食パン。.... 渋谷塔一

(04/6/30-04/7/20)


7月20日

SAINT-SAËNS
Messe de Requiem, Partsongs
Diego Fasolis/
Coro della Radio Svizzera
Orchestra della Svizzera Italiana
CHANDOS/CHAN 10214
「おやぢの部屋」を始めた時には、サン・サーンスの「レクイエム」で入手可能なCDなどはありませんでした。ですから、よもやそんな珍しいレパートリーを、メルシエ盤サイモン盤に続いてご紹介できることになろうとは夢にも思っていませんでしたよ。以前のレビューでも書いたことですが、この曲は余り良い演奏がなかったこともあって、不当に低く評価されてきたものです。しかし、例えばサイモン盤などを聴いてみれば、この曲がいかに魅力的なものかはすぐ分かるはず、そのような気運に乗って確かな名曲としての認知がなされかけているという感触を、このCHANDOS盤のリリースによって感じることが出来るのではないでしょうか。
ここで演奏しているのは、スイスのイタリア語圏に属するルガーノの団体です。全く聞いたことのない指揮者に率いられた、やはり全く聞いたことのないオーケストラは、しかし、冒頭のすすり泣くような弦楽器のフレーズから、いきなり情感たっぷりの音楽を聴かせてくれています。これは、指揮者がそのように指示をしているという次元のものではない、いかにもプレーヤーの自発的な感情の発露に感じられてしまうほどの、作為的なものが全く見られない「天然」の表現です。このような、まさにイタリア系のノリで貫かれているこの演奏によって、私たちはサン・サーンスのこの幾分俗っぽい面もある作品の、ある意味本質に近いものを感じ取ることが出来るのでしょう。どれひとつとして感情のこもっていないフレーズなど見あたらない演奏を味わった末、最後の「アニュス・デイ」の素晴らしく魅力的なメロディーに、なんの違和感もなく酔いしれることが出来るのです。
もちろん、コーラスがこのオーケストラと同じ価値観をもった演奏によって、全体を支えていることも見逃せません。決してレベルは高くはないのですが、その見るからに主体性のある意欲的な歌いぶりは、どれほどこの曲の美しさを引き出していることでしょう。ソリストたち(メゾ・ソプラノが、かつて「レ・ザール・フロリサン」の常連だったギルメット・ローレンスだったのにはびっくり)がちょっと違う方向を向いたがんばり方をしているのがちょっと耳障りではありますが、オケとコーラスはそれすらもカバーしきっています。
カップリングとして、サン・サーンスが作った合唱のためのパートソングが収録されています。ア・カペラか、控えめなピアノ伴奏が付いただけの、アマチュアの合唱団が喜びそうな曲。ルネサンス期のシャンソンを思わせるようなものから、シンプルな民謡のようなものまで、キャッチーなメロディーに彩られた10曲の小品、ここでも、この合唱団のノリの良さが存分に発揮されていて、楽しめます。後半には男声だけ、女声だけという曲もあるのですが、その男声合唱のはじけようといったら。
蛇足ですが、このレーベルのリーフレットは、なぜこんなに出し入れが難しいのでしょう。ページ数が多い上に表紙が薄い紙ですから、狭いツメに押し込むと必ず破れてしまいます。このレーベル、もしかして「VIRGIN」?

7月18日

BELLINI
Norma
Bruno Campanella/
東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場

LA VOCE/LVVC-008(DVD)
Fabio Biondi/
Europa Galante
Teatro Regio di Parma
TDK/TDBA-0041(DVD)
音楽に限らず何事にも言えることですが、「好き」であるとか「嫌い」であると決めるには、その対象物を知る必要があります。しかし、この世の中には、知らないことの方が多いと思いませんか?私にとってのイタリア・オペラは、まさにそういう存在で、ヴェルディやプッチーニは、それなりに聴いてきて自分なりの感想も持ってはいるのですが、ベッリーニやドニゼッティとなると、敢えてこちらから歩み寄るようなこともなく、今まで生きてきたように思います。もちろん、「ルチア」や「カプレーティとモンテッキ」そして、「清教徒」などは、必要に迫られて聴きはしましたが、ヴァグナーやR・シュトラウスのように、深く突っこんで調べることなんて、絶対ないだろうな、と思っていたのです。
そんな私が、先日のメイキングビデオを見て、すっかりノルマの世界に引き込まれてしまいました。もちろんメイキング映像の出来が驚く程素晴らしく、本編も見ずにはいられなかったこと。そして、どうせだったら他の映像も見てみようと思ったこと。これが「ハマる」という感覚なのでしょうね。元々、ノルマのメロディは耳に馴染んだものでした。そう、あのリストがピアノソロ用に編曲した「ノルマの幻影」。(これは私の愛聴曲でもあります。)ショパンも自らの手紙に記した通り、1800年代前半のフランス音楽界で一番人気を誇っていたのは、ベッリーニのオペラだったといわれるほど多くの人に愛された理由は、メロディの美しさと、強い女の生き方。これに尽きるかもしれません。
で、手元にあるのは、前回メイキングをご紹介した新国の公演(東京フィルハーモニー、指揮ブルーノ・カンパネッラ)と、2001年、パルマでの公演のDVD2タイトルです。新国の「ノルマ」は、以前も書いたとおり、とにかく装置が豪華です。そして、全体的に動きが多く、体中で観客に向って何かを語りかけます。かたや、パルマの「ノルマ」は、全く違った肌触り。まず音楽を担当しているのが、ファビオ・ビオンディ指揮のエウローパ・ガランテです。冒頭の響きから、耳に新鮮なことこの上なしです。その代わり舞台は静かです。合唱団たちもムダな動きは見せません。
ノルマの登場シーンもかなり異なるものです。最初から気迫で登場する、新国ノルマ、フィオレンツァ・チェドリンス。堂々とはしているものの、どこか頼りなさ気なパルマのジューン・アンダーソン。恋敵アダルジーザ役の捉え方も、全く対照的で、新国では、ノルマ>アダルジーザと描かれているのに、パルマではその反対。何しろ、この役を歌うのは、現代最高といわれるダニエラ・バルチェローナ。この配役のバランスだけを考えてみても、各々の演出家の求めることが微妙に違うんだということが透けて見えるではありませんか。
しかし、このオペラ、最近の某テレビドラマではありませんが、ポリオーネの優柔不断さにはあきれ果ててしまいます。ピアノはうまいのですが(それは「ポリーニ」)。「お前はオンナに言い寄られたら、誰にでも甘い顔するのか!」とついつい心の中で怒鳴りつけたくなるほど、情けない描かれ方。最後にノルマに追従したのは、勇気ある行動かもしれませんが、どちらにしてもアダルジーザは残されてしまうのですよ。浅はかな行動はするな!と思うのは凡人の感想ですかね。

7月16日

オペラ「ノルマ」はこうして創られる
LA VOCE/LVVC-009(DVD)
テレビの番組表で、「巨大デパートの裏側」とか、「居酒屋の新メニュー開発」みたいな、いわゆるドキュメンタリー物を見つけると、ついつい見たくなってしまうのは私だけでしょうか?以前も「北海道物産展」についての番組を見ました。デパートの催事の中でダントツの人気を誇る企画で、広告が入ると、ついつい足を運んで、“白い恋人たち”なんかを買ってしまうアレです。ついでにお総菜も(それは「トンカツ」)。これも、買い物をする側は「楽しいね」で済むのですが、開催する人にしてみれば、ものすごい手間と労力がかかっているのですね。広告に掲載する写真にまで細心の注意が払われていることを知り、頭の下がる思いすらしたものです。
そんなメイキング好きの私が、最近はまったのが、この「オペラはこうして創られる」でした。これは、2003年8月、新国立劇場で上演された「ノルマ」について、半年前から取材を重ねた映像です。「映画だったら、メイキングなんておまけで付いているじゃない!」との声も聞こえてきそうですが、まあ、オペラは映画に比べるとコストパフォーマンスが悪いので、お許しいただくことにしましょうか。
これを見て思ったことは、今は「演出家の時代」であるということです。この公演、演出を担当したのは、美しい色使いで知られるウーゴ・デ・アーナ。装置の発注から衣裳、そして演技指導まで、全て1人でこなすのです。何度練習しても、デ・アーナのお気に召さなかった男性陣の動きの部分には思わず苦笑。だって、本来颯爽と手を差し伸べるはずの場面での動きが、どう見ても「盆踊り」なのですから。「手で演技しろ」と言われても、普段そういう習慣がないのでしょうか。(このへなちょこ感は本番でもついぞ解消されることはありませんでしたが、もしメイキングをみてなければ見逃していたかもしれません。)
しかしながら、主役のノルマを歌ったチェドリンスの存在感は本当に素晴らしいものでした。有名なアリア「カスタ・ディーヴァ」。この難曲を歌う時の彼女の神々しさは言葉に尽くせません。ここでも、手の動きは重要とのことでしたが、ゆっくりと手を上げ下げする彼女を見ていたら、なんとなく「ちあきなおみ」を思い出したことも付け加えておきましょう。そして、このアリアで重要な小道具となる、はらはらと舞い落ちる宿り木の葉。所謂「消え物」の葉一枚一枚にまで心がこもっていることを知った時、改めて、このアリアの美しさと悲しさに思い至ったのでした。
そのほかにも、見どころ満載のこの映像。私は、こちらを先に見てしまい慌てて本編を見た体たらくですが、とにかく、何かを創り上げることの素晴らしさを実感できる1時間22分であることは間違いありません。

7月14日

FRANCK
Complete Organ Works
Jean Guillou(Org)
BRILLIANT/92282
その昔、私がNHK−FMにはまっていたことは、ここでも何度か書きましたっけ。オーケストラやピアノ、日曜はオペラと、色々な音楽を経験しましたが、確か、土曜の朝にはオルガン曲を集中的に紹介する番組があって、これがまた刺激的!普段親しんだオケやピアノの音とは全く違う敬虔な音色に、小さな胸を熱くした記憶があります。
普通、オルガンというと誰もが思い浮かべるのがバッハの曲でしょう。(クラシックを知らない人でも、「ちゃらり〜、鼻から牛乳」というだけで笑ってもらえますし)もちろん、この番組でも一番多く取り上げられたのがバッハでした。しかし、私は何度聴いてもバッハの作品にはイマイチ馴染めなかったのです。あまりにも書法が厳格なのか、それとも完成されすぎているのか。人間、完璧なものの前に立つと言葉を忘れ、畏敬の念を覚えると言いますが、当時、ちょっとひねくれ者だった私は、完璧さからは敢えて目を背けたかったのかもしれません。
ですから、その時にいろいろな作品を聴いた中で、私が特に気に入ったのが、リストとフランクの作品でした。殊にフランクは、とても気に入ってLPも何種類も購入するほど。(そのどれかのカップリングにメシアンが入ってて、そこからメシアン狂いが始まったのも懐かしい思い出です)フランクの和声は、時として予測もつかない進行を持ち、聴けば聴くほどに深入りしてしまうもので、「なぜこんな音が出るのだろう?」と代表作「コラール」のピアノ版の楽譜まで購入して、一日中調べたこともあったほどでした。
そんなフランクのオルガン作品集が、まさか990円で買えるなんて。さすがブリリアントレーベルです。1989年の録音で、元々DORIANレーベルから発売されていましたが、当時は4700円近くした記憶のある2枚組。因みに全集と銘打たれてはいますが、“マリア賛歌”とハルモニウムのための作品は含まれていません。
演奏者のジャン・ギユーはオルガン界のスーパー・ヴィルトゥオーゾと言われる人で、色々な名曲をオルガン用に編曲したり、オルガンについての著書があったり、ある意味「キワモノ」の一歩手前と、敬遠する人も少なくないのですが、それはそれで良いではありませんか。誰を聴くかは、リスナーのぎゆう(自由)なのですから。
とにかく、有名なコラール第3番を聴いてみてください。冒頭は、ちょっとバッハを思わせる部分もありますが、以降展開される音楽の美しく、また迫力のあること。どこぞの紹介文で「重低音の迫力」と書かれていましたが、確かに録音のよさも相俟って、身震いするほどの感動を味わうことができるはずです。廉価盤でありながら、使われているオルガン(パリのサン・トゥスタシュ教会)のパイプやストップのデータもしっかり明記されているのにも注目です。

7月12日

TCHAIKOVSKY
Symphony No.6
Neeme Järvi/
Gothenburg Symphony Orchestra
BIS/SACD-1348
CDが誕生してもはや20年以上が経過しましたが、最近では後継のフォーマットが何種類か登場、いよいよCDからの世代交代が現実的なものとなってきたのでしょうか。確かに発表当時は華々しく謳い上げられたスペックの数々は、今となってはかなり色あせて見えてしまうのは事実です。急速なテクノロジーの進歩は、かつての最先端の技術の結晶をも、いともたやすく「使えない」ものに貶めてしまうのです。
問題は、そのような「次世代」が、例によって複数存在して、それぞれのグループが少しでもシェアを伸ばそうとしのぎを削っていることでしょう。今のCDがなんのかんのと言われながらもこんなに長くスタンダードとして君臨できたのは、ひとえに早い時期での一本化が図られていたからです。確か、プロトタイプのようなものは出ていたとしても、商品としてCDに対抗するようなものは出ていなかったはず、これは殆ど奇跡といって良いのかも知れません。SACDとDVDオーディオが並行して販売されている今の状態は、決して好ましいものではありません。個人的には同じデジタルでも、今までのPCMではなくDSDという方式で録音されたSACDの方が、生き残るのではないかと思っているのですが。
そんなSACDですが、最近では価格も下がり、なによりも「ハイブリッド」ということで、CDプレーヤーしか持っていないユーザーにも配慮したレイヤーが設けられているメリットによって、かなり浸透してきているようです。今回のヤルヴィの「悲愴」も、そんなSACDハイブリッド、そもそも録音の良さが売り物だったこのレーベルであれば、こちらの道を取るのは当然の流れなのでしょう。
この演奏、金管楽器の素晴らしさには耳を奪われてしまいます。第1楽章、しばらく暗い音色のヴィオラ以下の弦楽器や木管楽器の渋い音に、それこそ悲愴感を募らせたくなったまさにその時放たれるトランペットの一撃で、今までのものとはまるで異なる風景が眼前に広がるのを、誰しも感じるはずです。ヤルヴィと、彼が長年音楽監督のポストにあったこのスエーデンのオーケストラは、まさに、そんな既成概念にどっぷり浸かっていたこの交響曲から、見事なまでの生命観の発露、言い換えれば「華やかさ」を引き出していたのです。第1楽章の有名なピアノが6個付けられた、通常はバスクラリネットで代用される消え入るようなフレーズを、あえて楽譜通りにファゴットで吹かせているのも、そのような音色を求めたからなのでしょう。
同じようなアプローチは、カップリングの「フランチェスカ・ダ・リミニ」でも顕著にみられます。この、「涙そうそう」でブレイクしたとは言え(それは、「夏川りみ」)あまりにとらえどころのない冗長な曲が、彼らの手になると最高にドラマティックなものに変わるのです。
この2曲、録音時期に半年ほどの隔たりがありますが、「悲愴」がチェロが右端という普通の並び方なのに対し、「フランチェスカ」は低弦が左奥の両翼配置、そんな細かい違いがはっきり分かるこの素晴らしい録音のCD、その炸裂する金管と、ホールトーンによる残響を、ぜひSACDのサラウンドで聴いてみたいものです。そう、私はまだSACDプレーヤーを持っていないのです。

7月10日

A Quiet Thing
David Daniels(Voice)
Craig Ogdon(Guit)
VIRGIN/VC 545600 2(CCCD)
日頃、テレビをあまり見ない私です。それなのに妙に気になるCMがいくつかあります。その一つが「シェーバー」のもの。最近までは3枚刃でもスゴイ!と思っていたのですが、ついに「4枚刃」!とにかく徹底的に剃り残しを防ごうとするメーカーの努力にはひたすら頭が下がるものです。そのCMが印象的なんです。みるからにおネエ系のキャラに「4枚目がいいの」と言われると、「そうか、こういう人は剃り残しがいやなのね」とか、「ああ、今は2枚目でも3枚目でもなく、4枚目の時代なのね」と、納得してしまうのです。確かに、最近はジェンダーもボーダーレス。色々なところで妖しい人を見かける機会が多いものです。歌の世界でも、シュツッツマンの冬の旅が注目されたり、日本ではあの「岡本知高」が大ブレイク。きっと不思議な声には耳を欹てる力があるのでしょう。
今回の1枚。カウンターテナーのデイヴィッド・ダニエルズの歌です。ダニエルズという人は、言ってみればカウンターテナー界のスーパースター、ヘンデルのオペラなど、かつては「カストラート」が担っていたパートを歌うのには欠かせない存在になっています。先日もテレビで「リナルド」のライブを見たのですが、超絶技巧のアリアを歌い終わった時の歓声のものすごさには、ちょっと驚かされてしまいました。大きな声で「ブラヴォー」とか(それは「怒鳴るど」)。
このアルバムは最近発売のものではありません(何しろコピーコントロールです)。しかし、いつも行くCD屋さんで「夏にいい1枚」と紹介されていたので、「ふ〜ん」と思い手にとったら、確かに良いのです。選ばれている曲は、ダウランドやパーセルから、バーンスタインまでおよそ500年の年月をまたいだもの。これらが1枚のCDに収まっている姿は壮観です。全てがギターの伴奏に乗って歌われるのですが、これがまた絶品。決して静かとはいえないCD店のストアプレイでも耳に残るのです。ですから、夜、辺りが静かになって、そっと耳を傾けた時の感動。これはもう言葉に尽くせません。ソプラノやテノールで朗々と歌われるのとは全く違った世界、カウンターテナーという独特の声が、この思いに拍車をかけるのです。ぽつぽつと爪弾かれるギターの素朴な響きに調和する、女声とも男声とも判別がつかない声。歌の内容がどんなに現実的であろうとも、なにか別世界のことのようなあやふやさを感じてしまうのです。
とかく物事を曖昧にしておくのが悪いように思われている今日この頃だからこそ、(学術的には必要なのかもしれませんが)こういう、「どちらでもないもの」も歓迎されるのでしょうね。

7月7日

Apocryphal Bach Cantatas II
Wolfgang Helbich/
Alsfelder Vokalensemble
I Febiarmonici
CPO/999 985-2
最近のバッハ研究の成果には驚くべきものがあり、1950年に出版されたバッハ作品目録(BWV)の中から、「実はバッハの作ったものではなかった」という、いわば真っ赤な偽物を容赦なく選別してしまいました。一度はバッハの作品として認定されたものが、まるで親子のDNA鑑定のようにすげなく縁を切られてしまっては、かわいそう、と思ったのかどうかは分かりませんが、こんな「偽作」カンタータだけを集めたアルバムが作られました。しかもこれは第2集、その愛情はハンパではありません。
全部で4曲収録されていますが、そのうちの2曲(BWV141BWV160)は、ゲオルク・フィリップ・テレマンの作だと特定されているものだそうです。降臨節の第3日曜日のために作られたBWV141にしても、復活祭のために作られた、テノールのソロカンタータのBWV160にしても、聴いただけではこれがバッハではなくテレマンなのだ、というような強烈な特徴はありません。逆に言えば、これらの曲は、まさにこの時代のドイツ各地のカントールが教会のために作ったカンタータという以外の何者でもないという、ある意味作曲者の名前を離れた存在として聴くことも出来ると言うことにもなります。たとえてみれば、細野晴臣でも尾崎亜美でも松任谷由実でも、全て「松田聖子のヒット曲」という範疇で語られれば、個別の作曲者の違いなど認知されないというJポップにおける現実と同じようなものなのかもしれません。
そこへ行くと、他の2曲では、明らかにバッハからは得られないような別の個性のひらめきが感じられて、なかなか興味深いものがあります。まず、クリスマスのためのカンタータBWV142では、全く同じダ・カーポ・アリアを最初はテノール、そしてレシタティーヴォを挟んで次にアルト(ここでは男声アルト)に歌わせるということをしています。バスの半音進行が印象的な、とてもキャッチーなメロディー、もう一度聴いてみたいな、と思っていると、それが別のキーで、オブリガートもテノールではオーボエ2本だったものが、次のアルトではリコーダー2本と変わり、ダ・カーポでの装飾も華々しく登場してくれるのですから、嬉しくなってしまいます。「バッハの真作ではない」と言うだけの理由で葬り去られてしまうところだったこんな素敵な曲が、きちんとCDとして残るのですから、こんな嬉しいことはありません(本当の作曲家は明らかになってはいません)。
そして、驚くほどダイナミックな構成を持つ、復活祭のためのカンタータBWV15。元々は従兄のヨーハン・ルートヴィヒ・バッハが作ったものなのですが、バッハはわざわざ自分で写譜をして、実際にライプチヒで演奏したということです。大バッハにそこまでさせるほどの、確かに卓越した魅力を持ったカンタータです。
演奏者は、合唱もソリストもしっかりと神経の行き届いた、しかし、余分な力の抜けた、実に爽やかなものを聴かせてくれています。「バッハの」というブランドがなくても充分に感銘を与えうる作品が同時代にはいくらでも存在していたという事実が、この心のこもった演奏から見事に浮かび上がってくるのです。

7月5日

MESSIAEN
Poèmes pour Mi etc.
Gweneth-Ann Jeffers(Sop)
Stephen De Pledge(Pf)
Daniel Pailthorpe(Fl)
BLACK BOX/BBM1090
最近、店頭で「チャイコフスキーの全て」とか、「大作曲家ベートーヴェン」などの作曲家に焦点を当てたCDを良く見かけます。これは、クラシックを聴きはじめた人にとって、特定の作曲家を知るために最適のアイテムといえましょう。よく知られた曲をバランス良く配置して、簡単な伝記を付ければ出来上がり。ただ、悲しいことに、これらの企画は有名作曲家に終始するのがほとんどで、「大作曲家ケックラン」とか、「ソラブジEVER」なんてアルバムは永遠に発売されることはないと思われます(そら、無理だ・・・)。
さて、何かと不思議なCDをリリースすることで知られているレーベルBLACKBOXですが、ここが今回も興味深いアルバムをリリースしました。このアルバム、収録曲は、まず「ミのための詩」、これは28歳のメシアン、初期の歌曲ですね。そして24歳の時の作品「主題と変奏」、そしてあの「幼子」の第14曲、第15曲。フルーティストにはおなじみの「クロウタドリ」、ピアノのための「鳥の小スケッチ」(これはメシアン晩年77歳の作品)というもの。メシアンの数多い作品の中から、彼の作風が一瞥できるように注意深く選曲されています。まさに「メシアンを聴いてみませんか?」とも言える1枚です。う〜ん。さすが。その上、この曲集、既存の音源からの編集ではなく、全て新録音!このアルバムのために演奏されたのですから、やはり企画の段階で「メシアンをもっと多くの人に知らしめよう」という考えが働いていたに違いありません。何とも嬉しいアルバムではありませんか。
「ミのための詩」についてちょっと触れておきましょう。これを歌うソプラノ、ゲネス=アン・ジェファーズの独特な歌い方が面白く聴けます。第1曲目「感謝の行為」での
 〜空、そして水、降りしきり、やがて雲へと形を変える・・・・
    そして大地と山、永遠に待ち続ける・・・・
ここでの濃厚な歌い方は今まで聴いたこの曲のどれとも違う味わいです。まるでシェーンベルクの初期の作品のような、濃厚なエロティシズムが横溢した仕上がり。とにかく吐息が色っぽいのです。絶え間なく流れ続けるピアノの長三和音(これはメシアンの生涯守り続けた作風です)。そしてのた打ち回るような歌声。ただ流れに身を任せる快感は一度覚えてしまうと抜けられなくなります。彼女の歌い方は全てこの調子で、メシアン歌曲特有の言葉遊びがたっぷり詰まった第4曲「恐い」での「ha,ha,ha,ha,ha,ha,ha・・・・・・」の艶かしさといったらたまりません。背中を心地良い羽箒でさすられるようなゾクゾク感といったら・・・・。
あと、メシアン唯一のフルートのための作品「クロウタドリ」でソロを吹いているのは、イギリス・ナショナル・オペラの首席奏者を経て、現在はBBC交響楽団の準首席奏者をつとめているダニエル・ペイルソープという、このレーベルではおなじみのフルーティストです。最初の音から金属ではない木製の楽器だと分かるまろやかで暖かい音、ここからは、官能性とは無縁のメシアンの世界が広がります。

7月2日

GESUALDO
Tenebrae Responsories for Maundy Thursday
The King's Singers
SIGNUM/SIGCD048
1968年、ケンブリッジのキングズ・カレッジ聖歌隊出身の6人のメンバー、ナイジェル・ペリン、アラステア・ヒューム(カウンターテナー)、アラステア・トムソン(テナー)、アンソニー・ホルト、サイモン・カーリングトン(バリトン)、ブライアン・ケイ(バス)によって結成されたコーラスグループが、キングズ・シンガーズです。アルバムはEMI系列のレーベルから出ていましたが、その国内盤を東芝EMIではなく、ビクター音楽産業(当時)が「一本買い」で発売していたのも、特別な「売れ線」と認識されていたからなのでしょう。確かに、「マドリガル・コレクション」というその国内盤デビューアルバムは、記録的なセールスを獲得したはずです。1979年に初来日、テナーがビル・アイヴズという、オリジナル・メンバーのトムソンより甘い声の人に代わっていましたが、彼の魅力もあって、このグループは日本中の合唱ファンを虜にしてしまったのです。当時は珍しかったカウンターテナーを含む男声だけのアンサンブル、ルネサンスのマドリガルから現代曲、さらにはポップス・ナンバーまで網羅するという驚異的なレパートリーと、もちろん、完璧なコーラスのテクニックで、その人気は揺るぎないものになったかに見えました。事実、特にコンサートにおけるエンタテインメントにあふれた演奏には多くの人が魅力を感じたのですが、その結果、実はルネサンスあたりの宗教曲にこそ卓越したものを持っていたものが、やや、聴衆の望む安易なレパートリーに流されてしまった感は否めませんでした。しばらく経つうちに、徐々にメンバーも代わっていきますが、1986年にビクターが国内規格としてビートルズ・アルバムを制作する頃になると、テナーはロバート・チルコットという全くどうしようもない人になっていました。これが潮時、私はもはやこのグループに肩入れすることをやめてしまいました。赤チンを付けて(それは「消毒」)。
それからどのぐらいの年月が流れたのでしょう。TELARCからビートルズ・アルバムが出た時には、メンバーは全て新しい人に代わっていましたよ。ノリの悪いその録音からは、もはや行き場を失った彼らの姿が見えてしまったものです。ところが、最近になって、突然SIGNUMというマイナーなレーベルからクリスマス・アルバムが出ました。
SIGCD502
これが、とてもしっとりとした良いアルバムだったのです。デビュー当時、いかにもウケを狙ったアレンジの「もみの木」が収録されたクリスマス・アルバムを出していた彼らとはとても思えない(もちろん、メンバーは全員違っていますが)真摯さが感じられるもの、もしかしたら、彼らはエンタテインメントとは一線を画した道を歩み始めているのかもしれません。
そして、同じレーベルから続いて出たのが、このジェズアルドの「聖木曜日のテネブルとレスポンソリウム」という、渋〜い曲です。どうやら、彼らはこのレーベルから、タリスの全集とか、タヴナーの新作とか、とことん渋いところを体系的に録音していくようですね。しかし、このようなレパートリー、「コンソート・オブ・ミュージック」のエマ・カークビーのパートを知ってしまった私たちには、彼らのカウンターテナーによるトレブル声部はいかにも淡泊に聞こえてしまいます。この際時代を少し戻して、「プロ・カンツィオーネ・アンティクヮ」あたりに思いを馳せるのが、これからのキングズ・シンガーズを聴く上での私たちのひとつのスタンスなのかも知れません。

6月30日

CHOPIN
Songbook
Inga Lewandowska(Vo)
Kuba Stankiewicz(Kbd,Arr)
CD ACCORD/ACD129-2
たった39年という短い生涯の間に、たくさんの美しいピアノ曲を書いたショパンですが、彼が生涯に渡って、いくつかの歌曲を書いていたことはあまり知られてはいません。CDにしても、ピアノ曲なら、それこそ「売るほど」あるのに、歌曲のCDは現在入手可能なものが3枚あればいいほう。5〜6年前までは、アシュケナージとゼーダーシュトレームの名演がありましたが、それすらも、現在廃番というのですから。
その「知られざる名曲」ショパンの歌曲を、ジャズにしたというCDが彼の祖国ポーランドで制作されました。もともとメロディの美しい(通俗的ともいう)夜想曲や、幻想即興曲などは、今までにも様々なアレンジで姿を変え、私たちの耳を楽しませてくれていますが、やはり、歌曲に関しては、原曲自体が知られていないせいもあり、こうして、聴いてみるととてもとても新鮮。ついつい、もう一度曲の成立から調べてみたくなるほどの魅力的なものでした。
ピアノ曲では、あれほどまでに先駆的な作品を書いたショパンですが、歌曲に関しては、一貫して、単純な形式を守り続けました。死後出版された19曲のうち、殆どは、彼が生涯愛したマズルカのリズムに乗って歌われ、曲の形式も簡素なもの。ピアノ伴奏部も「えっ?これがショパンの書いたものなの?」と目を疑うほど、初見でも弾けてしまうくらいの簡単なものが殆どです。もともと出版するつもりもなく、単なる感情の発露として書かれた曲。だからこそ、彼の本心がいやでも透けて見えるという曲たちでもあるのです。恋する時は幸せな歌、祖国を思う時は激しい歌、そして失恋した時は悲しい歌。生涯のエピソードに寄り添うかのように、どの曲もひっそりと息づいているのです。
アルバムは2枚組で、全19曲のなかから9曲選んでアレンジされていて、1枚はポーランド語、もう1枚は英語の歌詞が付けられています。曲のアレンジはほとんど同じなので、ただただ言葉の響きの違いを楽しむためのもののようです。俺んちでは、ほとんどポーランド語など耳にする機会がありませんから、英語版ともども歌詞を見ながらしみじみ聴いてみることにしましょう。
どちらのCDも、第1曲目は「悲しみの川」から始まります。「7人もの娘を、戦争か病で失った母の涙。その涙を川に流したせいか川の色は濁る。」ワルシャワを発ち、ウィーンに向かう頃書かれたこの歌は、彼の祖国への思いが込められています。原曲はかなり淡々とした歌なので、この曲がどんなジャズになるんだろう?と心配してしまいましたが、聴いてみるとこれがまた良いのです。ヴォーカルのレワンドウスカのけだるい声、極めてオーソドックスで落ち着いたアレンジ。もちろん、中間部のインプロヴィゼーションもお約束どおり。ロシア語や、チェコ語もそうですが、ポーランド語も、語尾に独特の粘りがあり、それが上手い具合に、美しい余韻となって心にひっかかります。
どの曲も、美しくオシャレに生まれ変わっていますが、悲しいかな原曲があまり知られていないため、聴いているうちに、「もとショパンの曲」ということは忘れられてしまうかもしれません。ま、そういうものがあっても良いのでしょうね。

おとといのおやぢに会える、か。


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