406.海軍陸上攻撃機「深山」(中島十三試陸攻)

Nakajima Experimental Attack-Bomber "SHINZAN"

全幅:42.14m 、全長:31.01m、 総重量:32,000kg、 最大速度:420km/h
発動機:中島「護」11型 空冷複列14気筒1,870馬力×4 、
搭載量:8,050kg、爆弾:1,500kg×2または250kg×12
武装:20mm機銃×2、7.7mm機銃×4、乗員:7名
初飛行:1941年4月
              Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏  1978年カレンダー掲載

 海軍は昭和12年(1937年)開発中の十二試陸攻(後の一式陸攻)や中攻よりも、さらに攻撃力や航続力の大きい4発大型陸上攻撃機の試作の内示を発令した。

 その開発の参考とする為に昭和14年、海軍は当時米国で開発が始まっていたダグラスDC−4Eの完成機を大日本航空名義の民間旅客機目的と偽装して、1機 200万円で製造権も含めて輸入した。 この輸入機は羽田で組み立てられ、すぐさま極秘裏に霞ケ浦の海軍飛行場に空輸され、飛行調査の後、分解調査に付された。 この頃の米国の完成機輸入には構造計算書などの資料が添えられていたこともあり、大型機の構造設計手法だけでなく、操舵装置や降着装置の高圧油圧制御方法など日本の技術者たちは、その新しい技術に感嘆するとともに、まなじりを決して大型機技術の多くを学ぶことが出来た。

 中島では、松村健一技師を設計主務者として既に本格的な4発大型攻撃機の設計に取り組んでいたが、深山はこのDC−4Eの調査結果を参考とし、日本機で初の本格的な大型機に不可欠な高圧油圧制御技術の採用に取り組んだ。 一方、胴体形状などは攻撃機としての独自の設計であり、また垂直尾翼はDC−4Eが独特の3枚翼に対し深山では2枚になっているなど大きく異なっていてる。それは後部銃座を設けたこともあって、尾部のデザインは他の日本機にはみられないオーガニックで実にユニークな形状をしている。 

 発動機は中島製の1,870馬力「護」を予定したが開発が遅れ、試作1〜2号機は三菱の「火星」1,530馬力を搭載することとなった。 昭和16年、着手から3年を経過して勇躍試作1号機が完成し4月初飛行に成功して海軍に領収され「深山」と命名されたが、機体に対し発動機の非力は如何ともしがたく、早々に発動機の性能向上が要求され、開発の遅れた「護」発動機が搭載された「深山改」の増加試作3〜6号機が製作されたが、発動機の不調に加え、初の高圧油圧系統の信頼性が低く故障や事故が続出した。 

 当時の日本では小型戦闘機や爆撃機では傑出した技術力を発揮できたものの、この様なB-29にも匹敵する大きさで機体重量が20トンを超す大型機を消化するだけの個別の機能部品材料技術を含め関連する生産技術は勿論、用兵技術も確立できなかった。

 そのため試作機は攻撃機としては目的を果たせず、4機が武装などを全て外し輸送機として使用されたが、口の悪いパイロットからは「馬鹿鳥」とまでいわれる始末であった。 しかし日本には補修用の大型の航空エンジンやプロペラをまるまるで運べる輸送機が他にはなく、深山はその目的のためには重用されたともいう。 1号機はテニアン・サイパン方面への輸送任務の時に現地で破損。 2号機は台湾から鹿屋基地に帰等の時に損壊した。 そして小池さんのイラストとなっている3、5号機だけが相模原航空隊で終戦を迎えている。

 

 なお上記のDC−4Eの「E」はExperimentalの略で米国でも試作の1機(右の写真は羽田で一般公開された時のもの)で、米国では日本が独自の大型機開発に利用するのではないかとの疑いももたれたようだが、結局は戦前にアメリカから滑り込みで輸入され、米国からの最後の輸入飛行機となった。 しかし皮肉なことに米国でもDC−4Eの開発は大変更となり、大量生産され戦中戦後にわたって大活躍した“本物の”DC−4/C−54は、DC−4Eとは全く違った引き締まって合理的で優れた設計の名機となっていたのである。

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