オウムと全共闘

小浜逸郎 (草思社、1995)

 

オウム真理教事件は戦後の日本における宗教関連事件としては最大のもので、私たちに計り知れない衝撃を与えました。多くの人が次のような問いを突きつけられたと感じたはずです。

  • なぜ、知的に優秀な多くの若者が、かくも怪しげな宗教を信じることができたのか。
  • なぜ、自由で豊かで平和な日本に、かくも閉鎖的・反社会的な集団が成立したのか。
  • オウム真理教を「宗教」としてどう評価すべきか。他の宗教とどう違うのか。
  • オウムの「革命運動」的主張や行動を、思想的にどう評価すべきか。
  • 怪しげな宗教にだまされないために、個人としてどうすればよいのか。
  • 過激な宗教の発生を防ぐために、社会はなにをするべきか。
  • 現代人は宗教一般に対して、どう考えるべきか。

この事件についてはマスメディアを通じて、さまざまな意見が語られましたが、本書は私の知る限り最も優れたものです。大意は次のとおり。

いつの時代にも若者は(特に知的な若者ほど)理想主義に惹かれ、超越的観念に憧れやすい。その意味でオウムは、かつての全共闘運動と同根である。オウムは社会と歴史から自らを断絶させている点で後者とは異なるが、このような集団が現れたこと自体は現在の日本の歴史的社会的状況に規定されている。したがってオウム事件も、現代日本の思想・文化的背景との関連で、また世代の問題として考察する必要がある。

全共闘運動は、その動機・意図において真摯に社会変革を目指したものであったが、結果的には「壮大な失敗」であった。その挫折の原因は、運動の原理として時代遅れの左翼理論に寄り掛かったことと、過度の倫理的理想主義にあった。

全共闘運動は青年の「成熟の困難」の問題に、「社会変革」への参加というあの時代に特有の形式によって挑んで挫折した。現代の社会・文化的状況は、「成熟の困難」の問題に社会への反抗という形式によって挑むことを許さない。ここに、ある種の宗教的なものに青年が吸い寄せられる素地がある。

オウムの反社会的性格は、過度の倫理主義、短絡的な理想主義が閉鎖的集団のなかでエスカレートしたときに見せる暴力性の典型であり、全共闘運動の末路である連合赤軍がそうであったように、悲惨な結末を招くだけである。このような集団の主張に、単純な反権力的・反市民社会的心情から(吉本隆明、山崎哲、芹沢俊介らのように)安易に肩入れしてはならない。

オウム問題は「宗教思想」の問題としてのみ論じるべきではない。現代社会の観念諸様式のなかでの宗教の位置に注目すべきである。近代合理主義的な知のあり方に対する懐疑や不安を背景に、技術文明・高度消費文明のなかで人間が自然を支配し尽くしたかに見える社会状況によって、青年の自己意識は肥大化し世界像は疎隔感を増している。若者たちがそれらを性急に解消しようと欲するところに、現代の宗教が取り入る隙がある。

以上、著者の粘り強い思考により、オウム真理教に象徴される現代の「宗教現象」の本質が的確に捉えられたといってよいでしょう。何人かの識者が、若者がいかがわしい宗教に騙されないようにするには、科学的・論理的思考力を鍛える教育を強化するべきだ、といった見当はずれの提案をしていました。それはそれで大切ですが、若者が怪しげな宗教に惹かれる理由とは関係がありません。

さて、怪しげな宗教に騙されないために、また過激な宗教団体の発生を防ぐために、私たちはどうすればよいのでしょうか。著者の回答は決して独創的でも奇抜でもなく、むしろ穏当でごく常識的なものですが、じっくりと耳を傾ける価値はあります。

 

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