Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
葛飾北斎
 ◯『浮世絵師伝』p171(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝北斎    【生】宝暦十年(1760)九月    【歿】嘉永二年(1849)四月十八日-九十    【画系】勝川春章、狩野融川等に学ぶ【作画期】安永八~嘉永二    葛飾を称す、藤原姓、中島氏、もと川村其の子、四五歳の頃幕府御用鏡師中島伊勢の養子となる、後ち    養家を離れしが依然中島氏を名乗れり、幼名時太郎、後に(十余歳の頃)鉄蔵と改む、自から葛飾の百    姓、葛飾領の北斎などいへり、蓋し、其の生地本所割下水は、下総国葛飾郡に属せしが故なり。    彼れ十四五歳の頃彫工某に就て木版彫刻の技を学び、十九歳の時(安永七年)其の業を廃して、勝川春    章の門に入り、初めて画法を学ぶ。一説に春章の門下にありし頃、竊かに狩野融川に就て画法を学びし    かば、春章の怒りに触れて破門せられしとも云へり。彼は春章、融川に師事せし外、俵屋宗理及び堤等    琳の画風を慕ひ、又、住吉広行に土佐風の画を学び、尚ほ司馬江漢の銅版画或は油画によりて和蘭陀画    の一斑を窺ひまた支那画をも自修するなど、諸種の画法を研究して遂に渾然たる一家の風を成すに至れ    り。彼が夙に幼時より画筆に親しみ始めし事は、後年の自記に「己六歳より物の形状を写の癖ありて」    云々(富嶽百景初編)、また「己六歳より八十八年読立し」云々(絵本彩色通初編)と云へるを以て証    とすべし。次に彼が彫工としての唯一の記念品は、其が十六歳即ち安永四年版の洒落本『楽女格子』    (雲中舎山蝶作)一冊のうち奥の六丁にして、平仮名交りの文字に彫刀の痕をとゞめたり。さて又、彼    が版画の処女作は、安永八年(二十歳)八月に画きし細判の役者絵若干図あり、其内の岩井半四郎及び    市川門之助の二図は既に存在を確めらる。それに続いて、安永九年正月(年月不記)出版の黄表紙『驪    山比翼塚』は、挿画の処女作と見るを得べし。     師春章より与へられし画名は春朗といひ、同時に勝川の画姓を許され、爾後寛政年間に至るまで使用せ    しが、一たびそれを改名して後は、画名と別号を変更すること数回に及び、旧名旧号中門人に譲り与へ    しものもあり、今其が改名及び改号の年代を示せば左の如し。      1、春朗   (自安永八年、至寛政六年)      2、群馬亭  (自天明五年、至寛政六年)      3、宗理   (自寛政八年、至寛政十年)      4、百琳宗理 (自寛政八年、至寛政九年)      5、北斎宗理 (寛政十年)(口絵第五十五図参照)      6、可候   (自寛政十年、至享和三年)      7、北斎   (自寛政十一年、至文政二年)      8、不染居北斎(寛政十一年)      9、辰政   (自寛政十一年、至文化七年)      10、画狂人  (自享和二年、至文化五年・文化十四年)      11、画狂老人 (文化二年正月・自天保五年、至嘉永二年)      12、九々蜃  (文化二年)      13、戴斗   (自文化八年、至文政二年)      14、雷震   (自文化九年、至文化十二年)      15、錦袋舎  (文化年間)      16、月癡老人 (文政十一年)      17、爲一   (自文政三年、至天保五年)      18、不染居爲一(文政五年)      19、藤原爲一 (自弘化四年、至嘉永二年)      20、卍    (自天保五年、至嘉永二年)    右の内、門人に譲りしものは、春朗(寛政の末頃、叢豊丸に)、宗理(寛政十年冬、宗二に)、北斎辰    政(文化十三年頃、亀屋喜三郎に)、画狂人(文政元年頃、北広に)、戴斗(文政二年夏頃北泉に)等    にして、辰斎・雷斗の両号は自ら使用せしことなく、初めより門人に命名せしものなり、また菱川宗理    を北斎の前名とする説あれど、彼が菱川の画姓を冠せし実例なし、恐らくは、門人宗二改宗理の画姓    (菱川)を混同せしものならむ。    次に彼が戯作名としては、     是和斎   (天明元年、及二年)     魚仏    (天明二年)     群馬亭   (天明五年)     時太郎可候 (自寛政十二年、至文化元年)     穿山甲   (享和三年)     白山人   (一説に彼が戯作号とすれど確証なし)    等にして、文化十一年版『略画早指筆』の自序には天狗堂熱鉄の仮号を用ゐたり。後ち天保五年乃至七    年頃には仮りに氏名を変へて土持仁三郎といひ、また天保五年より弘化四年までは、三浦屋八右衛門と    も百姓八右衛門とも称せり。    さて、彼の画名春朗、宗理などは、明白に画系を表示せるが、北斎の号に至つては、之れを辰政と一対    として始めて出処を解釈し得るが如し、即ち、彼が常に信仰せしといふ北辰妙見の北を北斎、辰を辰政    と見れば事理明白なり、かの戴斗の号も亦北斗星に因みしものなること言を俟たず、また一説あり、或    る時彼が皆の如く柳島妙見堂に参詣して、帰途驟雨落雷に遭ひ、これ己が雷名を轟かすべき前兆ならむ    とて画名を雷辰(雷斗とするは誤)と改めしと、然もあるべし、彼に其の事無くとも、既に画狂人の自    称の示す如く、画道に精進せし酬ひとして、文化半ば頃より頓に盛名を贏(カ)ち得しことは推想に難か    らず、実に「画狂人」こそは彼の全生涯を代表すべき適号と謂ふべし。    彼は酒を嗜まず、煙草を好まず、それに反して甘き物を嗜み、旅行を好みしことは普通以上なりしが如    し、試みに、彼が旅行の判明せるものを挙ぐれば、     文化九年秋、西遊の途次名古屋に滞留す。     文化十四年秋、再び西遊の途次名古屋に立寄り、一年ばかり滞留の後ち、伊勢・紀伊・大阪・京都            などを歴遊して江戸に帰る。     文政八年頃、甲州方面へ行く。     天保三年頃、信州高井都小布施村に赴き、門人高井三九郎の家に寓す、居ること約一年。     天保五六年頃、故ありて江戸を去り、相州浦賀に潜居す(当時襲名して三浦屋八右衛門といふ)、            同七年秋江戸に帰る。     天保十一年、房総地方を旅行す。    等に過ぎざれども、記録以外に猶ほ漏れたるも尠からざるべし。右の相州浦賀に赴きし時は、伊豆方面    にも滞在せしと見え、嘉永三年版の遺稿『画本和漢誉』の巻末に「豆相ノ旅客前北斎改画狂老人卍筆時    七十六歳」と併刻せり、また房総旅行の事は、一枚摺『唐土一覧図』に「房総旅客画狂老人卍齢八十一」    と落款せるを以て証とす、一枚摺『房総一覧国』も亦同時の作なるべし。    彼には一の奇癖あり、即ち生涯転居すること九十三度に及びしといふ事なり、されば彼が生地葛飾を出    でゝより、果して何処を転々したりしか、殆ど大部分は不明に属すれども、かの飯島虚心著『葛飾北斎    伝』及び其他に伝ふる所を考ふれば、凡そ左の如き點までは判明す。     享和年間に山手方面。     天保初め頃に浅草薮ノ内明王院地内。     天保七年頃に万年橋辺。     天保十年頃に本所石原片町、其後本所達摩横町。     天保十三年頃に本所亀沢町榿(ハンノキ)馬場。     弘化二年頃に本所荒井町。     弘化四年頃に浅草田町。     歿年(嘉永二)当時浅草聖天町遍照院境内。    其他、本所横網、同林三丁目、同原庭、小伝馬町、佐久間四丁目代地、小石川傳通院前などにも移る。    斯く判明せるは、皆これ晩年時代にして、それ以前は殆ど知るに由なし、たゞ一つ文化八年正月版『勢    田橋龍女本地』(柳亭種彦作)の巻末には新武蔵国葛飾住、藤北斎戴斗画」と明記すれども、こは自己    の出生地を忘るゝ能はず、遂に葛飾を以て画姓とせしが如きは、亦以て彼が郷土愛の一面を物語るもの    と見るべし。    彼が転居癖は既に当時世に広く知られしものゝ如く、天保十三年頃『広益諸家人名録』二編には「画狂、    名爲一以前北斎行、号画狂老人又名卍、居所不定、中島鉄蔵」とあり、「居所不定」の語まことに真を    穿ち得た妙。     彼が自称して画狂人といひ、葛飾おやぢといひ、無筆八右衛門と云へるが如きは、其の語既に奇警にし    て、傍若無人の彼が性格を察するに足る、事実また彼が行状には屡々人の意表に出でし事あり、就中、    作画の上に於て著聞せるは、     ◯文化元年音羽護国寺に於て観世音開帳あり、其年四月十三日本堂庭前にて大半身の大達磨の図(百      二十畳)を描く。     ◯其後本所合羽干場に於て馬の大画を描く。     ◯また両国回向院に於て布袋の大画を描き、その跡にて米一粒へ雀二羽を画く。     ◯文化十四年十月、名古屋西掛所境内に於て半月の大達磨の図(百二十畳)を描く。     ◯年代未詳なれど、鍾馗乗馬の大画を描く(故小林文七氏旧蔵)。     ◯或時文晁と彼と将軍(家斉)の命を蒙りて、浅草伝法院に於て御前揮毫の事あり、彼は初め花鳥山      水を画き、次に唐紙を横長につぎて、刷毛もて藍一色を引き、予め用意せし鶏の趾に朱肉をつけ、      紙上に点々として紅葉の形を印せしむ、即ち「これ龍田川の図にて候」と一礼して席を退きしと。    其他彼が指頭画に巧みなりしことは、世に遺存せる作品によりても首肯せらる。彼が緻密なる版画の製    作に没頭しつゝ、半面に於て斯かる大画もしくは曲画を得意とせしことに、畢竟するに其が負けじ魂の    致す所に外ならざるべし。    彼が一たび筆を揮ふや、千態萬様、何物にまれ画き尽さずんば止まざるの概あり、美人、武者、動物、    植物、風景等、いづれに於ても、其の筆端に彼が個性の横溢せざるものは無し。初め宗理及び可候時代    に於て、美人画に頗る凉麗なる描線を用ゐし彼は、戴斗時代より漸次鋭角的なる線を示し、例へば、美    人の衣裳の一部に縮緬の感じを現さむとてか(口絵第五十七図参照)、一種震動的の波状を以て描くな    ど、爾後晩年に向ふに従つて、其が筆癖は益々甚しくなり来れり。惟ふに、こは彼が筆力の余勢より生    じたる反射的現象と解し得べく、しかも、世人に北斎風として直覚せらるゝは、実に此の筆癖あるが故    なり、されば、彼の真面目は正に其が筆癖に存すと約言するを得べし。    彼が画風を見れば、一面豪放なるが如くにして、しかも一面頗る細心の注意を怠らざりしなり、かの山    を覆ふが如き巨浪も、池上を微笑するが如き小波も、等しく彼が実地の写生に基かざるはなく、殊に海    上に於ける波浪の変化は、彼の作画慾を刺戟せし所尠からざりしならむ、こゝを以て、其が浪の図には    往々観者の心を強く打つものあり。尚ほ特筆すべきは、彼が最も割り物(幾何学的図様)の技に長じた    る一事なり、そは用器画に巧みなりし一証とすべく、恐らくは、彼れ独特の方法を用ゐしものなるべし。    彼は山川地理の写生、人体の解剖的描写、其他すべての事物の実写に努めしと雖も、たゞそれ等を有す    るが侭に発表するにはあらずして、一旦自己の作品とする場合には、必ず画材を自己流に想化したるな    り、其處に彼の主観的態度を明示せり。彼が想像力に富みしことは、殆ど他に比儔を見ず、故に、とも    すれば実際に遠ざかりしかの如き感を起さしむる作品無きにしも非ず、これ想像力を余りに自由に駆使    せし結果なり。最後に彼が作品の一斑を示せば次の如し。     ◯安永末期より寛政年間に亘りて、細判役者絵数図の実例あれどこれを省略す。     ◯安永末期より享和年間に亘りて、黄表紙の挿画及び自画作等、種類数多あれども、これ亦省略す。     ◯文化初期より彼の晩年に亘りて、読本の挿画夥しく、其等に相當推賞すべき作品あれども、乍遺憾      これを省略す。     ◯彼の美人画としての一枚絵は、僅かに宗理時代の摺物に若干図と、可候の落款ある「なくて七くせ」      と題する半身二美人の錦絵など、あまり多くは存せず。     ◯彼の作品中に見ざるものは、二枚若くは三枚続等の美人画なり。     ◯肉筆は一々枚挙に遑なき程多数に存在すれど、こゝには一切省略す。          天明四年版『教訓雑長持』五冊に挿画す。     天明七年春中村座の芝居絵本を画く。     寛政元年十一月より同五年に亘りて市村座の芝居絵本を画く。     寛政五年十一月より同六年に亘りて桐座の芝居絵本を画く。     寛政八年版 『狂歌・絵馬合女仮名手本』一冊に挿画す。     寛政十一年版『東遊』(狂歌本)一冊に挿画す。     寛政十二年版『東都勝景一覧』二冊     享和元年版 『五十鈴川狂歌車』一冊     享和元?年版『絵本隅田川両岸一覧』三冊     享和二年版 『画本東都遊』(寛政十一年版の『東遊』の挿絵を彩色摺として改題)     享和二年版 『潮来絶句』二冊     享和三年版 『絵本小倉百句』一冊     享和三年版 『絵本狂歌山満多山』三冊     文化九年版 『略画早指南』初編、二編は同十一年版文化十一年より文政二年に亘りて『北斎漫画』            十編を著す。     文化十一年版『北斎写真画譜』一帖     文化十二年版『浄瑠璃絶句』一冊     文化十二年版『踊独稽古』二冊     文化十三年版『三体画譜』一冊     文政元年版 『秀画一覧』一冊(後に伝心画鏡と改題)     文政元年版 『萍水奇画』一冊(後に両筆画譜と改題)     文政三年版 『良美灑筆』一冊(後に北斎鹿画と改題)     文政六年版 『一筆画譜』一冊     文政六年版 『櫛〈竹冠+木+全〉雛形』三冊     文政七年版 『新形小紋帳』一冊(明治十七年再刻して北斎模様画譜と改題)     文政十一年版『絵本庭訓往來』初編一冊     文政十二年版『百八星誕肖像』一冊     天保四年版 『唐詩選画本』五冊(以下嗣出)     天保五年版 『絵本忠経』一冊     天保五年版 『富嶽百景』初編(二・三編は六年版)     天保七年版 『葛飾新雛形』一冊     天保七年版 『絵本魁』初・二編     天保十一年版『和漢陰隲伝』二冊     天保十四年版『北斎画苑』初編     天保十四年版『草筆画譜』一冊     弘化二年版 『釈迦御一代記図会』六冊(天保六年二月画稿を起す)     嘉永元年版 『絵本彩色通』初・二編     嘉永二年版 『絵本孝経』二冊     嘉永三年版 『画本和漢誉』一冊(天保六年画稿)    以上は皆絵本なれども、勿論これ以外にも尚ほ多かるべし。    次に一枚絵を挙ぐれば、     享和三年版 「東海道五十三次」四ッ切横絵     文化元年版 「東海道五十三次」四ッ切横絵     文化三年版 「假名手本忠臣藏」大判横絵十一枚     文化四年版 「瀬川路之助」大判竪絵一枚     文化六年版 「風流源氏うたがるた」大判竪絵四枚     文化年間出版、大判横絵風景画(唐草模樣の輪廓)数図     同上、    銅版風「江戸八景」・「近江八景」小判横絵     文政元年版 「東海道木曾名所一覧」一枚摺     文政三年版 「麦藁張細工の図」墨摺     文政五年版 「馬尽」角判摺物数図     文政六年頃版「百橋一覧」一枚摺     文政七年頃版「奥州塩釜松島之略図」一枚摺    文政十一年頃より天保末年頃に亘りて、左の如き風景画の外、異る図を作る。     「富嶽三十六景」大判横絵四十六枚、内裏富士十枚     「詩歌写真鏡」長判竪絵は左の十図なり、       ◯春道の列樹(公卿姿二人の供を連れて橋を渡る)◯安部仲麿(欄干に椅り掛り月夜漁舟を見る)       ◯李伯(岩上に立ち滝を眺むる老人)      ◯清少納言(樹上に登りて眺める)       ◯木賊苅(月夜に橋を渡る老人)        ◯東破(蘇東坡)(雪中馬乗男と供人)       ◯融大臣(水辺にて三ケ月を眺むる公家)    ◯少年行(乗馬二人)        ◯在原業平(砧打)             ◯伯楽天(水辺公家と従僕)     「雪月花」大判横絵三図 ◯隅田(雪)◯淀川(月)◯吉野(花)     「諸国瀧廻り」大判立絵八図   「諸国名橋奇覧」大横十一図     「勝景雪月花」小判横絵九図   「江戸八景」小判横絵八図     「百物がたり」中判横五図     花鳥画(大判横及び中判立)     「百人一首姥ケ絵とき」大判横絵二十八図、前北斎卍の落款(口絵第五十六図参頗)    天保十一年版「唐土一覧図」 ◯「房總一覽図」各一枚摺     「琉球八景」大判横絵八図 「千絵の海」中判横絵十図    等の外、幾多の錦絵・摺物・一枚摺など、一々細目を挙ぐるの煩に堪へず、就中、上記の版画は、何れ    も傑作若くは佳作と認むべきものなり。    斯くも多作家の彼にして尚ほ且つ、生涯赤貧にして屡々版に窮状を訴へ(飯島氏の『葛飾北斎伝』所載)    しといふは、甚だ不審とすべきやうなれど彼が生来芸術に専念して、理財の道に疎かりし事が素因を成    し、之れに加ふるに、彼の孫(彼が長女と柳川重信との間に生れし子)放蕩無頼の徒にて、天保初めの    頃より一再ならず彼に迷惑をかけし事と、今一つは晩年の彼に唯一の補助者たりし出戻りの娘お栄(応    爲)が、父に似て、家政に拙かりし事とが、彼の貧困を助成せしには非ずやと考へらる。    初め彼が養家(中島氏)を離るゝの際、其が長男富之助をして後を嗣がしめし由、他に二女あり、長女    名はお美与、門人柳川重信に嫁す、次女名はお辰?画を父に学びしが、他に嫁して夭折す、次に彼が後    妻の生めりし子一男二女あり、男は多吉郎と称し、後ち加瀬氏の養子となる、女はお栄(或は先妻の子    か)即ち応爲にして、画工南沢等明に嫁せしが、破鏡の身となりて父の家に帰る、今一人の女はお猶と    云へりし由、行跡詳かならず。彼が長女お美与は、重信との間睦まじからずして父の家に帰りしが、父    に先ちて死せしものか。いま『葛飾北斎伝』に載する所を見るに、其が墓石の側面に、     南総(ママ)院奇誉北斎信士 嘉永二己酉歳四月十八日     性善院法屋妙授信女  文政十一戊子歳六月五日     浄運妙心信女    文政四年辛巳歳十一月十三日    とある第一は彼れ、第二は彼の後妻、第三は蓋しお美与にはあらざるか。     右の墓石は、其が菩提所たる浅草永住町(浄土宗)誓教寺に現存すれども、法名の部分は、大正十二年    の大震火災の爲め、いたく破損せり、向つて右側面には彼が「辞世、飛登魂(ヒトタマ)て行く気散(キサン)    しや夏の原、行年九十」の句を刻す。    因みに、彼が肖像として『葛飾北斎伝』の巻頭に掲げられしものは、彼が本所某所にありし頃、其が家    主其の肖像を写したるものなりと、故老の物語あり、或は然らむ。いま茲に挿版とせる北斎八十三歳の    自画像は、彼が版元某へ宛てたる手紙に画き添へしものにして、其が風貌を最も如実に伝へたりと謂ふ    べし〟