アメリカの正義病・イスラムの原理病

―一神教の病理を読み解く―

岸田秀/小滝透 (春秋社、2002)

 

9・11(2001年9月11日、アルカイダによる米国内同時多発テロ事件)を受けて行われた対談の記録。岸田秀氏が小滝透氏にイスラムについて教えを請いながら、事件の背景にあるイスラムとキリスト教の関係を探るという設定です。岸田氏の話はいつもと変わらず、キリスト教と西洋文明と米国の歴史をフロイト理論に基づいて精神分析した自説を繰り返していますが、彼はイスラムについて(「ふつうの日本人」程度に)ほとんど何も知らないので、小滝氏とのやり取りは新鮮です。

小滝氏の説明はわかりやすく、イスラムとアラブの関係、中東世界の宗教と政治の関係、民族と国家の関係、原理主義と西洋コンプレックスの関係など、そして人々の心の世界でこれらがどのように位置づけられているのかという点にまで及び、よく整理されています。これだけでも本書の価値は高いのですが、小滝氏のイスラム教理解もたいへん優れている・・・と思われます。

キリスト教もイスラム教も(そしてユダヤ教も)、唯一絶対神を信仰する一神教であり、その教えでは神の前には人間は無力だとされています。それでは両者は何が違うのでしょうか。ほとんどの日本人は、ここから先、理解が進みません。キリスト教徒はイエス・キリストを信じ、イスラム教徒はムハンマド(モハメッド)を信じている? で、それがどういう違いになるの? キリスト教徒もイスラム教徒も、自分たちの宣伝はよくするけれど、相手とどこが決定的に違うのかということは、あまり教えてくれないでしょう。とくにイスラム教(教徒)は、そもそもキリスト教のことがまったくわかっていないのだろうし、キリスト教徒も自分たちの信仰の最大の特徴(つまり他の宗教との最大の違い)がよくわかっていないのかもしれません。

『キリスト教思想への招待』のページでも書いたように、両者の違いを簡単にいうと、イスラム教は戒律(=神の命令)を守れば救われる(=死後に天国へ行ける)と説く「戒律宗教」ですが(ユダヤ教も同じ)、キリスト教はそのような人間的努力によって救われようと考えるのは間違いであると教えるものです。たったこれだけのことですが、あまりにも大きな違いなので、かえって気づきにくいのかもしれません。

小滝氏は、キリスト教が「救済」を内面化し、「心の問題」としているのに対して、イスラム教はあくまで「形」(=日常生活の中で戒律を守っていることを他者に明示すること)にとらわれている宗教であることを、見抜いています。そしてこのことはイスラム教の誕生以来の本質的な性格なので、将来にわたってもおそらく変わらないだろうということ、したがってイスラム社会では近代化がものすごく難しいことを指摘しています。近代化とは、政治と宗教の分離、心と行動の分離なくしては成し得ないことだからです。西洋世界では、初めはある意味で宗教(キリスト教)が近代化を推し進め、近代化が進むと逆にそれが宗教を弱体化させました。しかし、イスラム世界では近代化が自然に始まる可能性はきわめて小さいでしょう。近代化しようと思ったら、トルコの例のように、政治的な力によって宗教を短期間のうちに徹底的に破壊してしまわなければならない。

イスラム世界が近代化しない限り、イスラム世界と欧米先進諸国との対立はなくならないかもしれません。イスラムが近代化すれば対立がなくなるとはいえませんが、少なくとも西洋文明を敵視する理由は少なくなるのではないでしょうか。

イスラム世界が内面から近代化へと向かう契機が、もしあるとすれば、イスラム女性たちの意識の変化がそれかもしれないという予感がします。「女性を弱者として守るのがイスラムの教え」などという自己宣伝が真実であるはずはないのですから。

 

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