春物は、面倒。.... 佐久間學

(08/10/19-08/11/6)

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11月6日

ORFF
Carmina Burana
Laura Claycomb(Sop), Barry Banks(Ten)
Christopher Maltman(Bar)
Richard Hickox/
Tiffin Boy's Choir
London Symphony Chorus and Orchestra
CHANDOS/CHSA 5067(hybrid SACD)


ロンドン交響楽団のCDといえば、最近の新譜は自分のところのレーベル「LSO LIVE」だけだと思っていたら、CHANDOSからも200711月の「ライブ」録音がリリースされました。とは言っても、録音スタッフはジョナサン・ストークスを中心にした「LSO」でお馴染みの顔ぶれですから、現場は「LSO」と変わることはないのでしょう。予想通り、ここで聞ける音は、まさに「LSO」そのものの、ヌケの良い繊細なものでした。もちろんSACDですから、「カルミナ・ブラーナ」にはうってつけでしょう。
ヒコックスという指揮者は、主に合唱の付いた曲でしか馴染みがありませんでした。実際はオペラも、そしてもちろんシンフォニーも振っているのでしょうし、映画も作っている(それは「ヒッチコック」)のですが、なぜかオーケストラの付いた合唱が得意な指揮者、みたいな印象が強いような気がします。ただ、今まで聴いたものの中では、あくまで中庸を目指した音楽作りが彼の目指しているもののような感じがしていました。決してハメを外さない、紳士的な演奏、でしょうか。
今回も、基本的にはそのようなひたすら角の立たない、その分刺激は少ないという芸風は変わってはいないようでした。ただ、そんな中でもオーケストラのちょっと粋な「小技」が垣間見られるのは、もしかしたらオケのメンバーの自発的な音楽性が、そんなユルい指揮ぶりから誘発されてきた結果なのでしょうか。ひときわ目立つのが、フルート奏者のとても懐の深いフレーズの作り方です。これは指示されて出来るようなものではありませんから、やはり締め付けの少ない指揮者のもとで、思い切り歌い込んでやろうという気合いのあらわれだったのかもしれませんね。
逆に、そんな指揮者だからと、手を抜きにかかっている人もいませんか?ファゴット奏者などは、12曲目のテノールのソロのイントロの出だし「D-Cis」というとても高い音を、替え指を間違えたのでしょうか、どう聞いても「D-D」と、同じ音を出しているとしか思えないという醜態を見せています。もっとも、ここは有名なファゴットの難所、ここが吹けないためにわざわざプロのエキストラを頼んだというアマオケのファゴット奏者がいたぐらいですからね。
そんなユルさは、もろに合唱を直撃、なんともいい加減な音程で、がっかりさせられます。しかし、録音にも助けられたのでしょうか、細かいことを言いさえしなければ、雰囲気としてはなかなかのものではありますし、オーケストラとのバランスも特に不満は感じられません。大人の合唱よりも、児童合唱の方がはるかに存在感があるのには笑えますがね。
ソリストに関しては、なんの不安もありません。バリトンのモルトマンは、柔らかい声と的確なリズム感が身上なのでしょう。変に崩したりしないところが、この指揮者の音楽の中では生きています。テノールのバンクスも、あくまで真面目にこの「役」に没頭しています。中でも出色なのはソプラノのクレイコム。普通、この曲のソプラノというと、レッジェロ気味の軽い声の人が歌うものですが、この人はかなり太い、どちらかというとドラマティコっぽい声のように聞こえます。それが、とてもいいのですよ。もちろん、最高音のDを軽々とクリアする技を持っていて、そこに力強さが加わるのですから、そこからはとても断定的なメッセージが発せられることになります。それは、この曲全体のイメージすらも変えてしまうほどの力を持ったものでした。
こんな大編成の曲でも、細かい楽器の音がしっかり聞こえてくる録音は素晴らしいものです。それがあまりに精緻なものですから、お客さんが入っていないリハーサルのテイクと本番のテイクとの違いまで、はっきり分かってしまうのは、皮肉なものです。

11月4日

MOZART
Requiem
Sheila Armstrong(Sop), Janet Baker(MS)
Nicolai Gedda(Ten), Dietrich Fischer-Dieskau(Bar)
Daniel Barenboim/
John Alldis Choir
English Chamber Orchestra
EMI/212953 2


モーツァルトのレクイエムだったら、新録音でなくてもまだ聴いたことのないものがバジェット・プライスで出たりすれば、とりあえず買ってみるのがお約束。ブルックナーの「テ・デウム」とのカップリングで1300円なら、まずはお買い得でしょうし(もっとも、ブルックナーは別のコンピですでに持っていましたが)。
1971年のEMIの録音ですから、そんなに期待はしていませんでしたが、聴き始めてみると、そのインパクトのある音には軽いショックを受けてしまいました。何よりも、ヴァイオリンの高音をめいっぱい強調したその異常とも言えるバランスには、完全に圧倒されてしまいました。そして、こんな、今となってはとても不自然だけど、耳を惹きつけずにはおかないような録音にごく最近出会っていたことを思い出しました。それは、必要に迫られて演奏者もレーベルも全く考慮しないで買ったラフマニノフの交響曲第2番のCDなのですが、そのプレヴィン指揮ロンドン交響楽団の1972年のEMI録音と、これは非常によく似た音の作り方だったのです。ラフマニノフの場合は、オープニングの低弦のキャラの立ち方から、そのテンションは際だっていました。
予想通り、モーツァルトもラフマニノフも、バランス・エンジニアは同じロバート・グーチ Robert Goochという人でした。どうやらこの人は、1950年台後半から1970年台のロンドンでのEMIの録音を一手に担当していたようですね。ですから、古くはカラヤンとフィルハーモニア管弦楽団、そして、クレンペラーの録音などもかなりこの人の手になるものがあったようです。言われてみれば、クレンペラーの録音などはかなりメリハリのきいた音だったような気がします。
そんなグーチによって録音されたバレンボイムのレクイエムは、その演奏がまさにこのベタベタにデフォルメされた録音と見事なマッチングを見せていました。何と言っても、バレンボイムのメリハリの付け方がハンパではありません。「Requiem」の出だしなどはかなり淡々と始まったと思っていたら、弦楽器の最後のフレーズごとに確実にテンションを上げていく、というかなりあざとい盛り上げ方によって、とてつもないクライマックスを作り上げているのですからね。その瞬間のヴァイオリンのまるで松ヤニが飛び散るような高音のきしみや、合唱の、喉も張り裂けんばかりの叫びはグーチの録音によってさらに力強いインパクトとなって迫ってくることになるのです。「Dies irae」などは、のっけからのハイテンション、なんの準備もなしに聴いたら、腰を抜かしてしまうかもしれません。
ジョン・オールディス合唱団にしてもイギリス室内管弦楽団にしてもそんなに大人数の団体ではないはずなのですが、この録音のマジックによってそこからはまるでマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」(「4人の交響曲」じゃないですよ)のような大げさな姿が眼前に広がります。
ソリストたちも、そんな超重量級のオーケストラ(あくまで録音の上で、ですが)とガチンコで渡り合えるようなファイターが揃っています。フィッシャー・ディースカウは重みこそありませんが、その深刻な表現はとても深〜い世界観を持っていますし、ゲッダの殆どイタリア・オペラと変わらない立派な押し出しはどうでしょう。そこにベイカーの存在感が加わるのですから、アームストロングでさえちょっと控えめに聞こえてしまうほどです。その4人がタッグを組んだ「Tuba mirum」にかなうものなんて、ありません。
そんな大げさな演奏と、生音からはほど遠いギラギラに高音と低音が強調された録音、1970年台というのは、そういうものが受け入れられていた時代だったのですね。そんなものにも冷静に「歴史」として向き合えるこの時代、それを不幸せと感じる人は、少なくはないはずです。

11月2日

BACH
Cembalo Concertos
Francesco Cera(Cem)
Diego Fasolis/
I Barocchisti
ARTS/47729-8(hybrid SACD)


エゴン・シーレの「抱擁」というアブない絵が使われたジャケット、バッハのチェンバロ協奏曲からはまるでかけ離れたそんなエロティックなイメージは、BWV1056の第2楽章「ラルゴ」が映画のサウンドトラックに使われているという理由によるものなのでしょうか。でも、「恋するガリア」にしても、「ハンナとその姉妹」にしても、そんなにエロい映画ではなかったような気がしますがね。そういえば、この曲はスィングル・シンガーズがカバーしたことによっても有名になっていますが、そもそもバッハのチェンバロ協奏曲というものはすべて彼自身によるセルフカバーなのですよね。
ここでのアンサンブル、スイスのイタリア語地区、ルガーノを本拠地に活躍している「イ・バロッキスティ」と、その指揮者ディエゴ・ファソリスは、以前パイジエッロの珍しい作品のCDをご紹介したことがありました。実は、ファソリスだけだとサン・サーンスのレクイエム、などというのもありましたね。そんな、主に声楽作品が得意分野の人だと思っていたら、こんなインストものにもしっかり挑戦していたのですね。確かに、真ん中のゆっくりした楽章などはソリストが思い切り歌えるようなサポートも見られて、なかなか味のあるアルバムでした。その、映画にも使われた「ラルゴ」では、ソリストがハメを外すほどに歌いまくっているのが強烈な印象を与えてくれます。
ただ、ライナーのデーターを見てみると、ここで演奏されている4曲の協奏曲のうち、2008年に録音されたのはBWV1053の1曲だけで、あとの3曲(1052,1054,1056)は2005年に録音されていることが分かります。その間にはアンサンブルのメンバーが大幅に替わっていますし、ソリストのチェラが弾いているチェンバロも別の楽器になっていますから、そんな変化も楽しむのも、また格別です。
オリジナル楽器の業界に於いては、3年と言えば決して短い期間ではありません。特に最近は次々と新しいスタイルを持った演奏家が登場、それぞれの主張を華々しく繰り広げていますから、「流行」は時々刻々変わっているという認識が必要です。そこで、同じ演奏家が「たった」3年前に録音したものを「今」と比べるだけで、聴くものにははっきりとその違いが分かってしまうことになります。これは、かなり衝撃的な事実でした。その一番の違いは、「今」の方が格段に伸びやかなものになっている、という点です。「昔」のものは、いかにも肩に力が入って、無理矢理不自然な表現を作り上げているな、というのがありありと伝わってくるのです。確かに、この業界でそのような不自然なものこそがなによりも尊ばれていた時代はありました。このオリジナル楽器のムーブメントの初期の推進者たちは、もっぱらそれだけで自己の価値を強引に認めさせ、聴衆もそれに迎合していたのですね。
しかし、もはやそんな「流行」は過去のものとなりました。ファソリスたちが、その事に気づいたかどうかは分かりませんが、感覚的により美しいものを求めようとするのはイタリア系の人たちの性でしょうから、巧まずしてこのような結果となって現れたのでしょう(コンサートマスターがヴァイオリンではなく「スパラ」を演奏しているのも「流行」?)。
その、BWV1053では、使われているチェンバロも「昔」のものよりさらに澄みきった音が響き渡るものでした。第2楽章の「シチリアーノ」でそのバックを務める弱音器を付けたヴァイオリンは、まさにオリジナル楽器にあるまじき官能的な音色さえも味わわせてくれるものです。そこでは、まるで彼らが今まで我慢してきた禁断の響きを存分に放つことを許された喜びを感じているようには聞こえては来ないでしょうか。
エゴン・シーレのジャケットは、そんな官能性を現しているものだ、というのは、あまりにうがった見方でしょうか。そんなことを言ってはいかんのう

10月31日

GAUBERT
Orchestral Works
Marc Soustrot/
Orchestre Philharmonique du Luxembourg
TIMPANI/1C1135


フランスのマイナーな作曲家の作品を丹念に紹介してくれているTIMPANIが、今度はフィリップ・ゴーベールのアルバムを出してくれました。ただ、ゴーベールのことを「マイナー」などと言ったら失礼かもしれませんね。フルート曲の分野では、彼ほど多くの作品がCDで出ている近代フランスの「メジャー」な作曲家もいませんから。もちろん、3曲の「ソナタ」を含むそれらの愛らしい作品は、フルーティストにとってはなくてはならないレパートリーとして、常に彼らのリサイタルのプログラムを飾っています。しかし、フルート作品以外では、やっぱりゴーベールは「マイナー」でした。なにしろ、今回録音されたオーケストラ作品3曲のうちの2曲までが、これが世界初録音となっているのですからね。
1879年に生まれて1941年に亡くなったゴーベールは、教育者としては、あのマルセル・モイーズを育てたことで知られていますが、自身もフルーティストとして大活躍していました。さらに、彼は指揮者としても有名で、1919年からはアンドレ・メサジュの後任として、パリ音楽院管弦楽団の指揮者に就任します。そのポストは1938年まで務め、シャルル・ミュンシュにその職を託すことになるのです(その交代は、みゅんしゅ的に行われました・・・なんちゃって)。今回録音された「交響曲」、「海の歌」、「コンセール」の3曲は、すべてこのオーケストラによって、彼自身の指揮で初演されています。
お馴染みのフルート曲の中で見られるゴーベールの作風は、ドビュッシーやラヴェルの流れを確実にくんではいるものの、もっとサラッとした、メロディアスな印象を与えられるものです。それはこのオーケストラ作品でも同じように味わえるもので、手慣れたオーケストレーションによる洗練された響きは、なかなかの充実感を持っています。彼の楽器であるフルートが、重要なところで活躍しているのも見逃せません。
この中では唯一初録音ではない、3つの楽章から成る「海の歌」は、当然のことながらドビュッシーの「海」との比較にさらされることは免れません。しかし、期待通りの「印象派」風のフレーズが見え隠れはするものの、これはドビュッシーとは明らかに異なる世界であることも、聴いているうちに分かってきます。ドビュッシーのものを「油絵」だとすれば、これはいわば「水彩画」のようなテイストを持っているものでした。その爽やかさは、ディーリアスあたりのイギリスの作曲家にも通じるようなセンスなのかもしれません。真ん中の楽章は「崖の上のロンド」というタイトルの踊りの曲、これなどは、ラヴェルのエスプリをさらに昇華させたような趣です。
「コンセール」も、ラヴェルと同じ趣味、クープランのような昔の宮廷での音楽の雅を現代に蘇らせたものです。舞曲風の音楽も見え隠れする中、最後の急速な楽想では、やはりフルートが大活躍してくれます。
そして、彼の作品の中ではおそらく最大規模の4楽章形式の「交響曲」は、しかし、そんな肩肘を張ったしかめっ面の形相ではなく、優しい旋律に覆われた暖かい雰囲気の曲でした。第1楽章の最後でしつこく繰り返される終止のアコードも、ある種の厳格さを求めたもののように聞こえていても、その実ちょっと悪戯っぽいユーモアと感じられるかもしれません。第3楽章のスケルツォの感じが、まるでベートーヴェンの「第9」のスケルツォのパロディのように聞こえるのも、そんなゴーベール一流の余裕がもたらした結果なのでしょう。しかし、なんと言っても聴きどころは第2楽章の美しいメロディではないでしょうか。これこそはゴーベール節の極地、それは、もちろんフルートで歌われます。
クセナキスの録音でお馴染みの超ハイテク集団ルクセンブルク・フィルは、弦楽器がやや無機質に感じられるものの、とても精緻なアンサンブルで色彩的な響きを醸し出しています。

10月29日

VERDI
Requiem
Ingrid Bjoner(Sop), Hertha Töpper(MS)
Waldemar Kment(Ten), Gottlob Frick(Bas)
Karl Richter/Münchner Philharmoniker
Philharmonischer Chor München
Münchner Bach-Chor
ALTUS/ALT 156/7


リヒターの指揮したヴェルディのレクイエムなどという珍しい録音が出てきたりひたーのだそうです。以前ご紹介したブルックナーの交響曲のように、彼は決してバッハばかり演奏していたわけではなかったことが、最近になって続々と明らかになってきています。いや、別に隠していたわけではなく、レコード会社がそのようなものに触手を伸ばさなかったのでレコーディングは行われなかったと言うだけの話、コンサートではさまざまなレパートリーを誇っていたのでしょう。
今回CDとなった音源は、世界初出のものです。その素性を聞けば、なぜ今まで発表されなかったのか、自ずと理解できます。これは、放送局などのプロが録音したものではなく、1969年に合唱団のメンバーが趣味で録音したものなのです。その人はオーディオ・マニアだったそうですが、この時代のアマチュアの機材といえば、多寡がしれています。音質面では、あまり多くを期待することはできないでしょう。
案の定、それはとんでもない録音でした。派手なヒスノイズや、かなり目立つ転写は仕方がないとしても、最初のうちはレベル設定がいい加減だったようで、合唱のフォルテは完全に歪んでいます。それに気づいたのか、あわててフェーダーを操作しているようなところも見受けられますね。それよりも問題なのはマイクのセッティング。もしかしたらマルチマイクなのでしょうか、一応ステレオにはなっていますが、バランスが滅茶苦茶なのですよ。合唱だけがやたら大きくてソリストは最初の頃はあまり聞こえてきません(これも、途中で修正はしているようです)。もっとひどいのはオーケストラ。打楽器あたりが突拍子もないレベルで入っていて、木管などは殆ど聞こえません。もちろん、全体の音がまとまって聞こえてくることもありません。
そんなひどい、到底商品としては通用しないものが発売されたのには、この録音を後生大事に保存していたリヒターの遺族のたっての希望があったからなのだと言います。バッハ以外のレパートリーでも素晴らしいものを残していたことを、ぜひ知ってもらいたい、という気持ちだったのでしょうか。
確かに、そんな劣悪な録音にもかかわらず、ここからはリヒターの尋常ではない気迫を感じ取ることは可能です。それは、主にソリストに対して、決して外面的にはならない押さえつけた表現が要求されていたことをうかがわせるものでした。特に、メゾ・ソプラノのヘルタ・テッパーの深い響きから生まれる深刻な情感は、何よりも圧倒されるものです。他のソリストも目指すところは同じ、この4人が一緒に歌うアンサンブルでは、微妙なピッチのズレによる暗いハーモニーと相まって、とことん落ち込みを誘われる気分になってきます。そう、それはまさに「死んでしまいたくなる」ような気分、ヴェルディからそんなものを引き出すなんてこと、リヒター以外に出来るはずがありません。
合唱は、そもそも最初の出だしからとてつもない音程で驚かせてくれますから、なにも期待出来ないことは分かっていました。当然のことながら、プロのソリストとは違って指揮者の要求がストレートに伝わることもなく、不必要にノーテンキな一面をさらけ出してリヒターが望んだものとはおそらくかけ離れた仕上がりとなっているのではないでしょうか。
ただ、アマチュアのミキサーが作ったデタラメなバランスからは、思いがけない効果が生まれることになりました。「Dies irae」でのグラン・カッサが信じられないほどの迫力で録音されているために、それはまさに恐怖を呼ぶほどの音響となっているのです。あたかも聴くものを死の世界へ引きずり込むほどの力を持つもののように、それは聞こえます。

10月27日

HUMPERDINCK
Hansel and Gretel
Christine Schäfer(Gretel)
Alice Coote(Hansel)
Philip Langridge(Witch)
Richard Jones(Dir)
Vladimir Jurowski/
The Metropolitan Opera Orchestra and Chorus
EMI/2063089(DVD)


ピーター・ゲルブが支配人に就任してから3期目に入ったMETですが、彼が行った改革の目玉とも言うべき「ライブ・ビューイング」は、なかなかの反響を得ているようですね。これは、ステージの模様をハイビジョンカメラで撮影して映画館などに生配信するというシステムです。けっして、気に入らない歌手に対して大声で文句を言う人を公認するものではありません(それは、「ライブ・ブーイング」)。念のため。
これはアメリカ国内だけではなく、日本の映画館でも行われています(かつては歌舞伎座でも)。ただ、時差の関係で「ライブ」は無理なので、パッケージとなったデータを送っているのでしょう。そして、そのパッケージはこんな風にDVDとなってお茶の間(死語)でも簡単にMETの舞台を体験することができるようになっているのです。
もちろん、そんなオペラのDVDなどはいくらでも出ていますから、今さら、なのですが、このMETのものはいかにも「ライブ」という仕上がりがひと味違います。つまり、「生」配信の時に行っているバックステージの案内などが、ここにもそのまま収録されているのですよ。この「ヘンゼルとグレーテル」の場合は、なんとルネ・フレミングが「案内役」として登場、開幕直前の舞台袖でコメントしたり、休憩中のセットの転換で技術担当の人とのインタビューなどを聞かせてくれているのです。それはとても手慣れた滑らかなもの、おそらく、きちんと台本ができているのでしょうね。
「ヘンゼルとグレーテル」以外の作品は全く知られていないという、いわばオペラ界の「一発屋」エンゲルベルト・フンパーディンクといえば、その名前を借用したポップス・アーティスト(「トム・ジョーンズ」とか「ギルバート・オサリバン」とか、そんな「芸名」が一時はやりましたね)の方がはるかに有名になってしまっている作曲家ですね。なぜか、この人は大昔の英語のリーダーに載っていたものですから、中学生の頃から馴染みがありました。しかも、この作品の抜粋を児童合唱団が上演したものまで聴いていたものですから、その曲自体も馴染みがあったつもりでした。ただ、リーダーでは「ワーグナーの弟子」とあったのに、その音楽がワーグナーとはかけ離れた素朴なものであったのに、疑問を抱く少年ではありましたが。
序曲だけは良く演奏されるので聴いていましたが、そんなわけでオペラ全体をきちんとした形で(とは言っても、このプロダクションはテキストが英語)味わうのはこれが初めてのことでした。そして、積年の疑問はここで氷解することになります。作曲家が用いていたのは、あくまでワーグナー譲りの無限旋律の世界だったのですが、その中にいとも素朴な、殆どドイツ民謡の引用のようなものを巧みに織り交ぜていたのですね。今回のMETもそうですが、この作品は子供に見てもらうことを念頭に置いて上演されることが多いのは、そんな「配慮」のせいなのでしょう。正直、そこまでするのなら、いっそ他の部分ももっと平易に作れば良かったのに、と思うのですが、そこまでは譲れないというのが、作曲家としてのプライドだったのでしょう。その結果、なんとも不思議な「ごちゃ混ぜ」の音楽が出現しているな、というのが、初めて全曲を体験しての偽らざる感想です。
今回の演出は、今までのものとは全く異なる、「食」にこだわったユニークな設定なのだそうです。確かに、最後の幕で子供たちが口のまわりをクリームやチョコレートだらけにして実際にスイーツを頬張っている姿には迫力があります。第1幕で母親が口の中からソーセージを吐き出すシーンと同様、そこには醜い飽食への警鐘が込められているのだとしたら、恐ろしいものがあります。
それよりも、シェーファーの、本物の子供以上に子供らしい姿と演技こそ、最も恐ろしいものだとは思いませんか?

10月25日

MOZART
Donna
Diana Damrau(Sop)
Jérémie Rhorer/
Le Cercle de l'Harmonie
VIRGIN/50999 212023 2 2


前作Arie di Bravuraに続くVIRGINでのダムラウの2作目のアルバムです。タイトルは、「Donna」。「プリマ・ドンナ」は主演女優ですから、「ドンナ」というのは「女優」というか、女性の出演者のことですね。いったい、どんなキャラクターを演じてくれているのでしょう。
ところで、このジャケットの写真、前作の写真とはまるで別人のようなイメージを与えられませんか?前回はとても若々しいイメージだったものが、今回は「年増の魅力」というか、ちょっとおばさんっぽいのが気になります。ヘアスタイルなどのほんのちょっとした具合で、これほどまでに外見が変わってしまうものなのですね。そんなダムラウがここで試みているのは、モーツァルトのオペラに登場する全く異なるキャラクターを、一人で演じてしまう、というものでした。一般的にはオペラ歌手というものは、音色やテクニックによってある特定の役柄しか歌えないものだ、ということになっているそうなのです。ソプラノの場合は「レッジェロ」や「リリコ・スピント」、「ドラマティコ」などに分類されていますが、「魔笛」の「夜の女王」で強烈な印象を与えてくれたダムラウは、ですから、そのような高音のコロラトゥーラを専門に歌う「レッジェロ」というソプラノにカテゴライズされてしまってもおかしくはありません。しかし、彼女はそんな既成概念にとらわれることはなく、もっと幅広いキャラクターに挑戦しているのです。その「夜の女王」にしても、彼女の場合ただ高音の超絶技巧を聴かせるだけのものではなかったことを思い出しているところです。特に第1幕のアリアはかなり低い音も要求される難しいものですが、彼女はそこで堂々たる「女王」の貫禄を示していたものでした。ですから、その時点でこんなアルバムが出ることはある程度予想されていたのです。
「フィガロの結婚」では、伯爵夫人とスザンナという、2役を聴くことが出来ます。例えばアンネッテ・ダッシュあたりも、両方の役をレパートリーにしていますが、実際に聴いてみて彼女の伯爵夫人はちょっと無理があるような印象を持ったものです。しかし、ダムラウのコンテッサの深みは、本物です。もちろん、スザンナの初々しさも、しっかり伝わってきます。
そのあたりのキャラクターの区別は、もちろん声の質だけによるものではないことが、「後宮」でのブロンデとコンスタンツェの見事な歌い分けからも明らかになります。ここで彼女は、言葉の勢いなども含めて、すべての面で完璧にそれぞれの役柄を演じ分けているのです。「ドン・ジョヴァンニ」ではドンナ・アンナとドンナ・エルヴィラしか歌っていませんが、おそらくツェルリーナだってきちんと歌うことはできるのでしょうね。
録音されたのは今年の1月、前作が2006年の12月ですから、ほぼ1年のインターバルでの新作と言うことになります。共演は同じ「ル・セルクル・ド・ラルモニー」というフランスのオリジナル楽器のバンドです。この「ハーモニーの環」という、2005年にジェレミー・ロレルによって創設された団体は、18世紀後半に活躍した作曲家サン・ジョルジュが作ったオーケストラの名前を現代に蘇らせたものなのですね。ただ、このバンド、たった1年しか経っていないのに、メンバーはかなり入れ替わっています。コアのメンバーだけを残して、あとは適宜ソリスト級の人が参加する、という形態なのかもしれません。というのも、前作同様、ライナーにはオブリガートなどを演奏しているパーソネルのクレジットがあって、それによると木管などは2人の奏者の双方が、それぞれ別の曲でトップを吹いているのが分かるからです。フルートなどはかなり音色の違う人のようで、それぞれの個性に合わせた起用ができるという贅沢な陣容のようでした。そう、ここでは伴奏のオケまでもが「歌い分け」をやっていたのです。

10月23日

MOZART, BERG
13
内田光子(Pf)
Christian Tetzlaff(Vn)
Pierre Boulez/
Ensemble Intercontemporain
DECCA/478 0316


モーツァルトとベルクをカップリングしたアルバムです。ヴァイオリン協奏曲あたりだったらあるのかもしれませんが、これはちょっと珍しい組み合わせ。いや、珍しいと言えば、そのモーツァルトをブーレーズが演奏しているのですから、どんだけ珍しいことでしょうか。
もちろん、これは単なる思いつきではなく、タイトルにあるように「13」という数字が共通点となっています。この2曲は、どちらも「13の管楽器」が用いられているのです。ただ、モーツァルトの場合はそれで全部ですが、ベルクにはピアノとヴァイオリンのソロが加わりますし、同じ「管楽器」といっても、その中身はかなり異なっています。モーツァルトにはフルートやトランペットは入ってはいませんし、ベルクにバセットホルンはありません。そんなつまらない「共通点」を持ち出すのは、「現代作曲家」の悪い癖です。
モーツァルトの「13管楽器」は、もちろん「グラン・パルティータ」と呼ばれているセレナーデです。本来の編成はコントラバスが入るのですが、ここではあくまで「管楽器」にこだわって、コントラファゴットが使われています。
大昔のブーレーズならいざ知らず、最近のブーレーズだったらモーツァルトを演奏したところでそんなにヘンなことはやらないだろう、と思っていましたが、どうしてどうして、「アンファン・テリブル」は未だ健在でした。いたるところで、ちょっと聴き慣れない声部や、びっくりするようなアーティキュレーションが顔を出すのですよ。特にゆっくりとした楽章でのバセットホルンなどは、「こんなことをやっていたんだ」と思わず膝を打ってしまうほどでした。アーティキュレーションにしても、ことさら滑らかさに逆らうような音符の目立たせ方をやっていますので、ついそこに注目せざるを得なくなってしまう、という強引な手で、ぐいぐい引っ張っていきます。
アンサンブルの作り方も、あくまで指揮者主導というこういう曲では珍しいアプローチです。単なる仲間同士の楽しみで、お互いの欠点をなめ合おう、などという甘いことは一切通用しない、方向付けのはっきりした意志の強さには、確かに惹かれるものがあります。そして、そういう姿勢を取ったところで、モーツァルトの音楽自体はびくともしないということが再確認出来るというのが、嬉しいところです。もっとも、そんなきっちりとしたアンサンブルのはずなのに、最後の最後になってファゴット奏者が鮮やかな装飾を入れたりしているのは、まさにサプライズ。それは見事なアクセントとなって、この演奏に格別の魅力を与えています。それは、プレーヤーの本能がなせる業だったかもしれませんが、結局はブーレーズの手のひらの上で操られていただけなのだ、とは思えないでしょうか。
一方のベルクは、「ピアノ、ヴァイオリンと13の管楽器のための室内協奏曲」です。第1楽章はピアノだけ、第2楽章はヴァイオリンだけ、そして第3楽章になって初めて両者がソリストとして掛け合いを行う、という、3種類のソロを1曲で楽しめる大変お得な協奏曲です。
これはまさにブーレーズとアンサンブル・アンタルコンテンポランにとっては自家薬籠中のレパートリー、モーツァルトでは半ば強制的に合わせさせられていたものが、こちらでは逆に自発的な音楽を作れる喜びを味わっているように聞こえます。決してチャランポランに演奏しているわけではありません。そんな中で誰よりもひらめきを放っているのは、内田光子だったのではないでしょうか。それに比べるとテツラフくんはちょっと地味。
管楽器のメンバーは、おそらく他の分野でも名をなしている、あるいはこれから羽ばたく人ばかりのはず、その名前をぜひ入れておいて欲しかったと痛切に思います。メジャー・レーベルのクレジットは、なぜかそういうところが不親切。

10月21日

ALFVÉN
Symphonies 1-5 etc.
Neeme Järvi/
Royal Stockholm Philharmonic Orchestra
BRILLIANT/8974


この前のニルソンの自伝の中には、彼女がアルヴェーンの交響曲第4番を演奏したときの模様が書いてありました。ニルソンと同じスウェーデン生まれのフーゴー・アルヴェーンは、「夏至祭」というNHKの「きょうの料理」のテーマ曲(@富田勲)に非常によく似ている曲だけが知られている作曲家ですが、交響曲も5曲ほど作っていたのですね。その中で、この「第4番」は、1楽章形式の少し変わった構成を持っています。それよりも変わっているのはその「テーマ」。それがニルソンによって語られているのです。
それによると、「海辺の岩礁より」というタイトルのこの交響曲は、作曲家の若い頃の体験がモチーフになっているのだそうです。彼は当時海辺に住んでいましたが、その岩礁から見える離れ島には美しい人妻がいて、彼とは秘密の恋人の間柄だったのです。人妻は、夫が出かけていなくなると、窓に灯りをともして「今なら大丈夫よ」というサインを送ります。それを見たアルヴェーンは矢も楯もたまらず真っ暗な海に飛び込んで、愛人の許へと泳いで行くのです。そんな情景を描写したのが、この交響曲だというのですね。いやあ、なんという破廉恥なテーマなのでしょう。これはベルリオーズの「幻想交響曲」も真っ青の、言ってみれば「不倫交響曲」ではありませんか。この曲には、テノールとソプラノのソリストが加わっていて、ヴォカリーズでそれぞれの男女の思いの丈を歌い上げているんですって。ニルソンがそれを歌ったときには、アルヴェーン自身が指揮をしていたそうです。こういうものをご本人が堂々と聴衆の前で披露するという根性は、まさに尊敬に値します。
そんな曲だったらぜひ聴いてみたいと思うじゃないですか。そこで、録音を調べてみたら、BISから交響曲と管弦楽曲を網羅した単発のCDが5枚出ていました。ただ、20年近く前のものでしたからすぐには手に入らないだろうな、と思っていたところ、なんとBRILLIANTからその5枚がまるまるボックスになって出たばかりだったではありませんか。なんという偶然、しかも5枚でも1枚分の価格ですから、迷わず購入です。
その「4番」は、確かにかなりエロい曲でした。まるでベートーヴェン(それは「エロいか?」)。もちろん、そんな背景を知りながら聴いていたからなのでしょうが、何よりもソリストたちの甘ったるい歌い方がたまりません。特に、ここで歌っているテノールのアンスホーという人が、殆ど女声にしか聞こえないようなへなちょこな声なので、いかにも「いけない」印象が強まります。この二人、最初は両端で歌っているのに、だんだん真ん中に寄ってくるんですよね。
しかし、ここで聴かせてくれるアルヴェーンのオーケストラの表現力の多彩さには、驚かされます。そこからは、荒れ狂う海や、恋人同士の熱い思いが、恥ずかしいほどストレートに伝わって来るのですからね。彼は、オーケストラを使って情景描写を行うスキルに関しては、まさに卓越したものを持っていることを、強く印象づけてくれました。
せっかくだからと、他の曲も一通り聴いてみましたが、そんなワクワクするようなオーケストレーションは、いたるところで味わうことが出来ました。5枚目に入っている「山の王」という組曲がその白眉でしょうか。1曲目の「呪文」でのおどろおどろしいテーマには、思わずのけぞってしまったほどです。カップリングが「交響曲第5番」なのですが、4楽章形式でいかにもかっちりしたたたずまいなのに、聴いた感じはその組曲とあまり変わりません。第3楽章などには、どうやらさっきの「呪文」のテーマが使われているようで、これもとことん楽しめる曲なのでした。
さっきのニルソンの自伝には、アルヴェーンはただのエロおやじだったというオチがあります。それを軽く受け流して、ニルソンは「彼は、女性宛の手紙のオーケストレーションにおいても巨匠だった」ですって。

10月19日

BRUCKNER
F-moll-Messe
Ingela Bohlin(Sop), Ingeborg Danz(Alt)
Hans-Jörg Mammel(Ten), Alfred Reiter(Bar)
Philippe Herreweghe/
RIAS Kammerchor
Orchestre des Champs-Élysées
HARMONIA MUNDI/HMC 901976


もうだいぶ経つのでしょうが、このレーベルのマークがいつの間にか変わっていましたね。「貝殻」をモチーフにしたデザインは同じですが、トリミングされているので元を知らなければいったい何なのか分からないようなものになっています。より抽象化が進んだ、ということなのでしょう。もちろん、これはこのレーベルの創立50周年という節目での改革であることは、言うまでもありません。同じルーツを持つ兄弟レーベルDHMは、BMG(いや、SONYと言うべきでしょうか)の傘下に入ってカタログの投げ売りをされるようになってしまいましたが、こちらはインディーズとして、これからも堅実な歩みを続けていくことでしょう。
ブルックナーの交響曲第4番と第7番の、世界で初めてオリジナル楽器による録音を行ってくれた、このレーベルの看板指揮者ヘレヴェッヘとシャンゼリゼ管弦楽団は、今回はヘ短調、つまり3番目であり最後(いえ、カラヤンの奥さんの話ではありません)のミサ曲を録音してくれました。ただ、合唱団が彼の手兵のコレギウム・ヴォカーレなどではなく、ベルリンのRIAS室内合唱団となってりあす。この合唱団、最近指揮者がダニエル・ロイスから、ハンス・クリストフ・ラーデマンに代わったそうなのですが、ここには合唱指揮者としてのクレジットは何もないので、ヘレヴェッヘがこの合唱団を指揮した、ということなのでしょうね。録音も、ベルリンのフィルハーモニーで行われています。
この前に作られた「2番」のミサ曲は、管楽器だけのバックということでなにか落ち着きのないサウンドでしたが、これはもちろん正規のオーケストラですから、ブルックナー特有の厚ぼったい響きを持ったものです。ヘレヴェッヘは、交響曲と同様、あるところではそれをとても柔らかいものに仕上げようとしています。そして、客演している合唱も彼の意に添ったとことん柔らかい響きを目指しています。ただ、そんな美しい瞬間は、この曲の場合はあまり長く続くことはありません。「Credo」の途中、イエス・キリストが十字架にかけられるあたりは金管楽器がとろけるような甘〜い響きを作った上に、合唱がほんとに柔らかく漂っているのですが、3日後に復活した途端、オーケストラは派手に炸裂することになるのです。なにしろ、そんな具合でいたるところあのくどくしつこいブルックナー節が全開なのですから、オーケストラがそんな同じ音型の飽くなき攻撃をトゥッティで繰り広げている間は、敬虔な宗教心にはちょっとお休みを頂いていてもらわなければなりません。
その分、「Benedictus」あたりでは、本当に静かで美しいたたずまいに1曲丸ごと浸っていられます。まるでモーツァルトの「Ave verum corpus」を思わせるような柔らかい弦楽器のイントロに続いて、ソリストが歌い出します。最初に歌い出すアルトのダンツの深い響きが、それに続く他のソリストにも受け継がれ、しっとりとしたシーンが出来上がると、そこに入ってくるのがほんとにピュアな合唱、これで、まるで天上のような世界が完成します。この曲はブルックナーの交響曲の緩徐楽章のテイストをあちこちに持っているものですが、あのような大げさな盛り上がりを見せることは決してなく、ひたすら平静のまま流れていきます。最後のあたりで聞こえてくるのは、もっと作為のない平易なメロディ、そこからはまさにモーツァルトの持っていた雰囲気さえも感じ取ることが出来るはずです。
もしかしたら、ブルックナーの本心としてはミサ曲全体をこんなしっとりとした形にまとめたかったのに、交響曲作家としての体面がそれを許さなかったのでは、そんな楽しい想像さえも駆り立てられるのが、このヘレヴェッヘの演奏でした。

おとといのおやぢに会える、か。


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