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画人伝-明治-画人逸話(がじんいつわ)浮世絵事典
 ☆ 明治四十二年(1909)  ◯『画人逸話』吉山圭三編 画報社 明治四十二年十月   (国立国会図書館デジタルコレクション) ※半角括弧(よみがな)は本HPが施したもの   〝勝川春英(32/79コマ)     九徳斎と号す、磯田次郞兵衛の子、明和五年江戸神田新泉町に生る、勝川春章の門に入り浮世絵を学び、     傍ら狩野土佐両派に出入し一家をなし、遂に勝川を冒せり、晩年に至りては師も及ばざる妙所あり、寛     政享和の間、俳優の似顔其他絵本錦絵を多く描き、又操り劇の看板を描きて、一流の筆意を遺し、又一     種の狂画を作り、世に九徳風と称せらる、其作品中最も有名なるものは、忠臣蔵十一段続きの屏風、或     は火事場消防夫の絵巻物等とす、意匠結構頗る巧妙なり、文政二年七月没す、年五十八    江戸新吉原の一娼家、勝川春英を招きて、席画を請ひしことありき、性来質朴にして、平常虚飾を喜ばぬ    春英のことなれば、特別の招待を受けながら、更に身装を取繕はず、平常の侭なる粗服にて、飄然と赴き    ぬ、やがて招待されたる娼家に達し、案内されて設けの席に打通れば、春英の揮毫を見んとて、来り集へ    る人々は、春英の余りに質素なる風体に、意外の感を起さぬはなく、目引き袖曳き笑ひ指し合ひしが、中    にも口善悪(くちさが)なき一人の娼婦は、春英に向ひ     高名なる先生程の御方が、かゝる粗服にて、此の外見を競ふ所に来り給はんこと、似合しからず覚ゆれ     ば、今後はよき衣服を着て、来させ給へ    と笑ひながら戯れ云へば、春英は色をも動かさず     げに尤もなり、委細は心得へぬ、向後参る節は、必ず美服を着て参るべし    と、紙絹に向ひ筆を揮ひ、得意の技倆を現はし満座の喝采を博しぬ    其後程経て、此娼家に又もや春英を招きて、揮毫を請ふことありき、席の設け諸般の準備も整ひて、主人    を始めとして、一家の人々娼婦等まで、春英の来るを今や遅しと待ち居る程に、やがて取次の若者忙ただ    しく、主人の前に駈け来り、手を支へ     勝川先生来給ひぬ    と云ひさして、絶へ入らんばかりに打笑ふに、主人は恠(あやし)み     いかなれば、さばかり可笑しきや、先生が如何(いかが)し給ひしぞ    と問へば、若者は笑に言葉の途切れながら     先生は今日如何(いか)なる思召しにや、金銀の摺箔模様ある、女の衣服を着て真面目にて来給ひぬ、余     りに奇妙なる姿なれば、可笑しさを堪へかねて候ひき    と云ふに、主人愈々(いよいよ)怪み     そは心得難きことなり、それには何か仔細ぞあらん、何にもせよ設けの席へ通し参らせよ    と若者を立たせしが、さるにても、何故に先生はさる異風にて来給ひしかと思ひ居る中、案内に連れて入    り来る春英を見れば、げにも取次の若者の言葉に違はず、春英は唐織に金銀の摺箔、綺羅びやかなる能衣    裳の女服を着て、自若として主人始め一座の人々へ会釈して、席に着きぬ、一同も此意外な有様に、半ば    呆れ半ば可笑しく、互に顔見合せて言葉なし、主人は膝を進め、     先生は日頃の質素に引かへ、今日は能衣裳を着給ひしは、古実にてもある事なりや    と訝りながら問へば、春英は打笑ひ     別に深き仔細とてもなし、我先頃御当家に招かれし節、誰なしか覚へざれど、我が粗服を着たるを見て、     今後来る時には美服を来て来よと申されしことありき、今日御招きに与りて、参らんとするに臨み、不     図先頃の注意を思ひ出したれど、如何せん各々方の御心に叶ふ程の良き衣服を所持せざれば、種々思案     したれども、良き考も出でず、追々時刻は迫り来るゆへ、最後の窮策として、せめて是にてもと、家に     蔵する能衣裳の中、最も綺羅びやかなるを撰み、誠に似合しからぬ衣装なれど、例の粗服よりは勝らん     と思へば、それを着て参りぬ    と事もなげに答ふるにぞ、主人も仔細を知りて、春英が坦懐にして質直なるに深く感ぜり、一座の婦女子    等は、又ドッとばかりに沸き返りて打笑へど、春英は平然として、山なす紙絹に向ひ筆を揮ふこと、平常    に異ならざりしとぞ     (其二)    勝川春英あるとき旅に出でゝ、久しく家に帰らざることありき、一夜其妻は孤燈の下に座して、物縫ふ業    の隙に、旅路に在る夫の安否なそ案じわづらひ居る折しも、夜中の鐘の音、鎬々と響き渡りぬ、妻は驚き    て針持つ手を止め     さても此頃の夜の短かさよ、暮れしかと思ふ間もなく、早夜も更けぬ、我夫も今宵は帰り給ふまじ、針     の業もこれまでとせん    と其辺を取片付け臥床に入りぬ、夜色沈々として、万籟声なく、次第に更けゆくまゝに、妻はいつしか華    胥の境に遊ばんとする頃、俄に門の戸を打叩き     勝川春英先生のお宅は此方なるや    と大音に尋ぬる者あるに、妻は夢を破られ驚き覚め、かく深更に及び訪ひ来る人あるは心得難し、主人の    不在を伺ひ知り、夜盗強賊の躍り入らんとするなるか、将た至急の要事ある人かと、半ば恐れ半ば疑ひな    がら     いかにも仰せの如く、当家は春英の宅なり、暫く待せ給へ、    と用意を整えて、恐る/\戸を少し押開き、手燭の火影に透し見れば、旅姿にて笠ふかく戴きたる一人立    ち居たり、其様子悪意ある者とも見えねば、妻も心稍々(やや)落着きながら     さるにても何所より来らせ給ひしぞ、誰殿におはすや、兎も角も入らせ給へ    と誘へば、旅人は笠を脱ぎ捨て     気遣ひすな我なるぞ    と云ふ顔を打見れば、紛ふ方なき夫の春英なり、妻は事の意外に打驚き、夫の顔を打守り返す言葉もなか    りし、春英は重ねて     さらば内に入りてもよきか    と尋ぬるにぞ、妻は愈々出でゝ愈々意外なる夫の言葉に、合点ゆかず     此は余り他人行儀ならずや、こゝは我夫の家なれば、出入し給ふに、何とて障りあるべき、日頃物事に     関り給はぬ御気質なるに、今宵に限りかゝることを宣(のたま)ふは、如何なる故にや    と訝れば春英打笑じ     其不審は尤もなれど、我は数日不在して、程経て後の帰宅なれば、不在中万一此家にいかなる事ありて、     他人の物となり居らんも、測られねば念には念を入れよと、世の諺に随ひ、一家に入るに先だち、尋ね     試みしなり、されど無事なりしは何より芽出度し、御身も久しく孤閨を守り、さぞ徒然にありしならん、     久々に無事の帰宅に、御身を驚かせしは気の毒なれど、我も安堵したれば御身も必ず心遣ひし給ふな    と答ふるにぞ、妻は夫の畸行に、愈々驚き呆るゝのみなりとぞ(逸話文庫)〟   〝葛飾北斎(51/79コマ)     徳川家の鏡師中島氏の男、初め勝太郎と云ひ、後鐵二郎と改む、可候、卍老人、群馬亭等の号あり、屡     々居所を変ず、初め浮世絵を勝川春章に学び錦絵を描きしが、後破門せられて、浮世絵を棄て、大に画     学を修め、一家をなし、俵屋宗理と号す、其号を門人に譲りて、更に画狂人、北斎辰政と号し、又それ     を譲りて雷震と号し、又譲りて、錦袋舎戴斗とも云ひ、又改めて為一と云ふ、江戸の大家なり、其画法     外国人に大に賞讃せらる、嘉永二年四月没す、年九十、浅草八軒町宣教寺に葬る、法名南照院言誉北斎     信士と云ふ    享和の頃長崎在勤の和蘭陀の甲比丹某、公用によりて江戸に逗留することありしが、葛飾北斎の画名高き    ことを聞き、これに日本の男女の誕生より生長して家を持ち老年に至り死して葬送さるゝまで、人間一代    様々の変遷を極彩色にて男女一巻づゝに分ち描くことを依嘱し、其報酬を百五十金と定めしに甲比丹附き    の医師某も同額の報酬にて同じ様なる絵巻物の揮毫を依頼しぬ、外国の高官の依頼を受けしこと、我が一    身の面目のみならず、我が日本の名誉を海外に輝かすことなれば、北斎は快く諾して得意の妙技を揮ひ、    日を経て悉く描き上げ、甲比丹の旅館に至り之を呈しぬ、甲比丹は喜悦斜ならず、先約の如く百五十金を    出して謝儀としぬ    次に医官の旅舎に至りしに、医官は一通り閲し了へし後、通辞を介して北斎に     誠に聞きしにまさる妙筆に感服せり、約の如く百五拾金の謝儀を呈すべき筈なれども、如何せん我は甲     比丹随行の医官の末席に列なる者にて、薄給の身分なれば、それも心に任せ難きぞ口惜しゝ、何卒半金     にて得たし、如何にや    と乞ひぬ、北斎之を聞くより喜ばず、勃然として色を変じ     さらば何故に斯様々々と明し給はざりしぞ、初めよりかうと知らば、其心構へに描くばかりしものを、     同じ絵にても、彩色などを略しなば、七拾五金にても出来得べけれど、今極彩色で描き上げたる上は、     如何とも詮方なし、又これを七拾五金にて呈する時は、甲比丹殿に対して法外なる高値を貪りしに似て     心苦しき限りなれば、其儀は叶じ申さず    と辞退しぬ、通辞は此旨を医官に通ずれば、医官は北斎の廉直に感じ、更に     それにつけても折角丹精を尽し描き上げられたるを徒労にさせんも気の毒なれば、二巻の内男の部一巻     だけを七拾五金にて得たし、さすれば二巻にて百五拾金と先約あれば、一巻にて七拾五金は正当なる価     となりて、何人も御身の法外なる高価を貪りたりと譏る者なかるべし、何卒七拾五金にて絵巻の男の部     丈を得たし    と切に乞ひぬ、北斎は頭を振り     如何ばかり御懇望なりとも先約に背き給へるからは呈し難し、かねて和蘭陀の国人は、約を守ること固     きを、士分の道とすと伝へ聞きしが、見ると聞くとは大なる相違かな、甲比丹の侍医ともあるべき御方     にも似ず、かく約を違へ給ひし上は、絵巻を呈せんこと快からず、さらばお暇申すべし    と袖を払って辞し去りぬ    其頃北斎は赤貧洗ふが如くなれば、妻は今日こそ夫が先頃和蘭の甲比丹と其附属の医官より依頼を受けし    絵巻物を揮毫し果てゝ、其謝儀を得る日なれば、月頃日頃の生活の苦も、今日こそ忘るゝことを得られん    と、それを楽しみに、夫の帰り来るを今か/\と、一刻千秋の想をなして待ち居りぬ、程なく門の戸開き、    人お入来る気色しぬ、スハと胸を轟かして、隔の襖を押し開けば、果して夫北斎が帰り来りしなり、妻は    悦ばしげに     思ひしよりも早く帰り給ひしよ    と云ひつゝ夫の顔を見上ぐれば、出え行きし時の勇み喜びし気色にも似ず、怏々として悦ばざる色ありて、    何となく打沈みたる様にて、妻の言葉も耳に入らぬ如く、一言の応へだにせず、常の座に着きて、太息を    ホツとつきぬ、夫の気色の異りたるに、妻は心中安からず、恐る/\手を支へて     シテ先方の御首尾は如何なりしや、定めて上々の御都合と思はせ参せぬ    と云へば、北斎は嘆息して     首尾は至極よかりしも、斯様々々の次第によりて、一方の謝儀は受取らず、これこの通り、一組だけは     持ち帰りぬ    と彼の医官の違約したる一伍一什を語り聞かすれば、妻も失望して     約束を守ると云ふ御心はさることながら、丹精を凝らし給ひし品なれど、我国にては珍らしからぬもの     なれば、買ふ人もなかるべし、枉げて七拾五金にて与へ給はば、目前に横(た)はれる貧苦を救ひ得て、     一家安堵の眉を開くべきものを、空しく持ち帰り給ひしからは、これも甲斐なし、今より後、愈々貧苦     を重ねて、一家安心の時もなかるべし、こゝの道理を察し給ひ、一家の急を救ふ為め、七拾五金にて、     外国の客に譲り与へ給へよ    と涙と共に諫めぬ、北斎は眼を閉ぢ黙然として居たりしが、やがて     御身の言葉も道理あり、我とても今我家の貧困を知らぬにあらず、如何(に)もして焦眉の急を救ひ、御     身等を安堵せんと思ふ折から、今度の依頼を受け、これこそ天の与へと、喜んで描き上げ、これだに先     方の意に叶ひなば、絶へがちなりし朝夕の煙の代も、続け得べしと思ひしは空頼となり、半金額の相違     を生じ、御身に歎きを増させんこと、我も如何ばかりか心苦しく思へども、異国の人と約束して、先方     が違約せしを、其侭に捨て置く時は、我身の損失は免るゝとも、アレ見よ、我国の人は掛直を云ふぞと、     世の嘲(あざけり)は免れ難し、さればこそ、今貧困の際なれど、半銭だに受取らず、絵巻を携へ帰りし     なれ、一家の困窮は、御国の名折には替え難しと、忍んで帰りし我が心の中の苦しさを推察し給へや    と説き喩(さと)されて、妻は返す言葉もなく、唯涙に咽ぶのみ、程なく甲比丹附きの通辞某、此由を伝へ    聞き、甲比丹にかくと告げければ、甲比丹は大に感じ     さても信を守り名誉を重んずる北斎かな、其人物こそ奥床しけれ、さほどの人物が丹精を凝(ら)して描     き上げしものを、空しく塵に埋め置かんも残り惜し、さらば当医官に代りて買受けん    と更に百五拾金を北斎に与へて、残余の二巻をも購ひしと     (葛飾北斎伝 扶桑画人伝)〟   〝歌川国貞(59/79コマ)     通称庄蔵、五渡亭、香蝶楼等の号あり、初め江戸本所五ッ目に住み、後亀井戸に移る、一陽斎豊国を師     として画法を修め、天保十五年二月、師の名を相続して、二代目豊国となる、最も宮嬪閨秀の状を描く     に妙を得て、其画佳麗にして婉媚真に逼れり、元治元年十二月没す、年七十九、亀井戸光成寺に葬る    国貞、或人より婦女強盗に襲はるゝ図を描かんことを依頼せられぬ、此依頼を受けて、頓に諾否の返答せ    ず、暫し打案じて居たりしが、やがて思ひ付きたることやありけん、承諾の旨を答へ、成就の日限を約し    て、客を帰しぬ、客の辞し去りたる後、国貞は再び深く思案に沈み居たりしが、やがて独り合点(うなづ)    き     ヨシ、かくせば妙なるべし    と何やらん独り打喜び、其後は屈託の気色もなかりき、日暮るゝ頃、国貞は妻に向ひ     我止み難き用事ありて、今より他出すべし、用事の都合によりては、今夜深更に及んで帰ることもある     べければ、其時は御身は先に寝るともよし、能く留守し給へ    と言ひ置きて出行(いでゆき)ぬ、妻は夫の帰りを待てど、初夜過ぐるまで帰り来ず、されど夫が宵に出づ    る折、言ひ置きたることもあれば、さのみ心にもかけず、孤燈の下に在りて裁縫の業などなし居りたりし    が、寝よとの鐘の告げ渡るに打驚き、四辺を取片付け、門口の戸を鎖さんと立出る時しも、案内もなくヌ    ッと入り来る人あり、手拭にて面を深く包みたれば、誰とも知れねど、妻の目先に立塞(ふさが)り、声を    励して     声を立てゝ騒ぐな、命惜しくば、貯への衣類金銭を残らず出せ    と迫るは、紛う方なき強盗なり、妻は思ひがけねば吃驚仰天し     今宵は夫の不在なり、其上かゝる住居なれば、金銭衣類の貯へとてもなし、こればかりは……    と半分も聞かず、強盗は声荒らげ     此上に兎や角と言ひ張らば、先づ汝の命を貰ひ受け、其後家捜しても財宝を取るべきぞ、命惜くば案内     せよ    と急き立てられ、妻は生きたる心地もなく、救けを呼ばんにも声出でず、遁げ去らんにも腰立たず、只室    の片隅に身を縮めて、震ひ居るばかりなり、強盗は何思ひけん、敢て手をも下さんとせず、此有様を熟々    (つくづく)と打守り居たりしが、稍あつて始めに替り、声を和げ     心配すな我なるぞ    と面を包みし手拭を取り、顔を顕はすを、妻は恐る/\打見れば、此はいかに、強盗を思ひしは、夫国貞    なるにぞ、妻は余りのことに打驚き     いかなればかゝる戯(たはむれ)して、妾(わたし)を嚇し給ひしぞ、妾は真に強盗の入りしと思ひて、生     きたる心地はなかりき、そも何故にかゝる振舞をし給ひしぞ、事を好み給ふにも程こそあれ    と半ば怨みつゝ問へば、国貞は席に着き     さもあらん、されどこれには深き仔細あり、御身も知りつらん、今日我に美人強盗に襲はるゝ図の揮毫     を依頼せし人あり、我年頃浮世絵に筆を揮へども、まだかゝる図を描きしことなければ、一時は辞退せ     んかと思ひしが、一旦依頼を受けしものを、其正否も試みずして辞退せんこと、我技倆の足らざるに似     て、世人の嘲を受けんも口惜ければ、一時の窮策を案出し、今宵拠(よんどころ)な急用ありとて外出し、     衣服を着替へ、わざと時刻を移して、夜の更くるを待ち、強盗の真似をして我家に押入り、御身が恐怖     狼狽する状を見て、依頼せられたる画は如何に描くべきかを悟りぬ、御身はそれを知らざれば、さぞか     し驚きしならん、されど我はこれによりて、業務の益を得たれば、依頼の画を描くに、過誤あるべから     ず、喜ばし/\    と始終を告ぐにぞ、妻も漸く事の始末を知りて、胸撫下し笑を催しぬ、かくて国貞は、此夜我が妻の恐怖    狼狽せる有様に基き、依頼の画を描き了へ、先方へ送りしに、何がさて得意の筆を以て、実地の形状を写    出せるなれば、其妙譬へんものもなく、依頼せし人も深く其真に逼れるを歎賞して已まざりしと     附記 昔円山応挙が、幽霊の図を描かんとして、其実物なきに苦み、筆を執ること能はざりしに、其妻     久しく大病に悩み居れるが、或る夜その憔悴せる身に、頭髪を乱して飄呂(ひょろ)/\と便所に立ち行     きたる状を見て、忽ち悟る所あり、直に筆を執て其真を写し出し、遂に応挙の幽霊とて、江湖の喝采を     得たるは、能く人の知る所なるが、画工の苦心は、同じく一徹に帰するものなり〟    〈これは『香亭雅談』下(中根淑著・明治十九年(1886)刊)所収の挿話に脚色を加えたもの。ただ国貞の門人でもある、     明治の豊原国周は「謹慎」の人国貞にはあり得ない話だとしてこれを否定している。本HP、Top「文献資料」所収の『香     亭雅談』参照のこと〉   〝月岡芳年(67/79コマ)     江戸の人、本姓吉岡氏、通称末次郞、月岡雪斎の養子となる、始め一勇斎国芳の門に入り浮世絵を学び、     後西洋画風を折衷して一派を成す、最も人物に巧にして、月百姿の如きは一代の傑作として名高し、明     治二十五年六月没す、年五十四、府下東大久保専福寺に葬る    或る夜、江戸の花と云ひ伝へらるゝ火災、東京市中の某所に起りぬ、折し吹き荒む烈風に、火勢を増して、    軒より軒へと燃え移り行く程に、スハ火事よと、急調に打ち立つる半鐘の響き、火を救はんとて、馳せ行    く人と火を避けて、遁れ来る人の足音、家屋土蔵の焼崩るゝ物音、馳せ違ふ人馬車輌、避けんとして押倒    され、踏倒されて、泣き号ぶ老幼男女の声、相和して混雑言はん方なく、一場の修羅の巷を現出しぬ    此騒動混雑を、火の及ばぬ近きあたりに立集ひて見物しつゝ、消防夫の動作の巧拙を評するものあれば、    火を避くる人々の様などを評し合ふもありて、区々なる中に、或る家の軒の下に立ちて、片手に手帳、片    手には筆を執り、眼を火災の光景に注ぎながら、一心不乱に写し居る人あり、これぞ当時浮世絵の中に、    抜群の称ありし、月岡芳年其人にて、日頃技芸に意を注ぐこと深く、目に触るゝ物我参考となるべきもの    あれば、写生せずと云ふことなし、今宵も火災と聞くより自宅とさして遠からねど、延焼すべき程ならね    ば、例の如く此火災を自己の薬籠中の物にせんとて、出で来りしなりき    火鎮りて後数日、芳年の家に日頃親しく出入する一人の消防夫、所用ありて訪問しぬ、芳年は一幅の画を    持出して     此は先夜某所に出火の折、写生したるに基き揮毫せしものなり、実写なれども、我は画工にて、火災の     真情は、御身こそ本職なれば、万一画中に誤りあらんには、一見して明白なるべし、いかに火災の模様     に就て、描き誤りたる所ありや否や    と尋ねつゝ押展べて見するに、流石一家をなせる芳年の筆なれば、運筆の妙は今更言ふまでもなし、消防    夫は、其絵を打返し見居たりしが、稍あつて答ふらく     実に先生のお筆と云ひ、殊に親しく其場に臨んで、実景を写し給ひしことなれば、一として批難を申す     べき箇所も候はず、就ては斯ることは日頃万事に心を深く注ぎ給ふ先生の事なれば、ご承知のことゝは     存ずれども、我も消防夫の数に加はりで、年頃烟火の間に出入し、死を期せしことも少なからねば、其     間自然に悟り得たる所あり、釈迦に説法とやらんには似たれども、聊か御参考として申し上ぐべし、抑     も火災の焔の色は、焼くる物の質によりて、濃淡種々の色あり、其色を見るときは、如何なる質の家、     如何なる物品の焼け失せるかを、知るに難からず    とて、一々其区別を挙げて後     されば今此画を見るに、其火の色、只今申したる如き次第なれば、察する所、金物商の家の焼失する様     と認め申しぬ、我其夜は他行して、火災ありしことを知らず、翌朝に至りて漸く知りぬ、如何に候はず     や、我が申す所に違ひ候はずや    と、問へば、芳年愕然として     如何にも、御身の推察に違はず、此絵の火災は、金物商某家の焼け落る所を写生したるなり、芸は道に     よつて賢しとは、かゝることを云ふべき、我も御身の話を聞き、本業の裨益を得ぬ    とて喜ぶこと深かりきとぞ(都新聞)〟    〈消防夫は芳年の絵を見て金物屋の火事であること見抜いた。芳年の観察力と写生の確かさ、焔の色によ     って燃えているものを知る消防夫の判断力、まさに「芸は道によって賢し」である〉