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『苅萱後伝玉櫛笥(かるかやこうでんたまくしげ)』曲亭馬琴序
 ☆ 文化四年(1807)    ◯『苅萱後伝玉櫛笥』葛飾北斎画 曲亭馬琴作 榎本平吉他板 文化四年刊   (国書データベース画像)   (曲亭馬琴序 文化三年(丙寅)七月)   〝有叙    丙寅の年 画工北斎子、わが著作堂に遊ぶこと、春より夏のはじめに至つて三四箇月、一日余に謂て曰    く嘗て聞く 刈萱記は五説経の一にして、今なほ人口に膾炙す、顧(おもふ)に作者寂滅を本意(ほい)と    せり、是故に蘩氏(しげうぢ)一城の主(あるじ)として、妬婦の妄想に慙愧し、卒尒(そつじ)として頭を    圎(まろ)め、潜(ひそか)に高野山に隠れて、煩悩を脱離すと称す、且つその徒(と)の老幼、これを追慕    して僧となるが如きは、縦(たとひ)仏家の忠臣といふとも、祖先の為には不孝なるべし、宣(うべ)なる    かな婦幼もこれをみる毎(ごと)に、なほ遺憾少なからず(ノコリオホシ)とす、主翁(しゆおう)説(もし)彼の後    伝を作らば、かならず閲者(みるもの)の快事ならんといふ。余が曰く、凡そ野史の説、因果の両字に根    (もとづか)ざるはなし、しかれども作者の用心精細ならざるときは、動(やゝもす)れば勧懲その義に違    (たが)ふことあり、吾(われ)親しくその書を閲(けみ)せずといへども、試みにこれを続(つが)ん、遂に    遺漏を簒輯して、稿(シタガキ)を為(つくる)こと五七日、橋梓(きやうしんオヤコ)の再会家門の栄達をもて結    尾とす、亦(また)是(これ)風を追ひ影を捕(とる)の談にして、群犬声を吠(ほゆ)るの訾(そしり)をいか    にせん、深く架上に秘(ひめ)んとするに許さず、北子傍らに在つてこれを図し、書肆強奪(ごうたつムリ    ニトル)して繍梓(しうしん)已(すで)に成る、因つて顔(がん)して刈萱後伝玉櫛笥といふ、夫れ玉櫛笥とは    何ぞや、夫婦ふたゝびあふの日、頭髪(ずはつ)を剃除(ていじよ)せずして匾梳(へんしよクシ)を用(もち    ふ)るの謂(いひ)なり、披閲(ひえつ)の君子 且(まづ)題目を認(みしり)得て、彼此(ひし)の説を為す    ところ、宜しくその異なるをしりたまふべし      丙寅立秋後一日 飯台の馬琴みづから叙す〟    〈文化三年の春から夏にかけて北斎は飯田橋の馬琴宅に居候していた。ある日北斎が説教節の『刈萱』を持ち出して、     その後日談を綴ってはどうかと馬琴に提案した。刈萱石堂丸馬琴もその気になって諸説にあたって編輯し、親子の再     会・家門の栄達という原作とはことなる結末を用意して草稿を作った。ところがこれでは風や影を追うようなもので、     とらえどころがないという世のそしりもあるだろうと思い、馬琴はいったん棚上げにした。しかし周囲はそれを許さ     ず、北斎が挿絵を書きあげるや、版元は直ちにそれを彫師にまわして板木を作ってしまった。この挿話、北斎にはプ     ロの戯作者である馬琴の食指を動かすような企画力があったことを示している〉