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『浮世画人伝』葛飾北斎
 ◯『浮世画人伝』p108(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝葛飾北斎(ルビかつしかほくさい)    北斎は、初め勝川春章に就きて、春朗と称せしなり。幼名は時太郎、後に鉄太郎と改め、又八右衛門と    も名告りぬ。画名は春朗の外に、辰斎、雷斗、雷信、戴斗、錦袋舎、是知翁、為一、画狂老人、魚仏、    群馬亭、卍翁の数号あり。是等の号は、いづれも門人等に授けて、己れ幾度も其の号を換へたるによる。    本姓は中嶋氏にて、その葛飾と称せしは、江戸本所に生れしを以てなり。父は中嶋伊勢とて、幕府用達    鏡師なりき。母は吉良上野介義央の家臣小林平八郎とて、武芸絶倫の聞えありしが、孫女とかや。平八    郎は、元禄十五年、赤穂の義士復讐の夜に、防戦して斃(タオ)れしが、この時八歳なる女子一人あり、吉    良家滅亡の後、親戚に寄りて成長し、他家に嫁して女子を生めり。此の女子中嶋伊勢の妻となりて、宝    暦九卯年正月三日、本所割下水の家に北斎を生みたり。    北斎幼児、狩野融川に就きて画を学び、天稟の意匠ありて、往々人を驚かしき。寛政の始め、融川、日    光廟の修営にさゝれて門人等を率て下りしが、北斎、少年にして亦その中にあり。途上宇都宮の旅亭に    宿りし時、亭長、画を融川に請へり。融川、やがて一童子の、竿をあげて高き梢の熟柿を落さんとする    図をなせり。北斎、側にあり、之を熟視し、退きて同門の徒に語りけるは、此の図、童子が持てる竿の    端ほと/\柿子に近づく、今すこし踵(キビス)をあげなば、達すべし。師の君、何ぞ画理に疎きやと、門    生密かに之を融川に告ぐ、融川、怒りて云はく、余初めより、然(シカ)心づかぬにあらねど、全く童蒙の、    無智無心なる体を写さむが為なるを、未熟の輩(ハイ)深くも察せずして、妄(*ミダリ)に師を誹譏(ヒキ)する    よと、執拗して聴かず。遂に北斎を逐ひて、師資の緣を絶ちぬと云ふ。此の後しばらく、住吉内記広行    に従ひ、又洋画の法を、司馬江漢に学びしが、終に勝川春章に就きて、浮世絵の風をならひ、後又不和    の事ありて、其の門を脱し、叢春朗と称せり。其の後天明七年、北斎廿八の時、俵屋宗理の遺跡を続ぎ    て、二世菱川宗理と称したりき。是よりさき、春朗と号せし頃は、俳優の小照をも画きしが、宗理の名    跡を継ぎしよりは、専ら自重して、品格よき画題をのみ撰みたりとぞ。されば、北斎の画は、当時坊間    の需求少く、随ひて窮困甚しくなり、果ては操(ミサオ)も作りあへず。さりとて既に家産を破り、別に営    むべき活業もなきまゝ、浅ましくも七色唐がらしを売り、市中を呼びありきしに、是れさへ買ふ者少く、    僅かに両日にして止みぬ。次に柱暦を売りありきしが、生憎なるかな、浅草蔵前の町に於て、兼ねて不    和なりし、春章夫婦に行き合ひたるに、北斎進退谷(キハマ)り、汗水になりて、赤面せし由、此の二事は、    北斎晩年に至り、親しく山口屋藤兵衛といふ、書肆の主人に語りしを、藤兵衛のちに物語りぬ。かゝれ    ば、一度は断然画筆を擲(*ナゲウ)ちて、業を転ぜんと覚悟せしに、たま/\人あり、五月幟(ノボリ)の画    を誂へたり。仍(*ヨリ)て、紅もて鍾馗の像を描き与へしに、筆勢非凡なりとて、その人いたく喜び、謝    金弐両を贈りたり。北斎その意外なるに驚き、且喜びて、是れより亦(マタ)志を励まし、絵画に従事して    独(*ヒトリ)つらつら按ずるに、かくまで貧困に迫り、家道立ち難くなりにしも、畢竟(ヒッキョウ)わが画術の    未熟にして、世に知られざればなりとて、柳嶋妙見菩薩に立願し、遠きをも厭(イト)はずして、日々に参    詣しつゝ、家に帰りては、画事の工夫に余念なかりき。是よりさき、堤等琳の画風を慕ひ、門人宗二に    宗理の名跡を譲りて、之を三世宗理と呼ばせ、己れ別に画風を創(ソウ)して、北斎辰政と改称せり。蓋(ケ    ダ)し平常、北辰妙見を信ずるによるならん。此の時、更に和漢の古風に法(*ノット)り、諸名家の妙を萃    (*アツ)め、洋画の写真をも参へて、浮世絵中に新規の骨法を剏(*ハジ?)めし也けり。時に寛政十一年、    北斎四十才の程なりき。これより錦絵を描かず。その後も、絶えず柳嶋へ詣でしが、ある夏の夕ぐれ、    驟雨(シュウウ)霹靂(ヘキレキ)、落雷にあひ、北斎驚き堤(ドテ)下の畠中に陥(オチイ)りたり。然れども、此れい    よ/\、雷名の揚るべき兆(チョウ)ならんと、心に勇みて号を雷斗と改め、後此の号を、女婿柳川重信に    譲りて、戴斗と云ひしが、これをも門人北泉にゆづり、また画狂人の号を、北黄に譲り、北斎の号をも、    橋本庄兵衛といふに譲りて、後は前北斎為一と称せり。此の前後、北斎の門に入りて画を学ぶ者夥(オビ    タダ)しく、一々扮(ママ)本を描き授くるに遑あらずとて、書肆角丸屋某に謀(ハカ)りて、画手本数十部を    版行せり。中にも「北斎漫画」の如き、新意絶妙にして、普く世にもてはやされ、書肆の嬴利量るべか    らずと云へり。(【後此の版尾張の永楽屋東四郎が蔵となれり】)    当時曲亭馬琴、柳亭種彦等が、戯作の艸子(サウシ)に、挿画を請はれしも少なからず。中には、北斎が名    画のために、書籍の声価を増したるもありきと聞ゆ。元来北斎は、尋常浮世絵師の流ならねば、往々自    己の意匠のまゝに筆を揮ひ、作者の誂へに従はず。さしもの曲亭すら、遂に己れを屈して、彼れに従ふ    に至りにき。そは馬琴が「三七全伝南柯夢」を著したる時、例の挿画を北斎に需めたり。然るに北斎、    三勝半七が情死をはかる所を描き、傍に、野狐の食をあさるかたをかき添へて、馬琴の許へ送りけるに、    馬琴一見眉を顰(ヒソ)めて曰く。是れこそ蛇足なりれ。かくては、この男女、ただ野狐に誑迷せられしに    似たり。此の狐を除かざれば、情死の趣向見ゆべからずと、その旨を使者に含めて、その画を北斎の許    に返しけるに、北斎拂然(フツゼン)としていふやう、彼れ馬琴の著は、余が画筆のために、光彩を放つを    しらずや。強ひて余の画く所に容啄(ママ、ヨウタクのルビアリ、容喙(ヨウシ)?)せんとならば、自今(ジコン)彼が著    書には、筆を染めじと憤(イカ)りければ、版元たる書肆、双方に奔走して、馬琴を宥め、北斎を慰めけれ    ば、両人遂に和解せり。其の後、馬琴「絵本水滸伝」を著しゝが、挿絵の様態につきて、又北斎と意見    を異にし、双方確執して聴かざりしかば、版元たる者、大に困じて、遂に江戸の書肆一統を、某所に会    し、衆の意見を問ひたりけるに、皆いふやう、馬琴の文、北斎の画、素より伯仲しがたし、然れども、    本書は絵本水滸伝と題し、既に絵本と冠するからは、画工の意に任すべきにやと、仍(ヨ)りて此の旨を    馬琴に通ぜしかば、馬琴苦笑して、しぶ/\に諾(ダク)しつといふ。    是のみならず、北斎が絵事につきて、世語りに伝ふるものあまたあり。文化元年四月十三日の事かとよ。    音羽護国寺に於いて、観世音の開帳ありし時、堂前の広庭に、麦稗を市(シ)き、上に百廿畳継(ツギ)の    大紙を延べ、四斗納(イリ)の酒樽数個に、墨汁を湛(*タタ)へ、藁箒(*ワラボウキ)の大なるを筆に代へて、恰    も落葉を掃ふが如く、之を擁して紙上に走り、右(カ)ゆき左(カク)ゆき、忽ち異様の山水めく図をなせり。    然れども、観者(ミルモノ)その何たるを認め得ず。北斎、衆をさし招きて、堂上に昇れといふ。いふがまゝ    に、高欄に凭(*ヨ)り観下(ミオロ)せば、是れなむ半身の達磨なりける。其の大さ、口に馬を通(ツウ)すべく、    目に人坐して余りあり。しかも筆勢非凡、健腕の程現はれて、人々あと叫ぶこゑ、暫しは鳴りも止まざ    りきとぞ。此の後、又本所某市の、広場に於て、紙筆かたの如く敷設(フセツ)して、逸馬の大画を試み、    看者の魂を奪ひたる事もありき。かゝる曲筆妙技聞え、世上に高くなりにしかば、市井の画工にしては、    無上の栄誉を博したる事もありき。そは徳川十一代の将軍、文恭院家斉公、ある時放鷹のかへるさに、    北斎を御座近く召されて、席画を命ぜり、此時、北斎、鶏趾に朱を塗り、点々紙上に投じて、紅葉のち    りかふに擬し、聊(*イササ)か筆を加へて、龍田川の秋色を描けり。此の外、鶏卵酒器の類を筆に代へて、    種々の物態を画くに、咄嗟(トッサ)の意匠、奇を極め、妙を尽くして、大に感賞を蒙れり。北斎の名画は    当時既に海外人にも知られて、長崎に渡来の蘭人、頻りに彼れが筆跡を購(アガナ)ひ求めき。されど三年    程ありて、官禁を蒙れり。    北斎の性質行状を按ずるに、平生素朴謙遜にして、自ら傲(ホコ)らず。然れども意を枉(マ)げて、人を諛    (ヘツラウ)ることなく、頗(スコブ)る侠任(ケフニン)の風あり。曾て同業者歌川豊国が、両国辺の某楼に於て、    書画会催しゝに、たま/\風雨烈しく、参会する者極めて少し。独り北斎、蓑笠にわらんじはきて、葛    飾の百姓が参り候ふぞと。案内いひ入れ、席に上りて終日筆を揮ひたるとぞ。又随分に奇癖もありて、    世のすねものなりけらし。家の表札には「百姓八右衛門」としるし、壁に「おじぎ無用、みやげ無用」    とかきて張りたり。又家を移す癖あり、生涯八十七度におよび、甚だしきは一日の中両三度、移り住み    たる事もありき。是れ新居の四隣に、厭はしきものある時は、片時も忍ぶこと能はざりしによるとぞ。    その移り住める家は、いづくにもあり。絶えて清掃する事なし。席上常に臥具を敷きて、昼夜その中に    あり、眠りを催す時は、衾(*フスマ)を引かつぎて臥し、覚むれば筆を執りて絵をものす。衣食の美、素    (モト)より好まず。人の鮮魚を贈るがあれば、割烹の煩ひありとて、そのまゝ貧民に取らせけり。調度器    財、はた貯ふる所なし。仏壇だになかりしを、書肆山口屋藤兵衛より、ある時一箇の仏像をもらひうけ    て、喜びながらも、安置すべき所なければ、遂に春慶ぬりの重箱といふ器を、横さまに、釘して取りつ    け、其中にぞをさめたる。その画名天下に轟くに至りても、かくひたすら清貧を楽しみ、名利を欲せざ    りしこと、頗(スコブ)る古隠者の風ありき。    ある時の事とぞ聞く。三代目尾上菊五郎(始栄三郎、後梅寿)当時俳優中の巨擘(キョハク)にして、傲気    (ガウキ)人を凌ぐ。曾て幽霊の画を欲して、北斎を招けども、例のすねものなれば、俳優を賤業者と卑み    て行かず。梅幸やむを得ず、駕輿(カゴ)うちはへて彼れが茅屋を訪ひたるに、室内の不浄いはん方なし。    梅幸元来潔癖あり、しばしも得(エ)堪(タ)へず。駕中の氈をとりて、席に敷かんとす。北斎その不礼なる    を怒り、背きて一語も発せざりしかば、梅寿も眼を恚(イカ)らし、遂に語を交へずして去りぬといふ。    北斎の妻をことゝ云ふ。文政十一年六月五日、夫に先だちて歿しき。一男三女あり。北斎また文雅の才    あり。小説戯作を好みて、時太郎可候、また是知斎魚仏とも名告り。又狂句にも巧なりき。    一男は、幼少多吉郎といふ。幼き時、故有て本郷竹町の市人、勘助といふものに養はれ、長じて幕府の    御家人、加瀬某の嗣子(シシ)となり、喜十郎となのりて、御小人目付より、累進して御天守番までなり昇    れり。年ごろ俳諧を楽みて、葛飾蕉門の宗匠となり。椿岳菴木峨と号し、本郷丸山鎧坂に住せり。長女    は柳川重信に嫁せしが、不熟の事あり、家に帰りて早世し、二女は幼き程に身まかりて、三女お栄とい    ふが、北斎の老躯を介抱せり。お栄も、始め南沢等明【堤等琳の弟子】に嫁せしが、父の性質を亶(ママ    稟?)けて奇癖ありければ、離別せられて家にありき。母が没後は、家事万端、此の女の理(リ)すべきが    常なるに、さる細事(サイジ)に携はるを欲せず。剰(*アマツ)さへ食を調じ、衣を裁する事をさへ厭ひ、猶    (ナオ)麁食弊衣を恥とせず。例の室内を掃はずして、父の業をたすけ絵事を勤めて日を送れり。その画又    巧妙にして、美人を描ける、父北斎にも劣らずとぞ。誠に北斎が女なりけり。    さて北斎は嘉永二年、四月十八日、本郷丸山なる、加瀬家にありて病没せり。享年九十、辞世の句と聞    えしは、      人魂でゆくきさんじや夏の原    浅草八軒寺町(現今栄久町)誓教寺に葬る法名南総奇誉北斎信士とす、刊行せし北斎の画帖は北斎画式、    北斎画筆、北斎漫画、北斎画譜、北斎画鑒、北斎麁画、略画早稽古、略画早指南、略画早引、戴斗画譜、    戴斗三体画譜〟
   「葛飾北斎系譜」