戦艦ティオムキン。.... 佐久間學

(12/9/2-12/9/20)

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9月20日

ORFF
Carmina Burana
Kiera Duffy(Sop), Marco Panuccio(Ten)
Daniel Schmutzhard(Bar)
Kristjan Järvi/
MDR Rundfunkchor & Kinderchor
MDR Sinfonieorchester
SONY/88725446212


ちょっと見るとLPレコードの盤面かな、と思えるほどのなかなか素敵なジャケットですね。しかし、よく見るとこれは道路のロータリーのようでした。この曲の2台ピアノバージョンのスコアの表紙には運命の女神フォルトゥナが操る「車輪」が描かれていますが、それに絡んだ「ロータリー」というのはあまり賢くありませんね(ノータリン)。

このジャケットでもう一つ気づくのが、どこにもレーベルの表示がない、ということです。インレイには、確かにSONYのロゴがありますが、それと並んで、ドイツ中央放送(MDR)が最近発足させた「MDR KLASSIK」という新しいレーベルのロゴもあります。ということは、これはSONYMDRとの共同制作ということになるのでしょう。確かに、クレジットにはフリーランスのプロデューサーやエンジニアとともに、MDRの関係者の名前もありますね。
もはやSONY自体は、ほかのメジャーレーベル同様、クラシック部門では制作は「下請け」によって行われるようになってしまいました。ですから、もはやかつての「MASTERWORKS」の音を聴くことは不可能です。その代わり、今回のMDR交響楽団の音は、まるでかつての「東独」の録音のような渋く落ち着きのあるものになっていました。合唱も、同様に渋い音色を聴かせてくれるのもうれしいところです。児童合唱も含めて、この合唱のレベルはかなり高く、指揮者の求めている音楽に的確に反応していることが見て取れますから、それがこの録音でさらによく伝わってきています。
かつては「ライプツィヒ放送交響楽団」と呼ばれていたこのオーケストラ、ファビオ・ルイージが首席指揮者だったと思っていたら、いつの間にか(2007年から)準・メルクルに代わっていて、さらに今年のシーズン開けですから、ほんのちょっと前に、このクリスティアン・ヤルヴィがその後任として就任していました。相変わらず変化の激しい世界のオーケストラ人事ですが、この「カルミナ・ブラーナ」の録音は今年の7月に行われたものですから、まさに「婚前共演」となるのですね。
クリスティアンの指揮は、目まぐるしく場面が変わっていくアクション映画のような、スリリングなものでした。ちょっと目を離している隙にガラリとシーンが変わってしまうという息詰まる爽快感にあふれています。最初の「O Fortuna」では、序奏が思いきり足を引きずるような重苦しいビートに支配されていたものが、「semper crescis」に入ったとたんにいとも軽やかな音楽に変わってしまう、といった具合ですね。
さらに、この曲で特徴的なオルフの作曲様式が、まぎれもない「ミニマル」であることにも、この演奏からは気づかされます。もちろん、オルフ自身は「ミニマル」などという名前も概念も知っているわけはありませんが(ふつうは「オスティナート」とか言われていますね)、実際に「ミニマル」を体験してしまった世代のクリスティアンの手にかかると、これは、そんな、歴史を先取りした作品であることがはっきりと感じられるようになるのです。
ただ、ソプラノのダフィーだけが、この流れに乗っていけないために、常にもたついているのがやたら気になります。可憐でいい声なんですけどね。その点、バリトンのシュムッツハルトは、完璧にその「ミニマル」のリズムを実現してくれています。過剰に「芝居っ気」を出していないのも、そんな印象を強めているのでしょう。「Olim lacus colueram」でのテノールのパヌッチオも、同じような路線で淡々と歌っていますし。もっとも、この曲だけは全体の流れとは関係なく、ハイテンションで臨んでほしい気はしますが。もちろん、この前のヴァント盤みたいな小細工(というか、楽譜通りの演奏)はやってはいません。
合唱は、最近はなかなか良い演奏のものに巡り合えていますが、これもとても見事です。男声だけのアンサンブルなどは、完璧です。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

9月18日

オーケストラ再入門
小沼純一著
平凡社刊(平凡社文庫 653)
ISBN978-4-582-85653-8

最近は新書版でも「帯」によってこんなにカラフルな表紙が出来上がります。しかし、これではまるで坂本龍一の著作のように見えてしまいませんか?
実際にこの本を書いたのは、小沼純一さんという、大学の先生です。とは言っても、文学関係の教授だそうですから、音楽を専門に教えているわけではありません。特に経歴にも記載されてはいませんし、本文の中でも言及はされていないので、楽器を演奏するための専門的な教育を受けたことがあるかどうかは、不明です。
とは言っても、この小沼センセイの著作には、いろいろなところで遭遇していました。武満徹、高橋悠治、あるいはちょっと前のミニマリストなど、興味を喚起させられる作曲家の周辺に、それはたびたび顔を出していたものですから。そんな人が書いたオーケストラの本ならば、少なからぬ興味がわいてきます。
この本のサブタイトルは、「シンフォニーから雅楽、ガムラン、YMOまで」というものでした。古典的な意味での「オーケストラ」の概念をまずきっちり押さえたあとで、この言葉の意味をもっと広くとらえ、多くに人間が参加する音楽形態について時空を超えて論じよう、といったほどのコンセプトでしょうか。
特徴的なのは、おそらくそれが著者のいつもの視点なのでしょうが、そのような時代、ジャンルの異なる集団を、すべて同格に扱っていることでしょう。もちろん、古典的な「オーケストラ」については、歴史的な変遷も含めてかなり詳細に述べられています。その中で、実情にそぐわないような記述も少なからず見られますが、これは茂木大輔さんほどの実体験がないことには、まず必ず陥るミスですから、気にすることはありません。
それよりも、おそらくこちらの方が著者にとってはお得意な分野なのでしょうが、「ジャズ・オーケストラ」を扱った部分での生き生きとした筆致には、惹かれるものがあります。正直、この部分での固有名詞に関しては知らないものが大半ですから、この面での著者の造詣の深さがうかがい知れます。あるいは雅楽とかガムランなどの的確な記述にも、頷かされる部分は多々ありました。
たた、そのような「知識」に関しては得ることの多い著作ではありますが、それらの事象が意味もなく並べられているだけ、と感じられるのはなぜでしょう。そこでは、単に知識を披露しているだけで、その先の展望、つまり、著者がこの本の中で伝えたかったであろうメッセージがほとんど読み取れないのですね。なにか上っ面だけの話に終始している、という印象が強いのですよ。
そのうちに、「Nø Nukes Jazz Orchestra」のことを述べたくだりで、何か聞きなれない言葉が登場しました。それは、「東北地方太平洋沖地震」という言葉です。調べてみると、これは昨年3月11日に発生して、あの「東日本大震災」を引き起こした地震の「正式名称」なのだそうです。初めて知りました。そこで、改めてこの「震災」関係の報道や書籍を見直してみたのですが、この「東北地方〜」という呼び名を使っているものは見当たりませんでした。というより、被災者をはじめこの「震災」に関わる人にとっては、あの災害は「東日本大震災」以外に呼びようがないのでは、という印象を新たにしました(なぜか、この「オーケストラ」は好んで「東北地方〜」を使っていましたね)。言葉というのは不思議なもので、ほんのちょっとした使い方の違いから、その人の嗜好や人生観までが分かってしまうことがあります。これがまさにそんな好例です。小沼センセイが「東北地方〜」という言葉を使ったことによって、もしかしたら、彼はこの災害には表面的にしか関わっていないのではないか、といったようなことまでもが、分かってしまうかもしれないのですね。まあ、人それぞれですから、それはどうでもいいことですが。
ただ、この本が、何か地に足がついていない空虚な印象しか与えられない訳だけは、分かったような気がします。

Book Artwork © Heibonsha Limited, Publishers

9月16日

山田一雄の世界
山田一雄/
二期会合唱団
読売日本交響楽団
NAXOS/NYCC-27270

今年は、指揮者の山田一雄の生誕100年にあたるのだそうです。さらに去年は没後20年と、何かとこの往年の名指揮者にゆかりのある年回りだということで、彼の知られざる音源などがかずおおく「復刻」されているようですね。その流れで、今回Naxos Japanからは、その名も「山田一雄の世界」という、普通はまず曲目が記されるべきタイトルに「指揮者の名前だけ」という潔いアイテムがリリースされました。
ただ、このアルバムの場合、録音された1970年代、1980年代のそもそもの企画が、大曲を演奏することによってその指揮者の芸術を広く知らしめる、といった性質のものではなく、有り体に言えば「名曲アルバム」、あるいは「鑑賞教材」のようなものでしたから、それをそのままリリースしたのでは身も蓋もない、といった事情もあるのでしょう。いずれにしても、これは「今」ならではのタイトル、そして写真です。ほんと、これはまるで石像のような、殆ど神格化された山田の写真ですね。
そのようなものですから、当然ライナーノーツも張り切って山田の業績の賞賛に終始しているのかとおもいきや、岩野裕一氏の文章ではなんとも生臭い「当時の事情」が述べられていたのには、ちょっとびっくりです。それは、岩野氏ならではの緻密なデータに基づく、NHK交響楽団との確執です。山田はそのオーケストラの前身である「新交響楽団」→「日本交響楽団」の指揮者として活躍していたにもかかわらず、「NHK交響楽団」に改組された時にはその地位を外国人指揮者に譲らなければならなかったのですね。そのような人事には、当時のN響の理事長の力が大きく働いていたそうで、その理事長が日本人で重用したのは、別の2人の若い指揮者だったのです。
思い起こしてみれば、物ごころついた頃のテレビのオーケストラ番組では、よくNHK交響楽団の演奏が放映されていました。そこでは、その「若い指揮者」たちが指揮をしている姿もあって、まあ、オーケストラの指揮者というのはこんなものなのだろうというような固定概念がほぼ刷り込まれていました。そこに、どういう状況だったのかはすっかり忘れましたが、いきなり山田が指揮をしている映像を見る機会があったのですよ。それは、今まで抱いていた指揮者像を完全に覆す、ショッキングな体験でした。指揮者というのは、これほどまでに雄弁に音楽を語れるものだったのか、と、その時の山田の姿に打ちのめされたような気がしたものです。そんな源体験のよりどころを、この岩野氏のライナーによって今さらながら気づかされました。
その次のページからは、このような国内企画のCDには必ず載っている「楽曲解説」が続いていました。ありきたりの、それこそカビの生えたような古臭い(事実、それは半世紀近く前に書かれたものだったりします)この業界の「お約束」ですから、普通はまず読んだりすることはないのですが、そこにあったライターの名前に、ちょっと反応してしまいました。この篠田綾瀬さんという方は、10年近く前に出た本の中で名前を見てからちょっと注目していたのですが、それ以降はとんと目にすることはなかったので、もう引退されたのかと思っていたら、まだしっかり「現役」だったのですね。以前の彼女(なんでしょうね)が発していた斬新な視点をここでも感じることが出来て、少しうれしくなりました。
その解説の中で、解説にはあるまじき主観的なコメントが加えられていたチャイコフスキーの「1812年」が、この中では最も山田の奔放さが発揮されている録音なのではないでしょうか。冒頭だけでなく、クライマックスでのコラールでも合唱が入って大いに盛り上げてくれますし、なんと言っても圧巻はカリヨンの音でしょう。それは、まさに渾身の力を振り絞った山田の演奏が終わってからも、延々と鳴り響いているのですからね。

CD Artwork © Naxos Japan Inc.

9月14日

STRAVINSKY/The Rite of Spring
SIBELIUS/Symphony No.5
Leonard Bernstein/
London Symphony Orchestra
ICA/ICAD 5082(DVD)


以前こちらでご紹介したバーンスタインとロンドン交響楽団との1966年の共演の映像には、まだDVD化されていなかったものがありました。それが、今回のストラヴィンスキーの「春の祭典」とシベリウスの「交響曲第5番」です。いずれも、当時このオーケストラの団員だったジェームズ・ゴールウェイがフルートを演奏している姿を見ることができるという、貴重なものです。
これらの映像は、BBCのプロデューサーであったハンフリー・バートンの手によって作られたものだというのは、よく知られています。このDVDにも、ボーナス・トラックとしてバートンがバーンスタインにシベリウスについてインタビューしている映像が入っていますし。バートンに関しては、この2年前、1964年にウィーンまで出向いてその頃行われていたDECCAでの「神々の黄昏」のドキュメンタリー映像を作ったことでも知られていますね。そんな、元は「番組」のための素材だったものが、いまではDVD(こればっかりは、BDにしても何の意味もありません)として貴重この上ないアーカイヴとなっています。
この後も、バートンはバーンスタインとウィーン・フィルを使ってベートーヴェンやマーラーの交響曲全集を映像化することになりますし、さらには評伝まで出版するのですから、バーンスタインを語る上では欠くことのできない人でした(バーンスタインのお葬式には弔電を送りました)。
この2曲が収録されたのは、19661127日です。演奏された順序も、おそらくこのDVDと同じで、「春の祭典」が先だったのではないでしょうか。シベリウスでは空いた席が見当たらないので大編成の「春祭」が終わったら椅子を片づけてしまったのでしょう。シベリウスが終わったところで椅子を運び込むのは、ちょっと考えずらいことですから。
映像では、どちらの曲もまずバーンスタインの正面からのカットを、延々と続けます。もしかしたらこのまま最後まで行ってしまうのでは(それはそれで面白い試みですが)と思い始めたころに、やっとオーケストラのメンバーが画面に現れます。最初にフルートパートが映った時は、管楽器全体というフレーミングで、フルートだけでも5本という大編成、1人1人はほんの豆粒ほどにしか見えませんが、トップのゴールウェイは以前のDVDで当時の顔が分かっていましたから、難なく判別することが出来ました。ソロのアップになれば、もう間違いなくゴールウェイの音です。
しかし、この曲では1番フルートのソロを楽しむことはあまりできません。やはり、なんと言ってもしっかり暗譜でこの難曲に立ち向かっているバーンスタインの姿をこそ、味わうべきなのでしょう。正直、なんだかあまりバーンスタインらしくない「守り」に入った指揮ぶりなのが気になってしまいます。もともとそのような曲ではないので、こってり歌わせるというようなことはしていないのですが、そのためになにか大人しいというか、「知的」な音楽に聴こえてしまいます。申し訳ありませんが、帯解説にある「ストラヴィンスキー自身も驚くほどの熱狂的な『春の祭典』」というのは、なにかの間違いでしょう。それでも、後半の変拍子の嵐ともなれば、思わず体が動いてしまって、足で拍子を取り始めたりするのは、バーンスタインの「本能」のなせる業だったのでしょう。
シベリウスの方は、うって変わってチャーミングな「バーンスタイン節」が満載です。バートンとのインタビューでも語っている通り、ここではバーンスタインが信じたこの曲の魅力を、まさに全身を使って表現しているような気がします。そして、ここではゴールウェイのフルートも存分に堪能できます。あくまでアンサンブルの中という制約の中で、出来る限りのカンタービレを披露しようとしているゴールウェイの姿は、こんなショスタコみたいな顔の頃から健在だったのですね。


DVD Artwork © International Classical Artists Ltd

9月12日

音楽への礼状
黒田恭一著
小学館刊(小学館文庫
619
ISBN978-4-09-408752-9

かつて「音楽評論家」と呼ばれていた職業の方々は、それぞれに特徴的な語り口を持っていたものでした。いや、それは文章の上での比喩としての「語り口」ではなく、実際に「喋る」時の、聴覚的な「語り口」のことです。というのも、ある時期にはこの方たちの本来の仕事である「評論」ではなく、ラジオやテレビを通じて実際に語りかける、いわば「解説」を通して彼らに接していたことが、頻繁にあったものですから。
彼らは、まるでそのようなトークについての特殊な訓練を受けたかのように、実になめらかな話し方で音楽番組に登場していました。それはもう、話し方を聴いただけでも誰なのかが分かってしまうほどの個性がありました。吉田秀和さんなどはまさに別格、何よりもその美しい外国語の発音で、文字だけでは決してわからない演奏家の名前などの正確な「音」を聴かせてくれていたものです。「カール・ベーム」のウムラウトの発音を初めて知ったのは、彼の語りからでした。同じように、評論家ではありませんが、やはり正確な発音で知的そのものの解説を聴かせてくれたのが、柴田南雄さんでしたね。かなり格は落ちますが、大木正興さんという方も、こちらは別の意味での特徴のある話し方と、何よりも露出の多さでなじみのある方でした。
そんな中で、黒田恭一さんの語りは、そのような「音楽評論家」とは一線を画した、特別な魅力を持っていました。とても穏やかな話し方は、常に聴き手に対する思いやりのようなものを感じられるものだったのです。あるいは、そのように思えたのは聴き手に物を「教える」というのではなく、あくまで自分の好きなものを一緒に好きになってもらえれば嬉しいな、といったような、常に一歩下がった場所から控えめに語るスタンスを貫いていたからなのかもしれません。
今回文庫本として復刻された、22年も前に出版され、クラシックに限らずジャズやカンツォーネのアーティストに対して「礼状」を送る、という体裁で書かれた、なんとも粋な文章が集められたこの本の中でも、黒田さんはそんなスタンスを見事に貫いていました。それは、アンドレ・プレヴィンに対する「礼状」の中で、プレヴィンの謙虚さをたたえるという文脈で、著者の共感とともに語られています。そこで、そのような奥ゆかしい態度を際立たせるためのアンチテーゼとして登場するのが、著者が伝え聞いた別の「音楽評論家」のエピソードです。なんでも、その長老評論家は、連載を書いていた音楽雑誌が、新聞広告の中にうっかりして彼の名前を入れ忘れたことを根に持って、担当者に「きみのところとのつきあいを考えさせてもらう」みたいなことを、電話でネチネチと語った、というのですね。そのために、この哀れな評論家は「そんな目立ちたがり屋がいることは信じがたい」と、黒田さんの信奉する「目立たない美学」を強調するための生贄にされてしまっているのです。
正直、このエピソードは不愉快以外の何物でもありませんでした。いや、その「評論家」ではなく、そんなことをわざわざ取り上げた黒田さんが、です。これはまるで、今ネットに蔓延している安っぽい正義心に根差した誹謗中傷そのものではありませんか。よく、その「評論家」から訴えられなかったものです。そういえば、黒田さんご自身が翻訳なさったジョン・カルショーの著作の中で、著者が本人の名誉のために頑なに名を伏せた「我らがジークフリート」の正体を、別の人による新しい訳本の序文で見事にバラされたのは、黒田さんご本人でしたね。
同じような、カルロス・クライバーに対する行きすぎたおせっかいのように、ここには著者の心根の醜さが見え隠れしています。なまじ、他の殆どの人に対する思いが美しく感じられるだけに、そのどす黒さは際立ちます。これでは「礼状」ではなく、ほとんど「令状」です。

Book Artwork © Shogakukan Inc.

9月10日

TCHAIKOVSKY
Symphonies Nos 1-3
Valery Gergiev/
London Symphony Orchestra
LSO/LSO0710(hybrid SACD)


ゲルギエフのチャイコフスキーと言えば、まだ「PHILIPS」というレーベルが存在していたころに録音されたものが有名ですね。確か、ウィーンフィルとの4-6番と、マリインスキー劇場管との6番だったでしょうか。いずれにしても「後期」の3曲しか録音していなかったものが、ついに「前期」の3曲にも着手してくれました。オーケストラは、現在彼が首席指揮者を務めているロンドン交響楽団です。
別に深く考えず、1枚入りのケースだと思って開けてみたら、中にはSACDが2枚入っていましたこんなケースはよくあります。確かに、3曲では丸々2時間かかってしまいますから、1枚では無理なのでした。それで、価格は1枚のほぼ1.5倍、なかなか良心的ですね。カップリングも、「1番」と「2番」で1枚、「3番」で1枚と、曲の途中でディスクを入れ替えることのないような配慮です。
ただ、このカップリングには、もう一つの意味があったことにも気づかされます。1枚目は、今までのLSO Liveの普通のやり方で、彼らの本拠地であるロンドンのバービカン・ホールでのライブ録音なのですが、2枚目はなんとチューリッヒのトーンハレという、演奏旅行先での録音なのですよ。これはちょっと新鮮な驚きです。なんでも、これはロンドンでも演奏していたそうなのですが、あえてチューリッヒでの録音を収録したというのは、なにか訳があるのでしょうか。もちろん、エンジニアはどちらの場所でも「クラシック・サウンド」のニール・ハッチンソンが担当しています。
以前からの印象が、この間のティオムキンでさらに強くなったのですが、このレーベルの音はなにか地味で、SACDでありながらオーディオ的な魅力があまり感じられませんでした。音に輝きのようなものがないのですね。このクルーの仕事は、基本的に落ち着いた音でまとめる、というコンセプトで統一されてはいるのでしょうが、通常の録音会場がバービカン・ホールというかなりデッドなホールであることも、その傾向を助長しているのでしょう。
ところが、今回のチューリッヒでの録音を聴くと、全然音が違っていました。このホールは写真を見ると昔ながらのシューボックスタイプ、ここを本拠地にしているチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の録音などを聴いてみても、ホールがよく「鳴って」いることが分かります。ですから、同じクルーが録音しても、その違いがもろに出てきているのですね。弦楽器の艶やかさや金管の力強さが、豊かな残響に助けられて、より輝かしいものになっているのです。
そんな会場の響きの違いが、ゲルギエフの表現にまで微妙に影響しているのでは、というのは、あくまで同じ曲をバービカンでのテイクと聴き比べてみなければ分からない、単なる憶測なのですが、ここで録音された「3番」だけが明らかに他の2曲よりも外へ向けてのエネルギーが大きく感じられるのは、事実です。もちろん、この曲がちょっと「交響曲」らしくない、まるでバレエ音楽のような形式を持っていることとも無関係でなないのでしょうが、ここからは、確かにマリインスキーとの「6番」では聴くことのできた生々しいグルーヴを感じることが出来るのです。
それに対して、「1番」と「2番」は、なにか生真面目さが表面に顔を出しているようなところがあり、ハイテンションでやみくもに突っ走るというゲルギエフのある一面を楽しむことはちょっと難しくなっています。そんな印象が特に強く感じられるのが、「2番」の第2楽章です。ここで最初に現れる例のかわいらしいマーチのテーマが、なんとも重々しいのですね。もちろん、それは次第に華やかさを増して、そこそこのクライマックスを形作るのですが、そこに至るまでの過程が、あまりにも慎重すぎるのですよ。
トーンハレだったら、最初からもっと軽やかなマーチだったのかも、というのは、繰り返しますが「憶測」に過ぎません。

SACD Artwork © London Symphony Orchestra

9月8日

MENDELSSOHN
Elijah
Rosemary Joshua(Sop), Sarah Connolly(MS)
Robert Murray(Ten), Simon Keenlyside(Bar)
Paul McCreesh/
Wroclaw Philharmonic Choir & 4 Other Choirs
Gabrieli Consort
SIGNUM/SIGCD 300


2010年から始まったマクリーシュと「ヴラティスラヴィア・カンタンス」とのコラボレーション、今回の「エリア」は、2011年の828日に、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールという巨大なエリアで「プロムス」の一環として開催されました。この作品が1846年にバーミンガムで初演された時と同じ編成を再現、といういつものマクリーシュのコンセプトに基づいて、4管編成、ファースト・ヴァイオリンは24人という巨大なオーケストラに、5つの合唱団の合同演奏という総勢400人を超えるメンバーが集まっています。
前回のベルリオーズも同じような編成でしたが、そのライブ録音は、あまりに巨大な音源だったために、無残な結果に終わっていました。それは、石造りの教会の残響によって、曲のクライマックスではいったい何をやっているのかわからないほどの混沌たる、ほとんど音楽以前のものになってしまっていたのですからね。そこから学習したのでしょうか、今回は本番の演奏の後に、もっと録音に適した別の会場でわざわざCDのためのセッション録音を行っています。さらに、そこにはオルガンはありませんでしたから、オルガンの音だけはまさに初演が行われたその場所であるバーミンガムのタウンホールで録音され、オーバーダビングされました。もちろん、その楽器は初演の時に使われたのと同じウィリアム・ヒルによって制作された、当時のイギリスでは32フィートのストップを持つ唯一のオルガンだったものです。
楽譜に関しては、彼独自の版を作るということはせず、最新のCARUS版(R・ラリー・トッド校訂)と、19世紀の初版(ユリウス・リーツ校訂のBREITKOPF版?)を使って演奏しています。ただ、編成に関しては初演の再現ということで、先ほどのような大人数のものになっていますし、使われている楽器でも、トランペットは「イギリス風のスライド・トランペット」ですし、金管パートの最低音を受け持つ楽器は楽譜で指定されている「オフィクレイド」に、「コントラバス・オフィクレイド」と「セルパン」を重ねています。これらは、ブックレットの写真でその異様な姿を知ることが出来ます。
しかし、テキストに関しては彼なりのこだわりを見せています。旧約聖書に基づいたこの曲のテキストは、ドイツ語版はユリウス・シューブリング、英訳版はウィリアム・バーソロミューが担当しており、初演にはもちろん英訳版が使われたのですが、マクリーシュはその英語のテキストと音楽との間に違和感があるとして、かなりの部分で手を入れています。例えば、8番のアリアでは、元の楽譜では「 I go mourning all day long」だったところを「 I mourn all day and languish」に直す、といった感じですね。ブックレットの対訳では、その部分だけフォントが変えられています。
そんなマクリーシュの意気込みは、今回はCDとしても素晴らしい成果を生むことになりました。なんといっても素晴らしいのは300人を超える合唱です。その人数が産み出すものすごい迫力とともに、決して大味にはならない細かい表情がつけられているのですから、これはすごいものです。そして、その大編成の中からひときわ響き渡るオルガンの超低音には、心底ぶっ飛んでしまいましたよ。これだけの迫力で訴えかける「民衆」の力は、間違いなく伝わってきます。そんな大音響を、ほとんど歪ませることなく収めた録音も、さすがです。ただ、これがSACDであれば、間違いなくワンランク上の音を楽しめるのに、という気持ちはいつもながらついて回りますが。
そんな圧倒的な音圧の部分があるからこそ、合唱団のメンバーによる「天使」のアンサンブルがより美しく際立ってきます。ちょっと張り切り過ぎの「ソリスト」たちよりも、こちらの方がよっぽど心に残ります。でも、エリア役のキーンリーサイドは、しっかりコントロールされた素晴らしい歌でした。

CD Artwork © Signum Records

9月6日

GÓRECKI
Little Requiem for a Certain Polka etc.
Anna Górecka(Pf)
Carol Wincenc(Fl)
Antoni Wit/
Warsaw Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.572872


クラシックの曲の中には、なぜかポップス・チャートで上位を占めてしまったために、文字通り「大ヒット」してしまったものがあります。その代表はなんと言ってもプッチーニの「誰も寝てはならぬ」でしょう。1990年にイタリアで行われたサッカーのワールドカップの時に、イギリスのラジオ局がパヴァロッティの歌うこの曲をテーマ曲として流したことで、なんとヒット・チャートの1位を何週間か確保してしまったのですね。この曲は、2006年の冬季オリンピックでも、さらにその人気に火がつくことになりましたね。
1990年代に、やはりイギリスのラジオでのヘビーローテーションからチャートインしてしまったもう一つの曲が、ポーランドの作曲家、ヘンリク・ミコワイ・グレツキの「悲歌のシンフォニー」です。タイトルからして一般受けするものですが、正確には彼の3番目の交響曲、楽章も3つあり、全曲演奏するには1時間を要する「大曲」ですが、前篇を覆う流れるような美しさが、当時の「ヒーリング・ミュージック」のブームに乗って、ブレイクしたのでしょうね。
ただ、この曲が作られたのは1976年、それが、1991年にNONESUCHに録音されたものが、ラジオの担当者の耳に止まったことにより、これ1曲だけで、それまではほとんど知られることのなかったグレツキ本人も、それまでのゴロツキから一転して有名作曲家の仲間入りをすることになりました。
実は、彼は同じポーランドの作曲家、ペンデレツキとは同じ年に生まれています。いわば「同期生」で、最初の頃は二人は同じように当時の新しい技法を追求した作品を作っていました。あちらは1960年代の「前衛」の時代に華々しくデビューしてしまったばかりに、後に作風を変えたことによって世間から白い目で見られることになるのですが、グレツキの場合は、すっかり「おとなしい」作風に定着してしまってからのブレイクでしたから、逆に居心地が悪かったのではないでしょうかね。
このアルバムでは、ペンデレツキでおなじみのヴィットの指揮で、「悲歌のシンフォニー」周辺の作品を聴くことが出来ます。実は、ヴィット自身も「悲歌~」を199312月に、それこそ「便乗」でNAXOSに録音していました。その時のカップリングが「3つの古い様式の小品」という、「悲歌」のイメージを裏切らない穏便な曲だったのも、そのような情勢での配慮だったのかもしれません。しかし、ここでは、もはやそんな腰砕けのことは、やってはいません。ペンデレツキのさまざまなアルバムで見せたようなカップリングの妙を、彼はここでも充分に発揮していたのです。
まずは、この中では一番新しい1993年の作品「あるポルカのための小レクイエム」です(ちなみにNMLではこのタイトルを「サートゥン・ポルカ〜」と訳していましたね。なんとかしてください)。「レクイエム」とは言っても声楽は全く入っていないのが、まずは最初のサプライズ、これはピアノと13の楽器という編成なのでした。チューブラー・ベルで音楽が始まるという、いかにもな導入ですが、そのうちにまるで「ゴジラ」そっくりの音楽が登場してさらに驚かされます。そしてそのあとが、それまでとはまったく脈絡のないただ明るいだけの運動会のような「ポルカ」の登場です。もしかしたら、作曲家自身も「悲歌」の呪縛から逃れたかったのでは、と思えてくるような落差の大きさです。実は「ゴジラ」は、「悲歌」以前、1973年に作られた「3つのダンス」でも登場します。それは1曲目、2曲目はまさに「悲歌」そのもののトランクィロですが、3曲目は文字通り軽やかな「ダンス」です。いずれにしても、「悲歌」しか聴いたことのない人には、驚きの連続でしょう。
さっきの「レクイエム」と、1980年にホイナツカのために作ったハープシコード協奏曲のピアノ・バージョンでソロを弾いている、作曲家の娘であるアンナ・グレツカには、そんなことは最初から分かっていたのでしょうね。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

9月4日

Neue Musik für Flöte und Blasorchester
Günter Voglmayr(Fl)
Karl Geroldinger/
SBO-Ried-Sinfonietta
ORF/CD 3116


今年の1月に若くしてお亡くなりになったウィーン・フィルのフルート奏者、ギュンター・フォーグルマイヤーが、2009年と2010年に録音した放送用の音源が、CDになりました。
タイトルにあるように、ここで演奏されているのは、フルート・ソロと吹奏楽のための作品です。原語では「ブラスオルケスター」と表記されていますが、これはただの「吹奏楽団」のこと、「管弦楽団」という訳語の語源である「オルケスター」とは、似て非なるものです。
さらにタイトルには「Neue Musik」とありますが、これもこういう文脈では「新しい音楽」ではなく「現代音楽」、あるいはカタカナで「ゲンダイオンガク」と書かれる時により実態が伝わってくるような気がする音楽のことです。要するに、ひたすら作曲家の自己満足から、聴き手との距離が大きいほど価値があると思われているような「難解な」、つまり何回聴いても分からない音楽なのでしょう。
ちょっと、そんなものを聴かされるのは、いくらフルートが主役でも辛いのでは、と思いつつ、全く聞いたこともない名前の作曲家たちの最新作を聴き始めることになるのです。しかし、アルビン・ツァイニンガーという人の「道すがらの短編集」という意味不明のタイトルの曲が、ピッコロの派手なフレーズで始まったとたん、そんな先入観はものの見事に吹っ飛んでしまいました。確かにとんでもなく難しい技巧が要求される曲ではありますが、そこから聴こえてくる音楽はいとも親しみやすいものだったのです。この作品は全部で4つの曲から出来ていますが、1曲目がピッコロ、2曲目が普通のフルート、そして3曲目がアルトフルートと、それぞれの楽器の可能性をとことん追求したものです。特にアルトフルートは、ハスキーな音色を大切にしながらも、大きな図体には似合わないほどの軽やかなパッセージが与えられていて、驚かされます。その流れで最後の4曲目は、と思ったら、フルートとピッコロでした。ちょっと肩透かし。
次の、トリスタン・シュルツェという人が作った「時間旅行」という曲は、さらに親しみやすい内容でした。ここでもフォーグルマイヤーはピッコロからアルトフルートまで忙しく持ち替えて、様々なシーンに対応していますが、そのシーンというのがバロック音楽からビッグバンド・ジャズまでという、まさに時空を超えた広がりを持っているのですから、その楽しさはハンパではありません。
その次のバルドゥイン・シュルツァーという人の作品は「協奏的スケッチ」です。これは、今までのものと異なり、かなりシリアスな、まさに「ゲンダイオンガク」のテイストを持った深い音楽、と思っていると、最後の部分ではいきなりノーテンキなマーチがピッコロをフィーチャーして現れるのですから、ちょっと訳が分かりません。
そして、ソロにアコーディオンが加わったヴォルフガング・プシュニッヒの「2つの小さな天星」は、まさにジャズそのもの。フルートもアコーディオンも、シンプルなテーマをもとにした、おそらく楽譜には書かれていない「ジャジー」なフレーズを繰り広げます。
そして最後はトーマス・ガンシュという人の「バーディ・ヌム・ヌム」という、「サンバ」です。これはそのまんま「サンバ」、軽快なラテンリズムに乗ったどこまでも明るい音楽が、いつ果てるともなく続きます。
おそらく、このあたりのフットワークの軽さは、この「ブラスオルケスター」というジャンルの最も得意とするところでは、という気がします。ジャズでもラテンでも、簡単になりきれてしまう自由さがここにはあるのでしょう。こんなことは、普通の「オルケスター」では絶対にできません。それに見事になじんでいるフォーグルマイヤーも、さすがです(「でした」と言うべきなのでしょうか)。

CD Artwork © Österreichischer Rundfunk

9月2日

The Greatest Film Scores of Dimitri Tiomkin
Whitneky Claire Kaufman(Vo)
Andrew Playfoot(Vo)
Richard Kaufman/
London Voices
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0720(hybrid SACD)


ロンドン交響楽団と言えば、かつては「スター・ウォーズ」、最近では「ハリー・ポッター」などの映画のサウンドトラックをどんどん演奏していたことで、一部の人にとってはお馴染みのオーケストラでした。これらのヒット作で、あのジョン・ウィリアムスのスコアを演奏、それが全世界の人々に「聴かれた」わけですから、このオーケストラは「世界で一番多くの人に聴かれているオーケストラ」と言っている人もいるぐらいです。もちろん、そのような言い方の中には、クラシック・オーケストラに対しての揶揄の気持ちもいくらかは含まれていることでしょう。あくまで伝聞ですが、実際にそのように言われたこのオーケストラの関係者は、あからさまに不快の念を表情にあらわしたといいますからね。
ジョン・ウィリアムスがそうであったように、このような重厚な「シンフォニック」の映画音楽を書いた作曲家は、最初はしっかりと「クラシック」の素養を身に着けていたものです。ハリウッドにそのようなスコアを提供する先駆者となったエーリッヒ・コルンゴルトも、本当はまっとうなオペラを作りたかったものが、やむなく映画音楽への道を選ばなければならなかった人です。
そのコルンゴルトの次の世代にあたるのが、このアルバムの主人公、ディミトリー・テイオムキンです。彼もリムスキー・コルサコフの孫弟子、あるいはグラズノフの弟子としてまっとうな「クラシック」を身につけ、さらにはピアニストとしても大活躍(ガーシュウィンのピアノ協奏曲をパリで初演したとか)していたものの、映画音楽の道へ入った後には、どっぷりその世界でまさに職人的な手腕を発揮し、大成功を収めることになりました。彼の仕事を聴く限り、コルンゴルトとは違い、もはや「クラシック」への未練は完全に断ち切られているように思えます。正直、「ローハイド」の作曲者がティオムキンだったなんて、初めて知りましたし、ここには入っていませんが、「北京の55日」などは、ブラザース・フォアが歌った主題歌のレコードがヒットチャートをにぎわしたこともあったのですからね。
今回、「コンサート」として映画音楽を演奏するというこのオーケストラのシリーズの最初を飾るにあたって、指揮者として選ばれたのが正真正銘の映画音楽畑の指揮者、リチャード・カウフマンだったというのも、当然のことでしょう。これは、同じロンドン交響楽団とは言っても、ゲルギエフやデイヴィスが指揮をしているオーケストラとは明らかに異なるキャラクターを求められるものなのですからね。もちろん、その中で映画の主題歌を歌うのも、「vocalist」とクレジットのある、自然な発声でマイクを使って歌う人たちでした。そのうちの一人、「野生の息吹」などを歌っているホイットニー・クレア・カウフマンは、指揮者の娘なのだそうです。彼女は「マンマ・ミーア!」のソフィーを歌うなど、ショービズの世界で実績を重ねている人で、ここでもポップ・ソングの王道を行く伸びのある声を聴かせてくれています。「真昼の決闘」の有名な主題歌を歌っているアンドルー・プレイフットも、なかなか渋い声ですね。
そういう音楽の中で、合唱が果たす役割は、ヴォーカリストほど重要ではありません。スコアの中では、彼らはもっぱら金切り声でその場を盛り上げるという仕事に従事しているように思えます。したがって、ロンドン・ヴォイセスがいかに卓越した合唱団であっても、その真の力を披露する場所は、ここにはありません。
おそらく、いくら「シンフォニック」なスコアだと言っても、コンサートホール内の「生音」でそのダイナミックスを表現するのは、極めて難しいことなのではないでしょうか。そういう意味で、いつものような地味なサウンド作りに終始しているSACDの録音チームの仕事ぶりには、大きな不満が残ってしまいます。

SACD Artwork © London Symphony Orchestra

おとといのおやぢに会える、か。


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