十二年十月十七日、小石川関口町の本間耕曹を訪問して観た北斎肖像画および北斎ほかの作品     リスト)本間氏蔵の浮世絵 但し本間翁没後他に散逸せしやに聞く    北斎筆    「扇面」九枚 図柄は、岩千鳥・蘆千鳥・狸和尚・職人・雲龍・義秀・朝顔・山水・蓬莱山等    「柳に烏図」紙本    「夏装美人図」「北斎戴斗」の落款あり    「寿亀之図」半切 「葛飾北斎(印文「雷震」)」落款あり    「舌切雀物語妖怪之図」横物 無款なれども北斎の伝来なり    「朱画鍾馗之図」「八十六翁前北斎卍」とあり    「雪中狗兒図」紙本 落款は「八十五歳北斎」とあり    「藻に鯉之図」絹本「画狂人北斎筆(印は亀手蛇足)」    「松に獅子図」紙本 大竪幅 北斎八十九歳の筆    「巻物」一軸 紙本 極彩色 猩々 狐 唐子 雉子等の図    「雲龍図」 小竪物「葛飾北斎(印 亀手蛇足)」とあり    「全身龍図」 紙本 大々幅    「屏風」一双 十二月の図なり 真贋今記憶せず    北斎筆    「釣亀図」紙本 落款「両国北斎」菊盥讃 此の北斎は卍老人とは別の北斎なるべし、今慥(しか)と画         風を記憶せず〟  ◯『日本絵画名家詳伝』下(竹内楓橋著 春潮書院 大正六年(1917)二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝北斎    文化元年 江戸音羽護国寺観世音の開帳に際し 北斎畳百二十畳敷の大厚紙に半身の大達磨を画き衆人    をして嘆賞せしむ 其後本所合羽干場に於て 前の如き大紙に馬を画き 又両国回向院にて布袋の大画    を画く 此の時仮に名を改めて錦袋舎と云ふ 北斎既に大画を善くするのみならず 又最少の図に巧な    り 彼のk布袋を画きし跡にて 米一粒へ雀二羽を画きて示したり 人皆肉眼を以て之を見るに苦しむ    北斎画道に於てなさゞることなし 又曲画をも善くし 或は逆に画き横に画き 指頭にて画く等其妙技    至らざるなし 嘗て徳川将軍家斉 北斎の妙画を聞き 放鷹の途次 写山楼文晁及び葛飾北斎を浅草伝    法院に召して 席上画を画かしむ 文晁先づ画く 次に北斎将軍の前に出て 従容懼るる色なく筆を揮    つて 先づ花鳥山水を画く 左右感嘆せざるなし 最後に長く続きたる唐紙を横にし 刷毛にて長く藍    色抺し 予て携へたる鶏を籠中より出し 更に捕へて趾に朱肉を付け 之を紙上に放ち 趾痕を印せし    め乃ち曰く 是れ立田川の風景なりと 一拝して退きたり 人皆其の奇巧に驚く 此の時写山楼傍にあ    りて手に汗を握りしと云ふ 是より北斎の名 四方に噪しく画を請ふ者踵を拙して至り 笈を負ふて来    り学ぶ者日に多し〟  ◯『梵雲庵雑話』p417「富士」(淡島寒月著・大正八年(1919)八月『新興美術』第三巻第八号)   〝昔から、この不二の山ほど、世人にもてはやされた山も少ない。それだけ、富士を好んだ人も多いので    あるが、中んずく、富士党で有名なのは、さきにもいった、西行法師、不二行者とさえ云われた大雅、    百富士に有名な北斎、東海道五十三次で有名な広重なぞは、その尤(ユウ)なるものであろう〟    ◯「集古会」第百二十九回 大正九年(1920)九月(『集古』庚申第五号 大正9年10月刊)   〝林若樹 (出品者)北斎画 東海道名所一覧  一舗  北斎画 木曽路名所 一舗    永田有翠(出品者)北斎画 東海道名所一覧図 一枚〟  ◯「集古会」第百三十一回 大正十年(1921)一月(『集古』辛酉第二号 大正10年2月刊)   〝矢島隆教(出品者)北斎画 絵本忠経 一冊〟  ◯『芸苑一夕話』下巻(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(121/236コマ)     御前席画の離れ業     彼の画名は、啻(ただ)に市井の間に喧伝したのみでは無い、終には将軍家の耳にも入つた。或る時、    文恭院、放鷹の道すがら浅草の伝法院に立寄られた時、文晁北斎を召され、席画を所望された。文晁    先づ筆を揮つて得意の画を作り、愈々北斎の書く番となつた。北斎、憚る色もなく将軍の前に進み出で、    幾丈(いくぢやう)と云ふ長い絹を展(の)べて、一気に刷毛を以て長く藍を引いた。将軍を始め並居る面    々、何を書くのかと、不審に思つて居ると、北斎は座を退き、戸外に出たが、やがて鶏を入れたる籠を    携へ来つたので、皆々愈々不審に堪へず、何をするかと見て居ると、北斎、徐(おもむ)ろに籠より鶏を    出して、其の趾(あし)に朱肉をつけ、之を絹上に放つた。無心、鶏は、あちらこちらを歩き廻り、歩歩    赤い趾痕を印するのを、皆々、何の故とも気付かず、意外の事に、各々手に汗を握つて居たが、北斎は、    適宜と思ふ所で鶏を捕へて籠に納め、恭しく一礼した。座に在る文晁、早くも画意を覚り、立田川の風    景、洵(まこと)におもしろしと称へたので、皆々、初めて成る程と感じた。     北斎は町絵師ではあつたが、権貴を畏れぬ膽気(たんき)を有して居つた。当日斯る離れ業を遣つたの    も、彼れが膽気を示したものである。〈文恭院とは徳川幕府十一代将軍家斉〉  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)    葛飾北斎画(◇は所蔵者)   ◇酒井正吉  「樵婦牽牛図」国華所載  /「雪月花図」/「黄蜀葵」三幅対   ◇松木平吉  「騎牛大黒図」紙本 巾二尺/「美人図」   ◇大畑多右衛門「岩上観音像」紙本淡彩 巾一尺三寸   ◇中村直次郎  雑画版下 数十枚   ◇諏訪松之助 「十二ヶ月風俗図屏風」一双 紙本淡彩/「郭子儀図」大横物 紙本設色   ◇別府金七  「清少納言図」賛鵬斎 絹本設色 巾一尺三寸二分 立三尺二寸五分 林忠正旧蔵   ◇高田軍三  「明鏡嬌面図」絹本着色 巾一尺 立二尺八寸六分   ◇小林亮一〈小林文七嗣子〉    「馬上鍾馗図」幟絵 木綿地墨画 巾九尺 立一丈九尺    「生首写生図」小巻 紙本(僧侶の斬首せられしを写生したるものゝ如し)    「美人月下読書図」横物/「関羽図」/「筑波祭図」     扇面雑画冊十二幀 紙本淡彩 本間光曹氏旧蔵     (北斎は故小林氏の尤も力を尽して蒐集せしものなれば、其の肉筆画は大小総て約四百点を算し、其他版画は殆ど全部、      その挿絵ある黄表紙類全部 並に夫等の板木も大部分は網羅せられてありしと云ふ)    浮世絵版画    (其の総数数十万と称せられたる莫大のものなれば、其中には珍物も少からずありしならんが、今之を詳にせず、唯同好     者間に語り伝へて珍品とせられしは)    葛飾北斎「風流なくて七くせ」一枚    (大錦竪版、北斎には他に例なき雲母摺なり、図は衝立の側に二女の半身描けるものにして、大首様にかけるも珍なり)  ◯「集古会」第百四十四回 大正十三年(1924)一月(『集古』甲子第二号 大正13年4月刊)   〝三村清三郞(出品者)為一作 鼠の根付 一個〟  ◯「集古会」第百四十六回 大正十三年(1924)五月(『集古』甲子第四号 大正13年8月刊)   〝浅田澱橋(出品者)勝川春朗 浮絵両国花火見物 一枚〟  ☆ 昭和以降(1926~)
 ◯「集古会」第百六十四回 昭和三年一月(『集古』戊辰第二号 昭和3年2月刊)   〝三村清三郞(出品者)龍に因む黄表紙    北斎画作『龍宮洗濯話』 寛政三年〟  ◯「集古会」第百六十九回 昭和四年一月(『集古』己巳第二号 昭和4年2月刊)   〝浅田澱橋(出品者)北斎版画 琵琶白蛇の図 一葉〟  ◯『狂歌人名辞書』p204(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝葛飾北斎、本姓中島氏、初め時太郎、後ち八右衛門、浮世絵の大家にして勝川春朗、百琳宗理、辰政、    戴斗、為一、画狂人、卍翁等の数号あり、初め時太郎可候と号して草双紙を作り、又宗理と号せし頃、    千秋庵の社中に加はりて狂歌を詠ず、狂歌集に北斎の画のあるもの亦多し、嘉永二年四月十三日(ママ)歿    す、年九十、浅草八軒寺町誓教寺に葬る〟    ◯「集古会」第百七十一回 昭和四年三月(『集古』己巳第四号 昭和4年9月刊)   〝三浦おいろ(出品者)画工北斎 狂歌国尽 一冊 六樹園撰〟  ◯「日本小説作家人名辞書」p731(山崎麓編『日本小説書目年表』所収 昭和四年(1929)刊)   ◇「魚仏」p731   〝魚仏    葛飾北斎の匿名、時太郎可候を見よ。「鎌倉通臣伝」(天明二年刊)の作者〟    〈飯島虚心著『葛飾北斎伝』、岩波文庫本の校注者・鈴木重三氏は「春朗〈北斎〉画の天明二年(1782)刊黄表紙『鎌     倉通臣伝』の作者にこの名〈魚仏〉があるが、絵師と同一人とする確証はない」とする〉     ◇「群馬亭」p737   〝群馬亭    葛飾北斎の別号。「我家楽之鎌倉山」(天明六年刊)の作者〟    〈黄表紙『我家楽之鎌倉山』は群馬亭の自作自画〉     ◇「是和斎」p746    〝是和斎(これわさい)    葛飾北斎の匿名、時太郎可候を見よ。「有難通一字」(天明元年(1781))の作者〟    〈飯島虚心著『葛飾北斎伝』、岩波文庫本の校注者・鈴木重三氏は「天明元年(1781)刊の黄表紙     『有難通一字』(絵師名なし)の作者として名が見えるが、春朗の戯号とする確証はない」とす     る〉     ◇「時太郎可候」p796   〝時太郎可候    葛飾為一、本姓中島氏、幼名を時太郎、通称鉄蔵といふ。時太郎可候、是和斎、魚仏、北斎、白山人、    不染居、九々蜃等の作名あり。画名には、勝川春朗、叢春朗、群馬亭、魚仏、可候、辰斎、辰政、雷    信(雷晨)雷斗、錦袋舎、為一、画狂人、卍翁卍老人等ある。勝川春章の門に入り、絵を学ぴ春朗と    いつてゐたが、安永六年更に狩野友川に就き学んでゐる事露はれて、勝川を逐はれ、友川より破門さ    れた。住吉広行、司馬江漢に遊学した。これより前俵屋宗理の名跡をついで、二代目宗理となる。一    派の画風を興し、その技倆に於て当時随一と称せられた。自画自作の草双紙あり。宝暦十年九月生、    嘉永二年四月十八日歿、享年九十、浅草六軒寺町誓願寺に葬る〟    ◯「集古会」第百七十四回 昭和五年一月(『集古』庚午第二号 昭和5年2月刊)   〝浅田澱橋(出品者)     北斎板画   宮女駻馬をおさへる図 一枚     前北斎為一筆 長画錦絵「詩歌写真鏡 木賊狩の月」一枚〟  ◯『浮世絵師伝』p171(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)    葛飾北斎(国立国会図書館デジタルコレクション)    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双六の話 道中双六」p154   〝道中双六は貞享ごろに作り出したものだちうと柳亭種彦がいっているが、宝永ごろのものを私は見た覚    えがある。    近藤清春(?)の正徳ごろのがまず古い方で、時代が降って、お馴染の北斎には「新板往来双六」とい    う優れたものがあり、広重には「東海道富士見双六」「諸国名勝双六」「東海道木曽振分道中双六」等    がある〟     ◇「絵双六の話 川柳俳句双六」p154   〝狂歌、川柳、俳句などを加えた双六も種々あるが、最も古いのは明和二年版の英一蝶の俳句入「梅尽(ウ    メヅクシ)吉例双六」で、文晃一門合作の俳句入り「江の島文庫」なんて上品なものもある。「狂歌江戸    花見双六」「寿出世双六」(狂歌)「孝不孝振分双六」(川柳)「名所遊帰宅双六」(狂歌)去来庵選の俳    句入り「江戸名所巽双六」という北斎の画品の高い挿画の逸品がある〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「安永四年 乙未」(1775)p130   〝此年、葛飾北斎十五歳にして洒落本『楽女好子』を彫刻せりといふ〟
  ◇「安永六年 丁酉」(1777)p133   〝此年、葛飾北斎十八歳にして当時の浮世絵師の大家勝川春章の門に入る〟
  ◇「安永九年 庚子」(1780)p136   〝此年、勝川春朗の画ける青本『一生徳兵衛三の伝』『めぐろ比翼塚』出版。蓋し北斎の処女作なり〟    〈「日本古典籍総合目録」は『一生徳兵衛三乃伝』の作者・画工名を記さず。この年の春朗画の作品は次の三点、黄表     紙『大通一寸廓茶番』(社楽斎万里作)、黄表紙『驪山比翼塚』、洒落本『喜夜来大根』(梨白散人作)〉
  ◇「天明元年(四月十三日改元)辛丑」(1781)p137   〝此年、北斎是和斎の名を以て青本『本性銘署有難通一字』を画作す〟
  ◇「天明二年(壬寅)」(1782)p138   〝此年、葛飾北斎、魚仏・是和斎等の号あり〟
  ◇「天明五年 乙巳」(1785)p141   〝此年、葛飾北斎、春朗を改めて群馬亭と号す〟
  ◇「寛政六年 甲寅」(1794)p156   〝此年、日光廟造営あり、葛飾北斎、狩野融川に随うて絵事に従事せり。幾程も無しくて江戸に帰れり〟
   此年、葛飾北斎、叢春朗と称す。    四月、葛飾北斎、叢春朗と署して『狂歌連合女品定』に画き出版せるあり〟   〝正月、柳々居辰斎の画ける『狂歌三十六歌仙』出版〟    〈「日本古典籍総合目録」は三陀羅奉法師編『狂歌三十六歌仙』を辰斎ではなく葛飾北斎画とする〉     ◇「寛政八年 丙辰」(1796)p159   〝此年、葛飾北斎、百琳宗理と称して『帰化種』を画く。
  ◇「寛政九年 丁巳」(1797)p161   〝正月、北斎・重政・堤等琳の画ける『狂歌柳の糸』出版〟
  ◇「寛政一一年 己未」(1799)p164   〝此年、葛飾北斎、宗理の称を門人に譲り更に北斎辰政と号す。    正月、北斎の『江戸勝景東遊』出版。    十二月、北斎・秀成等の画に成れる『こずゑのゆき』出版〟
  ◇「寛政一二年 庚申」(1800)p165   〝正月、北斎の『東都勝景一覧』出版〟
  ◇「享和元年(二月五日改元)辛酉」(1801)p166   〝正月、北斎と鳥文斎栄之の画に成れる『女房三十六人歌合』出版。    北斎此年より画狂人と称せり〟
  ◇「享和二年 壬戌」(1802)p168   〝正月、葛飾北斎の『絵本東都遊』『絵本忠臣蔵』『五十鈴川狂歌集』出版。       北斎の画に富士唐麻呂編『潮来絶句集』等出版〟
  ◇「享和三年 癸亥」(1803)p169   〝正月、葛飾北斎の『絵本小倉百句』出版〟
  ◇「文化元年(二月十九日改元)甲子」(1804)p171   〝正月、北斎の画ける『山また山』出版。    四月十三日、葛飾北斎、音羽の護国寺に於いて百二十畳敷の大厚紙に達磨を画く。後文化十四年に至り    名古屋に於いて又画けり。一対の大画といふべし〟
  ◇「文化二年 乙丑」(1805)p173   〝正月、葛飾北斎の『狂歌百囀』出版〟
  ◇「文化五年 戊辰」(1808)p177   〝葛飾北斎、曲亭馬琴と葛藤せることの因由となれる『三七全伝南柯夢』は此年の出版なり。    北斎の画ける読本にて此年の出版にかゝれるものには、     馬琴作『椿説弓張月』後編・前編、『頼豪阿闍梨恠鼠伝』、小枝繁作『絵本壁落穂』、     種彦作『近世怪異霜夜星』、芍薬亭作『国字鵺物語』、振鷺亭作『安耨多羅賢治物語』     酔月庵作『由利雅埜居鷹』等なり〟     〈この年の北斎画の版本は十六点、読本十点・合巻五点・俳諧本一点〉
  ◇「文化七年 庚午」(1810)p179   〝此年、葛飾北斎、市村座顔見世狂言の招牌を画けり〟
  ◇「文化八年 辛未」(1811)p181   〝種彦処女作は此年春出版の青本蘭亭北嵩の挿画にて『鱸包丁青砥の切味』、読本には北斎の挿画にて    『勢田橋龍女本地』なり〟
  ◇「文化九年 壬申」(1812)p182   〝正月、北斎の『略画早指南』出版    九月、北斎の『画道独稽古』出版〟
  ◇「文化一〇年 癸酉」(1813)p184   〝正月、葛飾北斎の『伝心画鏡』出版〟
  ◇「文化一一年 甲戌」(1814)p185   〝正月、葛飾北斎の『北斎漫画』初編出版。(葛飾北斎伝には文化十四年より追年出版して云々とあれど    も実物を見るに本年文化十一年甲戌孟春と奥附に署し、併も序文は文化壬申とあれば、文化九年より企    画せるものたるを知る)〟
  ◇「文化一二年 乙亥」(1815)p187   〝正月、葛飾北斎の『絵本浄瑠璃絶句』出版    四月、『北斎漫画』二・三編及び『踊独稽古』出版〟
  ◇「文化一三年 丙子」(1816)p189   〝此年、葛飾北斎、其号戴斗を、門人新吉原の引手茶屋の主人亀屋喜三郎に譲るといふ説あり。    正月、北斎の『三体画譜』、    四月、『北斎漫画』五編出版〟
  ◇「文化一四年 丁丑」(1817)p190   〝此年十月五日、葛飾北斎名古屋滞在中、百二十畳敷の紙に達磨半身の大図を画く。    正月、『北斎漫画』四編より八編に至る五冊出版。    四月、北斎の『画本早引』初編出版〟
  ◇「文政元年(四月二十二日改元)戊寅」(1818)p191   〝此年、葛飾北斎伊勢より紀州に入り、それより京阪地方を遊歴せり。    正月、北斎の『秀画一覧』。    二月、北斎と大阪の立好斎と共に画ける『萍水奇画』出版。    九月、葛飾戴斗の画ける『和語陰隲文絵抄』出版〟    〈この葛飾戴斗は二世戴斗〉     ◇「文政二年 己卯」(1819)p192   〝正月、『北斎漫画』九編より十一編出版。    四月、『北斎画式』、又北斎の『画本早引』二年出版〟
  ◇「文政三年 甲辰」(1820)p194   〝五月、『北斎麁画』出版〟
  ◇「文政六年 癸未」(1823)p198   〝正月、北斎の『一筆画譜』『今様櫛煙管雛形』出版〟
  ◇「文政九年 丙戌」(1826)p202   〝六月、北渓・国貞・北馬・国直・辰斎・北斎等の画ける『狂歌の集』出版〟
  ◇「文政一二年 己丑」(1827)p207   〝正月、北斎の『忠義水滸画伝』出版〟
  ◇「天保二年 辛卯」(1831)p209   〝此頃、葛飾北斎、信州高井郡小布施村に到り、門人高井三九郎の家に寓し、居ること一年あまりなりし    といふ〟
  ◇「天保四年 癸巳」(1833)p211   〝正月、北斎の画ける『唐詩選画本』五言律・五言排律の部出版〟
  ◇「天保五年 甲午」(1834)p213   〝此年、葛飾北斎七十五歳にして『富嶽百景』の初編を画き、前北斎為一改画狂老人卍と署せり。    正月、北斎の画ける『絵本忠経』『北斎漫画』十二編出版〟
  ◇「天保六年 乙未」(1835)p214   〝此年、葛飾北斎相州浦賀に潜居し、姓名を三浦屋八右衛門と称せり。    正月、天保元年出版せる北渓の画ける『狂歌東関駅路鈴』を『五十三次北斎道中画譜』と改題して再版       せり。蓋し北渓の画を北斎の名もて売りたるものなり。       北斎・国貞等の画ける『俳優三十六花仙』出版。    三月、北斎の『富嶽百景』二編出版。    十二月、北斎の『画本千字文』出版〟
  ◇「天保七年 丙申」(1836)p215   〝葛飾北斎、此年も相州浦賀に滞在す。    正月、北斎の『絵本魁』『諸職絵本新雛形』    八月、北斎の『絵本武蔵鐙』出版〟
  ◇「天保一一年 庚子」(1840)p219   〝北斎の画ける『和漢陰隲伝』出版。    此年、葛飾北斎房総地方の客舎に在りて支那の一覧図を画く〟
  ◇「天保一二年 辛丑」(1841)p219   〝正月、北斎と北渓の画ける『花の十文』出版〟
  ◇「天保一四年 癸卯」(1843)p222   〝正月、『北斎画苑』出版〟
  ◇「嘉永二年 己酉」(1849)p228   〝四月十八日、葛飾北斎歿す。享年九十。    正月、『北斎漫画』十三・十四の二編出版〟
  ◇「嘉永三年 甲戌」(1850)p228   〝正月、北斎の画ける『絵本和漢誉』出版〟     ◇「安政五年 戊午」(1858)p237   〝九月、葛飾為斎の画に成る『日蓮上人一代図会』出版。松亭金水の著述なり。此の書明治二十一年に至    りて画工の為斎の為の字を削り北の字を填板して葛飾北斎の画として売り出だせり。此書為斎の傑作に    して北斎に劣らぬ程の名画なるに、世俗北斎のみを崇拝して為斎を顧みざるをもて為斎の名を埋没せし    めたるは己の利を計りて他の名を永久に葬りたる悪みても余りあり。此書は東京の御徒町の金兵衛なる    者なるが、名古屋の書肆文助なる者が、北渓の画ける傑作『狂歌東関駅路鈴』を『北斎道中画譜』と改    題して販売せると一対の奸策なり〟    ◯「集古会」第二百八回 昭和十一年十一月(『集古』丁丑第一号 昭和12年1月刊)   〝小沢一蛙(出品者)北斎版画 東本願寺屋根普請図 一枚・山下白雨 一枚 富嶽三十六景の内〟  ◯「集古会」第二百十五回 昭和十三年三月(『集古』戊寅第三号 昭和13年5月刊)   〝渡辺刀水(出品者)葛飾北斎序文絵入 みよしの柳樽 一冊 天保十四年十月川越版〟  ◯「集古会」第二百二十回 昭和十四年三月(『集古』己卯第三号 昭和14年5月刊)   〝来原瓔助 (出品者)北斎 板画 花魁と禿 一枚    三村清三郎(出品者)勝川春朗画 梅薫花読物 一冊 市村座、狂歌連中〟  ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)   ◇「鍬形蕙斎」p107(「画説」三三、昭和十四年九月。原題「【青山廬冗倭】蕙斎に関聨して」)   〝「総房海陸勝景奇覧」     後編坂東図 八ヶ国の名所古跡且神社仏閣温泉の地い至る目前にのぞみ見るがごとく工夫せし絵図な     り 耕書堂/双鶴堂合梓 葛飾前北斎戴斗〈原図「鶴」は「隺」〉    「無題(支那一覧図)」総房旅客画狂人卍齢八十一 彫刻江川仙太郎 書肆青雲堂梓〟  △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「浅草区」誓教寺(永住町五四)浄土宗   〝葛飾北斎(画家)通称中嶋八右衛門。幕府御鏡師の男、初め勝川春章に従ひ春朗といひしも故ありて破    門、唐画の筆法を浮世画に応用して一機軸を出す。人物、鳥獣を描くに妙を得、幽霊は世人の珍重する    所となる。また文筆に長じ戯名を時太郎可候といひ、自画自作にて出したる草双紙あり。嘉永二年四月    十八日歿。年九十。南照院奇誉北斎信士。正面に画狂老人卍墓とあり。指定史跡      辞世 ひと魂でゆく気散じや夏の原〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔葛飾北斎画版本〕    作品数:234点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:春朗・勝川春朗・勝川春朗一世・百琳・宗理・百琳宗理・俵屋宗理・菱川宗理・群馬亭・        郡馬亭・可候・時太郎可候・北斎・前北斎・葛飾北斎・狂人北斎・画狂人北斎・画狂人・        辰政・北斎辰政・葛飾辰政・戴斗・戴斗翁・葛飾戴斗・葛飾戴斗一世・為一・葛飾為一・        北斎為一・前北斎為一老人・卍老人・葛飾卍老人・狂人卍翁・葛飾卍老人・鏡裏庵梅年・        穿山甲・魚仏・是和斎・白雪紅    分 類:絵画46・黄表紙43・読本41・絵本41・狂歌21・艶本8・合巻8・洒落本7・        咄本5・俳諧3・地誌3・滑稽本2・和歌(百人一首)2・川柳2・往来物2・図案2・        花道2・教訓1・浄瑠璃1・文字(千字文)1・舞踏1    成立年:安永9年(3点)        天明1~2・4~6・8年(16点)(天明年間合計17点)        寛政1~12年     (32点)(寛政年間合計35点)        享和1~4年      (20点)        文化1~14年     (67点)(文化年間合計69点)        文政1~7・9~12年 (22点)(文政年間合計25点)        天保3~7・9~10・12・14年(25点)(天保年間合計27点)        弘化1~2・4~5年  (5点) (弘化年間合計6点)、        嘉永1~3年      (7点)        文久2年        (1点)        元治1年        (1点)   (春朗名の作品)    作品数:34点      画号他:春朗・勝川春朗      分 類:黄表紙28・洒落本3・咄本1・狂歌2      成立年:安永9年      (3点)        天明1~2・4~6年(10点)(天明年間合計11点)        寛政1・3~9年  (19点)   (是和斎名の作品)    作品数:2点    画号他:是和斎    分 類:黄表紙    成立年:天明1・2年(2点)       『有難通一字』  黄表紙・是和斎作画・天明元年(1781)刊       『四天王大通仕達』黄表紙・是和斎作・春朗画・天明二年刊   (魚仏名の作品)    作品数:1点    画号他:魚仏    分 類:黄表紙1    成立年:天明2年        『鎌倉通臣伝』黄表紙・魚仏作・勝川春朗画・天明二年刊〉   (白雪紅名の作品)    作品数:1点    画号他:白雪紅    分 類:黄表紙1    成立年:天明6年        『蛇腹紋原之仲町』黄表紙・白雪紅作・群馬亭画・天明六年(1786)刊   (群馬亭名の作品)    作品数:5点      画号他:群馬亭    分 類:黄表紙5      成立年:天明5~6・8年(4点)        享和1年    (1点)    〈天明八年刊(1788)の道笑作・群馬亭画『人間万事二一天作五』は、天明六年の通笑作・春朗画『二一天作二進一十』     の改題本であり、群馬亭とあるものの再版に当たって仮に付けたと考えられる。また享和元年(1801)刊の聞天舎雀声     作・群馬亭画『下界騼鼻落天狗』も、天明五年の雀声作・群馬亭画『親譲鼻高名』の改題再刷本である。従って黄表     紙の作画に群馬亭の画名を使用したのは実質的には天明五年と六年の二年間とみてよいのであろう〉   (鏡裏庵梅年名の作品)    作品数:1点    画号他:鏡裏庵梅年    分 類:俳諧1    成立年:寛政2序        『水のけしき』鏡裏庵梅年編。作画ではない   (宗理名の作品)    作品数:4点    画号他:宗理    分 類:狂歌3・花道1    成立年:寛政7年 (1点)(寛政年間合計2点)        享和1年序(1点)        『狂歌江戸紫』   狂歌・四方歌垣等編・歌麿、宗理等画・寛政七年(1795)刊        『春興帖』     狂歌・森羅万象編・京伝、宗理画・寛政年間刊        『布毛等濃夷詞』  狂歌・山陽堂編・正墨、宗理、俊満画・享和1年(1801)序        『遠州流挿花四季詠』花道・森一訓編・宗理画・成立年記載なし    (百琳宗理名の作品)    作品数:1点    画号他:百琳宗理    分 類:狂歌1    成立年:寛政8年        『帰化種』狂歌・百琳宗理画・寛政八年(1796)刊   (菱川宗理名の作品)    作品数:1点    画号他:菱川宗理    分 類:花道1    成立年:文化2年序        『遠州流挿花百瓶図式』花道・如月庵馬丈著・菱川宗理画・文化二年(1805)刊    (俵屋宗理名の作品)    作品数:2点    画号他:俵屋宗理    分 類:読本1・狂歌1    成立年:享和1年(1点)        文化5年(1点)        『浅間山麓の石』 狂歌狂詩・芝の屋山陽編・曲木正墨、尚久堂俊満、俵屋宗理等画・享和1年(1801)刊        『駅路春鈴菜物語』読本・節亭琴驢(岡山鳥)作・歌川豊広、俵屋宗理画・文化五年(1808)刊〉   (宗理名の全作品)     作品数:8点      画号他:宗理・俵屋宗理・菱川宗理・百琳宗理      分 類:狂歌狂詩5・花道2・読本1      成立年:寛政7~8年 (2点)(寛政年間合計3点)        享和1年   (2点)        文化2序・5年(2点)   (可候名の作品)    作品数:8点    画号他:可候・時太郎可候      分 類:黄表紙8      成立年:寛政10・12~13年(3点)        享和2~3年     (3点)        文化1・8年     (2点)         〈黄表紙八点のうち六点、時太郎可候の署名で自作自画。他二点は山東京伝と虚呂利の戯作に作画〉     (辰政名の作品)    作品数:3点      画号他:北斎辰政・葛飾辰政・    分 類:絵本1・読本1・狂歌1    成立年:享和2~4年(3点)   (穿山甲名の作品)    作品数:1点    画号他:穿山甲    分 類:咄本1    成立年:享和3年         〈『はしか落噺』。穿山甲作とも画とも記載がない〉     (画狂人北斎名の作品)    作品数:3点    画号他:画狂人北斎    分 類:洒落本1・合巻1・狂歌1    成立年:享和1年  (1点)        文化2・5年(2点)   (戴斗名の作品)    作品数:3点      画号他:戴斗・戴斗翁・葛飾戴斗    分 類:滑稽本1・狂歌1・絵本1    成立年:文化7年(1点)(文化年間合計2点)   (葛飾為一名の作品)    作品数:5点    画号他:葛飾為一    分 類:絵画3・俳諧1・絵本1    成立年:文政5・12年(2点)        嘉永1年   (1点)   (前北斎為一名の作品)    作品数:1    画号他:前北斎為一    分 類:漢詩絵画1    成立年:天保4年        『唐詩選画本』六編・漢詩絵画・高井蘭山著・前北斎為一画・天保四年(1833)刊   (北斎為一名の作品)    作品数:3点    画号他:北斎為一    分 類:狂歌狂文1・読本1・実録1    成立年:天保10年(1点)        嘉永3年 (1点)   (前北斎為一老人名の作品)    作品数:2点    画号他:前北斎為一老人    分 類:教訓1・絵画1    成立年:天保5年(1点)        文政5年(1点)        『絵本忠経』教訓・高井蘭山注解・前北斎為一老人・天保五年(1834)刊        『北斎画鑑』絵画・前北斎為一老人画・安政五年(1858)刊〉   (為一名の全作品)    作品数:11点    画号他:北斎為一・葛飾為一・前北斎為一老人      分 類:絵画5・絵本2・読本1・俳諧1・狂歌狂文1・実録1     成立年:文政5・10・12年(3点)        天保4~5・10年 (3点)        嘉永1・3年    (2点)   (画狂老人名の作品)    作品数:1点    画号他:画狂老人    分 類:絵本1    成立年:天保7年        『新雛形』絵本・画狂老人画・天保七年(1836)刊   (狂人卍翁名の作品)    作品数:1点    画号他:狂人卍翁    分 類:漢詩 絵画    成立年:天保7年        『唐詩選画本』七編・高井蘭山著・狂人卍翁画・天保七年(1836)刊   (前北斎卍老人名の作品)    作品数:1点    画号他:前北斎卍老人    分 類:読本    成立年:天保12年        『釈迦御一代記図会』山田意斎叟編・前北斎卍老人画・天保十二年(1841)刊   (葛飾卍老人名の作品)    作品数:1点    画号他:葛飾卍老人    分 類:和歌(百人一首)1    成立年:弘化4年        『烈女百人一首』緑亭川柳編・葛飾卍老人、一陽斎豊国(三代)画・弘化四年(1847)刊   (卍名の全作品)    作品数:3点      画号他:前北斎卍老人・狂人卍翁・葛飾卍老人    分 類:読本1・絵本1・和歌(百人一首)1    成立年:天保7・12年(2点)        弘化4年   (1点)      〈「日本古典籍総合目録」には、郡馬亭・錦袋舎・九々蜃・雷震・月癡老人・不染居為一・三浦屋八右衛門署名の作品は     収録されていない〉