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12/31/99
●プロット神

ひょんな、というのは、一体どういう形容なのかよくわからないが、とにかく便利な単語だ。
「山田太郎はひょんなことから田中花子と知り合った」
「山本一郎はひょんなことから事件に巻き込まれた」
「小林明美はひょんなことから水族館に勤めることになった」
などなど、いくらでも作れてしまう。とにかく何らかの一つあるいは複数のエピソードがそこに存在するのだが、それを細かく記述すると煩瑣だし、予告などの場合読者の興味をそいでしまう。そこでこの一言にまとめてしまうわけだ。
私もこの言葉に大変助けられている一人だが、その助けられ方は「長い文章をまとめる」「期待を持たせる」という類とはちょっと違う。
私は漫画を描いているが、その際まずネームを作る。そのネームの前にプロットというのも作る。ようするにあらすじだ。中には原稿用紙にいきなり描き出す、という天才的な作家もいるらしいが、私はそういうことは出来ないので普通にやる。前はネームから作っていたが、今メインに仕事をしている編集さんがプロットを要求するので、ネームの前にファックスで送り、筋におかしいところがあればそこで話し合う。レディースのえっち漫画とはいえ、やはりあんまりおかしいとまずいのだ。特に私はいい加減なのでえっちシーンを中心に話を組み立てているうちについキャラクタの性格がおざなりになって「こういう人がこういうことはしないんじゃないの」などとチェックされ、「ああ、そうかー」などということになったりする。それはともかく、そのプロットを文章にする時に役立つのがこの「ひょんなことから」なのだ。
最初にプロットを書くときに、たとえばヒロインが相手の男と未知の間柄である場合、出会いが必要になる。その出会い方をじっくり考えて書いてもいいのだが、大抵の場合はそんなことをしている余裕がない。「○月○日にプロットを」と言われて、その○日中に出せばいい方で、大体はその○日の夜中(実際の日付としては○+1日)にファックスソフトを立ち上げて考えながら文章を打っているからだ。大方の流れは頭にあるが、その具体的なつなぎ方はネームの時に考えることになる。「ひょんなことから」は、そういう時に間をつないで下さる救いの神なのだ。
もう一人、別の神がいる。「そんなある日」という神だ。この神の霊験は「ひょんなことから」とは少々違うが、こちらも大層有り難い。そしてこれらの神々におすがりする時に大事なことは、一つのプロットに対しそれぞれをせいぜい一度の使用に止めるのが有効ということである。
12/18/99
●宅急便屋は何度かベルを鳴らす

うちには何冊か、毎月送られてくる贈呈用の雑誌がある。現在執筆していたり、今はしていなくても前に書いたことがあったりするとその後もしばらくは送ってくれる。その中で一冊だけ、郵便でなく宅急便扱いで来る雑誌があって、これが結構困りものである。
郵便であれば勝手にポストに突っ込んでおかれて、こっちが好きな時に取りに行くことが出来るのだが、宅急便はとにかくその時家に受け取る人間がいないとならない。一人暮らしだとまずここがネックである。漫画家は居職だし、出不精だろうからいつも家にいるんだろうと思われるかもしれないが、私は本当の仕事モードの時以外は、本屋とかゲーム屋とか喫茶店、公園の猫などをこらしめに外に出ていることが多い。夜中は家にいるが、夜中に来てくれる宅急便屋はあまりいない。さらに私は生活時間がいい加減なので、在宅していても寝ていたりしてインターフォンが聞こえないことも多いし、聞こえても寝たばかりだったりすると「どーせ宅急便だから、後で不在通知見て電話すればいーや」などと、出なかったりもする。つけ加えると、仕事モードで昼間家にいる期間は大抵この昼間寝ていて夜起き出すモードになっており、仕事のない期間は昼間起きていて家にいない。夜中の方が集中して仕事が出来る、というよりも昼間起きているとついふらふら外に行って遊んでしまうので仕事にならないのだ。そのことを体が学習しているらしく、私自身にとってはよい習慣だが、宅急便屋さんにとっては困った客である。
その宅配雑誌は8日発売なのだが、「著者の方には店頭に並ぶより早くお見せしなければ」という義務感にかられているのか、「7日必着」という印が押してある。私など、どうせ受け取ってもすぐには読まず、ひどい時には翌月まで包みを開かなかったりするから別にいつ届こうと構わないし、なんなら翌月の7日だっていいのだが、宅急便屋さんとしてはそうも言っていられず、その必着印はかなりのプレッシャーになっていることだろう。
というのが、その本を持って来る宅急便屋さんはいつも同じ人なのだが、この人がまた妙に几帳面な人なのだ。小柄な中年の(と見えるが実際には若いのかもしれない)男の人で、声も小さく、外見からしていかにも几帳面そうだ。そして必ず判子はお客の手で押させる。大概の宅急便屋は、客から判子を渡されて自分で押すが、この人は違う。大事な判子を他人に預けて、内容を見もせずに勝手に押させるなどといういうセキュリティ意識の低い行動が、この人には許せないに違いない。宅急便屋を装った詐欺師によって借金の保証人欄に判子を押されてしまう危険がないとは限らないのだ。また、彼の置いていく不在通知はいつも二つ折りにされてペーパー糊で端が糊付けされている。これも、誰から何が送られてきたのか他人に見られることがあってはならないという意識が取らせる行動だろう。もしもクール便でラ・フランスなどが送られてきていて、差出人が自分と同じ名字であったりするのを他人に見られたりしたら、そこから芋蔓式に山形の出身者だという秘密がばれてしまい、大変なことになるかもしれないのである。
元々そのような注意を払う彼だからこそ必着印付きの宅配物を任されたのであろうか。あるいは逆に判子の扱いなどにうるさい客に文句を言われたりしているうちにそのように几帳面になっていったのか。またあるいは単にたまたまなのか、謎はつきない。

●数字のマジック

「算数」と「数学」の間には深く長い溝がある。私はそのことを高校1年の、最初の数学の小テストの時に学んだ。授業中にだって溝はわかるだろうと思われるかもしれないが、何せ暗く果てしない溝なので自分が落ちていることすら気づいていなかったらしい。テストの結果が数字になって返って来て、やっと「これは私には関係ない世界だ」ということがわかった。なにしろ、100点満点で6点だか8点だか、とにかく一桁だった。クラスの平均点も30点とかそんなもので、生徒の大半はそこで溝に気づいたのだ。その数学教師は本当にいい先生だったので、たぶんそうやって溝に気づかせようとしてくれたのだと思う。中には溝のあることなどまったく気づかず、「教科書に載っていたやり方が思い出せなかったので自分でなんとか解法を考えた」などという異星人もいたが、とにかくその日から生徒達は意識を改め、なんとか自分なりに溝を越えようとしていった。私も、その先生が好きだったし、なにより通信簿に赤い色がつくのは有り難くなかったので、最低ラインはクリアするように頑張った。とにかく「算数」ではなくて「数学」であるから、テストの問題も3問くらいで、そのうちのどれか取っつきやすい物をわかるところまでやっていればとりあえず「途中点」というのをもらえる。まあそれで何とか5段階の「2(赤線無し)」くらいがせいぜいだったが、赤線1回までなら進級は出来るので自分としては満足だった。物理も苦手仲間で、こっちは赤線一回の実績がある。教師への愛情の差であろう。
同じ自然科学でも化学や生物は好きだが、数学と物理は駄目なのだから、なんというか、こういう純粋理論みたいなものが向いていないのだろう。大体、「自然数」の数と「奇数」「偶数」の数が同じだ、と言われて誰が素直に納得できるというのだ。どう考えても「奇数」や「偶数」は「自然数の半分」だろうが。こんな庶民の気持ちがわからない世界に私は用はない。向こうもきっとない、ということで当時の私は「数学」は「数学の授業」の時だけに関わることにし、普段はもっぱら「算数」と仲良くして暮らした。授業のコマ数と出席日数を計算して「この授業は後何回休める」などと割り出すのだ。危険水域にある授業などは何度も検算し、安全を確認する。そして、翌日の午前中の授業が大丈夫な物ばかりの時は親に「明日は午後から行くから〜」などと言って夜更かしし、逆に午後休める日には「明日はおべんと要らない、午後さぼるからお昼代ちょうだい」などと計画的に過ごしていた。あの時教わった「数学」は実生活に何も役立っていないが、こういう逆算の算数は今もちゃんと機能している。締め切り日から逆算して「何日から仕事を始めれば大丈夫」とわかるからだ。計算は合っているのだがその通りに動かない人間がいるという問題を除けば。


99/11/29
●パトリオットゲーム

大抵の日本人は欧米のことを結構よく知っているが、欧米人の方は、日本と言われても中国のどこかの地方だと思っている、などという話をたまに聞く。しかしソニー製品や車などのおかげで、「日本」という国もそれなりに有名になっているようだ。
最近割と見ているテレビ番組の一つに「King of the Hill」というアメリカのアニメがある。テキサスの、いかにもアメリカの田舎という感じの町に住む人々の生活を、Hillという一家を中心に描いている。かっこいいヒーローも、美しいヒロインも、無邪気で賢い子供も出て来ない。主人公のHill家の家長は小さなプロパンガスの会社に勤める中年男。妻は代用教員の資格を持っていて少し理屈っぽいが、まあ普通の主婦。息子は小学校5年生でテレビゲームとおやつが好きで、素直だが肥満気味。わけあって同居している親類の女の子は美容院に勤めていてバイク乗りのしょうもない男に惚れている、という、まあそんな類のよくいる人々だ。隣近所の男達は暇さえあれば庭や家の前で集い、ぼーっとたたずんでビールを飲んでいる。何を話すというわけでもない。ある時、そんな彼らの隣にラオス人の一家が引っ越して来る。それを見て彼らが考えたのは「中国人かな、日本人かな」であった。当のラオス人が自分は「ラオス人だ」と言っているのに更に「で、それは中国?日本?」と聞く彼ら。作者がアメリカの田舎者の無知ぶりをギャグにしているのはわかっていても、日本人としては「日本もここまで来たか」などという場違いな感慨にふけってしまうのだった。
99/11/1
●社交嫌い

少し前のことだが、友人が英会話学校に通っていた。同じ漫画家という職業で、仕事で英語が必要なわけでもなく、英語圏の国に住む予定も無いのに、毎週電車でわざわざ通っていたのだからすごい。それも、居職の身なのだから会社勤めでその帰りとかいうのでもないのだ。まわりのクズな人々がすごいねえ、よく続くねえと感心しているうちに彼女はついに一通りのコースを終了して卒業試験に合格し、そこを卒業してしまった。変な言い方だが私も英語は好きな方で、高校では一時「英語部」という物に入っていたし(この部で一番役に立ったことは、文化祭で発表する英語劇のためのボイストレーニングで、喉を開いてお腹から声を出すことが出来るようになったということだ)、英会話学校のようなところに行ったこともある。だが結局英語で人と会話するなどという技術は身に付かなかった。才能とかいう話は別にして、彼女を見ていてその理由の一つがわかった気がする。彼女が通っていた学校の話を聞くと、その学校では毎回ロールプレイ形式で会話を練習するという。店屋の店員と客とか、ルームメイト同士など、二人の人物が登場する設定が用意され、生徒は互いに店員になったり客になったりして、その回で習う文法を取り入れた文章を使いながらアドリブで会話をしていくのだ。それを聞いたとたん私は「私には絶対出来ない」と思った。
彼女がその学校に通い出す前、私も彼女に誘われて一緒に近所の小さな英会話学校に行っていた。お互い仕事が仕事なので授業は別々だったが、その授業はそんなロープレ形式でなく、イギリス人の先生とテキストを勉強するというような形だった。それも彼女は1年くらい通っていて、結局物足りなくなって前述の学校に行くようになったのだが、私の方は3ヶ月も続かなかった。決まったことをする(毎週何曜日の何時に何をするとか)のが苦手なこともあるが、やはり根本的な理由は「用事もないのに知らない人と会話するなんて面倒」ということに尽きる。テキストの勉強と言っても小中学生じゃないのだから、教科書を音読して先生に発音を直してもらって終わり、というわけにはいかない。その内容について感想を述べたり意見をゆったりしないとならないのだ。内容だって童話とか小説でなく、時事問題だったり英語の新聞のコラムだったりする。また、授業の始めには先週の週末は何をしたかだの最近面白い映画は見たかなど、一応の社交的会話をしなければならない。私は日本語でだってそういう会話をするのが嫌いだというのになんだって英語で苦しみながらそんなことを言わなければならないのだ、という怒りがだんだん溜まっていって結局「はあ、すいません、ちょっと仕事が忙しくなっちゃって...」という大嘘の言い訳をしてやめてしまった。
考えてみると昔英語に熱心だった頃は、好きなミュージシャンがイギリスのグループだったのでその歌詞の意味を知りたいとか、洋雑誌を買って彼らに関する記事をじかに読みたいとか、コンサートに行ってローディーにうまいこと言ってバックステージに入り込みたいとかいう切実な欲求があったのだ。今は彼らはもう解散して新曲も出ないし、簡単な記事を読むくらいの英語力は残っているからこれ以上英語を学びたいという欲がなく、そして会話も嫌いとなれば英会話学校など猫に小判なのだ。そして発音だけは褒められながら平気で「fly」の過去形を「flied」などと言う間抜けが出来上がっているのだった。
99/10/13
●嘘つき聖人

近所に、嘘つき名人が住んでいる。彼女自身は「嘘をついている」という意識はなく、本当に自分が信じていることを信じている通りに話しているだけなのだが、それがたまたま虚偽の情報である確率が高いのだ。本人が信じているのだから、話しぶりや動作に不審な点があるわけもなく、人は見事に騙されてしまう。こういうのは嘘というより間違いと呼ぶべきものなのだが、何度指摘しても「あれ、そうだった?ごめんごめん」と憎めない笑顔で応える彼女にはどちらかというと「嘘つき」と呼びたくなる何かがある。長年のつきあいである我々は、だから、彼女の情報にはまず疑いを抱いて行動することにしているのだが、それでも気を抜くとふっとやられる。それは、情報が正しい時もあるからで、そういうことが続くとやはり人というのはつい油断をしてしまうものだ。嘘つき村の住人のように必ず嘘をつくとわかっていれば対処が易しいのだが、本人もあやふやな嘘は見抜くのが難しい。しかも彼女の嘘は自分に利する、ということがない。ある日、彼女と別の友人も交えて喫茶店でお茶を飲んでいた時に彼女が「明日は近所のレンタルビデオ屋が月一度100円で貸す日だから行かないと駄目だよ」と教えてくれた。彼女はよく映画を見るので結構頻繁にレンタル屋に通っているし、とにかく翌日のことだから間違いはないだろうと思って次の日行ってみるとこれが嘘である。彼女だって楽しみにして行ったのだろうに、ビデオ屋の予告は非情にも翌週の日付を告げている。曜日も違えば日にちの数字も全く類似性がなく、どうやったらそういう嘘をつけるのだろうと感心するしかない。またある時は、友人達がうちで集まっていた時に、一人が、スーファミにささったままになっているソフトに目を付けた。それは私がずいぶん前に彼女から借りたもので、途中まではやっていたのだが、もう借りた時点でもスーファミのゲームが時代遅れになりかけていた頃であり、間で仕事をしたり、プレステのゲームに目を奪われたり、引っ越したりしているうちについそのままになっていた(引っ越しの最中もなっていたのだろうか...?記憶にないが、すべてお任せの楽々引っ越しだったのでそういうこともあるかもしれない)。その時彼女もいたので、「ごめん、あれずっと借りてるんだよね」と謝ると彼女は「えっ、あれ私のじゃないよ。買った覚えないもん」と自信たっぷりに答える。私も決して記憶力がいい方ではないが、借りた相手を間違って覚えるということはない。少なくともこの場合、彼女に借りたということには絶対の自信があった。貸してくれた時の言葉などもちゃんと思い出せる。そう言っても彼女はまだ私の方を怪しんでいるようだった。他人の物を自分の物だと偽るのは普通の嘘つきだが、彼女の域になると所有権すらも意に介さず嘘をつくのである。これはもう聖なる嘘だ。そして彼女は、私達が人の言葉に頼らず自分の頭で物事を判断するようにとの願いをこめて神様が私達のもとに使わして下さった嘘つき聖人ではないかと思う今日この頃である。

●Let them eat cake, she says

働かざる者食うべからずという言葉があるが、修羅場の漫画家は、一所懸命働いているのに食べることが出来ないという不条理な苦しみを味わう。食事専門のアシスタントさん(飯ストさんとか呼ばれる)がいるような仕事場でなら決してそんなことは無いし、普通のアシスタントさんだって、いてくれると、時間がくればお腹がすいたと訴えてくれるから、無事に食事にありつくことが出来るのだが、最近私は大抵一人で仕事をしている。そうするとどうなるかというと、お腹が空いてきても面倒でなかなか食事に向かわなくなる。ちょっと空腹感を感じたあたりで軽く何かお腹に入れておけばよいのに、いや、そうしようと思ってはいるのだが、つい、その前にここの背景描いちゃってから、とか、ここのページだけ仕上げよう、とか、時間が半端だから○時になったらにしよう、などと先に延ばす。そうしていると今度は真剣にお腹が空いてきて、動けなくなってくる。私はエネルギーが切れるとすぐへたる体質なのだ。心の中で(だから早く動けるうちにどうにかしろって言ってるのに...)などと自分に文句を言ってますますエネルギーを浪費する。ここで、まだ少し体力に余裕のある時はコンビニに行っておにぎりなど、とにかくすぐに食せる物を買って来て食べたりするが、大概はもうその元気すらなく、そこらへんに転がっているパンをかじったり、納豆を単体で食べたりしてしのぐ。それでちょっと元気が出た時点で次の食事のことを考えておけばよいのだが、当然そんなことはしない。だらだらと原稿に戻り、また何時間かすると同じことを繰り返す。こんな日々だから、原稿も佳境に入ってくると頭の中は食べ物のことばかりになる。
「これが終わったら思いきり鰹節を削って昆布との出汁で出汁巻き卵を作ってやるっ。大根か蕪も炊いてやるっ。出汁の残りはフジトラの醤油と豊の秋で味付けて、春菊と小松菜と三つ葉の三種混合おひたしを作ってやるっ。そいで、線路の向こうのいい魚屋に行って、お刺身に出来るような鰺を買って頭と内臓取って塩振ってピチットで2時間くるんで焼いてやるっ。頭と内臓はスープ取ってから捨てるぞっ。そいから、そいから、えーと、かぼちゃを圧力鍋で蒸かしてやるっ。種は干して後で煎ってやるんだからな。煎るといえば黒胡麻が切れかけてたっけ...」
こんな風に書くと知らない人は私のことを料理好きだと思うかもしれないが(知っている人なら決して間違えない)、そうではない。単に仕事の抑圧の反動で美味しい物が食べたくなっているだけであり、私にとって美味しい物というのがこの手の物だということだ。また、貧乏人なので、自分の舌に合う物を食べたいと思えば自分で作るしかないのだ。大体よく見ると全然料理と呼べるようなものでもない。創意工夫のまるでいらない日常食ばかりである。そしてさらに料理好きでないことの証拠には、仕事が終わり、望み通り食べたいものを食べて3日もすると、もう頭はゲームとか本屋こらしめとかの別のことに向かい、食べ物のことなんかどうでもよくなって、ファミレスとか喫茶店のサンドイッチとかで食事をすませている私がいるのだった。
99/9/24
●通信戦記その2

今回は戦記と言っても小ぜりあいのような物である。出来ればこれ以上何事もなくすんで欲しいものだ。
先日、外出して町中を歩いていた時、ふと時計代わりに携帯を見ると「着信あり」の表示があった。30分ほど前に見た時には何の変化もなかったのに、一体いつのまに...その間はほとんどビル内の本屋にいたのだが、携帯を入れられるポケットがない服だったし、まさかかかるとも思っていないのでマナーモードとかにはしていなかった。だから呼び出し音は鳴ったはずなのだが、店内BGMが賑やかだったので聞き逃したのだろう。また、呼び出し音を「だんだん大きな音になる」という設定にしているのでさっさと呼び出しを諦められて聞こえないまま終わってしまった、ということもあり得る。大事な用事だったら自宅の留守電に入れてくれるだろうから、電話に出られなかったことは別にいいのだが、問題は、「この表示をどうやったら消せるか」と、「かけてきた相手の番号はどうやったら見られるか」である。その時はもう用事がすんで電車に乗って帰るところだったので20分後にはマニュアルのある家に帰れるのだが、それまで放っておくというのも何かうざったい。とにかく、携帯についているボタンの数などたかが知れているのだから、じっくり見てみれば記憶が甦るかもしれないという無謀な考えを抱き、まず「これだったような気がする...」と思うボタンを押してみた。するとメモリに入っているうちの(数少ない)一人の名前と番号が出た。一瞬、この人からかかったのかと思ったが、以前に「かけてきた相手の番号の表示」を見た時はこういう画面ではなかったような気がする。それに、特に用事もないのに携帯にかけてくるほどの仲でもない(それがなぜメモリに入っているかというと、以前他の友人と彼女の家に遊びに行ったことがあり、道案内のため途中から携帯でかけて、と言われたのでこれはメモリに入れておいた方が楽だと思ったからなのだ)。さて、間違ったボタンを押してしまったことはわかったが、今度はどうすればこれを消去出来るのかがまたわからない。下手なボタンを押すと、用事もないのに彼女に電話をかけてしまう。私は次の瞬間電源を切り、入れ直した。「見なかったことにする」というのが一番簡単で確実な解決法だ。
家に帰ってマニュアルを見てみると、電源を切っても履歴は残っているとわかったのでその通りにやってみたが、結局相手の番号は表示されなかった。家の電話とか公衆電話などからかけるとそうなるのだろうか?そして今度はその画面を消すのが一苦労だった。このマニュアルはほんとに出来が悪くて、人が一番知りたいそういうことを書いていないのだ。プログラムを立ち上げたときに、すぐに終了方法がわかるかどうかが、まずそのプログラムのよしあしの判断の基準になるが、このマニュアルの出来でDP-222を判定するのは少々酷かもしれないので勘弁しておこう。なによりまた復讐を企まれては困るからだ。

●進化という生存戦略

池袋のビックパソコン館にはいろいろ用事があるのでよく行く。最近は数が減ってきたが、各階に何台かずつ、インターネットを無料で体験できるようにパソコンが置いてある。ゲームやアプリケーションのデモを流しているマシンもある。そういう物があるとつい自分で勝手にいじりたくなるのが私のような人間の性なのだが、そういう人は結構いるらしく、先日、ついに「メールなどには使わないで下さい」という張り紙があった。それに、telnetなども外されているマシンが多い。そのことをあるBBSで訴えると、ある人がこう答えた。
「それならインターネットで、フリーウエアを落とせるところに行ってtelnetを落としてつなげばいい」
人々は口々に「なんて卑怯なんだ」「さすがだ」と彼を褒め称えた。彼は常々その卑怯な言動で人々を震撼させているのだ。そんな彼が製薬会社勤務という事実に、私は薬と菌の果てしない戦いを想起するのだった。
99/9/9
●一時の恥、一生の恥

自己改造セミナー、というような物がある。そこでは「今まで恥ずかしくて告白出来なかった自分の秘密をみんなの前で話しなさい」などという課題(?)を与えられるらしい。万が一そんなことになった場合にすかさず対応できないと悔しいので、とりあえず考えてみることにした。私はアドリブがあまり上手くないので、頭の中で予行演習しておいた方がよい。
即時に思いつくのは「こんなところに来ているということ」だが、なんとなくこれはちょっとウケが悪いような気がする。何よりあっという間に終わってしまい、すぐ次の人に舞台を奪われてしまう。これではいけない。
恥、と言ってまず考えられるのはやはり色事というか、秘め事方面か。しかし、「駄目だって言ったのに、カレ、駐車場で始めちゃって...気がついたらおまわりさんが...」とか、「実は、先日思い切って乱交パーティっていうのに申し込んでみたんです...そしたら...」とかいう話は、「恥ずかしくて言えない」というよりも「言ってはいけない」とか「言うべきでない」という範疇に入るような気がする。
次に考えられるのは下ネタ方面だろうか。「小学校で、授業中トイレに行きたいと言えなくて漏らしてしまった」とか、「学校のトイレで大をしたくなくて我慢していて帰り道に限界になって...」など、なかなかありがちで講師受けも良さそうな気がする。だが問題は私にそういう体験がないということだ。生理的事象に関しては私はあまり抑圧が無かったようで、困ったとか困惑したとかいう覚えがない。トイレの夢は割と見る(それも、個人宅ではなく、デパートとかホテルとかプールなどの大きな公共物に付属する場所として)ので、それは精神的に何かあるのかもしれないが、とりあえずここで求められているのは恥であって、自分でもわからない物では失格だ。
同業者と話していると時折、「突然死んだら家族が来る前に絶対、押入の奥に隠してあるあの原稿は処分して欲しい」などという話になる。デビュー前の拙い投稿作とか、いけない同人用のえっちな漫画とか、その類だ。そういう物を家族に見られると思うと確かに恥ずかしい。しかし、隠してあるといっても、実際にはそれらは既に見た人がいるわけで、完全に「秘密」とは言えないだろう。大体私なんか今はレディースコミックの仕事をしているのだから、えっちな漫画を描いていることを「人に言えない」とか言っていたら営業も出来なくなる。
犯罪歴はどうだろう。人を殺したとか、強盗をしたとかそういう荒事だと引かれてしまうが、子供の頃に万引きをしてしまったとか、兄弟喧嘩をして、仕返しに相手の可愛がっていた小鳥を逃がしてしまったとか、そういう「ちょっとした罪」というのは、かなりいい線ではないかと思う。思うが...。そう、これもないのだ。ないというより思い出せないのかもしれないが、どっちにしろ重大な秘密となっていないのだから駄目なのだ。
ここまで考えても恥ずかしいことが思いつかないような恥知らずの人間が「自己改造セミナー」に行く時には、まず他人に「恥ずかしいところ」を指摘してもらってからの方がいいかもしれない。


99/8/27
●脳のウロコ

視野狭窄、という心理状態がある。大雑把に言って、思い込みが激しいせいで、一つの方法しか見えなくなっている、という状態である。鰹節を切らした、ということで頭がいっぱいになって、煮干しも干し椎茸もあるのに、出汁が取れないから今日はおみおつけを作れないと諦めるとか、ずっと携帯電話を時計代わりにしていたので、携帯をなくしてしまった時に時計を見ればいいことに気づかないで困惑するとか、夜中に原稿用紙が切れてしまい、半分のサイズの紙をつないでも使えないことはないがまあ面倒なので気づかないことにして「今日はもう仕事が出来ない」と諦めてゲームをしてしまうとか、なんだか間抜けな例ばかりで、しかも最後のは大層怪しいような気もするが、まあ、そんなようなことである(これでわかってもらえるのだろうか?)。
思えば、再三書いている服不足なども元はと言えばこの狭窄から来ている。長年、「適当な服がない、困ったことだ」と思っているだけで、「買えばよい」という解決法にシナプスがつながっていってくれなかったのだ。どうも私の脳の中で、「買えばよい」という知識のまわりにはかなり強固なバリアが張られていたらしく、そのせいで私はいろいろと不必要な被害をこうむっていた。こういうのは万年狭窄とでもいうのだろうか。特に仕事関係の物が多い。
たとえば、漫画の黒いところを塗るための「ベタ筆」とか、修正したり白い点や線を描くための「ホワイト筆」。どんな筆でも使っているうちに筆の毛が抜けたり、軸が汚くなったりして使いにくくなる。その時、買い換えればいい、と思うのは普通の人で、買えないバリアに妨害されている私は、逆に筆の持ち方やインクの付け方を工夫する方向に行ってしまうのだ。別に節約しようと思っているわけではない。日本画や書道の人も使うタイプの物なので、上を見ればいくらでも高価な筆があるが、私の使うような筆はせいぜい一本千何百円くらいのものである。しかも仕事道具なのだから大威張りで経費に入れられるのだ。ほんとに、さっさと買えよ、と突っ込みたくなる状況である。
他にもある。
仕事道具は大抵一つあればすむが、アシスタントさん用に複数揃えておくものもある。大体の人は、シャーペンとかペン軸、トーンナイフなどの小物は持参して来るが、何も持ってこない人もたまにはいるのでそういう物は用意してある。また、ペン先、ナイフの刃、シャーペンの芯などの消耗品なども当然買い置きしておく。だが、この視野から漏れたものがあった。ちょっと長めの定規である。コマの枠線の長い部分を引いたり、背景を描くときにパースを取ったりするのに使うのだが、そうしょっちゅう使う物でもない。うちには長いことその定規が一本しかなく、時々アシスタントの人とコンフリクトが起きていた。この「時々」が問題で、「まれに」だったら別に気にならなかったし、「しょっちゅう」だったらさっさともう一本買い置いたのだろうが、あまりに微妙な間隔だったのでしっかりバリアに防護され、「うーん、困ったなあ」状態のままに留め置かれていたのだ。500円もしないような物のために、随分と困らされたものである。
今は、仕事関係のシナプスは大分つながりが出来ているので画材に関しては必要になったらすぐ買えるようになった。逆に反動で仕事中も常に「今私は何か不便を感じていないか?」とチェックするようになってしまい、回転するテレビ台を見ては(あれに原稿用紙を乗せたら描きやすくないだろうか)と考えてみたり、蒸発して濃度が高くなったインクに水を足す時に、ただ水平方向にかき回すのでは濃度が上と下で一緒にならないから、お風呂をかき混ぜる棒のような形で何か小さいものはないかと探したりと、変な頭の使い方をするようになってしまった。だからこっちの方面に関しては回路はほぼ通じたようである。
普段から柔軟な思考が出来る人にはこういうことはあまりないのだろうが、私は全然そうでないのでまだまだ暗黒地帯があるに違いない。困ったことではあるが、何かの拍子で視野が開けた時にはまさしく目からウロコが落ちる開放感があり、最初から開放されている人々にはわからないお得感が得られるので、そう悪いものでもない。

●失われた何かを求めて

思い出せない過去の記憶には二通りある。一つはその記憶が本人にとって嫌な物なので隠蔽して忘れてしまい、現在のトラブルの元になったりしているような重要な物であり、もう一つは逆にほとんど意味がないので単純に忘れられている、というような物らしい。隠蔽記憶の方は思い出すとショックを受け、その瞬間が脳裏に鮮やかに浮かんだりするらしいが(体験がないのでわからない)、単純に忘れている記憶は大体、思い出すというよりも人に「あの時おまえはこんなことをした」と言われるだけで、本人の方は言われても思い出せなかったりする。思い出したとしてもどうもあやふやで、本当に自分のことなのか?と言いたくなるような代物である。
最近CGで絵を描くことが多くなった。と言っても漫画絵なので、主線を描いて、そこに色を乗せていくという塗り絵方式である。漫画家の描くカラー原稿というものは大概そういう描き方だからあまり意識していなかったが、ある友人が「おまえは昔から塗り絵が好きだった」と言い出した。その人によると、だいぶ前私にコミック(当時の新刊)を借りたところ、塗り絵をしてあるところがあってびっくりした、というのだ。確かにそのコミックの作者の絵は好きだったが、実際のところその頃私はかなりいい年であり、下手をしたらもうデビュー後かもしれない。隠蔽記憶を露わにされたようなショックこそ受けなかったが、なにか別の意味のショックがあった。また、そう聞いても一体どういうつもりでどういうところに色を塗ったのかすら思い出せない。もしかしたら私が貸した別の人(が、いるかどうか知らないが)が塗った可能性もあるなあ、などとも考えた。記憶の隠蔽どころか捏造方面に向かっている。
その後何かの用事で実家に行き(所要時間は電車で片道1時間半)、ついでだから少し再読したかった本を持って行こうと思って、書庫にしてもらっている部屋に行って昔のコミックなどを見ていた。そうしたらあるわあるわ、塗り絵のしてある本がいくらでもあった。さすがに小学校とかせいぜい中学の時に読んだものばかりだったが、ここまで証拠をつきつけられると「記憶にない」と言ってももう通らない。小学校の時に塗ったとおぼしきものは単純にマーカーでごしごし塗ってある感じだが、中学生くらいになると少し考えて色鉛筆でグラデーションに塗ってあったりするのが微笑ましい(か?)。貸したコミックには一体どういう画材で塗ってあったのだろうか。それらしき本はその時には見あたらなかったので謎のままであるが、この上はせめてウインザー&ニュートンくらいで塗っていて欲しいものである。
塗り絵のことが明らかになって自然に思い出されたことだが、当時(小学生か中学生の頃)私がたまにしていた遊びのことがあった。さすがにコミックスではしないが、雑誌の漫画で、気に入ったキャラの全身像の絵があるとそれを切り抜き、別の本(写真集など、綺麗な舞台になるところ)の上に乗せては、何か自分の頭の中で話を創造していた覚えがある。そのことを前述の友人に話したところ「それはいかにも漫画家らしいエピソードだから自叙伝を書くときに入れ忘れないようにしろ」という注意を受けた。しかし自叙伝を書くような大家にはなりそうもないし、いつ忘れてしまうかわからないので今のうちにここに書いてしまう次第である。
99/8/22
●試されるユーザー

少し前のことだが、あるソフトメーカーからユーザー宛てのメールが来た。アンケートのお願いだった。メールに書かれたアドレスのページにアクセスして設問に答えると抽選でなにがしかの賞品が当たる、という。かなり有名なメーカーであるから回答者もきっと多いだろうし賞品が当たる確率は低いだろうが、私はそのソフトをよく使っているし、いろいろ不満な点もあるので、アンケートに答えて少しでも意見が反映されればいいなと思い、やってみることにした。が、細かい意見を書くような欄はなく、週に何回くらいそのソフトを使うかとか環境はどうだとか、よくあるような質問ばかりだった。
ちょっと変だな、と思ったのは「前回使った時に使った機能はどれですか(複数回答可)」という質問に遭遇した時である。沢山ある機能の中でどれがよく使われているか調べて、使用者の多いものから強化し、少ないものは削っていこう(としているかどうかは知らないが)というような考えに基づいた設問であろうと思うのだが、それなら「よく使う機能はどれですか」と聞く方がいいのではないだろうか。「前回使った機能」では、その時たまたまいつもと違う使い方をしてしまっていた場合、正直に答えると自分の嗜好にとって不利になるような気がする。どうも腑に落ちない気がしたが、最後に使った時にはたしかいつも使うような使い方をしていたので、正直にチェックを入れた。
だが最大の難関は最後にあった質問だった。まず言っておくと(そのページにも書いてあるのだが)、このソフトには機能をいくらか制限された簡易版がある。制限される機能はページに明記してある。簡易版は単体では売っていないが、実売2万程度のソフトを買えばついてくる。簡易版からのバージョンアップは約5万円である。また、本来のソフトの実売価格は約10万円である。ここのアンケートに答えるようなユーザーであればまあ、これらのことは大体知っていると思われる。その上での設問なのだが、まず回答者は、「あなたが10回このソフトを買う機会があるとします」という不思議な前提条件の下に置かれるのである。
普通の感覚を持つ人ならまずここで「???」となるのではないだろうか。「なぜ、同じソフトを10回も買わなければならないのだろうか?HDDがクラッシュし、CD-ROMも見つからないような状態が10回、いや最初の1回は除いて9回起こるだろうという予想なのか?このアンケートは悪魔の予言書かっ?」と思ったのは私くらいかもしれないが。この設問にはなんとなくさっきの「前回使った...」という思考ルーチンと似たものを感じる。
さて、肝心の質問だ。HDDクラッシュかアルツハイマーか知らないが、とにかくそのソフトを10回買う人なのだ、私は。さて、簡易版が単体で売られているとする。そしてその値段が5千円以下の場合、とか5千円〜1万円の場合、1万円〜1万5千円の場合、などと細かく分かれている。最高設定価格は2万か3万か、そのくらいだったと思う。そしてその値段の違いに応じて、この場合なら10回のうち何回簡易版を買い、何回普通版を買うか、合計10回になるように数字を記入しろ、というのが質問である。ここで、普通の感覚を持った人ならやっぱり疑問を感じないだろうか?
さっき書いたように、簡易版からのバージョンアップが5万円、普通版は10万円である。これを知っていれば、簡易版が5万を越えない限り何度チャンスがあろうと簡易版を買うのが人情ではないだろうか?それとも、この場合簡易版からのバージョンアップは出来ないこととするのだろうか。もしそれならば今度は簡易版など見向きもせず普通版を買うのではないか。簡易版で制限されている機能は、はっきり言ってそれがないのならそのソフトを使う意味はまるで無いと言っていいくらいの物が含まれている。いくら安くても、そんな物を単体で買うのは金をドブに捨てるのと同じである。
たぶん、この質問が本当に尋ねたいことはこうなのだ。「もし簡易版が単体で売られているとしたら、いくらなら買ってくれますか」。はっきりそう書けばわかりやすい(と思う)のにわざわざ変な条件を作り入力フォームを作り、「前回使った機能」などと、さも考えなくてよさそうな質問をしてくる思考ルーチン。そう、この会社はアメリカの会社なのだった。後に人にこの話をしたら、「それは実はアンケートではなく、知能テストではなかったのか」と恐ろしいことを言っていた。採点されて返ってきたらどうしようと怯える今日この頃である。

●洗濯の自由

最近になってようやく気づいたことだが、(自分にとって)良い服というのはなかなか無いものだ。私は全然お洒落でないのでこの場合の良いというのは単に自分の体に合っていて着心地がよく、そう変にも見えないという大層低いレベルの上での話だ。それだけの条件を満たすことが難しいというのは、人の体というのがほんとに一人一人細かく違うからであろう。
たとえば長袖の綿のMサイズのTシャツ、というだけでも、襟ぐりの形、袖の長さと太さ、胴体部分の形と大きさ、裾の長さ、生地の肌触りや厚さなどにそれぞれ違いがあり、この全てが自分の気に入る、ということはほとんど無い。この上色や模様とか、他の服との組み合わせなどを言い出せばますます難しくなる。もし私が服を買うのが好きであったら足を使って好みの服を探して歩き、ワードローブを順調に増やしていたことであろう。だが以前書いた通り、私は服を買うのが好きでない。その結果、いつも切羽詰まってから適当に服を買い、結果自分にとって良くない服が増えるだけで、着られる服は少ないままという状態に陥る。お金持ちや、お洒落な人が、同じ服をいくつも持っているというわけがわかる。彼らは、この「服の秘密」に早くから気づいているので私のような過ちを犯すことがないのだ。今の日本のように、街に出ればアレフ0と言ってよいほどの服がある世の中では、良い服などはお金を出せばいくらでも手に入るような気がしてしまうが、それは実は錯覚である。こういうことに気づくのは、子供の頃は自分が望めば何にでもなれるような気がしていたのに年を取るに連れてどんどん可能性がせばまっていき、結局現在の職業についている、というのと似ているかもしれない。しかし考えてみると、私が子供の時何かになりたいと思っていたかというと、特に何も考えていなかった。高校生になっても友達と「人間て、なんで働かなきゃならないんだろうねえ...」「こんだけ科学が発達してるのにねえ...」などと言い合っていたような人間なのである。もし、なりたいものがいっぱいあってそれを目指すような子供であったら今でもしっかり服を買いに行ったりしているのだろうか。
とりあえず私の服購入上のポリシーは、洗うのに楽な綿製品に限るということであり、また購入後は、気に入っている服はあまり乾燥機にかけないようにしよう、ということである。
99/7/31
●生きていた犬

自慢ではないが、というよりもはっきり言って恥なのだが私は相当な年になるまで「物語」というものが理解できていなかった。物を知らない、ということに気づくのはそれを知った後である。知らない間はそのことにすら気づけない。また、「物語」というものは理解していなくても生きていく上ではたいして障害にならない事柄の一つなので、やっと、理解できていなかった、ということに気づいたのは20代後半ではないだろうか。それまでに読んだ小説や漫画、見た映画などは私にとって沢山のエピソードの集まりであって、大げさな表現をすればそのエピソード群がどのように並んでいても私には同じ物として受け取れる物だった。「物語」がわからないというのはそういうことだ。シーケンシャルで有機的なつながり、大きな構成の形を見る力が無いのだ。だから「あらすじにまとめる」といったことも出来ない。学校のテストなどは、テストに対する慣れさえあれば出来てしまう。だが本当にはわかっていなかった、ということだ。
だから私はその頃までに読んだ小説や漫画のストーリーをほとんど覚えていない。細かいエピソードやキャラクターなどは覚えていても、そもそも「筋」が頭の中に入っていないのだから思い出せといっても無い物ねだりなのである。特に子供用の名作などがいけない。多少成長した後ならば、「物語」はわからなくても、覚えているエピソードの数と順序でどうにかなるが、子供の時の記憶ではそれすらあてにならないからだ。ある時、どういう流れでかは忘れたが、友人とそういう話になった。この友人は小学生の時に読んだ江戸川乱歩などの小説を全部きっちり記憶しており、さらに当時その作品の欠陥まで指摘してのけたという、私にとっては異次元の生き物である。彼女にテストされるように「ハイジ」やら「秘密の花園」などのエピソードを切れ切れに思い出しているうちに「フランダースの犬」の話を言ってみろ、と言われた。
「...ええと...フランダースに犬がいて、死んだ」
友人はしばらく憤死していたがこれが私の実力なので仕方ない。だが、今度映画化される「フランダースの犬」には二通りのエンディングがあって、ハッピーエンド好みのアメリカ向けのバージョンではネロもパトラッシュも(と、さも思い出したように書いているがテレビで聞いただけなのでどっちが子供でどっちが犬なのか私は知らない)生きていて父親と再会する話になっているそうだ。これを見た私のような子供は将来「フランダースの犬」のストーリーを聞かれて「フランダースに犬がいて、生きていた」と、間抜けなことを言うしかなくなってしまうのだろう。名作を勝手に改竄するのはいかがなものか、という話である(そうか?)。
99/7/14
●得た物、失った物

スクリーントーンというのは漫画に使う道具である。模様が印刷された透明シールのようなものだ。大きさと形はB4の物が普通で、漫画の原稿用紙と一緒だ。このスクリーントーン、略してトーンには模様に「角度がある」物と無い物がある。角度があるというのはどういうことかというと、何でもよいからその辺の漫画をちょっと見て欲しい。大概の漫画のページにはトーンが使ってある。その中にアミトンと呼ばれるものが一カ所くらいは見つかるだろう。なんとなく灰色に見える部分である。その灰色の部分をよーく見てみると細かい点から出来ていることがわかる。そしてたぶんその点々はページの上下に対し45度の角度で並び、90度の角度で交差しているように見えるだろう。これが「角度がある」ということだ。他にもチェックの模様のトーンや、グラデーション(濃淡がある)トーンなども角度がある仲間だ。これらのトーンは大きさが合うからと言って適当に乗せて使うわけにいかない。アミトンなどはぱっと見れば一面の灰色にしか見えないのだから適当でいいような気がするし、私も昔はほとんど気にしていなかったのだが、他でお仕事をしているプロのアシスタントさんが来るようになって、彼女たちが確認を求めるので、「じゃあ、そうして」と言っているうちに目がそれに慣れてしまい、狂っていると気になるようになってしまった。ちょっとくらい角度が狂っていたって普通に漫画を読むような人達は絶対そんなこと気にしないで読んでいるとは思うのだが、駄目なのだ。自分が気になってしまうのだ。どの漫画家さんも大抵そうだから、大抵の漫画のアミトンはその角度で貼られているのだ。
大きさが合っていても決まった角度でないと使えないということは、無駄になる部分が多いということだ。アミトンは使える角度が4通りはあることになるが、グラデーションなどは一方向にしか使えず、ちょっと横向けたら足りるのにと言っても許されずに新しいトーンを下ろすことになる。そして余った部分のあるトーンは、昔はしつこく取っておいて使う努力をしたものだが、今はそんなことをしているよりさっさと新しいどこでも使えるトーンを出した方がC/Pが良い。トーンという商品は今の方が昔より大分安くなっているので(平均1枚350円くらい)、形に合う物を探す時間のロスに比べたら安いものだ、ということになってしまったのだ。
その点、角度のないトーンは貼る場所の形に合わせて乗せてカットすればよいのだから無駄が圧倒的に少ないし、楽である。砂目(粒々をばらまいたような、要するに砂状の感じの模様)とか、カケアミトーンとか、点々模様とかこちらもいろいろある。だが、一人で仕事をしている時などふと気づくと、こういう角度の無いトーンでもトーンの縦横に合わせて、まるで角度があるように貼っている。あきらかに無駄が出ているのに、なぜ形に合わせようとしないのか。それは実はその方が楽だからだ。何も考えず縦横を原稿用紙に合わせて乗せた物をカットする方が、頭も時間も使わずにすむからだ。たとえトーンを余分に使うことになっても。仕事の後、捨てる屑トーンをまとめていると、時間だけは余っていたがお金がなく、トーンを節約していた昔の自分に送ってやれたら、などと思う...などと書くとなんとなくかっこよくまとまって終われそうなのだが、実際のところそんなことはあまり思っていないのだった。
99/7/8
●虚しい言霊

 「日本」と「日本語」、あるいはまた「ドイツ」と「ドイツ語」。この二つの言葉の関係はと人に聞けば、日本語が使われているのが「日本」である、とか「ドイツ語」は「ドイツ」で生まれた言葉だ、などという答えが帰ってくるだろう。正確な成立の歴史はともかく、「フランス」と「フランス語」でも、「イギリス」と「イギリス語(とはあまり言わないが)」でも同じようなものだ。たまたまヨーロッパに偏ったが、別にトルコでも中国でもエジプトでも構わない。そして当たり前のことではあるが、この国の名前と、その「語」のついた単語から受けるイメージは大体一緒だ。「フランスのムード」「フランス語のムード」。どちらもなんとなく洒落た感じを受ける。昼下がりの舗道のカフェでミモザでも頼んで恋人を待とうか、ギャルソン、シルヴプレ、といったところか。「中国の雰囲気」「中国語の雰囲気」となると、昼休みに会社の近くの飯屋で賑やかに何かかっこむ、お茶はポーレーで、といった情景が浮かぶ。日本となるとジモティだけにかえってイメージが湧きにくい点があるが、外国人になったつもりで考えてみれば、和室でお茶とかお華をやりながらもそもそと何かを言っている、などがポピュラーかもしれない。これらはもちろんイメージだけの問題なので多少合わなくても別に構わないのだが、どう考えても、合わないどころか一片の共通項すら見いだせないのが「ラテン」と「ラテン語」のイメージである。「ラテン語のムード」というと脳裏に浮かぶのはたとえばオックスフォードのキャンバスで、チャペルの鐘の音が鳴り響き、クワイヤ隊の歌うおごそかな賛美歌が聞こえてきたりするのだが、「ラテンのムード」というといきなり真夏にカーニバルが始まって陽気に飲んで歌って踊って死んで、とかいうことになってしまう。「ラテン語を学ぶ」と言えば、大学の研究室の方ですか、とか聞かれるかもしれないが「ラテンを学ぶ」では、よくてせいぜいボサノバでも歌うのかとか、下手をするとあんたこれ以上いい加減な生き方身につけるつもりなの、などと言われかねない。いくら過去の言葉だからと言ってここまでイメージが変わってしまっていいのだろうか。そして、私よりも身近にいるヨーロッパの人々はその差異をどのように止揚しているのだろうかという謎も残されているのだった。
99/6/30
●夢の中へ

 普段からもぼーっと夢想しているのが一番好きな私であるから、夢に関することは好きである。退屈だ、と言われる「人の夢を聞くこと」も、人によっていろんな形の夢の見方があるものだ、ということを教えられて興味深い。ただでさえ夢というのは自分が意識して考え得ることを超越していてそこが面白いのに、他人の夢となると超越の二乗なのだから面白くないわけがないのである。
長く奇妙な夢を見て覚えていられた時などは夢日記をつける。これを習慣にすると相乗効果でさらに長く面白い夢を見て覚えていられたり、続き物の夢が見られたりするようになるというのだが、どうも根性がないのでそこまではしない、というか忘れてしまうのだ。忘れやすいことも夢の特徴の一つであるが、メモすることまで忘れてしまうのは単に私の特徴である。で、日記と日記の間隔は大体数ヶ月おきになるのだが、これはまた夢の忘れやすさで前の日記の内容などは常に忘れてしまう。だから、新しい日記を書く時に前の日記を読んでみると、新たな楽しみが得られてありがたい。今は日記用のノートを買って夢日記はそこに書くことにしているが、昔は適当な紙にメモして取っておいた。ある日机の整理をしていた時にその一枚が出てきたのだが、最初私は自分でそれが夢の記録であると気づかなかった。私の夢は妙に現実感のあるものが多く、ロケーションもしっかりしているので(もちろん現実の物とは違っているのだが、夢の中ではここは新宿のルミネのB2Fだとか、渋谷の南口だとか、外国であってもニューヨークのどこらへんにいて何をしようとしている、とか常に意識していることが多い。自分でもちょっと嫌になったのは、自分が大きな鳥になって羽根をひろげ、ゆうゆうと一面の海原の上空を飛んでいく、という幻想的な夢を見ながら、その海が「日本海」である、と意識していた時である)、うっかり読むと夢だとはわからないのである。その時もなかなか気づかず、私は悩んだ。
「私、いつ、こんな出来の悪いプロット作ったんだろう...作品にした覚えないからボツったんだろうけど、当然だよなあこれじゃ...」
私が夢日記用のノートを買ってきたのはそのすぐ後だったような気がする。
99/6/26
●通信戦記(2/2)

 悪魔DP-222との闘いもようやく勝利のうちに終結させ平和な日常を送っていた佐藤だが、密かに力を回復しつつある悪魔の手が狙っていたことはまだ知るよしもなかった。
 speax21CLが存在する限り自分に勝機無しと見たDP-222はなんと今回はファクス機能の方とbeocom1000の電話機能を同時に破壊した。ファクスを送ろうとしても「ダイアルトーンが検出されません」のエラーメッセージが返ってくるし、救助を求めて送受器を取っても無音の中にノイズが混じるばかりだ。かろうじてつながるISDN用ルータMN128-SOHOのデータ通信を通じてメールによる救助要請発信。だが支援部隊は遠方におり、作戦の実行はボイスによる指導を受けながら佐藤がやるしかなかった。そして今ボイス通信が出来るものといえば、そう、この憎きDP-222しかないのである。まずソフト的な部分を調べたが特に異常やミスは見受けられず、次にハード部分であるモジュラーのつながり具合などをチェックする。パソコンデスクを引っぱり出してマシンの裏側を見たり、ケーブルを入れ直したりしたのだが状況は好転しない。そして最後の賭けとしてSOHOの電源を入れ直してみた。その瞬間すべては解決した。
以前にもこのルータは何もしないのにおかしくなってデータ通信が出来なくなったりしていたのだが、その場合は前面のLEDの表示が変わっていたのでそれとわかった。しかし今回はLEDの方は何の変化もなかったのでまさかそのせいとは思わなかったのである。speax21CLやbeocom1000の破壊は見せかけであり、真の標的はMN128だったのだ。データ通信も出来ないようにしておけば最初の救助発信もDP-222を使うことになったのではないか、と思われるかもしれないが、佐藤には以前の経験があるから、その作戦では始めからMN128をリセットされ失敗に終わる可能性が高い。さらに付け加えておくと、最初にファクスを送ろうとした時佐藤がつかったのはアップデートしたばかりのファクスソフトで、このチェックを怠っていたので、まず設定のミスとかバージョンアップに付き物の新バグかという線がまず考えられたのである。さらにspeax21CLの不調は以前と同様であるから、ついに外付け電話機も使用できない状態になったのかと考えるのも自然なことである。なかなか犯人が特定できないのである。また、beocom1000を独自につないで使ってみることも当然考えたが、これのspeax21CLに繋いだジャックが妙に固く入り込み、下手に外そうとすると爪の部分が壊れそうになって取れなかったのだ。どこまでも考え抜かれた、まさに悪魔にふさわしい作戦であった。とりあえず今回の通信戦記はこれで終わるが、再び戦いの火蓋が切られないことを祈るばかりである。平和は大切だ。
99/6/23
●通信戦記(1/2)

 忠実なファクス付き電話機speax21CLを屈折した携帯電話DP-222に破壊され降伏しかけていた佐藤だが、なんとspeax21CLはもう一つのモジュラーで別の電話機を接続することが出来るという素晴らしい技能の持ち主だった。これにより、留守電やファクスは以前と同様に使用可能であり、また通話の方ははそのつないだ電話の送受器で出来るという状態になったわけである。そのつないだ電話機はどこから出てきたのかというと、speax21CLを買う前から持っていたものである。コードネームをBeocom 1000という。この電話機は20箇所までの短縮メモリ、ワンタッチオートダイアル、呼び出し音の切り替え(消すことも出来る)など電話機に必要な機能はすべて揃っている。何よりB&Oというメーカーのものなのでデザインがとてもよいのだ。デザイン第一なので留守電やファクスなどというダサいスペックはつけていない。そのポリシーはとても美しい。だが漫画家にとってはそのダサい機能のプライオリティが高く、それに合わせて購入したのがspeax21CLだったわけだ。そして使えるものを捨てることは好まない佐藤が二度の引っ越しの間にもしつこく保管しておいたため、再び活躍の日の目を見たというわけである。これで悪魔のようなDP-222が諦めたかというと、それではすまないところが悪魔なのである。以下次号。
99/6/16
●電波の来る人

 知人は新しい物好きである。先日も、携帯につないで着信音や相手の声がイヤフォンで聞けるアダプタを買った。自分の声は胸のあたりに来るマイクで拾って、電話機の方はポケットに入れたまま話すことが出来る。しかしこれを脇から見ていると、どう見てもウォークマンかなんかを聞きながら一人でお話ししている危ない人である。
「そうじゃないってば、ちゃんと話してるんだって」
と言われても怪しいものは怪しい。電波系の人と思われても仕方のない様相である。
「いや、だからほんとに電波来てるんだって」
「......はいはい、わかったからね」
最新のハイテク機器を使いこなしていても、そのアイテムが人口に膾炙するまでは正しいことを言えば言うほど怪しくなるのだった。


99/5/26
●復讐鬼

 家電というのは人の言うことを聞いている、という話がある。そしてひねくれやすい性格だ、と聞く。人々が新しい機種の話をしてそれに対する憧れなどを漏らすと、「そうでしょーよ、どうせあっしなんか古くてなんにも出来ないヤツなんだから...」と言わんばかりに調子が悪くなってみせる、というのだ。だが、ひねくれ者が結局人々からうっとおしがられ愛されずに終わってしまうように、この場合も当然のごとく買い換え時期が早まるだけなのだった。そこでうちの携帯は逆の手を使った。もちろん、私は携帯の新機種なんか全然欲しいわけではない。興味がないし、大体ほとんど使っていないのだから。だが、ある種の性格の者にはむしろそういう方がプライドに触るようである。しかも私はそのことを公の場であるこの雑記帳で披露してしまった。どうやってかそれを察知したDP-222は「それなら自分を使うより他に手段が無いようにしてやる」と、ずっと私に大人しく仕えていたファクス留守電付き電話機speax21CLの、コードレス電話機の部分だけを破壊したのである。ファクスの送受信、留守電機能は何の問題もなく働いている。電話の電話たる部分だけが壊されているのだ。呼び出し音が鳴って電話に出てもまったく話が出来ないし、こちらからかけることも出来ない。私は普段から電話自体あまりしないのだが、その日はどうしても仕事上のことで連絡を取らなければならなかった。しかもちょっと込み入った打ち合わせである。「携帯を使うしかない...」悪魔のようなDP-222に屈服するのは悔しかったが背に腹は代えられなかった。相手は普通の電話機なのだが、こちらが携帯だと聞き取りにくく、勢いこちらも多少声を大きめに出してしまう。「じゃあ、その2度目のベッドシーンはソフトなSMっぽく」「ランジェリーはレースっぽいのとレザー系とどちらの方が...」などという打ち合わせを、せめて自宅でしていたのは不幸中の幸いであった。
99/5/24
洋服貧乏

 服がない、というのは女の人が特によく言う言葉だ。物質的にないわけではなく、洋服ダンスやその引き出しや衣装ケースには隙間なく布の塊が詰め込まれている。それでもいざとなると「ない」のが服、ということだ。大体の女性の場合、「ない」というのは、例えば久しぶりに会う友達とお洒落な場所で食事をするとか、しばらく行ってなかったTDLに行くことになったとか、知り合いの発表会に招待されたとか、そういう稀な事態に対する備えがない、という事が多い。私の場合はそんな生易しいものではなく、日常着がすでに「ない」。先日、いつも気に入ってはいていたジーンズのお尻のところが破けた。膝とか裾の部分だったら気にせずはき続けるのだが、さすがにヒップはまずい、と考えるくらいの良識は私にもある。これで私はもう困った。普段着のボトムとしては他にジーンズがもう一本と、インド綿のスカート2枚、レーヨンかなんかのぺらぺらスカートが2枚ある(数え上げられてしまうところがまたなんというか)のだが、どれもそれぞれいろんな理由があって(ちょっときついとか、長くてうっとおしいとか形が古いとか)、家の中ではいている分にはまだしも外には、たとえ近所でも着て出たくないものばかりである。いや、はっきり言って、さっさと他に気に入るアイテムを購入して捨ててしまいたいものばかりだ。いつも見るたびにそう思うのだ。このくらいの物の代替品であれば購買力はあるはずなのだが、なぜいつまでたっても解決しないか考えてみた。
 まず基本的に私は「買い物」が嫌いだ。ここで既に大きく躓いている。外出して店で物を見たりするのはとても好きなのだが、買うとなると服に限らず面倒くさくなる。次に生活のサイクルのことがある。私のサイクルは大きく言って3つの期間に分けられる。まず、本当の仕事中。<ネーム>が終わって机に向かって絵や字を描き続ける期間だ。この期間は前述したように左脳は死んでいるし右脳には絵のことしかない。何時間かおきに<食べ物>のイメージが呼ぶ。それだけだ。どうしようもない。2つめの、仕事が終わった直後の期間は、解放された嬉しさで仕事中やりたくてやれなかったことに邁進する。好きなことをやるわけだから、もちろん服を買うなどという元々嫌いなことは頭に浮かんでもこない。そして3つめの、まだ仕事ではないのだけど徐々にその影が忍び寄ってきて、<表紙を入れるまでに後何日...>などと楽しみに水をさすような思いが入り込んでくる頃。好きな場所である本屋やゲーム屋に行っても純粋に楽しめず、ヒントや資料として使えそうな物しか目に入って来ないつまらない日々だ。当然服などは頭に浮かぶことはあっても後回しだ。そしてまた仕事に戻る、とうわけで、これではまったくどこを見ても服のつけいる隙がないというものだ。
 この間友人が買った「普段着」はブランド物で8万円くらいしたそうだ。その人は私よりずっと仕事をしていて有名な作家さんなので、そのくらいのお金を服一着に費やしても全然困らないのだが、一般的に言えばまあ「贅沢」の範疇であろう。だが、1年間の服飾費がその金額に満たないような気がしている私の方が世間様の賛同を得られないような気がする今日この頃だ。
99/5/13
●文明の非力

 一応、携帯電話を持っている。家で仕事をするのであまり使うことはないが、待ち合わせの時などには重宝する。あと買い物をしていて友人が欲しがっていた物があった場合にその場ですぐに買っておくかどうかを聞くことが出来たり、たまには外出中にかかることもあるし、まあ掛け捨ての保険といった感じである。私にとってはそのくらいのものなので、いろいろ機能はあるのだが全然使えていない。購入してそろそろ半年になるが、いまだに単なる登録ですらマニュアルを見ながらでないと出来ないし、ふりがなを入れなければならないというのが面倒で、3件くらいしかしていない。その登録した番号をちゃんと呼び出せるかどうかもまた怪しい。結局、たいがい紙のアドレス帳、それもシステムノートとかそんなのではなく、スヌーピーの絵のついた<メモ帖>だが、それに自分の汚い字で書かれた文字を見ながら入力することが大半だ。大半と言っても自分から携帯をかける機会そのものが少なくて、勘定するとせいぜい月に一度くらいであり、だから我慢出来るのだろうという推測が成り立つ。
 そんなある日、寝る前に電源を切ろうとしてふと見ると、液晶画面に今まで見たことのない記号が浮かび上がっている。どうやらメールが来たらしい、ということは見てなんとなくわかった。だがこれをどうしたらいいのだ。すぐにマニュアルを持ってきて該当個所を探す。このマニュアルがまた出来が悪くて、なかなかしたいことが出来ないのだ。さんざん苦労してやっとメールの中身を見ることが出来た。その内容は、<メル友になりましょう!高2男子>であった。
 高2男子くん、このメッセージ一つ削除するのに大変な苦労をしている私にあなたのメル友になる資格はありません。
99/5/5
●謎のテントンシャン

 小学校から中学校にかけて4年くらいお琴を習っていた。なぜポピュラーなピアノでなくお琴になったかというと、推測だがたぶん家が狭かったせいだと思われる。ピアノというのはアップライトでも結構場所を取る楽器だ。その点お琴というのは立てかけて保管する物なのでほんのちょっとのスペースですむし、重さもそれほどないので邪魔になればすぐによそに移動させられる。だが発表会などになると自分のお琴を持参しなければならず、着物を着た上に自分の身長よりも長い荷物をタクシー乗り場まで抱えていかないとならない(家に車が無かった)という便利なのだか不便なのだかよくわからない楽器なのだった。こんなことならバイオリンにしておけばよかったような気がするが、きっと近所にバイオリン教室がなかったのだろう。しかし高校の時同級生がバイオリンを習い始めたが、彼女の話では「まず自分が出す音を聞くのが苦痛だ」ということだったから、もし最初にバイオリンなど習っていたら音楽というものがトラウマになっていたかもしれない。とりあえず音程くらいは何の努力もなく出てくれた方が軟弱な小学生にはありがたいというものだ。
 お琴の楽譜はピアノやバイオリンなどの西洋楽器の物とは全然違う。13本の弦に低い方から壱、弐、参・・・十、その後は斗、為、巾と、名前がついていて、楽譜にはその数字が並べられている。そして、その数字と共に書かれている「テン、トン、シャーン」などという文字によって、どのように弾くかがわかる。「シャーン」は中指だし「コロリン」は親指だ。「シャ、シャ」であれば人差し指と中指。だが、「テン、トン」は指も弾き方も同じであって、どう違うのかよくわからないといういい加減なところもある。そういえば「シャーン」も中指と親指で和音を出す時のこともあったし、親指で流し弾きをする時もそうだったような気もする。「サァーラリン」などという、どう弾いたらそんな風に聞こえるのかというような無茶苦茶な指定もある。この擬音は要するに「曲のリズムとメロディを覚えるためにある」のだろう。とりあえず、私にとってはそうだった。私の先生は楽譜を使わずに口頭で教えるタイプだったので、「六段」も「八段」も、すべて「テン、トーン、コーロリンシャン」方式で覚えた。邦楽というのが音域が狭くテンポも緩やかだから出来る技であって、モーツァルトのピアノ曲などをこの方式でやろうとしたら教える方も覚える方もえらい苦労だっただろう。
 先日電車に乗っていたら隣に座っていた女の人がお琴の楽譜を開いていてこんなことを思い出したのだが、この人の頭の中では今きっと「ツン、テン、コーロリン、シャーン」などと流れているのだろうと思うとついにやにや笑ってしまいそうで困ったことだった。
99/4/23
●春のニューヨーカー

 私は外国かぶれなので日本の風景にはあまり興味がない。しかも古いタイプのミーハーなので、外国といったら当然アメリカ(それもまずニューヨーク。せいぜいロサンゼルスであり、テキサスだのネバダだの、バイブルベルト地帯なんかは失格)やフランス、イギリスなどのいわゆる西欧だ。中東や東欧ではちょっと違うし、南米やアフリカではますますだめ。ましてや東南アジアだの中国、韓国だのはいけない。南極、北極になると、それはもう外国であるかどうかもあやしい。
 西欧の風景が好きだがお金はないミーハーがどうするかというと、自分のいる場所を勝手に西欧に見立てるのである。近所のS公園に散歩に行く私は、マンハッタンに住み、息抜きにセントラルパークの散歩に行くアーティストだ。S公園のどこがセントラルパークかというと、公園の中とまわりを車の通る道路が通っているところと、かすかにストロベリーフィールズに似た(斜面であるところと樹木が生えているという二点で)スポットがあるというところである。こんな基準で選ぶのだったら、カーブだらけの道路が巡っている外苑あたりの緑地とか、賑やかなショッピング街と閑静な住宅地が同居する吉祥寺の井の頭公園の方がよっぽど似ているのだが、それらをセントラルパークに比定してしまうと、どちらも行くのに乗り物を使って小一時間かかり、そうすると私の立場が<ブルックリンから地下鉄に乗ってセントラルパークに行くお上りさん>になってしまうのでまずい。ここは、たとえシシカバブの屋台の代わりに焼き芋屋がいようと、タバーンオンザグリーンではなく<御休憩所・豊島屋>があろうと、そんな細かいことは無視して「ちょっとワーナーブラザーズとシュウォルツの店をひやかした後<パーク>に来た」と考えなければならない。アーティストであるから、「ティファニーやブルガリを覗いた後」ではふさわしくない。ゴディバならいいだろう。頭脳労働は甘い物を求めるから。ゴディバの店先でなぜか短調のタンゴがかかっていても深く考えないことだ。また、ワーナーやシュウォルツはあくまでひやかしで寄ったのだから、いつまでも「アベンジャーズが新作コーナーから一週間貸し出しOKのところに移っていたからそろそろ借りようか?」「サイレントヒルが面白いという話だが、中古に入ってくるまで待っても...」などと拘泥していてはいけない。こうしてニューヨーカーの私は心地よい春の風に吹かれながら緑の中を歩き、新しい創造のためにリフレッシュする。帰りにはスターバックスでコーヒーを飲んでいこう。看板の文字は<ドトール>とも読めるが、それも気にしなくてよい。
 このようにニューヨークっ子に活力を与えてくれるセントラルパークだが、一つだけ大きな欠点がある。それは高温多湿地帯に属するために植物の生育が良く、そしてなるべく自然の姿に手を入れないように管理されているので、初夏を過ぎるとあっという間に景色が<アジアの田舎>へと変貌してしまうことであった。

99/4/20
●急がばショートカット

 インターネットは便利である。特に検索ページはありがたい。ある物についての情報を得る、言葉の使われ方を調べる、資料としての画像を見る、などさまざまな角度から役立てることが出来る。だが、難しいこともある。その一つが「思い出せない言葉を探す」である。
 あるミュージシャンのファンサイトを見つけてディスコグラフィーを見ていたら、「ゲーム音楽」のコーナーに不備があった。ページの作者もそのことは承知の上で、<情報求む>というような断りがしてある。私もそのミュージシャンのファンなのでその人のオフィシャルのページも見ているのだが、そちらにはゲーム音楽などコーナーすらない。更新もあまり頻繁ではないようだ。ファンの情熱はやはりすごい。それはさておき、ファンである私は、抜けているゲームがあることにはすぐに気づいたのだが、そのゲームのタイトルを思い出せなかった。ファンといってもいろいろいることがわかる。スーファミ用のアクションRPGで、6、7年前の物であり、中古屋で買ったのだが結構高かった割にク***でC/Pが悪かった、音楽もたいして印象に残ら...あ、いやいや、などと余計なことはどんどん思い出すのだが、タイトルだけがいっこうに出てこない。何日かはそのまま放っておいたのだが、やはりなんとなくすっきりしないのでついに検索ページを開き、そのミュージシャンの名前にゲーム、スーファミ、ファミコン、などのand条件をそれぞれつけて探させてみた。だがまったく思ったようにヒットしない。別のミュージシャンが作ったゲーム音楽の情報なら詳しく書いてあったりするのに、だ。それはやっぱそのゲームがメジャーで名作だったからかもしれないなあ、大体あの人の関わったゲームって...などとまた余計な感想が浮かびそうになる。結局、スーファミでひっかかったゲーム通販店のカタログを上から見ていって発見した。タイトルだけが羅列してあったのだが、さすがに、一度はプレイしたことがあるので文字列を見たら思い出したのだ。あーそうだったこれだった、タイトルだけでも教えてあげなくちゃ、と思いファンサイトに行く。するとそこには既にそのゲームのタイトル、メーカー、発売年や値段などの完璧な情報と共に、パッケージの写真まで載っていた。そうだ、この絵だ、懐かしい。インターネットってなんて便利なんだろう。

99/4/17
●愛が終わったプログラム

 他の業界と同じように、漫画家の仕事場にも符丁がある。漫画家の先生がアシスタントに指定する時の言葉はほとんどそればかりである。「ナワ」「カケアミ」「ベタ」などはペンや筆で背景を埋める模様の種類である。またスクリーントーンを貼ってもらう場合、トーンの番号で言う(書いておく)場合もあるが、トーン自体が符丁で有名になっている物があり、これはこれで指定した方が話が速い。「アミ(ハーフトーンの、中間色のような感じを表すところに貼る)」とか「果樹園(地図の記号から来ていると思われる)」「バスケ(バスケットボールの表面のような点描)」など、沢山ある。アミトーンは何種類もあるし、仕事場によってデフォルトが違うので番号の方が正確なのは決まっているが、トーンのメーカーも複数あり、修羅場の中でセンセイは番号なんか思い出したり調べたりしていられないのである。また、「グラデ(アミや点描がグラデーションになっている、影を表すのに便利なトーン)」の、どこいらへんをどういう向きで使うか、などは慣れたアシスタントの感性に任されることになる。符丁だけで済まず、感覚に任されるのは大変迷惑だろうが、センセイはなにしろ脳死状態で手だけが動いている。いや、作品の出来上がりをイメージする右脳は生きているのだが、それを他者に伝える言語を操る左脳が死んでいる。そこで、意味不明な背景の指定が飛び交うことになる。あるアシスタント嬢が一番困った指定は「ヒロインの後ろに<二人の愛は終わった花>を」というものだったそうだ。
 SEとプログラマーの関係も漫画家とアシスタントのような感じの時がある(この2つの職名は実に広範囲をカバーしているので一概にイメージが決まらないらしい)、と聞いたことがある。その場合SEの人はプログラマーさんに向かって「この部分には<愛が終わったコーディング>を入れてね」とか「最初の部分は<朝焼けのようなすがすがしい宣言>で始めて」などと注文しているのだろうか。してないだろうな。

99/4/13
●アメリカ人の苦しみ

 世の中には痛みや苦しさに強い人がいて、どうも歩くと体がふらつくと思ったら39度熱があったとか、歯医者に行ったのに何ヶ月も痛みが治まらないのでおかしいとは思っていたがずうっとそのままにしておき、ついに別の歯医者で見てもらったら詰め物の下に綿が入ったままになっていたとか、そんなことを平気で言っている人がいる。いや平気ではないのだろうが、どうしてそんな痛いままで日常の生活が続けていられるのか、私にとっては驚愕の世界である。私は一度の半分熱が上がれば気分が悪くて何も考えられなくなるし、足の小指をたんすの角にぶつければ20分くらい泣きながらその場でうずくまっている。それ以上の痛みは考えるのも嫌だ。
 熱にも痛みにも弱い私が特に嫌なのが腹痛である。胃腸は割に丈夫で、食べ過ぎとか消化不良で苦しむことはあまりなく、だからかえって、なのかもしれないが、まれに悪い物を食べて<あたった>時毎回思うことは「これは死ぬかも...」であり、「今度こそは救急車を呼ぶべき時だろうか...」である。前述のような痛みのオーソリティに言わせればたぶんこんな痛みは初級クラスなのだろうが、私には腹痛に関してトラウマがあるようだ。というのは、子供の時に聞いたか読んだかした話で、今も忘れられない二つの話があるからだ。
 一つは、<スイスで、チーズフォンデュを食べたアメリカ人の男性が、一緒にビールを飲んだため、後でお腹の中でチーズが固まってしまい、苦しんで死んだ>という話であり、もう一つは<アメリカの農夫がじゃがいもの芽を食べてしまい、芽にふくまれるソラニンという毒で苦しんで死んだ>という話。チーズフォンデュの話は多少オーバーらしいし、ソラニンの毒は本当だが注意すればめったに口に入るものでもないだろうに、こういう話をしつこく覚えているというのがどうも怪しい。それはともかく、こういう世界の都市伝説のような話となるとどうして大抵主人公がアメリカのおっさんなのだろうかという謎も少々私の心を悩ませている問題なのだった。

99/4/10
●馬に蹴られる

 先日、仕事の時に一人のアシスタントさんに泊まりで来てもらった。朝、彼女を起こしたがなかなか起きあがらず、目は開いているものの布団に座ったままぼーっとしている。仕事中は疲れるし、睡眠時間も短くなるのでこういうことはよくあることだから、そのままほっておいて朝食の仕度を始めた。しばらくすると彼女がやっと、という感じで、夢の途中で声をかけられたのでなかなか目が覚めきらなかったのだ、と伝えた。それはすまないことをした、と思った。睡眠にはリズムがあって、そのリズムに合えば短い睡眠時間でも結構しゃっきりとしていたり、反対に妙なタイミングで起こされると十分すぎるくらい長く寝たとしても、どうも頭の中心から直径5cmくらいの中が眠っているような気がするものだ、ということは私もだいぶん長く生きているだけあって経験済みなのである。それはともかく、彼女にどんな夢を見ていたのか聞いてみた(私は人の夢の内容を聞くのが好きだ)。そして、ますます悪いことをした気になった。夢の中で彼女は、魔法も使える屈強な男になっていて、村から一人の女をさらって小脇に抱え、追いすがる村人達を魔法で足止めして山に入っていったところだったというのだ。その後どうするつもりだったのか彼女自身にもよくわからないというのだが、どうもなにか邪魔をしてしまった、という感が拭えない私であった。

99/3/24
●ある苦しみ

 あなたは、こんな苦しみを感じたことがあるだろうか。

 以前、私の好きなある作家が次のようなことを書いていた。<映画の紹介で、最後にどんでん返しがある、と書いて、その内容を書かないことで誠実な紹介をしたつもりになっている批評家がいるが、観客の側はもうそれだけで構えてしまうのだからその紹介は失敗である>と。私はこれに深い共感を覚えた。だから以下の、映画とミステリーの話は作者名もタイトルも出さずに書くことにする。
 ある映画を見たのである。レンタルビデオでだが、大変面白かった。何よりも最後のどんでん返しが「ああーっ」とうならせるものだったのである。その後、まったく関係なくあるミステリーを読んだ。これも面白かった。特に最後のどんでん返しが決まっていた。割に短い作品であり、そのどんでん返しのワントリックで「おおーっ」というものだった。そして、何の根拠もないことではあるのだが、この作者は、私が前に見たあの映画を見てこの作品を構想したのではないか、と思った。決して盗作とかそういうことではなく、なんというか、イメージに共通するものがあるのだ。そのどんでん返しの部分にだ。だが、もし事実そうだとしても作者を責めるよりも、そのイメージを上手く生かしたことを称賛したい(偉そう)気持ちが強い。
 私はこの発見を誰かに話したかった。他の人の意見を聞きたかった。だが。
 トリック命の、どんでん返しにすべてがかかっている作品なのである。あらかじめ両方とも知っているとわかっている相手にならその話が出来る。だが、回りにそういう確証のある相手がいない場合は。
 映画好きの友人も、そのミステリ作家が好きな友人もいる。そういう人々にまず、「***を見た(読んだ)ことある?」と尋ねてみようか。そして相手が「うん、ある、あのどんでん返しが面白かったね」と答えたとしたら。この先一体何をどう話せというのだ。そこで続けて「じゃあ、***は読んだ(見た)?」などと聞いたりしたら。それはもうトリックばらしと一緒なのだ。あるいは最初の答えが「ううん、ないよ。なんで?」だった場合は?「あ、いや、なんでもないの」などと馬鹿のように言うしかないではないか。
 あなたは、こんな苦しみを感じたことがないだろうか。

99/3/20
●懺悔

 最近、新たな自分を発見してしまった。こういう時発見するのは大概、出来れば発見したくないような、やな自分である。たまには「おおー、私ってこんな素晴らしい人間だったのか!」というような発見をしたいのだが、願いむなしくまだそのような喜びには出会っていない。それはともかく、最近発見した自分は、「油断すると異様にうっかりしている」という自分だ。普段はそんなにそそっかしいというわけでもない(と思う)のだが、やる時にはまさか?というような間違いをする。そしてまったく知らない人様に迷惑をかけてしまうというのが特徴だ。
 昨日は小雨が降っていた。その中を近所の本屋に出かけた。近所の外出の場合、私は重いのが嫌いなのでビニール傘を使用する。その時も、何本かあるビニール傘の中から使いやすい一本を選んで使った。その後、もう一回外出する用事が出来た。さっき使った傘が傘立ての中で、わざとらしいババ抜きのババのカードのように突出している。自然にそれに手が伸びる。が、何かおかしい。そうだ、私がさっき使った傘は、ビニールは白の透明な物だが、柄は黒だった。だが、これは柄が白い。そして、傘立ての中に黒い柄のビニール傘は一本も入っていない。さらによく見るとその白い柄にはマジックで名前が書いてある。私は持ち物に名前を書く習慣がないので当然他人の名前だ。そうだ、私は本屋で間違えて他人の傘を持ってきてしまったのだ。それも他の人の名前が書いてあるというのに。しかも、そういう出来事はこれで二度目なのだ。
 今、うちの傘立てには他人の名前の書かれたビニール傘が2本ある。

間違われた人たちすいませんすいません^^;


99/3/12
●謎の看板

 近所に割と大きな公園があって、時間の取れる時はよく散歩しに行く。通りをへだてた二つの大きな池が中心なので、コースは大体その回りを一周してくるということになる。そのコースの途中に気になっている家がある。大きく綺麗で、庭も、通りに面した生け垣もきちんと手入れされた立派な家だ。だが、その生け垣にある小さな看板が、我々散歩仲間の心を悩ませていた。通りに面して生け垣にかかっている(...というのか?)、明らかに通行者に向けて書かれた看板、そこには。まず「チン」という手書き文字が大書されている。それからその右下にやや小さな字で「犬の名前」。
それだけなのだ。別にその場所に犬がいるわけではない。いや、確かに犬は飼っているようだし、生け垣に隠れているから見えないだけでその後ろに犬小屋があるのかも。が、だからといって普通、自分の家の犬の名前をこのような形で他人に知らしめるものだろうか?さらに、この家の門のところには「***の会 知能の発達をなんたらかんたら」というような、まあたぶん子供の英才教育に関するものだろうと思われる、こちらはちゃんとした看板もあるのだ。この2つの看板を見比べると、どうしても、この、一見<意味不明>なチンの看板の意味がわからないようでは知能が低い、と言われているような気分になってしまうのであった。
そしてさらに最近判明した衝撃の事実。それは、寒い間散歩をさぼり、やっと先日コースを回って来たところ、看板の犬の名前が「チン太」に変わっていたことであった。
99/3/4
●社交生活

 先日、ダスキンの人が来た。いつもの通り清浄機のフィルターとか換気扇やら浄水器やらを取り替えてもらって、お金を払う時にその人が世間話のような調子で「駅前にミスタードーナツが出来ましたね」と言った。私は何も考えずに「ああ、そうですね。でもドーナツとかあんまり食べないんですよねー」と答えた。考えずにとはいえ、この担当の人とは前に玄米食や無農薬の野菜などについて話したことがあり、ダスキン自体そーゆー方面に目が向いているようなので、ドーナツのような砂糖と脂肪の塊を喜んで食べるとは思えず、私としては話を合わせたつもりだった。しかし彼はちょっと悲しそうな顔をした。そして、「...そうですか。ではお友達にでも...」と言ってミスタードーナツ割引券のセットを置いていった。そうだ、ダスキンとミスドはお友達だったのだ...。社交は難しい。




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