キリスト教思想への招待

田川建三 (勁草書房、2004年)

 

日本ではキリスト教の歴史がそこそこに長いにもかかわらず、その勢力は取るに足らない程度で、キリスト教徒の数も少ないため、ふつうの(キリスト教徒ではない)日本人はキリスト教について、ほとんど何も知りません。しかし、そのわりにはマスメディアなどがキリスト教をかなり好意的に取り上げることが多く、また著明な文化人の中にもキリスト教徒がいるので、気になるところではあります。それにこの「国際化時代」にあって、キリスト教について知らないと、なんだか時代に取り残されそうだし。

そこで、多くの人はキリスト教について何らかのまとまった知識や理解を得ようとして、書店の宗教書売り場に足を運ぶことでしょう。しかしたいていは、そこに並んでいるどの本を読んでも、結局なんだかよくわからない、という印象が残ることになります。たしかに知識はいろいろと増えるけれど、期待したような理解が得られたような気がしない(腑に落ちない)のです。

ふつうの日本人がキリスト教について最も知りたいと思うのは、その教義の核心にあるもの、つまり信者の信仰内容の中で最も大切なものは何か、したがって、人がキリスト教徒になるということは何がどう変わるのか、そしてそれは仏教やイスラム教の場合とどう違うのか(違わないのか)ということであり、またキリスト教が歴史的にも現在世界的にもこれほどの大きな影響力を持って存在している(してきた)のは、その教義や信仰内容の特徴のゆえなのかどうか、といったことでしょう。こういうことが的確に理解できないと、キリスト教のことが「わかった」という気がしないのです。

ところが、たいていのキリスト教入門書には、こういうことはあまり書いてないか、書いてあっても、これこそが一番重要なのだと強調されてなかったりするのです。そう書いてしまうと、なんだかキリスト教が宗教として安っぽく見えるからかもしれません。それで、キリスト教の歴史、聖書の内容、イエスの「教え」、奇跡の解釈、三位一体の意味、教会制度と礼拝の意義、教派の違いとその勢力分布、信者の日常生活、キリスト教文学・芸術などなど、キリスト教の本質とはほとんど関係のないことに多くのページが費やされているのです。

その点、本書は一切の無駄を省いて、上記のような疑問に端的に答えてくれます。キリスト教信仰の核心である救済論(贖罪信仰)を中心に、創造論、教会論(隣人愛の精神)、終末論がわかりやすく説明されています。

これらのうち、創造論、隣人愛、終末論の3つは、キリスト教の歴史に大きな役割を果たしてきたとはいえ、本書でも何度か強調されているように、キリスト教の専売特許ではありません。やはり、贖罪信仰こそがキリスト教の核心なのです。「救済」にとっての道徳的・倫理的行為の価値を否定する贖罪論は、浄土真宗など一部の日本仏教を除いて、世界的にもほとんど類を見ない独特のもので、とくにユダヤ教やイスラム教のような戒律の厳しい宗教とはおよそ正反対の思想です。仏教も本来は戒律宗教です。三大宗教とか四大宗教などといっても、これは決定的な違いです。贖罪信仰があるからこそ、「政教分離」も(建前としてではあれ)可能になったのでしょう――ということまでは書いてありませんが・・・

あえて不満をいえば、創造論、隣人愛、終末論については、著者はそれぞれ評価すべき部分と批判すべき部分をバランスよく並べていますが、贖罪信仰についてはここでは(その「不徹底」に対する批判は別として)肯定的な評価しか書かれていないように思われます。しかも、贖罪論によって、当時のユダヤ人は「律法主義」(=倫理主義)から開放されたのであって、パウロにしてみればこれが重要だったはずですが、なぜか本書では彼らが煩瑣な律法の規定から(ユダヤ教以外の民俗宗教でも、同様の宗教儀礼や貢ぎ物などから)解放されたということが強調されています。

しかし、著者がこれまでキリスト教を厳しく批判してきたのは、創造論や隣人愛や終末論への否定的評価のゆえではなく、まさに贖罪信仰として結実した「反倫理主義」に対してだったのですが、本書はそれを繰り返す場ではないということでしょうか。そこで、キリスト教をさらに深く理解するためには、同じ著者の『批判的主体の形成』(三一書房、とくにその中の「弱者の論理」と「人間の自由と開放」)と『歴史的類比の思想(勁草書房、とくにその中の「原始キリスト教とアフリカ」)を併せて読むことをお勧めします。

 

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