中島飛行機の想い出 「後期」

斎藤氏の「中島飛行機の思い出」はさらに続く・・・。

 太平洋戦争が始まる直前の1940(昭15)年、航空機の飛躍的増産に向けて、新しい海軍機の工場・小泉製作所が竣工し、斎藤昇氏はそこに転籍となって生産を担当する。 さらに戦火の広がる中で1942年には更なる増産を目論見、栃木県の宇都宮に陸軍機の、愛知県の半田に海軍機の生産工場を新設することが決定され、斎藤氏も翌年には半田製作所に転勤となった。
  (以下、斎藤氏の原文通りであるが、一部数字や時点など記憶に誤解もあるので、ご承知おき戴きたい)

小泉製作所時代 1.(昭和15年 1940年)

 昭和15年(1945)を迎えて、中島飛行機では機体(陸・海軍機ともに)を生産しているのは膨大な太田製作所(現在の富士重工業群馬製作所・本工場)だけであったが、一つの工場としては管理上からしても既に限度に達し、かつ陸・海軍機共通(の生産)では混乱の原因ともなり、今後の発展拡張に不便となったので、陸・海軍機の生産を分離することとなった。

 先年来、海軍機体関係の工場として、太田の隣の小泉町に小泉製作所(現大泉町の三洋電機工場)の建設工事が進められていたが、昨年は急速に工事も進展してきたので、部分的な移転がボツボツ始められていた。

この小泉製作所の宗律は、正式には昭和15年2月となっていたが、実際に移転し始めたのが4月頃からで、完全に整備され移行が完了したのは昭和17年頃のようだった。しかし、16年頃には先ず使用も可能なまでに整備された。

 この小泉製作所は、太田製作所の南方約6キロメートル余りに位置し、敷地は45万坪で、完成の暁には名実ともに東洋一を誇る整備された大工場となった。 

 そして太田製作所との中間の小泉寄りの所に1300メートルの滑走路を有する太田飛行場が出来て、太田・小泉の両製作所から完成機運搬の専用道路で連結されていた。(戦後も長らくこの道路は「専用道路」と呼ばれていた。当時は完成した機体が主翼を広げたままこの道路を滑走路に向けて進んでいった)

 工場の建設にともなって住宅も、小泉・道祖・高林の3地区に出来た。工場の東側には総合大運動場や総合病院、航空学院(学校)も完備された。また工員輸送のため東武鉄道は太田から小泉製作所前の西小泉駅まで鉄道を建設した。職員の輸送には数十台の自家用大型バスがこれに当り、利根川畔の原野は一朝にして大変容をきたしたのであった。

 昭和15年度の機体生産(太田製作所)は、97式戦闘機、97式重爆、97式1号艦攻、97式3号艦攻、100式重爆、

 1式戦闘機で、1式戦闘機キ43は「隼」と命名され、エンジンは950馬力のハ25が装備され、515キロメートルの速力を出したもので、通算して3128機も量産された。 また8月から試作に着手されたキ44(2式単座戦闘機・鐘馗)は重戦闘機として生まれ、速力は605キロメートルを出し、通算1216機が生産され、ともに太平洋戦争で活躍した期待であった。 なおダグラスDC3型も本年から生産に入った。(中島飛行機の各機種の解説はこちらをご覧ください

  

 ここで100式重爆・呑竜の貴重な生産風景を紹介しよう。
-詳細はこちら
 
          
 

 大型試作機の「深山」(中島呼称LX、13試陸攻)も作業に着手されたが、中島では初めての4発大型機であり、そのため太田製作所内に大型試作工場が新設された。これをLX工場と呼んだが、その大規模な準備や設備、段取りには全く驚嘆させられた。本機は翼幅41メートル、発動機は初め「護12型が搭載されたが、後に火星に改装された。翌昭和16年には小泉製作所内に試作工場が完成したので、本機も太田から小泉に移行し、同年4月には完成試飛行が行われた。 なおこの他にも13試双発3座戦闘機(J1N1、後の月光になる原型)の試作にも着手せられた。

 その頃、私は受持ちのG33M2(三菱設計の96式陸上攻撃機「中攻」)の準備を進めるため、最初は太田に治具を据付けしたが、近き将来に小泉に移転せねばならないし、太田と小泉の双方で作業するのは必ず支障をきたすので、第一号は多少遅れても将来を考え、監督官(軍人)の許可を待たずに(監督官は初号機の完成が遅れるのを恐れて許可しなかった)独断で治具を小泉に移転したので、米沢大佐(後には半田製作所の監督官)から大変なお叱りを受けたことはあったが、結果は私の予想どおりであった。

かくして小泉製作所が建設されたので、製作所長も太田は大和田繁次郎氏、小泉は吉田孝雄氏(戦後に富士重工業社長)が任命された。

 なお本年9月27日には、かねてベルリンで交渉中であった日独伊3国間の(軍事)同盟が決定調印されたし、大政翼賛会の発会式も10月12日に挙行せられて、挙国一致の体制は着々と進捗、太平洋戦争への準備工作は歩一歩と前進の道をたどったのであった。このため全国のあらゆる協会とか、組合、何々会といったものは次第に翼賛会に統合せられるようになった。

 

 

左の地図は、太田製作所と、その南門から南東に延びる専用道路で、太田飛行場と結ばれていた。

また東武鉄道が製作所の南で分岐され、小泉方面に延びている。

(この地図は昭和40年頃のもの)

    太田製作所は
     敷地22万51千坪
     建物 6万坪
     従業員 2万4千名

 

 

黄色い部分が太田飛行場である。
 敷地は30万坪
 滑走路は長さ1300m、幅70m

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    【参考追記】
     昭和12年(1937年)の盧溝橋事件を端とした日中戦争は泥沼化し、この年の前年にはノモハン事件にて対ソ戦で手痛い打撃を受け、また天津事件などで英米との軋轢が表面化し、米国は日本との通商航海条約を破棄することとなり、日本は石油を中心として資源を米国に頼っていただけに、その危機感は絶大なものとなってきた。
     おりしも欧州では第二次大戦が勃発し、ドイツの快進撃が日本にも大きな刺激になって、歴史の駒を不幸な道に進めた。この昭和15年には米国は日本への鉄屑(鉄鋼生産には必需)輸出を禁止し、さらに緊張が高まる中、日独伊三国軍事同盟が調印され、また日本は紀元2600年祭を行って、大政翼賛会を成立させてあらゆる政治社会言論活動を統制一本化させて戦争準備への道を邁進する年になった。 しかし、一方では何とか外交で日米の衝突を避けるための努力も続けられていた。

小泉製作所時代 2.(昭和16年 1941年)

 かかる体勢のもとに昭和16年を迎えることとなったが、我が国の第二次大戦参加の日が刻々迫ってきたのであろうか、飛行機の生産は急速にピッチを揚げねばならぬ状態となった。 また生産の機種も多くなった。

 97式戦闘機、97式重爆(351機生産)、1式戦闘機、97式1号艦攻(300機生産)、97式3号艦攻(150機生産)、100式重爆、零式輸送機(DC3)、キ58支援戦闘機(呑龍に多数の機銃で装備した機体の試作3機)、キ80多座戦闘機(同様に編隊先頭機試作2機)、2式単座戦闘機、96陸攻、13試双発3座戦闘機および夜間戦闘機に改修した「月光」などである。

 そして三菱設計の零式艦上戦闘機を中島でも生産することtなり、1月末に三菱と打ち合わせのため、当社から関係部門の人たちと共に私も出張して、現図や規範、治具、その他参考資料を得て直ちに清算準備に取り掛かった。 またこの戦闘機を水上戦闘機に改造したもの(2式水戦)、すなわち単浮舟(フロート)を装着して12月8日に試飛行することができた。 本機はアッツ島作戦やその他で相当活躍したもので引続き327機生産された。

 なお、後年半田製作所において生産された14試艦攻(天山)の試作も本年に着手せられたのであった。

 私の担当する96陸攻も1月末に第1号機が完成し逐次生産をあげていった。2月から3月にかけて、基準翼関係と油槽覆に使用されたジュラルミン板に未熱処理のものを使用した疑いを生じ大問題を引き起こしたが、調査の結果完成機体には未だ使用されていなかったのは幸いであった。

 完成が急がれていた太田飛行場も2月15日には盛大な開場式が催され、各種の飛行機が乱舞して気を吐いた。

 前述したように、小泉製作所の建設が進むに従い厚生福利施設関係も着々と整備されてきた。総合運動場、病院、遊園地、社宅など整備されたし、太田工場に程近い金山山麓には、これまた豪壮な職員倶楽部(右写真)も建設され、来客のサービスや、休日には家族連れで映画を観賞しながら、安価でしかも美味しいものが食べられて全く楽しい思い出を残した。

 話は後日のことであるが、半田製作所建設当時、当地方では、三菱・愛知・川崎は知っていても、中島の存在を知る者は誠に稀でコッケイなほど認識不足であった。たとえば、中島には自動車が5台くらいあるか?など聞くものさえあるのには全く驚いた。

 そこで中島飛行機の認識を深めてもらうため、中京ならびに半田地方の報道機関や役所、有力者等関係者を招き、中島の各製作所を視察してもらったが、この倶楽部に案内案内した際、その豪華なことに「名古屋の観光ホテルより立派だ」と感嘆された。 終戦後は米軍の接収するところとなり、失火にて焼失したのは誠に惜しいことであった。

 さてこの頃になっては最早日本の第二次大戦参加も時間の問題となってきたように感ぜられた。 米英の我が国に対する圧力はとみに増加し、我が国が最も必要な石油などの輸入も極度の制限を受けるようになった。 

 国内における消費物資の制限も急速に厳しさを増してきた。 4月1日には遂に食料も制限され、米穀の通帳制が実施せられ、一般青年者は1日1合3勺と云ふ誠に窮屈な配給となった。 

 之に伴い穀物の移動は実に厳しく取締られた。 当然闇買いが始まったのもこの時分からのようだ。 次は金・ダイヤモンド・金属類の回収となって、トタン板まで剥ぎ取られた。 最早この頃には紙類・砂糖・油・石鹸・フィルム・その他日用品も相当姿を消して来たので、この情勢を早くも洞察して早手回しに買いあさりに奔走したので、昨日まであったと安心して買いに行ったらもう姿を消している有様。 悪徳商人はまた店の品物を引っ込めて取引を有利に持ち込む始末となってきた。 この為私達は益々不自由を重ねなければならなくなってきた。 かような状態は都会ほど敏感で、片田舎まで影響するには相当時間もかかった様だが、都会との繋がりの深い田舎は割合に早かった。 私たちのような、政治・経済・処世に疎い人間は、あれよあれよと言ってる間に世の中から取り残されたようなもので、これはと気がついた時には何も得ることが出来ない状態であった。

 最も之等の物資が不自由になる兆候は既に昭和13年頃から出ていた様であったが、それは限られたもので一般大衆には気に留めるほどのものではなく、ましてや太平洋戦争まで勘定に入れて考える国民はそれ程あったとは考えられぬ。 私達の馴染み深い小学校が、国民学校と看板を替え、先生が教官と称するようになったのも、この4月からであった。

 7月3日、太田町の野球場で戦前最後となった都市対抗野球の関東大会が開催されて、中島からは2組のチームが参加し、その2チームが決勝戦に残ったので、野球部OB組は決勝戦を棄権して例年出場の若手現役「雄飛」チームに勝ちを譲り、東京大会に出場させたもので実に珍しい出来事を記録したのであった。
 
【追記】都市対抗野球について著者は開催年を間違えたようだ・・・。
 この年1941年は戦火の拡大と集会禁止令発令により、開幕直前に中止となった。 戦前最後の第16回都市対抗野球大会は翌1942年8月1日から8月7日まで後楽園球場で開かれた。 この年は太平洋戦争で日本が比較的優位に戦況を進めていたためか、当局は「銃後国民の戦意発揚のため」に都市対抗野球大会の実施を許可され、2年ぶりに開催された。 中島飛行機の太田雄飛倶楽部は北関東地区で優勝し、4回目の東京本大会出場で、一回戦で呉海軍工廠と対戦し7対2で勝ち抜いたが、2回戦で大連実業団(中国)に敗退している。 戦後の都市対抗野球は1946年に再開しているが、中島は富士重工チームとなって1957年(昭32)に再起を果たし東京本大会に出場した。

 しかもこの大会で思い出されるのは7月5日の準決勝の最中に当社の四宮飛行士の殉職の悲報に接したことであった。 氏はその日、陸軍機を立川飛行場へ空輸中埼玉県下において墜落死されたもので、名パイロットとして知られた人がどうして平凡な空輸中にこの事故が発生したものか、まったく夢のようであった。 7日の告別式は社葬で盛大に行われた。

 7月10日には多年の念願であった関門海底隧道が最後の発破によって貫通され世紀の偉業達成に一歩前進したのであった。 また12月には当社の海軍関係発動機製作所として東京都下に多摩製作所が創立されて生産が開始された。

 そして、12月7日には島田海軍大臣の来社視察があったが、実に悠々たる落着きに、私達は米英に対する宣戦布告の前日とは想像も出来ない静かなものであったが、翌8日は我が国民の生涯忘れ得ぬ大戦参加の火蓋が切って落とされたのであった。 

 わが軍は米英の軍事拠点である、ハワイ・ミッドウェー・ウェーク・シンガポール・マニラ・マレー・香港などの奇襲攻撃は全世界を震駭せしめた。私達はこの日の戦果発表に際して全員中央広場に集合して大日本帝国万歳を声高に三唱した。

航空母艦を発進する97式艦上攻撃機

 

 

 

 

これは小泉製作所周辺地図。

この北側に太田飛行場がある。同様に専用道路で結ばれていた。

 

    小泉製作所は
     敷地30万坪
     (他に関連施設15万坪)
     建坪10万坪
     従業員数3万人

 

太田製作所レイアウト図(左)と

  下は米軍撮影の航空写真

                    
 
小泉製作所(下)配置図
  (注意:縮尺は多少異なります)
【参考追記】
 日米の全面衝突を避けようとする外交派と、最早戦争は避けられないとする交戦派の双方の動きは続いていたものの、新聞を含む世論は、「敵何するものぞ」との勇ましい太鼓をたたき続け、また米国も日本への石油輸出を禁止したことから、ますます交戦派が優位となっていった。
 この年の初めの松岡外相訪欧で、ドイツ・ヒトラーとの会談の成功から「米英にドイツは勝つという確信」を描き、そしてソ連・スターリンとの会談で日ソ中立条約締結に至って、日本は北方の守りは安心と考え、南の資源確保に向けて南進の方策を決め、インドシナ半島に軍隊を突如送りこみ、これが米英と対決する太平洋戦争への決定的な引き金となった。(当時の状況を知るために簡潔に記載しました。ただ、こんなに短い話ではませんので、詳細は半藤一利著の「昭和史」平凡社をご覧ください。中々面白いですよ。)

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