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今頃Woody Allen 12/13/01
先日ケーブルテレビでWoody Allenの、割と初期の映画をまとめてやっていたのでいくつか見てみました。「ウッディ・アレンのSEXのすべて」「バナナ」「スリーパー」「愛と死」と、コメディばかり、タイトルは聞いたことがあったけどちゃんと見た事はなかった物をこの機会に見たのですが、なんだかすごく懐かしい感じで結構ツボでした。作品として評価するには、まだ「若い」という感じですし、小林信彦さんのようなちゃんとした映画ファンの方には「テレビ的ギャグコメディ」という感じでいまいちのようです。でも全然映画ファンでない私には向いてるみたいです:-)それと、(当時の大人から見ると)「だらしない、情けない口ばっかり達者な現代の若者」みたいなヒーローが「ぼくの考えた革命」や「ぼくの考えた未来」みたいな世界で活躍するという、いかにも70年代な雰囲気にキュンとするという世代的な側面が大きいのかもしれません(笑)。
あと、ギャグとして、伝統的な「逃げるギャグ」とか「動きで笑わせる」という部分もちゃんとある反面、Richard LesterのBeatles映画の感覚に近いところもある気がして、「もしかして影響受けてる?」などとも思ってしまいました。もちろんどちらも基本的なギャグの素養があって映画を作っているのだろうから、そういうところで共通する部分が出てくるでしょうし、Beatlesの影響で70年代のアメリカ大学生文化のような物が出て来たのだから雰囲気が重なるのも当然でしょう。そうは思っても、「チビで情けなくてドジな若者」のAllenが一人歩く姿を見ると「a Hard Day's Night」のRingoのシーンが浮かんでくるし、また、BGMに同じ「ローエングリン」がギャグっぽく使われてたりするとなんだか口元がゆるんでしまうのでした。「愛と死」でテーマに使われているプロコイエフの「キージェ中尉」も「Help!」の、チロルの場面(夜に、スキーで駅まで逃げるところ)で使われている曲かと思ったのですが、こっちは違うみたい。

●減点ファン 12/10/01

先日、友人とライブに行った。70年代が全盛だったプログレ洋楽のコピーバンドである。コピーバンドと言っても、テクニックはすごいし、本家がライブではほとんどというか確実にやらないような曲にまで果敢に挑戦している。とにかくボーカルの声がかなり似ているところが嬉しい。また、本家のバンドは現在もニューアルバムを出し続けているのだが、そういう新しいアルバムからもちゃんとレパートリーに加えているという、ライブハウスで1500円(プラスドリンク)で見てしまっては申し訳ないようなバンドである。
さて、おりしも本家は今年の9月に新譜を出しており、コピーバンドのライブは11月末だったので、その時までに新譜をちゃんと予習しておこうと思っていた。やはり曲を熟知している方が演奏を楽しめるからだ。友人はかなり早くに買っていたようだ。だが私の方は、なんとなく買いそびれているうちに日にちが迫ってきてしまった。そろそろ予習しなければ、とあせっていると、友人がこのアルバムはオーケストラがやたら活躍しているからここからはやらないだろう、と言う。最後の曲だけはアコースティックなのでちょっと危険かもしれないが、ということだった。その日やはり行くことになっていた別の知り合いに聞いてみると、確かにその曲ならばやれば出来るだろうがその曲は回りのファンが嫌っているからたぶんやらないだろう、と言う。その人はそのバンドの人々や周りの人々と知り合いらしいので、これはかなり信憑性のある言葉である。
これで安心し、結局予習はしないで行った(実際、本職の合間に練習をするアマバンドとしては、2ヶ月では準備不足ということでやらなかった)。開演前にその知り合いの人が持参していた新譜を出して友人と話を始めたので聞いていると、
「最後の曲、みんなそんなに嫌ってるの?」
「いやー、評判悪いんだけど僕は結構好きだな、ここまでの緊張感が一気にそがれてほっとする感じがするじゃないですか」
「誉めてないですね…それより、最後のをどうこう言うより、まず○曲目のやつの方がよくないと思う」
「この、これなんかもちょっとあれだよね」
「後これの最初のあたりも嫌い」
「これも無くてもいいかな」
普通、ファン同士がそのバンドのアルバムの話をする時というのは「これが好き」「ここがいい」といって盛り上がるものだと思っていたのだが、こうも減点法で話されるアルバムというのは、もしかするとアルバムごと無くてもいいのではないか…ファンとして、一体買うべきなのかどうか、十分迷わせるに足る会話であった。

難解なアルバム、その他 10/20/01
下に書いたユキ・リョウイチのアルバムをBOOK OFFで見つけたので買って来た。いろいろ本も買うついでだったので:-) 早速試聴用デッキでリピートして聞いてみているのだけど、なんだか不思議なアルバムなのだ。私は、嫌いな曲(アーティスト)はまあ聞けばすぐわかるが、「ちょっといい」と「結構いい」、「好み!」などの差は、何度か聞かないとわからない。それで新しく買ったアルバムはまず5、6回リピートして聞く。「ちょっといいけどそんなにオールオッケーって感じじゃないな」という物はここらで自然に飽きて終わりになる。それ以上聞いていても平気な物はその後飽きるまで何日かデッキに入ったままリピートされる。ここまで進んだアルバムは大抵その中で、聞いていない時でもふっとフレーズが浮かぶ曲や、一緒に歌いたくなる曲があったりする。他のアルバムを聞いていても、ふっと聞きたくなったりもする。だが、このユキ・リョウイチのアルバムはそのどちらにも入らないのだ。何度リピートしても厭味がなくて全然飽きは来ない。アレンジの音など気持ちがよい。だが、ふっとした拍子に頭の中で流れたり、歌いたいという気になる曲が全然無い。そして、聞かずにいるともう全然聞かなくても平気なのだ。かければかけたでまた飽きない。結局、好きなんだか嫌いなんだか判断がつかない人なのである。こういうのが完璧な理想のBGMなのだろうか…?

なんとなく付けていたTVドラマの中でちょっとだけ使われた曲が、聞き覚えのある曲にちょっと似ていて(もちろん違う曲)、今度はそちらの曲が頭から離れなくなってしまった。サビの辺りしか思い出せず、しかも何と言っているのかよくわからないので曲名がわからない。性能の悪い脳内プレーヤーである。George Harrisonのソロのような気がするのだが、彼のアルバムはAll Things Must Passしか持っていなくて、しかも絶対それより新しい曲だということはなんとなくわかっている。N-Mixのtry(パソ通のチャットみたいなところ)でたまたまGeorgeオタクと自認する人が現れたので助けを求めたのだが、音楽の素養がない私の説明ではいかんともし難いのだった。他にも何人か会話に加わってきて、結局Cloud9の中の何かっぽいという可能性が高いということになったが、だとしても、というかその曲が判明したとしても、だからどうなんだという話ですね、結局(笑)。そして、それからちょくちょく、その曲を聞いたと思われるlive365.comのBeatles局をかけているのだが、待っている時に限ってかからないものである。

そういうわけで今もlive365.comを聞いているのだが、さっきかかった「Swag」というバンドのDifferent Girlという曲が初期〜中期のBeatlesっぽくて気に入ってしまった。調べて見ると、その曲の入っているアルバム「CATCH ALL」には「BeatlesというよりMcCartney風の」曲なども入っているらしい。まったく情報は欲望を刺激するものである。

買おうと思っているCDメモ 09/25/01
高橋幸宏さんのlatest album(タイトル忘れてます^^;)/M.R.I.(ビートニクスの新譜)/Dear God(ユキ・リョウイチ)/Magnification(Yes)/谷山浩子90's
先日まとめて買おうと思って街に出たのにこの中の1枚しかなかったので面倒になってやめてしまいました。買い物不精は、一つの店で一度に買えないと嫌になるのです(笑)。

オススメの不思議 09/18/01
コンピュータや家電などの場合、詳しくて信用出来る人が「オススメはこれ」と言えばそれに従っているのが一番である。もちろん従いたくても財政が許さない場合がある、というか、往々にして、詳しくて信用出来る人というのは金銭的にはあまりこだわりの無い人が多いので、そういう場合が多いのだが、その場合は次善の品にしたり、お金が貯まるまで待ったり(していると新製品が出てしまうことが多いが)、諦めたりと、いろいろ対処法は違っても基本的にその人を信用していることは確かである。そしてそれで間違いはない。だがゲイジュツ関係となると、いくらあるアーティストの作品が好きで人間的にも信用出来る人だとしても、素直にそのオススメに従うわけにはいかない。別に逆らいたいわけではないのだが、こういう好みというか感覚の違いというのはまったく融通がきかないものだ。
ちょっと前にRoxy Musicの公演に行った。予定は無かったのだが知り合いが急に都合が悪くなって代理で見に行ったのだ。最近はオールドタイマーのミュージシャンがよくやってきてオールドタイマーの曲を演ってくれて、オールドタイマーファンな私は嬉しい。この公演もRoxy全盛時代の曲をフルコースでやってくれて大満足だった。RoxyのCDは何枚か持っているが、例の100連装デッキには入れていない。たまに聞きたくなる事はあるが、なんとなくいつも聞きたいという感じでもなかったからだ。今回のコンサートで、「やっぱりFor Your Pleasureくらい入れようかなあ?」と思い、別のデッキで聞いてみた。コンサートでは気付かなかったが、久々に聞くとBrian Ferryの声がイメージと違う。「あれ、こんなんだっけ…」私がRoxyを「常備盤」に入れなかったのは、曲は好きでも、声が自分の好みからちょっとずれている、という事に無意識の部分で先に気づいていたからのようだ。
Roxy Musicは出た当時から割と好きだったが、強く意識するようになったのは高橋幸宏さんがBrian Ferryを好きでカバーをしたり、スタイルを真似たりしているのを知ってからだ。幸宏さんの声や曲は私の好みにきっちり合っている。それで、彼がモデルにしているBrian Ferryの株を実際以上に上げて捉えてしまっていたのかもしれない。それにしても、自分の脳には自分の好みくらいさっさと気付いて欲しいものである。

●嘘つき聖人の逆襲 09/16/01

以前の雑記帳で、自分の意思や利益に関わり無く嘘をつく嘘つき聖人の事を書いた。彼女は当時は近所にいたが、今は引っ越してかなり遠くなっている。それでも時々は会うが、以前ほどのペースではない。それで必然的に彼女のイノセントな嘘の被害に遭うことも少なくなっていた。だが安心するのは早かった。彼女が使用するのは即効性の嘘ばかりではなかったからである。
前にも書いたように彼女はよく映画を見る。ホラーやミステリー物が特に好きで、テレビドラマの「コロンボ警部」などもよく見ていた。その中で、レスリー・ニールセンがゲストで出ている物があるという。レスリー・ニールセンは「裸の銃シリーズ」の主役として活躍するコメディ俳優である。その彼があの真面目なドラマでどんな演技をするのか、彼のファンである私は興味を持った。彼女によると被害者役で、「つい、いつ死体が笑いながら起き上がるかと思って見てしまった」と言う。彼女ももちろんお笑いのレスリーを知っているのだ。ぜひ見たい、と思ったが映画ではなく、かなり古いテレビシリーズである。「ER」とか「Xファイル」ならどこのレンタル屋でも揃えているがコロンボとなると、映画版の物か、よほど有名な名作しか置いていない。だが最近、ちょっと離れた店にシリーズが揃っていることがわかり、データベースでタイトルを調べた上で、ちゃんとパッケージも見てレスリーが出演していることを確認し、借りてきた。面白かった。よくまとまった、いつも通りのコロンボ警部であった。レスリーはスペシャル・ゲストとしてクレジットされていて、出番も多かった。だが被害者ではなかった。コロンボ警部物だから別に書いて構わないと思うが、犯人で自殺するとかいうのでもなかった。一応は彼女の言を信用して次に殺されるのかと思ってみていたが、結局最後まで死体にはならなかった。本当に彼女には油断ならない。

●答えは42

先日、以前好きだった漫画のことをふっと思い出した。懐かしくなり、そのうち時間のある時に早稲田の漫画図書館で読もうかな、と思ったが、タイトルや発表年が思い出せない。載っていた雑誌と作者は覚えているが、短編の読み切りであり、現在の作者とは作風が離れていてコミックスには入っていないようだ。また、もし入っていたとしても、既に絶版であろう。それぐらい昔の作品なのだ。最近増えてきた文庫版コミックスにもまだ入っていない。とにかくタイトルがわからなくては話にならないので、検索エンジンでいろいろ探すと、世の中には懐かし漫画を愛好する人が大勢いるもので、その中の一つでめでたくタイトルを発見した(ちなみに作者のデビュー作であった。その後作風が変わったのはやはり「売れる物を…」という事なのだろう。私はその作品が他の漫画とは違っていたから気に入ったのだから…)。さすがに好きだった作品なので目にしたら「これだ!」と思い出したのである。
また、昔、セルビデオという物すらろくになかった時代には、ある映画が気に入って何度も見たいと思ったら何度も映画館に通うしかなかった。当時は二番館というものが割合にあって、ロードショーから落ちた映画を二本まとめて上映したりしていた。こちらのお目当ては片方でも、気に入っているから一度に二回は見たい。そうするとどうしても、もう一本の映画も一度は見ることになるのである。その中で割と面白かった映画が、最近になってちょっと気になった。当時は全然無関心だったし、今も別に「見たい!」と思っているわけではないのだが、インターネット映画データベースなどというものがあるので、逆に、タイトルくらい思い出してちょっと確認してみたいなあ、と思うようになったのだ。とにかくタイトルも俳優も全然わからないから当のデータベースはまずは役立たずである。覚えているのは「こんなシーンがあった」とかのあやふやな部分だけだ。しかしいろいろと検索しているうちに、映画ファンの人らしいページで、過去にどんな映画が映画館で公開されたかということを年別に表にしている人がいた。お目当ての方の映画で検索して引っかかったのだが、併映されたのだから当然同じ年にやっているのである。これも、やはり眺めていたら「ああ、これだ」と思い出し、データベースで調べたところストーリーが一致していて、めでたしめでたしである。
インターネットという物が出来、企業や団体や個人がそれぞれのホームページを作り、検索エンジンが充実してくると、以前だったら自分や周りの人がきちんと日記でもつけていない限り、記憶の彼方だったような事柄が思い出せる可能性が相当高くなった。ただの個人の日記だとしても、それが検索エンジンで引っかかるのなら、そこに面白かった漫画の感想や、見に行った映画のタイトルが書いてあるだけで、こういう時に役立つ事になるのである。こうやって互いが互いの外部記憶になるという事が文明の素晴らしさの一つである、かどうかはわからないが、有難いことであるのは確かである。

音楽の不思議 07/27/01
ここを聞こう。メモです^^;

●East is east 07/16/01

この10年ほどの間に日本の「アニメ、オタク文化」というものが海外に流出されるようになり、いろいろな国でそれなりのニッチを獲得しているようだ。もう、それこそ10年近く前にアメリカで放映されているという英語吹き替えの「セーラームーン」を見たし、FF7のページも英語のものが沢山あった。またここ数年は韓国や台湾など近隣諸国でも漫画同人誌やゲーム誌の出版が盛んらしい。台湾で売っているゲーム誌(日本の雑誌の台湾版)を見せてもらったことがあるが、中国語の中に日本語が混じった記事になっている。怠慢で訳さないのではなく、日本の雑誌に英語が入っているように「カッコイイ」という感覚で残してあるらしいのだ。投稿作品などを見ても日本のオタク漫画の影響が強いことが大変よくわかる。絵の横に書き文字でつっこみが書いてあるとか、言語が違うだけで精神的には日本の青少年とほぼ一緒に思える。
アメリカの最近の一部の映画やテレビドラマにも「オタク文化」の影響が現れているように思える。ホラーの「スクリーム」シリーズや、「バフィー・恋する十字架」など、少女が敵と(肉体的に)戦い、倒すという場面でカタルシスを得るという部分で、セラムンのような「女子活躍アニメ」やスト2のような「格闘技物」との共通点を見出せる。だが一つ大きな違いがある。
「スクリーム」の場合は敵もヒロインも普通の人間だから、ただ格闘したり銃や武器を使うのも当然だが、「バフィー」の場合、敵はバンパイヤや悪魔であり、ヒロインバフィーは「選ばれたその時代でただ一人のバンパイヤスレイヤー」という存在である。もしこれが日本で作られた作品であったら、ヒロインが敵を倒すのに使う一番の力は、必ず何か超自然的なものになるだろう(そして戦いの最後でその力を使ってようやく決めるという、水戸黄門形になるだろう)。しかし、見ている限りバフィーの「力」というのは単に格闘技としての戦闘能力でしかない。パンチやキックの威力や速さ、武器をうまく操る運動神経、反射神経の良さ、体力、そういうものがきわだって優れているのでモンスターに対抗できるという話なのだ。もちろんモンスターの方もほとんどが肉体勝負で、妖しいわけのわからない力などというのは持っていない。このドラマを見ているとスパイダーマンや、バットマンのキャットウーマンが自分のコスチュームを「縫ったり」「洗ったり」していた「なんだか妙に現実的な部分のあるアメコミの世界」を思い出し、「やっぱり違うわあ」と思うのだった。

シーズンズチョイス 07/09/01
人間も生き物である以上季節に左右される。特に日本のように変化に富む四季があるといろいろな面で影響を受ける。季節によって聞きたい音楽が変わるというのもその一つだろう。
私は音楽はいつもBGMとして流していて、既にいつ聞いても嫌でないアルバムだけを選択済みなので、どの季節でも「これは嫌だ」というものはその中にはないのだが、夏だけは「これがかかると嬉しい」とか「選択アルバムには入っていないがこれが聞きたい」という物がある。一つのタイプはシンセ中心でリズムがシャキシャキしているような物で、高橋幸宏さんでも後期の抒情的なラインよりは割と初期の「What,me worry?」とか「My Bright Tomorrow」なんかが良かったり、Metropolisのサントラ(Giorgio Moroder)とか懐かしのDuran Duranとか、そういう方に気持ちが行ってしまう。もう一つは逆にだらーんとするタイプで、Klaftwerkの「Autobahn」みたいなミニマルとか、YMOのOrbのリミックスなんか。特に良いのが細野晴臣さんのパラダイスビュー。沖縄の音を細野さん風にやってくれましたって感じで、けだるい夏の午後これをエンドレスでかけながらお昼寝するのはそれこそパラダイスというかはらいそというか。Al Di MeolaのElegant Gypsyなんかもいいです。
こういうのがちょっと「違うな?」って気分になって幸宏さんの「Once a Fool」とか細野さんの「銀河鉄道の夜」が聞きたいなーとか思い始めるとそれは秋が来ているということなのでした。

オークションハウス 06/17/01
にわかにPaul McCartneyの(怪しい)ファンになったので中古CD屋に行ったりamazonを覗いたりといろいろ地道なファン活動をしている私ですが、その一環としてヤフオクで初めて入札してみました。ブツは、「All my Trials」というマキシCDというやつで、なんかどっかのライブを録ってちょっと出しちゃった、みたいな物らしいです。元々はこういうブートっぽい物は結構どうでもいいのですが、これはJohn Lennonを偲んで彼の曲をやったつーのが売りで、例えて言うならJon Andersonが「Drama」の曲をやったようなものですから(例えの方がわからん上に合ってないだろ…)、やぱしファンとしては一度は聞かないといかんでしょうということで心に止めていたのでした。そんで値段も900円というお手頃価格だったので初トライしてみたというわけ。
ここのシステムは使うの初めてでいろいろとまどったのですが、やっぱ驚いたのはライバルが出て来なかった場合開始価格より高めの金額をつけておいても開始価格そのままで落ちるんですね。この場合はそうなって900円ぷらす送料で希望の品を入手できて大層有難かったですが、出品の時にそれを知らないで遠慮して安めの値段付けちゃったりすると損する場合がありそうなので気をつけないと(って、不精な私が出品することはあまりなさそうですが)。
現在PaulがサインしたというYesterdayの楽譜がヤフオクに出されてますが(チャリティ用)、ちらっと見ただけでもうすごい値段ついてて(単位わからんが怖いし無駄だから考えません)同じオークションでもえらい違いだ。ってこんなこと思うだけで失礼だっつーの:-)
All my Trialsという曲は初めて聞きますが、アメリカの昔からある曲のカバーらしいです。このtrialは単に苦労とか苦しみって意味なんでしょうがPaulが歌うとつい裁判のことに聞こえてしまうのはココロの汚れた私だけでしょうかo(^o^)o

善意の陰に:-) 06/04/01
前から親切だなあと思っていたamazon.comですが最近とみに、見に行くたびに親切度が増しているような気がしてなりません。お買い物したお客さんを覚えてて、紀伊国屋book webみたいにIDとかパスワード入れなくてもリコメンドページを出してくれます。なぜリコメンドしてるかのわけもちゃんと教えてくれます。以前いつ、何を買ったのか自分が忘れていたものでも向こうが覚えててくれるからです。買ったことのないジャンルでもちゃんと検索してすぐに出してくれます。リコメンドと別に検索しても、同じミュージシャンだったりすると「お客さんお目が高い、これは絶対お気に入りまっせ!」とか教えてくれますし、買い物確認のメールでも「次はこれなんかええのんと違いますかー?」と心をくすぐる提案をしてくれます。htmlメールなのでそのままお買い物が出来ちゃいます。ああ、嬉しい:-)

欲望の源泉 05/23/01
前回、もうあまりCDは買わずにすむとか書きながらその後一月も経たないうちに一度に5枚ほどのCDを買っている私です。ほど、というのはきちんと情報を収集しないまま出かけて店頭でいい加減に買ったため、ダブったり結局いらなかった物が何枚かあって、実際に有用だったのが5枚という間抜けな話。
フレッツ対応になっていくらサイトをうろうろしていても料金は変わらないという有難い環境になるとつい暇な時(ほんとは暇じゃないのだが)にあちこちのページを見ることになる。そうしているうちに、その経緯は勢いで作ったページに書いたのだが、つまりPaul McCartneyの、Back to the Egg以降の、最近まであまり評価していなかったアルバムをもう一度まとめて聞いてみたくなったということだ。自分を把握している理性の部分は、二ヶ月もすれば盛り上がりも治まってそんなに欲しくなくなるか、聞いてみるとしても1枚ずつゆっくり、というテンポになるからちょっと待ちなさい、と言うのだが、辺縁系だかその辺りのひとが「いや、今全部まとめて聞きたいの!したい時にしたいことをしないで何が楽しい!」と言って煽るのである。「でもあんた、1枚アルバムクリアするのに一月くらいかかるじゃん。うちにとりあえずあんまり聞いてないのが3枚あるんだからそれをちゃんと聞いてからの方が効率いいんじゃない?そんないっぺんにまとめて聞いたってごちゃごちゃになるだけじゃん」と反論してみても「やだやだそんな分けてちょっとずつなんて悠長なことしてるのうざったい!まとめて揃うまで聞かない!」とだだをこねるひとが脳内で優勢を占めてしまい、「そんなことしてる場合じゃないのに…」という理性のひとを抑えて中古屋めぐり(この辺がちょっと経済を考える理性)に出かけて、無かった分は普通のCD屋で揃え(メジャーなアーティストでよかった…)、以前譲っていただいた100連装デッキとは別の7連装CDに無事収まったというわけです。買った5枚と元からあった3枚で数が合わないのじゃ?と細かい事が気になる人の為に書いておくと、100連装の方のラインアップをちょっと変えて調節しました。
こうして電話代が減った分情報が入ってきて欲望を刺激され消費行動に結びつくという、絵に描いた(誰が?)ようなシナリオに乗って動いている自分を発見するのだった。

●カオス・ミュージック 04/8/01

好きこそ物の上手なれ、という言葉があるが下手の横好きという言葉もある。私にとって音楽というのは後者に属する。それも、何か楽器を嗜んでいるが才能が今一つで上手に演奏できないとか、暇な折に作詞や作曲を試みているがどうしても誰かの亜流のような作品しか出来ないといかいうのだと、まだなんとなく格好がいい(と思う)のだが、私は聞くことが既に下手だ。まず、一回や二回聞いただけでは曲を覚えられない。ここで覚えるというのは決して「歌える」という意味ではなく、その曲を識別出来るというだけの意味である。興味の無い曲だと何回聞いても覚えていない。一度、ある人が短いTVアニメ(5分くらい)がまとめてDVDに入った物を持って来てくれたことがあり、10何回か分オープニングとエンディングの曲を聞いたのだが後日まったく頭に残っていないことに気がついた。次に聞いてもきっと識別できないと思う。まあ、そういうのは自分からは積極的に聞かないタイプの曲なので別に問題はない。
困るのは好きなミュージシャンの場合だ。アルバムを新しく買って聞いたとすると、最初のプレイでは、無意識の領域ではいろいろ判断しているのかもしれないが、意識の上ではまず混沌である。一曲一曲の区別がつかず、くらげなしただよえる状態だ。5回目くらいのプレイで、ようやく天の沼矛がかき回されて「覚えやすい」あるいは「好きな」曲の片鱗が浮かんでくる。10回くらい聞いてようやくそのアルバムが「全体に割と好きな方」か、「好きな曲はあるけどいまいち」くらいか判別できるようになる。
若い時は感覚が今より(たぶん)鋭敏だった分覚えるのも速かった(ような気がする)し、とにかく暇だったのでいちいちそんな事は考えずに聞いていた。そして、好きなものはしつこく聞くタイプなので自然と覚えるまで聞くことになったわけだ。しかし年を取るとつい効率ということを考えてしまい、好きなのかそうでもないのかくらいは速くわかりたいし、好きなら好きでさっさとクリアしたい、ということになる。クリアというのは、好きだろうがいまいちだろうがとにかくそのアルバムの曲を全部覚えて、歌詞カードを見なくてもとりあえずアルバムをかければ付いて歌うことは出来る(歌詞は不完全でも可)、という段階に達することだ。ここまでに一体何回のプレイが必要なのかはもうあまり数えたくない。期間でいうと、メールに書いた内容などから判断して、一枚について大体一月弱くらいかかっているようだ。その間毎日平均一回か二回はプレイしているわけである。
ドラクエ以降ゲームミュージックという物に目覚め、好きな部類に入るようになったのは、もしかすると、ゲームの音楽というのはそのゲームをプレイしていれば否応無しに何度も何度も聞くことになるせいかもしれない、と思う今日この頃である。

●砂上の楼閣 03/25/01

地震や台風が多く四季の移り変わりもクリアな土地に住む日本人は昔から諦めがよいとされてきた。諸行無常という言葉があり、咲いてすぐ散る桜を潔しとして崇め、とにかく未練を残さず流れて行くのが美しいとされている。江戸では火事も頻繁であり、苦労して立派な家を建てたとしても紙と木なのだからあっという間に燃えてしまう。そこにつけこんで金儲けをしていた人々だっていたのだが、とにかく大多数の人々は天災も人災も運命と受け入れ、また最初から新規巻き直しを図るしかなかった。そしていつかは燃えたり崩れたりしてしまう物だと思っていれば、ますます、わざわざ自分で苦労して作ってもしょうがないということになって長屋住まいに落ち着き、仮の住まいだと思っていれば手入れもおろそかになる。そういう昔ながらの日本人、特に江戸っ子の気持ちがよくわかるのが最近の私である。
私の使っているマシンはNECの9821で、ほとんどPC界のオースティンパワーズなのに、無理してwin98を載せたりいろいろいろいろさせているのでいつも青息吐息状態である。なにしろメモリが最大128までしか入れられないのだ。photoshopがまだ5.02なのでどうにかなっているが、6にバージョンアップするためにはこれでは相当厳しいだろう。IEももういい加減5にしても安全そうだ、というよりした方が良さそうだ。OSも、W2KはNTの後継なので相当安定しているらしい(人によっては逆のことを言うが)。ということでついに互換機組み立て(てもらう)を本気で考え始めているのだが、財政面がなかなか許さない。それでもまあ近いうちにはなんとかという頭もあって、そうなると現在使っているマシンでちょっと不都合があっても真面目に直そうという気が起きない。IEのお気に入りを整理したってまたぜーんぶ始めっからやり直しの刑だと思うと、気に入ったページがあってもお気に入りに入れないまま毎回検索ページで探していたり、photoshopでカスタムブラシを作ろうかと思ってもつい「どうせなら6にしてから…」と思い、そのうちどんなブラシが作りたかったのか忘れてしまう。マルチメディアだって今いい音にして画像も見られるようにしたって新しいマシンでまた同じことをすると思うとやる気にならず、いい加減な音で聞いている。馬鹿なMSIMEに腹を立て、早くATOKの新しいのを買って入れたいと思いつつ、今更このマシンに入れても…と思うと結局そのままろくに辞書登録もせず毎日「馬鹿!」とののしりながら使っている。そして何かさせようとして固まり、復帰できずにチェック付き再起動を何度か繰り返した後に、レジストリ初期化、書き戻し、というコースが3日に一度、という日常を送っていると「人生なんて砂の城…」というフレーズが余り深い意味も無く浮かんでくるのだった。

有難い時代 03/22/01
N-MIXでなんとなくtry会議(チャットライクにも伝言板にも使える掲示板)で人の会話を立ち聞き(座ってましたけどね...しょーもなー)していてlive365.comというインターネットラジオページを知りあっという間にお気に入りに。3万以上の「ラジオ局」があって(かぶってるのもあるみたいだけど)いろんなジャンルに分かれていていちんち中音楽を流しているのだ。ごくたまにページの宣伝(英語)が入る以外はずっと曲が流れている(DJがしゃべっているところもあるけど私には用が無い)。メンバー登録して気に入った局をプリセットしておけばラジオのチャンネルを変えるように好きな局に飛べる。早速ゲーム音楽専門局(クラシックジャンルに入っているのがおかしい。そしてさすがにFFが強い)やクラシックロック局、ビートルズ局などをそれぞれいくつかプリセット。私は音質には全然うるさくなく(私の今の環境だと音が途切れたりもするが全く気にならない)、とにかく聞ければいいというタチだし、とにかく途切れず好きなタイプの曲がかかってくれているということが大事なので、これで、その時の気分で「今はゲーム」「今はビートルズ」などと回していけば良いということになって万々歳である。ページの画面にはplaylistが出ていて(3曲まで)それをクリックするとお買い物のページに飛ぶようになっている。その曲がお気に召したらぜひお買い上げを、というわけで、なるほど、何事もただではいかんな、という仕掛けである。確かに私も昔は気に入るとすぐにCDを買っていた。だがそれはCDがなければその好きな音楽を聴くチャンスというものがほとんどなかったからであって、こんなラジオページが存在して流していればいつかはかかるだろうし(専門局であれば確率もかなり高いし、リクエストを受け付けているところもある)、そうでなくても同じようなタイプの曲がかかっていてくれるとなれば、コレクター気質の全く無い私はCDなんか買わないのである。よってフレッツ料金だけで一日中好みの音楽に浸っていられるというわけである。
現在は「New RPG Video Game Music」というFF中心のゲーム音楽の局を聞いているが結構頻繁にアニメのサントラ(「エヴァンゲリオン」とか「エスカフローネ」など)がかかって日本語が聞こえるので驚く。ヲタク文化、強し、である。

●お節介な会話 02/25/01

私は現在漫画家をしているくらいだから昔から漫画を読んできた。好きな物はコミックスで買って取ってあり、今でもよく読み返す。特に読みたくなるのは仕事に入る直前とか仕事中で、10何巻もあるコミックスを一気読みしたりする。こういう時間のかかる行為は暇な時にすればいいのだが、そういう時にはもっと他にしたいことがあるのだ。このあたりを追求すると自分が本当に漫画好きなんだかよくわからなくなるのでやめておく。
少女漫画を主に読んできた私だが、ずっと引っかかる点があった。よく言われる、主人公の目に星があるとか人間とは思えないプロポーションとかではない。そんな物はゲームのキャラと同じでずっと接していれば記号として捉えられる。出てくる男の子が女の子に都合のいい王子様でリアルでないとかいう批判もあったが、そんなことは創作物の中では程度の差こそあれ当たり前のことだし、大体女の子のキャラだってリアルではなかったのだから別に構わない(もちろん人物がリアルで面白い、という作品もある)。
私が気になったのはキャラクター達の会話である。今は少なくなったが、私がよく読んでいた頃の少女漫画は外国が舞台で主人公達も外人ばかりという物が多かった。フランス、イギリス、ドイツ、アメリカなどが主で、主人公はアングロサクソンやゲルマン民族の少年少女。もちろん子供(しかも頭が悪い)の私が当時「西欧人がこんな日本人のような思考をするわけがない、おかしい」などと思っていたわけではない。私が子供心に妙だと感じたのは、つまり、この人達は外人なのだから当然お互いに話をする時には英語やフランス語でしゃべっているだろう。だがそれにしては会話のつながりが変だ、という時がたまにあったからだ。フランス語やドイツ語はそれほど知らないのでそれらの国が舞台である時はそれほど気にしないようにしていたが、アメリカやイギリスで、たぶん英語で話していると思われる漫画だと、一応義務教育で英語を習っている身としては、「日本語と語順が違うんだし、普通主語は省略しないんだから、こんな勘違い(別の人がその子を好きだ、と言っているのを当人が言っていると思うなど)なんかするわけないんじゃない?」などと、内容とは全然関係ない部分が引っかかっていたのである。そして、「じゃあ、原文(て、なんだ)ではこういう言い方にしていたということかしら、変な文章だけど」などと余計なことまで考えてやっと安心する始末であった。
その中で一つ、どうしても正解(って、だから、何)が思いつかず悩んでいた物があった。そんなことで悩むくらいなら他にいくらでも悩むべきことがありそうなのだが、気になる物は気になるのである。その話は16世紀末のイギリスが主な舞台でキャラクタも大体はイギリス人。だが基本的に西ヨーロッパ全体が関わってくる。二人の青年が会って、片方がもう片方に今まで仲間に知られていなかった秘密を思いきって打ち明けようとしている。打ち明けようとしている青年はイタリア貴族で、実は法王の私生児だったのだ。それを聞こうとしている相手はイギリス貴族である。秘密が重大なのでイタリア人は口では語らず、イギリス人の手を取り、指でその掌に字を書く。「私は」「現法王なんたらの」というところまできて、イギリス人は相手が何を言おうとしているのか察し、相手の気持ちを気遣って手を引っ込める。イタリア人の方も相手の気遣いにまた気づき、互いの好意を深めるという感動的な場面である。だがここで私は「だって英語なら『私は』の後に『私生児』ってすぐ来るんじゃないの?」という疑問の方が先に立ってしまうのだった。
私はこの漫画が好きなのであっていちゃもんをつけるために読んでいるわけではない。だからちゃんと感動するために、理屈に合う原文を考えて納得したいのである。所有格を使って肝心の単語を後にする手がまずあるが、「現法王なんたら」という長い単語にアポストロフィーSを付けるのはあまり美しくないような気がする。関係代名詞とかを使って「現法王なんたらが作った」とかいう文章にするとか、文章を2つに分けるとかいろいろ考えてみたが、どうも不自然だったり絵にマッチしなかったりして心にぴったり合わない。結局、イタリア語で書いたということにするのがいい(イタリア語のことは私はよく知らないし)という結論に落ち着きかけていたが、最近になってもっとよい解明法がもたらされた。それは、「ラテン語で書いた」という推論である。ラテン語というのは英語やフランス語などと違って語順が大層自由なのである。先頭に置けない単語とかもたまにあるが、ほとんどどう置いても許される。格変化がきっちりしているから、単語の位置で品詞を決められない代わりに、どこに置こうと文章の意味は変わらないのだ。彼らは二人ともヨーロッパ貴族で知識人なのだから当然ラテン語の素養があるに決まっている。そして、こんな場合に使うにふさわしい言語でもある。この、ラテン語の語順の事はごく最近学んだ知識であるが、これで長年の謎が解明され、安心して感動に浸れるようになったのだから、いくつになっても勉強という物は大事だ。だが、私の場合知識は知識であって実践する気はないから、「じゃあ結局その文章をラテン語にするとどうなるのだ」などと聞いてはいけない。

●記憶の絆 02/17/01

今更あらためて言う事でもないが、私は記憶力がとても悪い。このこと自体、もうここの雑記帳で何度も書いている。やれやれだ。興味のあることは結構(自分の基準で)覚えるが、興味がないとほとんど頭に残らない。昔の推理小説でよくあったのは、ある証人が、自分では大事だと思っていないのでその場にいたのにそこで何を見たか覚えていない。そんな時に探偵が「見たものは絶対頭の中にあるのだから落ち着いてその時のことをゆっくり思い出せ」などと言う。証人はそれに従って目を閉じて集中し、「廊下を歩いて、部屋のドアを開けて本棚に行こうとして...あ、そうだ、そこにいつもあったはずの花瓶が無かった!」などと見事に犯人特定につながる事実を思い出す。こういう場面を読むたびに私は「絶対こんな事件に巻き込まれて証人になったりしたくない」と思ったものだ。私ならまずその時自分が何をしていたかをまず思い出せないし、下手をすると犯人にされてしまうに違いない。もし犯人だとしたら忘れないとは思うのだが、それすら自信がない。しかしまあ私が弱いのはそういう行動面よりも、その、例に上げたような視覚的な記憶の方だ。自分の部屋ならともかく(それも怪しいのだが)、たまたま行ったホテルとか他人の家の部屋に何があったかなどと、いくら実際に目にしていてどんなにゆっくり思い出そうとしてもたぶん思い出せない。催眠術をかければ思い出すのかもしれないが、それにしても元々視力が悪いので「なんかあった」というのは見ていても「何があったか」というのは、興味を引かれてちゃんと見たのでない限り、やはり思い出せないような気がする。
先日友人と食事をしていた時に飲食店の話になって、彼女が「そういえばおまえの実家のすぐ近くにファストフードがあった、あれは何だっけ」と言い出した。彼女は私がまだ実家(現在地から電車で約1時間半)にいた頃からのつきあいで何度か遊びに来ていたのだ。言われて、そういえばそういうものがあったことは思い出した。だが、それすらも、「えー、どこに?」とか「近くって、歩いて何分くらい?」とかさんざん質問した後のことである。聞くとどうやら歩いて1分もかからないところで、しかも駅に向かう方向にあったというので、ほぼ毎日目にしていたはずである。確かに何度かは買い物もした気がする。だが、何の店だったかということは全然思い出せない。こういう時私は「ああ、思い出せないや」で済ませるタチなのだが彼女は違う。その後も「ロッテリアではなかった」「割とマイナー」「デイリークイーンのような気がする」「赤と白の色が目に浮かぶ」などとメールしてくるのである(別にそれだけのメールではないが)。そして問題は今では(私が先日行った時の記憶では)もうその店がなくなっているので、どんなに彼女が思い出す努力をしても確認が出来ないという点にあった。
私がまったく当てにならないことはわかったので彼女は「弟に聞いてみろ」と言い出した。当時私の弟は高校か大学くらいの年だったからファストフードにはなじみがあったはずだ、というのだ。姉より若い分記憶力がいいという期待もあるに違いない。だがそこにも問題があって、弟と私は7つほど年の差がある。それだけ年が違うと、同じ家に育ってもあまり「姉弟」という感覚がない。どちらも共に一人っ子という感じで育ってしまうのだ。さらに性別も違うから、生活や趣味の共通点もあまりない。もちろん世の中には年がだいぶん離れていて性別が違っても、同じ趣味だったり性格が合って仲がいいという人々も大勢いるだろうが、とにかくうちは違うのだ。大体、小さい時はともかく、中学生くらいになると弟は普通の健康な男子として、家族よりも友人達とのつきあいを優先していて、朝学校に出かけたら家に帰るのは夕食の時と寝る時くらいだった。高校生になると夕食も友人との外食が多くなる。だから、別に仲が悪いわけではないが、そんなに話したこともないし、お互いに関心がなく、相手が何をして暮らしているかもほとんど知らない。さすがに結婚した時は式に呼ばれたが、油断してギリギリに行ったら「家族はもっと早くから来ているものだ」と親戚に怒られた。親は私のことを知っているので何も言わなかったが。
そういう弟に急に電話をして「あのさー、昔うちの近くにさー...」などと下らない質問をするというのは、それは出来ないことではないが、あまり積極的にやりたいことでもない。彼女は「それとなく世間話をしてそのついでに、ふと思い出したという感じで聞いてみろ」などと難しいことを言う。そもそも世間話というのが私には困難である。「話題は今流行りのインパクとかジンジャー」などと細かい提言もしてくれたのだが、新聞を取っていなくてテレビも地上波はNHKか教育くらい(それもごくたまに)しか見ない私は、インパクというのも彼女に教わって知ったくらいでとても話が続きそうにない。「じゃあ、今の世の中だから気軽にメールで聞くというのはどうだ」という案が次に出たが、こんな疎遠な姉弟なのだからお互いのメルアドなど知るよしもない。彼女はだんだん呆れてきて「会社のアドレスに弟の名前をつけて送ってみろ」などと言い出したが、弟がどこのどんな会社に行っているのか私は知らないのである。何かの用事で会社からのファクスをもらったことがあるのでどこかの会社勤めをしていることは知っているのだが、こんな世の中だから既に変わっているかもしれない。彼女はそれでも諦めずに「年取ると昔の思い出を語ったりするだろう、あのノリで話しながら聞き出してみろ」と言う。しかしまずその語るべき昔の思い出が思い出せないからこんな仕儀になっているのである。
もっと年を取って、最近のことは全然思い出せないのに子供の頃のことばかり浮かんでくる、というような状態になったらそれが出来るかもしれないので、彼女にはもう少し待ってもらわねばなるまい。

●努力の父 02/13/01

最近、タイピング練習ソフトが流行っている。という程でもないが、とにかく漫画のキャラを使った物や美少女物など、工夫を凝らした物が複数の会社から出るようになった。昔は割とキワモノっぽい感じで「こんなのあるよ」と笑いながら見ていたりしたが、今や堂々と雑誌で見開き広告を使って宣伝されていたりしてなかなかの隆盛だ。
私はほぼ毎日のようにキーボードを叩いているが完全なブラインドタッチは出来ない。2本指ではないが、指とキーの関係は大層いい加減だし、しばらく打ったらキーボードを見てキーの位置を確認し直さないとわからなくなる。それでもこんな類の文章を考えながら書く分には不自由がないのでそれで済んでいる。昔はモニタだけを見ながら流れるように動く指、というのに憧れて一応練習をしたこともあった。正確にはしようとした、と言った方が正しい。始めてみても、当然だがいい成績は取れず、そうなるとすぐに嫌になってやめてしまうのだ。出来ないからこそ練習をしなければいけないのだが、同じ事を何度もやり直す努力というのが嫌いなのである。ゲームでもシミュレーションが出来ないのはそのせいだ。ロープレでレベル上げにザコ倒しをするのは時間がかかるとは言っても、とりあえず毎回やることが多少違うから耐えられるのである。タイピング練習ソフトで、一つだけそのロープレゲーム仕立てになっていてゲーム自体がとても面白そうな物があって、それだけは一生のうちにはやりたいと思ってはいるが、ポイントになる通過個所では決まった文字を制限時間内に打ちこまなければならないので、結局夢に終わりそうな予感がひしひしとしている。
とにかく、文章を打つと言ってもオペレータではないから考えながら打つわけで、その速さには十分追いつける(このような文章だと完全に追い越している)。パソコン通信のチャットでもほとんど支障がない。私の入っているmixでやっている事は正確にはチャットではなく、たとえリアルタイムで話していても内容が残っていて、そこにコメントを付けていったり、元コメントを辿って行けるのでそれほど速さというのは必要でないのだ。そう、必要がない。これがポイントなのである。
いくら努力が嫌いだと言っても、それが出来なかったら死ぬとか、この上なく楽しいことを味わえないとかそういう条件があれば私でも必死になる(たぶん)。だが上に書いたように生活にも遊びにも何の支障もないというのに、わざわざ時間を割いてほとんど必要の無い努力をするということは出来ない。そんな時間があれば別のことをしたいのが人情である。くわえて不器用で指が素早く動かせない(FF7の雪山登山のために連射コントローラーを買わねばならなかった)という事情もあり、元々身体的訓練には積極的になれないたちなのだった。
私の回りの人はいわゆるコンピュータオタクが多いのでキーボードなんかそれこそ皆さん「は?練習?そんなの別に?」という感じで叩いているが、一人学者さんでかなり後から練習してタイピング出来るようになった、という人がおり、その人に練習法を聞いてみたところ、「キーボードの図を書いて、それを記憶して頭の中に浮かべられるようにして位置を覚えた」ということだった。実は私も自分にはこの方法が一番向いている気がしている。万が一努力をする必要が生じた時にはこの練習法がある、と思うと今は安心していい加減なタイピングに甘んじていられる私であった。

やっちまいました 10/15
友人が「リプリー」のマット・デイモンの写真を見て「好みだ」と言ったところ、別の友人から「また、やっちまいましたね」と言われたそうだ。そう言った相手は正統派スターのファンで、ディカプリオやキアヌ・リーブスが大のお気に入り。それに対して言われた彼女の方はブルース・ウィリスやケビン・スペイシー、またダグ・ハッチンソン(グリーン・マイルでパーシーを演じた人)と、スターではあるが、ハンサムとは言えない人々のファン。しかも自分は面食いだと思っていていつも後から他の人に教育的指導を受けている。そして今度はハリウッドのジミー大西と呼ばれるマット・デイモン、というわけだ。いつも彼女を笑っていた私だが最近ちょっと人のことが言えなくなっている。今更John Creeseにはまっているなんて...
かつてMonty Pythonにおいてシリーウォークで一躍人気者になったあの人。ちょっと前に007のWorld is not Enoughに出ているというので見てみたらなんだか相変わらずでおかしい。その前にもMonty PythonのDVDセットや、ケーブルテレビでやっていた「エリック・ザ・バイキング」なんかを見ているとどうしても彼が気になってしまう。昔MontyPython本放送や、LDを見ていた頃は、Eric Idleが一番好きで彼中心に見ていたのだが、今はJohn Creeseなのだ。そして先日またケーブルでやっていた「危険な動物達」。もうこれで完全にやられてしまった。あのなんというか独特な哀愁のある顔、表情、オックスフォード英語の発音とイントネーションでしゃべられるあの声がもうたまりません。はあー。
この「危険な動物達」の前に同じメンバーで撮ったという「ワンダとダイヤと優しいやつら」というのがあるというのでレンタルで借りて見ましたが、まあ面白いしクリーズが見られるのでいいのだが(お堅い法廷弁護士、というはまり役)、まだギャグに垢抜けないとこがあったりして(変に残酷だったり、繰り返しギャグのテンポがちょっとたるかったり)、やっぱり「危険な動物達」の方がよいです。そりゃ2作目だから洗練されるよね。
この2本にはPython仲間のMichael Parinも出てて、やっぱ上手です。Eric IdleもRutlesとか、「Camerot」の声優なんかをやってますねー。双頭の龍の片方で、粗暴な片割れに対して気取ったしゃべり方を、これもやっぱり英国式発音でやるっていうキャラ。すごく合ってておかしいです。というわけでなんだか引き続きMonty Pythonブームなのだった。こないだなんかBeatlesのDVD買おうと思って行ったのにRutles買っちゃうし...とほほ。

●小心者の憂鬱 08/27/2K

最近あまりファミレスで食事をすることがなくなったが、たまに、家にいるとどうしても気が散ってネームが出来ず、他の喫茶店はもう閉まっているという時などに行くことがある。喫茶店など人のいるところではネームが出来ないという人もいるが、私はそんな繊細な神経を持っていないのでその点は何も問題ない。そういう、仕事が進んでいない時というのは、コーヒーを入れたりご飯を作るのも面倒なのでちょうどいい。仕事に頭が行っていると食べ物の味もどうでもよくなっているのでますます都合がよい。この田舎町では喫茶店よりはファミレスの方が禁煙席がちゃんと分かれていて、嫌煙者の私には有難いのだが、昼間は禁煙席の方がおばさんたちで混んだりするので一人でテーブルを長い時間占領するのは気がひける。なので行くのは大抵夜中過ぎである。
先日も、ちょっとネーム進行が遅れていたので、土曜の夜というのは気になったが、混んでいたら諦めることにして行ってみると七分くらいの混み方で、これからだんだん空いてくる時間でもある。で、隅っこのテーブルを選んでちょこちょことノートで仕事をしていた。食事がすんでそろそろコーヒーのお代わりをもらおうかという頃になって、騒ぎが起きた。
一人の、ちょっとお酒の入ったらしいおっさんがわめき立て始めたのだ。荒荒しい声で店員に「ちょっとおまえ来い」とか「店長はどうした」とか言っている。どうも、自分が入ってきて席に着いたのに店員が気づかず、従ってメニューやおしぼりをなかなか持って来なかったのが気に障ったらしい。しばらくなんだかんだ騒ぎ立てていたが、別のお客(らしい)のおっさんが「お父さんだけの店じゃないんだからさ、他の人に迷惑でしょ」などとくだけた調子でなだめているうちに落ち着いたらしく、騒ぎもそれですむかと思えた。ところがタイミングの悪いことにその時になって三人の警官がやってきたのだ。誰かが「店で暴れている男がいる」という風に通報したようだ。警官が来たことでまた臍を曲げたらしいおっさんと警官たちの押し問答が始まってしまった。
おっさんの座っていたのは私と同じ禁煙コーナーの方ではあったが、私は隅の席を選んでいたのでそう近くはなく、単にちょっとお酒で気が大きくなって大声を出しているおっさんで、こっちから何かすることがなければ別に危険はないだろうと思っていて気にせず仕事を続け、自分なりに仕事のきりがつくまでいるつもりだった。だが警官が入って来て小心者の私は気が変わった。警官はとにかくおっさんに「大声を出して他のお客に迷惑をかけている」というところを責めている。だから状況次第で「近くのお客」である私に証言を求めるかもしれない。それは別にいい。だがこのままここでネームをしていると、その「ノートに何か書いている」という様子は、「起こったことをメモしている」と受け取られるかもしれない。そして「それを見せてもらえないか」という事態に陥るかもしれない。私はレディース向けえっち漫画を描いているので、ネームも当然えっちである。あんまり他人、特におまわりさんなどに見られて嬉しい代物ではない。私は即座に「ああ、怖い人がいてもういられないわ」という顔をしながらレジで精算をすませ家に戻ったのだった。

●NOと言わない日本人 08/06/2K

現代において諸外国ときちんと付き合うためにはYES、NOをはっきり言える国でなくてはならない、と言われる。国ならば確かにそうだろうし、個人だっていいのか嫌なのかくらいはっきりせんか、と言いたくなる。だがこれはあくまで他人事の場合だ。
少し前に近所のS公園を一人散歩して、少し疲れたのでベンチでぼーっとエビアンを飲んでいた。すると、隣に座って話し掛けてきた人がいた。20代後半か30代始めくらいの感じの男の人で、あきらかに日本ネイティブではない外見と話し方である。イランとかパキスタンとかの人がこの辺には割と来ているようなのでたぶんそこらあたりの人だろう。最初は「この公園はこの池の周りだけなのか」とか「奥さんはこの辺に住んでいるのか」などと聞いてくるのに適当に答えて(奥さんではないが、どうせもう会うこともない人だし面倒なので、はあ、とか言って)いたのだが、だんだん自分のことを話し始め、ここから3つほど隣の駅の町に住んでいるが、女の友達がいなくて寂しい、友達になってもらえないか、と言い出した。
随分と直接的な申し込みである。日本人だったらこうしたナンパの場合(大体、こういうナンパをしないような気がするが)、まず「話し相手になってくれないか」とか、単に「友達になってもらえないか」と言うと思う。「女の友達がいないので欲しい」というのはあまりにもあからさまである。しかもこちらを人妻だと思っている上での申し込みだから、ますます目的がはっきりしている(ような気がする)。
うーむ、外国人はすごい、と感心してぼーっとしていると相手は脈ありと思ったのかどんどん話を進めてくる。自分は日曜が休みだ、次の日曜はどうか、駄目か、じゃあその次は、電話番号を教えてくれ、等々。そのたびに「えーと、時間が不規則だし予定も先のことはわからないから...」とか「うちに電話されるのはちょっとー」などとこちらとしては精一杯婉曲にお断り申し上げているつもりなのだが、これが一向に通じてくれない。ようやく、相手の電話番号を聞いてこちらの都合のいい時にかける、ということにして別れた。
これが、もう考えただけでも嫌だ、というようなことを頼まれたとしたら、例えばすぐにホテルに行こう、とかキスしてくれ、とか、まあ無いとは思うがここでやろう、とかいうような誰でも「冗談じゃねえ!」と言うようなことだったらこっちだってすぐに「NO!」と言って立ち去れる。だが「友達になってくれ」とか「今度一緒にどこかに行こう」などという一見害の無い誘いに対していきなり「嫌だ」とは言いにくいのが日本人だ。子供ならともかく、ある程度の年になると、(はっきり拒絶するなんて大人気無い...)という心が働くのである。そして相手が大人の日本人であればそのようなお茶を濁す返事で(ああ、これは断られているな)とわかってくれるものである。
諸外国に行きその国の人々と親しくつきあう機会のある人はぜひこのことを伝播させて欲しい。つまり「日本人が心から喜んでYESと言っていない時、それはつまりNOと言っている」という事を。また入国管理の窓口でも外国人に対してはそのことを明記したパンフを配って欲しい。また、無理矢理にその場でYESと言わせたとしても日本人は決してその通りに行動しないということも付記しておいて欲しいものである。

いつも聴く曲 8/06
100連装CDデッキというものを譲っていただいた。100枚も入っちゃって次々にかけてくれるんだから、嫌いじゃないけど普段なかなかかけないCDも混ぜてきけばいいなと思って一応のセレクトをして聴いていたんですが、これが駄目だった。「嫌いじゃないけど普段なかなかかけないCD」というのは「自分が聞きたい気分の時」以外にかかると、いらつくものだ、ということがわかったのだ。結局、いつかかってもいいアルバムというのは本当に自分が好きなアルバムだけなんだということがわかりセレクト修正。かかる順番なんかも考えながらやると、一仕事です。楽しいけど。で、結果はここに。よほど暇な人だけ見て下さい:-)

欲しいDVD追加と購入結果 6/28
Pink Froidの「The Wall」も欲しかったんだった。

Beatlesの「Yellow Submarine」、やっと再版が出てて買えました。新しい音源になってるので昔と違って音がすげークリアで気持ち悪い...(ひどい^^;)。いや、オールドファンなんで。オリジナルのモノラルで聞こうかな^^;
今までのビデオやLDには入ってなかった「Hey Bulldog」が入っているというのが買った大きな理由ですが、お正月にケーブルTVの音楽チャンネルでちょっとだけBeatles特集をしていて、その時Yellow Submarineのいろんな曲の場面を流したんだけど(Eleanor RigbyとかLucy in the Sky with Diamondsとか)、その時かかった「Hey Bulldog」の画面はスタジオでのレコーディング風景だったんです。この映像、Beatles Anthologyにも入ってない物で、じゃあ、Yellow Submarineに入っているのはこれなのか?と思っていたのですがこっちはちゃんと見たことのないアニメが入っている(イギリス公開時にだけ入っていたそうですが)。じゃああのレコーディング画面はどっから取ったのかなあ?結構いい画像だったので気になる〜。

Monty Python、予約するのさぼってて買いに行ったらBOXセットは予約で売り切れだったのでバラが揃ってたのを買いました。ちょっと高くなっちゃうけどまた買いに出るの面倒だし(田舎住まいなので)、違いはブックレットだけだというので、どーせそういうのはあんまし読まないから。回りでも買う人はいっぱい知っているので誰かに見せてもらおうと勝手に決めています:-)
1枚目をかけて気がついたんですが、日本で前に出したLDは順番が滅茶苦茶なんですね。面白そう、わかりやすそうな物から出したんでしょうか。LDだと一番最後のに入ってるところが実は最初の方に放映されたところだったんでした。そういうことを全然知らないので、「最初は面白かったのにだんだんネタがつきて間延びしてきたな」とか大間違いなことを思っていたのでしたが、逆で、まだ最初だったのでテンポがこなれてなかったということだったんですね。でも面白いんだけど。

●バーチャル現実 06/25/2K

最近のスマートなデザインのビルに入ると「まるでゲームのダンジョンみたい」と思うことが多い。ダンジョンといっても、ドラクエのように山奥の洞窟とかそんなのではない。私がやるメガテンやFFに出てくるやつだと、名前としてはダンジョンでも、つまり迷路くらいの意味だから、現代的なオフィスビルとかが結構多いのだ。元々ダンジョンという単語がそういう意味だったかもしれないが、面倒なので調べない。とにかくそういうビルは新しくて広くて清潔で、ようするに「人間臭さ」があまり感じられない。昔からあるビルだと汚れとか疲れた感じとかが体臭のようににじみ出ていてコンピュータの絵と同じには思えないものだが、今はCGの進歩もあって、真新しいビルというのはほんとにコンピュータで描いた絵のようなのだ。かえってCGの方が汚れ感がうまく出ていたりする。
それはともかく、先日そういうビルにある食べ物屋に行った。静かな落ち着いた店内。テーブルの間隔もゆったりと取ってある。一つのテーブルには一晩に一つしか予約を入れていないようだ。そんな店だったので私達ものんびりとおしゃべりを楽しみ、出るのはだいぶ遅い時刻になった。エントランスの受付には入る時にいた受付嬢に代わって警備員が二人並んでいる。その様子やビルの感じから私が「なんだかダイハード(映画)のビルみたいだね」と言うと友達も「私もそう言おうと思った」と同意。そんなことを話しながら通り過ぎて私達が入ってきた回転ドアを開けようとするとこれがまったく動かない。もう遅いからだなと思い、横の普通のガラスドアを開けようとするとこちらも閉め切られている。横に「閉館時刻につき通用口をご利用下さい」という指示があるが、そういう場合は大抵回転ドアの横のこういうドアなんだが...と悩んでいると別の人が警備員の後ろの小さなドアを開けて出ていく。
「ちっ、見過ごした...」
「隠しドアだったか...」
ゲーマー同士の会話はこんなもんである。
そしてそこを出てからも、
「(警備員がすぐドアを教えてくれなかったのは)やっぱり<話しかけ>なかったのがいけなかったんかね」
「不親切な作りだよなー」
などとゲームと現実を混同した話が続く。しかしそれとは別に私が内心考えていたことは「やっぱりあのダイハードという単語がまずかったのだろうか」ということであった。なにしろあの映画では、ビルの警備員は始まってすぐに堂々と入ってきたテログループに簡単に殺される役だったから。

●精神と記憶

私のような仕事(自由業)の人間はなかなか外見が変わらない、と言われる。たしかに、よく見れば皮膚などは老化しているのだが、着る物や髪型などに大きな変化がない、というよりも、「変化はあるが大人にならない」のでそのように見られるのだろう。ずっと同じ仕事をして同じ環境にいることで精神的な成長がないという方が大きいかもしれない。
少し前に友人に、昔の自分たちが写っている写真を見せられた。同業者のMさんと、写真を発掘した本人(この人もMさんなのだがややこしいので名字の方を取ってNさんとしておく。同業ではなく会社勤めをしているが、精神的にオタクなので私達とあまり変わらない)、それに私の三人がなぜか渋谷で仔猫を抱いて写っているのだが、昔も昔、もう、いにしえとか古代とか言ってもいいくらいの大昔の写真だ。なにより服が恥ずかしい。だが人々がその写真を見て言うことは「全然変わってない...なにもの...?」なのである。Mさんに至っては、「今の方が若者だ...」なのだ。私に関していえばアップでないから肌のはりとかがわからないというのが大きいが、たしかにやっぱり「うーむ、変わってない...かも...」である。
最近、今度はMさんが「昔あんた達が描いたリレー漫画が見つかった」と言ってきた(なんでこの人の関係ではそういう事件が重なるのだろう...)。こちらもNさんが一緒に参加して、というか彼女が始めたものだったのだが、その話を聞いた段階でNも私も全然内容を思い出せなかった。Mさんは私達が覚えていないことにびっくりして、「Nさんとかyohkoさんとか、当時ファンだったミュージシャンのJ(今もファンだが)が出てくる」とメールで教えてくれたのだが、そこまで聞いても真実思い出せない。このままだと現物を見ても思い出せなくてMさんに「こいつら、本物のバカだったのか...」とバレてしまいそうなので、見た瞬間にうわー、懐かしい〜と言う練習をしよう、などと誓っていた。
さて現物を見ると想像していた「同人誌」ではなく、ノートに鉛筆で描いたものだった。それにしても枠線などはちゃんと定規で引いてあり、絵も、特に始めたNの部分などは原稿の下書き以上に綺麗に描かれている。そして一人8ページくらいちゃんと話を進めているのだ。ちゃんと、と言ってもまあ当時流行っていたプロ漫画家の真似をした程度の内輪受けレベルだが、現在の同人に多いヤオイではない。とにかく主人公がNで、彼女とミュージシャンJのラブロマンス(になる予定だったようだ)なのだから。それはともかく、見てみると確かに自分の絵だ。だから過去にこれを自分が描いたことは間違いないのだが、全然実感が湧かない。過去の作品を見て恥ずかしいとか懐かしいというのはありがちな話だが、この場合はなんだか「うーむ...そうか...」などと呟くしかすることがなかった。
さらに、話の中でNの姉役で出てくる「めぐみ」というキャラクター(この姉は別のミュージシャンPに恋しているという設定)が、モデルが誰なのか思い出せない。Mさんも「この人はわからない」と言う。こんな重要なキャラクターで出てくるのだから現在でもつきあいがあっても不思議ではないのだが、とにかくまわりにはいないし、たぶんNの知り合いなのだろうと思って聞くと、Nも最初は「うーん、誰だっけ?」などと言っていた。が、「あ、そうだ!○○めぐみさんだよ!」とフルネームを思い出した様子。が、よく聞くとなんと、その人はもともとは私の方の知り合いだという。後にはNも(たぶん)私を通じて知ったが、始めは「私が文通していた相手」だったというのだ。文通ということなら彼女は地方にいたのだろうし、現在は消息を知らなくても無理はないが...それにしてもやはり思い出せない私はNにこう聞くしかなかった。
「...私さあ...文通って...何書いてたの?」
「......」
呆れながらも先に記憶を取り戻したNは、
「おまえとめぐみさんは二人ともPのファンだったから、その関係で知り合って文通していたのだ。だからPが素敵だとかそんなことを書いていたんだろう」
と決めつけた。取調室で記憶喪失の犯人が刑事に事実をつきつけられているような塩梅である。
しかしこの件では大きな顔をしているNも、前回の写真に関しては「一体誰が撮影したんだろう?」という疑問に対し、実は自分の妹が同行して写真を撮っていたことをまるで失念していて妹さんに怒られた過去を持っているのだ。
出てきた漫画をよく読んでみると(なにしろ記憶がないので恥ずかしさがない)、精神年齢がこの時からほとんど成長していないのだなあ、ということが理解出来る。記憶は変化しても精神は変わらないものなのだ。もう少しバランスの取れたあり方というものが望ましいのだろうが、私の場合にはどうも無理なようである。

罠 6/03
amazon.comで、注文した後90分以内なら追加(変更もだけど)が出来るというのはなんか罠の気がしてならない:-)紀伊国屋が見習わないことを祈る。他にも見習って欲しくないことはいろいろある(サーチしたり注文した物から「これを買ったお客様は他にこんな物を買ってますよー」と親切ごかしに宣伝するとか、長いこと買い物してないとご機嫌伺いメールが来るとか)けどな:-)

欲しいDVD追加 5/16
「メトロポリス」元のじゃなくて、クイーンとかジョンアンダーソンが曲やってるリメイクのやつね。
「アイズ」メロドラマなんだけどトミー・リー・ジョーンズが好きだ〜。
私が欲しがっているDVDはほとんどLDで持っているやつばっかりなんですが、同じ物を繰り返し見るというか、かけて雰囲気に浸りながら仕事するのが好きなんですね。LDだとひっくり返る時に流れが止まるし、2枚組とかだとディスクを取り替えなきゃならない。DVDはそういうのが無いのがよいです。
/*と思ったらあまり長いのは2面になってるのだった...^^;しかもPS2で見てるので手動ひっくり返しの刑だった。ウッドストック怖るべし。*/

お願い 4/29
Jon Anderson(Yes)のソロアルバム「Animation」はとてもよいアルバムなのだがなぜかずっとCD化されていない。アトランティック社のせいらしいのですが、今ここでお願いアンケートをしているのでファンの人は協力して下さい。ファンでなくても暇な方は協力して下さい:-)

●若い人々への言葉 04/24/2K

若い人はいいなあ、とか、若い頃はよかったなあ、と思うことの一つは「好き勝手が出来る」ということだ。
こんなことを言うと360度全方位から「今はしてないというのか!」と怒りのツッコミが来そうだが、事実そう思うのだから仕方がない。いくら人から見て好き勝手をしているように見えても本人は不自由を感じているのだ。
とにかく、まずは体力の低下だ。
若い頃は仕事がなくて暇な時など、24時間とか36時間以上起きたままゲームをしたり、面白くて分厚い本を最後まで一気に読んだりなど出来た。もちろんその後まる一日寝て睡眠を取り返すが。今はとてもそんな体力はない。さらに集中力も落ちているので続けて一つの遊びが出来にくくなっている。1時間ゲームをしたら1時間本を読み、次には遊びのお絵描きをしたり、それにも飽きて外に出て本屋をこらしめたりと、すぐに気移りがしてしまう。いろんなことをしているようでも、まとめてしていないので、なんとなく「やった!」という達成感が得られないのだ。
また、たまに友人と遊ぶ約束などしていると、相手は大概かたぎの生活をしているので「じゃあ夜中の3時に」というわけには行かない。ご飯を食べるなら遅くとも夕方には待ち合わせをしないとならないだろう。そういう時、若い頃であればたとえ生活時間が相当ずれていて昼頃ベッドに入る生活になっていたとしても、「4時間寝て行こう」と目覚ましをかけて、夕方起きて元気に出かける、ということが出来ていた。どうしようもなくずれていれば、もうそのままずっと起きていて寝ずに出かけたものだ。今はそうは行かない。4時間の睡眠では元気どころか起きられるかどうかも怪しい。最低8時間は寝ないと体が動かないのだ。ましてや寝ずにそのまま、など始めから考えもしない。私は油断していると平気でどんどん生活時間がずれ込んでしまう。睡眠時間は大体一定しているのだが居職で運動不足だから、起きている時間が長くなるのだ。しかし約束があれば、一週間くらい前から、いくらゲームや読書でのっていても、大幅に生活時間がずれないように考えてベッドに入らないととならない。若い頃はよかったなあ、と思うのはこんな時である。
体力の無さが不自由につながるのはこれだけではない。昔はのんびりお風呂に入った後、出てバスタオルを巻いただけの格好でどてっと気持ちよくソファやベッドに倒れ込んで涼んだりそのままちょっとうとうとしたり、などということが出来たが、今は下手にそんなことをしたら風邪を引いてしまう。いや、昔も風邪っぽくなったりはしたが、そんなことはあまり気にならなかった。バファリンか葛根湯でも飲んで一晩寝れば大抵治っていたからだ。今は治すのに三日はかかる。暇な時期ならともかく、仕事にかかっている時期だとうまくない。いや、暇な時に好きなことが出来ない方が苦痛かもしれない。ということで、風呂上がりにはのんびりせずにさっさと服を着なければならない。好きなことをするために、許されなくなる好き勝手、というものがあるのだ。
もう一つは食事のことだ。
若い頃はとにかく質より量だし、味がわからない、というよりも、美味しい物は美味しいと思うがまずくてもそう気にならなかった。さすがにコンビニとかお弁当屋の物はそんなに食べる気がしなかったが、ファミレスとかそこらの喫茶店とかのご飯、パン屋で売っているサンドイッチ、くらいなら満足とは言えなくてもそんなにも不満はなかったので外食率98パーセントくらいで生活していた。元々食事というのにそんなに興味のないたちなので、お腹さえ空かなければそんなことをしている暇に別のことをしたいのだ。外食なら、調理時間は無いし、待っている間に本も読める。仕事中は食事が息抜きになるので楽しみだったが、単に仕事から逃れられるから、というのに過ぎない。しかし、年を取るとだんだんそれなりに舌が出来上がってくるというか、昔の好みに戻るというか、とにかく外の物はほとんどが「まずくて食べたくない」という物になってしまった。これは今住んでいる町のせいでもあるので、街に出てそれなりの店に行けば違うだろうが、毎日そんなことをするお金も時間もないし、もしそれがあったらゲームやDVD鑑賞とかに回したい。そうすると、とりあえず生きるためには結局自分で自分の口に合う物を作るしかない。食事に興味はなくてもお腹は空くのだ。買い物に行ったり、調理をしたりという時間のロスもさることながら、頭の片隅で常に「もうじきミルクがなくなる」とか、「ヨーグルトは後何日保つ」とかいうことを考えなければならないというのがまた腹立たしいことである。さらに、近所のスーパーは夜10時までだから、生活時間のことを考え合わせ、今の生活なら起きてから行っても間に合う、とか、そろそろ危なそうだから寝る前に買い物をしておかねば、などと気を使わないとならない。こんな時も、「ああ、昔はこんなこと何も考えずに起きてお腹が空いたらコンビニかファミレスに行けばすんだのに...」という嘆きが湧いてくる。年を取るとこのように不自由になるのだ。若い皆さん、好き勝手をするなら今のうちです、と忠告してペン(タブレットの)を置くことにする。

●いい言語 04/16/2K

大人になって自分の興味のある対象を独学することの利点はいろいろある。「いつでも始められる」「どれだけ時間がかかってもいい」「いつやめても怒られない」「テストがない」などちょっと考えてもこれだけある。とにかく、ふっと興味がわいたら調べて、飽きたらやめればすむのだ。こんな楽な学習方法はない。特にその対象を、一般の人があまり興味を持たない物にしておけば、「今○○を勉強してるの」と言っても、相手はたぶん「勉強」という単語にだけ反応して「へえ、すごいのねえ」と言うだけで、絶対その○○について質問されたりする危険はないから安全だ。下手に聞いて、オタクが好きなアニメについて語るように延々とわけのわからん話を聞かされたらかなわん、と思うに違いないからだ。
私は今それに乗っ取ってラテン語を独学しているが、これには更なる利点がある。どんな言語でも、現在の物であると、世の中には必ずそれを使っている人というのが存在する。その場合、たとえどんな少数民族の言葉だからと言っても油断できるものではない。「私、カタラン語をやってるの」と普段から人に言っていたら、たまたま知り合いの家にカタロニアからの留学生がホームステイに来て通訳を頼まれる、という可能性はゼロではないのだ。その点、ラテン語というものは、現在これを日常語として使っている人はいないので、どこを歩いても道を聞かれる心配はない。私の嫌いな「社交的会話」をする必要もない。また、当然、現在以上に単語が増えたり文法が変わったりすることもない。この点でも非常に安全性の高い学習物であると言えよう。知り合いの音楽コレクターで自分の所有しているCDなどをきちんとデータベース化している人がいて、よく「好きなアーティストが死ぬとこれ以上データを更新しなくていいので嬉しい」と言っているが、なんとなくこれと似ているような感じがする。

●正確な性格

いつの世にもあるのが占いというやつで、今は、そろそろちょっと下火みたいだが、動物占いというのが流行っている。少し前は六星とかいうやつだったし、ポピュラーな星占いは大抵の雑誌に載っている。動物占いは、結局分け方が中国のなんたらとおんなじだとか、ペガサスなんていないじゃないかとか批判する人もいるが、私はあまり気にしない。何の占いでも私は好きだ。いいことでも悪いことでも、赤の他人が自分について「あなたはこういう人です」と、頼みもしないのに言ってくれるなんて、こんな嬉しいことはない。特に六星とかいうやつの時は、本来の星だけでなく、「霊合星」とかいうのにも当てはまっていて、なんのことだかはよくわからないがお楽しみがダブルになった感じで嬉しかった。十三星座が一瞬流行った時も「おー、別の星座になれた」という感じでお得感があったものだ。手相とかは、どの筋がなんの線なのか自分でははっきりわからない点が多いのでそこがいまいちだと思う。お金を払ってプロに見てもらったりするほど占い好きではないからだ。
今年の運勢とか、今日のラッキーカラーとかそんなことしか書いてない占いはつまらないので読まない。その日の運勢なんて終わってみればわかるし、大体ああいうものは会社員や学生メインなので居職で大抵家にいる私のような者にはあてはまらない内容が多い。私の好きな占いは、あくまで性格について書かれている物だけである。また、占いによって書かれていることはその占いによってずいぶん違っていて、正反対だったりすることもよくあるのだが、それも「人間は矛盾した性格を持っているんだから」と考えて止揚しておけば悩む必要もない。
ただちょっと気になるのは、昔読んだ精神分析か何かの本で、自分が思っている自分の性格と実際の性格はまるで逆になっている」と書かれていたことだ。今ここでその細かい論旨をたどることは出来ないが(思い出せないから)、読んだ時は非常に納得させられたことだけは覚えている。となると、占いを読んで「あ、当たってる」と感じた部分は実は合っていなくて「ここは当たってないな」と感じた部分が実は当たっているのだろうか。
また、アンケートなどで「自分に当てはまると思う部分にチェックして下さい」などという物があるが、ああいうものも、この理論が正しいとすれば、実はチェックが入らなかった方が正しい答えだ、ということになる。だが実はそのことも既に計算に入っていて、その上でなんらかの分析をしているのだろうか。考えれば考えるほど性格というのはわかりにくいものであるが、この文を読んでみると私がケチでナルシストだ、ということは信用していいと思う。しなくても別に構わないが、というよりしてくれない方が有り難いかもしれないが。

今年びっくりしたこと 4/22
・しょの1:オースティン・パワーズとDr.イーブルを同じ役者がやっていたということ
・しょの2:Monty PythonのMichael Parinが「旅行家」としてテレビに出ていたこと
photoshopへのお願い
・HSBスライダも256きざみにせんかいっ。
・絵をそのままFTPアップロード出来るようにして〜^^;

欲しいソフト追加 4/14
6月にMontyPythonのボックスが出るらしい。やったー。ついでにホーリーグレイルとかミーニングオブライフとかも出してくれー。ライフオブブライアンとゆーのもあったなあ。昔見た時より今の方が面白いのは多少はいろんな知識を得たせいみたいねー。

こんなものあるといいなあ 4/12
スクリーントーンだけ切れて力のいらないペン型のレーザーカッター^^;
今のとこ欲しいDVDソフト(含発売希望)
イエローサブマリン(再版まだ?^^;)、ペイジプラントのNo Quarter(出てもいいよね)、ジーザスクライストスーパースター、ヘアー、ヒドゥン、エクソシスト2、ナイトメアビフォアクリスマス、ビートルズアンソロジーの7と8(大抵これしか見ないから...^^;)トップガン(4月末出るらしい)、四月の魚(出るかなあ)、YESのKeys to accension(ほっといても出るだろう)、ツインピークスセット(LDボックス返せ〜...こんなとこで言う小心者)、ブレードランナー不完全版(監督なんざ何と言おうがハリソンフォードのぼそぼそ言うナレーションと最後にヴァンゲリスの曲がかぶさるシーンが好きなんだよ)...また思い出したら書こう。

●音楽の力 03/26/2K

少し前に、作品の中で人々がコーラスの練習をしている場面を描き、ちょっと手書きの歌詞をそこに書こうと思った(JASRACには内緒)。クラシックだが宗教曲ではないという設定なので、とりあえず「狩人の合唱」の最初のところにしようとしたが、これが1フレーズも思い出せない。日頃コーラスなんかしているわけではないし、記憶力の無さにかけては自信のある私なので思い出せないことにはそんなに驚かないのだが、メロディの方はしっかり最初から最後まで出てくるのだ。口の動かし方からなんとなく母音は見当がつくのだが、前に被さる子音がないことには話にならない。歌詞の後半部分は本当に「ラララーラララーララ...」というだけなのでここは完璧に思い出せるが、これではただでたらめに書いたのと同じである。しかし他に適当な曲も思いつかず、結局「ラーラッララーッラッラ」方式で行くことにした。だからJASRACにばれても大丈夫だ。その曲が「狩人の合唱」だとわかった人はたぶん一人もいなかったはずだ。その時、それ以外に昔歌ったことのある曲もいくつか思いだそうとしてみたのだが、どれもメロディはすぐ出てくるが歌詞は「なんか、山羊がいてどうしたとかいう話なんだけど」というようなテーマしか思い出せなかった。考えてみるとそういう歌は大抵外国の曲で歌詞は日本語に訳されたものばかりのような気がする。子供の頃に覚えた日本の童謡や、外国の曲でも原詩で覚えたものだと、忘れかけているのは同じだが、こうも完全に忘れきったりはしていないのである。逆にふっと思い出す時には歌詞とメロディが一緒に出てきて口ずさんだりするものだ。言葉の中の音の高さに音階が気持ちよくあっているので自然に記憶に棲みつくのだろう。たとえ意味はわからなくても。ミサ曲だと歌詞はみんな一緒だが、誰のどれが覚えやすいというのはあるのだろうか、などということもふと頭に上ったのだがそれ以上追求はしない私であった。

●バーチャコレクターの密かな楽しみ 02/23/2K

最近、妙なことにはまっている。分類としては昔からあった「おまけつきお菓子」というものだ。お菓子本体は安っぽいチョコとかスナックで、そのおまけとして、特撮やアニメ作品などの流行りのキャラクターのカードとかフィギュアがついている。その種類が数が多くランダムで、外からは何が入っているか見えない。で、自分の好みの物を得るため、あるいは集めるためにいくつもお菓子が買われる、という寸法である。
そういうおまけスナックは、本来はお子様のためのものなのだが、そういう商品が最初に発売された当時お子様だった人々の中には、時がたってもそのまま特撮やアニメ作品を愛し続けて大人になった人々が大勢いる。そういう「大きなお友達」は、子供に混じってスーパーや小売店の外にある「ガチャガチャ」に張りつき、出が悪いとお店の人に文句を言ったり、子供には自由にならないような大金を費やしてコンビニで製品を箱買いしたり、さらには西日暮里あたりの問屋まで遠征したりと、大人にしか出来ないが、いい大人がやることではないようなことをしているらしい。
私がはまったのは、別に言い訳するわけではないがちょっと趣が違うことである。まず、ついているおまけが「実在の動物」フィギュアで、いわゆるキャラクター物でない。フィギュアの作りも精巧でリアルであり、デフォルメがされていない。キティちゃんとかミッフィーのように「かわいーん」というような動物ではないのだ。それだけなら前述の大きなお友達とそう代わらないと言われるかもしれない。特に私をはめた友人のように「とりあえず全種集めたい」という野望に取り付かれ、そのフィギュアを作っている会社のギャラリーまで行ったり、掲示板でトレードに勤しむというようなことになれば、それはもう立派な「コレクター」であろう。だが、私が彼女の話を聞いているうちにやりたくなったことは、「開けて、何が出るか見る」という、一種おみくじのような部分だけだった。開けて出てきたものは、まあ可愛いし(可愛くないものも沢山ある)、自分で飾っておいてもいいものもある。だがそんなことは些末で、付随的な事柄だ。とにかく、お店で箱を選び、わくわくしながらパッケージを開ける。99種の中(実際には発売ロットは分かれているので、現在のロットでは48種)の、どの動物が見られるんだろう...どうか、今までに見たことのないものでありますように...。
この楽しみが以前から知っている何かに似ていると思ったら、それは、ドラクエなどのビデオゲームで宝箱を開ける時の楽しみに近かった。宝箱と違うところは、カタログが最初から入っていて、「この中のどれか」とわかってしまっている点だが、それでも一応シークレット動物やレア動物が設定されているようなので、大体私にとっては同じ事だ。そして、どんな珍しい動物が出ようと私にとって大事なのは「それが出た、そして見た」という部分であって、所有することにはあまり関心がない。だから前述の友人が欲しがればあげてしまうし、「鳥だけなら欲しい」という人にも余ったものは持っていってもらった。そういう風にしていると結果的に可愛くないものたちが大量に残って、「売れ残り」を見て暗い気分に陥ったりもするのだが。
それはともかく、ドラクエの宝箱やFFの発掘品は、たとえ「全部集めた!」と言っても、その集めた「物」は実際には単なるデータだけだ。「やくそう」も「たびびとのふく」も、「ロトのつるぎ」だって、実体のない、「自分が持っていることになっている物」なのだ。99種のうち「自分が選んで買った箱から出したことがある」というのは私にとって、「苦労してダンジョンの奥の宝箱を開けて手に入れた」というのと同じ喜びである。そして喜びの後には必ず悲しみがあるのが人生であって、今の私の悲しみは、自分も苦手で、まわりにも甘い物好きな人がいない状況で、溜まりまくったチョコレートをどうやって処理したらいいかわからないということである。





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