書物としての新約聖書

田川建三 (勁草書房、1997年)

 

「新約聖書」というと、まるで最初からそのような一冊の書物が存在したかのように錯覚しがちですが、実際には数十年にわたって様々な立場の様々な人物によって書かれた多くの文書の中から、さらに数十年あるいは百年以上もかかって、紆余曲折の末にいくつかの文書が選ばれ、並べられたものです。しかし、並べるといっても、古代の書物は、一つの巻物や冊子にあまりたくさんの内容は詰められないので、「新約聖書」という一冊の書物ができあがったのは、さらにずっと後のことです。そうなってからもまだ、どの文書を正典に収めるかについては、紆余曲折がありましたが。

このような正典成立の経緯を詳しく扱ったのが、本書の第一章。続く第二章の内容は、この章の副題にあるとおり、「新約聖書のすべての文書がギリシャ語で書かれているという事実は何を意味するか」ということが書かれていますが、これは言語から見た初期キリスト教史でもあります。つまり当時の地中海世界にあって、キリスト教はどのような性格の宗教として、どのような人々の間に広まったのか。エピソードのような「ディアスポラのユダヤ人」の項には、現代のパレスチナ人(アラブ人?)の起源に関して、常識を覆すようなことが書かれています。

第三章は新約聖書の写本、最後の第四章は新約聖書の翻訳の歴史。以上のとおり、本書は現代の私たちが「新約聖書」という”一冊の書物”を手にし、「目次」を眺めたときに、この書物の成り立ちと現在に至るまでに歩んだ道のりについて、知りたいと思うことのすべてが書かれています。新約聖書中の諸文書(福音書、書簡、黙示録)それぞれについても、これと同じこと(各論)を知りたいと思いますが、それは著者の次の仕事だそうです。つまり本書は「新約聖書概論」の「序説」です。それが本文だけで700ページなのですから、「概論」の各論は一体何ページになるのか、とても楽しみだ!・・・と、つい、いいたくなるほど、面白くて読み始めたらやめられません(ただし、「ヨハネの黙示録」の内容は同じ著者の『キリスト教思想への招待』で紹介されています)。各国語による主要な翻訳もそれぞれ詳細に批評されていて、「聖書の翻訳」がいかに大きな意味を持つ思想的営為であるかがわかります。

 

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