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歴史
- スパイ ゾルゲ
ドイツ人でありながら共産主義に傾倒しソ連のために働く。ソ連のスパイとして日本に送り込まれドイツ大使館や日本の重要な情報をもつ人物とパイプを築き、ドイツや日本の機密情報をソ連に送った。ドイツ、ソ連、日本の動きに大きな影響を与えた。ひょっとしたら、ドイツと日本が大きな権力を持ち、ソ連が小さな国になっていたかもしれない。ゾルゲがノモンハンでの日本軍の動きをソ連に送り、日本軍の動きを知らせていたのでソ連軍は日本軍を破ることができた。当初、ゾルゲの報告をソ連はあまり信用せず、ドイツに対する準備が遅れたこともありドイツがソ連領内に深く進入してきてモスクワに迫ってきた。1941年、太平洋戦争開始のとき日本が北進しソ連に攻め込むか南進してアジア・南太平洋へ進出するかについて重大な情報=この場合日本が南進を取る=ということをソ連に送り、これがソ連がシベリアの軍をヨーロッパ戦線に移動させることになりドイツの進撃を阻むことに結びついた。ソ連は三国同盟の同盟国・日本がドイツと連携してソ連を攻撃してくることを恐れていたが、その恐れがないとゾルゲの報告から判断した。その後、ゾルゲはスパイとして捕まり、1944年に処刑された。
NHK「そのとき歴史が動いた」(03/07/30)
- 吉田茂
1945年8月、第二次世界大戦(太平洋戦争)後、「戦争に負けて外交で勝つ」をモットーに、アメリカ軍の間接統治を認めさせたほか、マッカーサー司令官と何度も会い、アメリカから食糧援助を引き出すなど、日本のために多くのことを実行した。サンフランシスコ講和条約に調印し、日本の占領時代を終わらせる。その外交駆け引きは卓越したものであり、また、自分のためではなく国のために行動しているという点で、今の外務省は是非見習って欲しい。
(03/7/30)
- 蘆溝橋事件
1937年、蘆溝橋事件が起きた時、現地では日本軍も中国軍も交渉で和解の方針が決まっていたにもかかわらず、日本の本国で軍事拡大方針が出され、日中戦争へと拡大していく。また、政治が軍をコントロールできなくなる転換点といえる。
(03/7/30)
- 韓国の「ナザレ園」創設者で日本人妻の支援を行ってきた金さん
韓国人のなかにもこんな人がいたのか。→産経新聞の記事参照
(03/3/18)
- ウィーン会議で日本が人種差別撤廃を提唱していた
第一次世界大戦後の世界の体制を決めようという国際会議であるウィーン会議、ここでは国際連盟の設立などが議論された国際会議の場で、日本の代表である松岡?(大久保利通の子)が、人種差別の撤廃を提唱したとのこと、これは「目からうろこ」でした。日本人が国際会議でこのような大きなことを提唱していたことに驚きました。残念なのは、最初賛成したアメリカ大統領ウィルソン(?)が、急に態度を変え、全員賛成で無いから不成立を宣言し、多くの国の賛成があったにもかかわらず、廃案にしてしまったことです。裏の事情というの面白いもので、日本は発言する機会が無く、というか本国に一々お伺いを立てないと発言できないという制約により、存在感が出せずにいた。人種問題なら、本国の訓示の範囲でよめるということから本発言を行ったとのこと。また、米国が反対した理由は、アメリカ国内で、日本人ほかの外国人の動きを牽制しようという圧力があったことが言われている。この、松岡氏の提唱した人種差別の撤廃は、後の第2次大戦後、国際連合の精神に取り入れられた。以上、NHKのTV放送を見た感想です。
(02/02/23)
- 「そのとき歴史が動いた 三国同盟」
NHKで平成13年9月26日、放送された「そのとき歴史が動いた 三国同盟、外務大臣・松岡洋右の誤算」という番組を興味深く見た。松岡氏の言葉「対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない」というものがあった。彼の言動は、この言葉と一致していると思われる。
1932年、国連のジュネーブ臨時総会で、日本代表の松岡氏は本国から満州国の建国が認められなければ国連から脱退する意向を受けていたが、松岡氏自身は国連から脱退する策は取らないとして総会に臨むが結局、圧倒的な反対で満州の建国が認められず、日本はこの結果を認めないといって退席する。松岡は、失意のうちに帰国するが日本では凱旋将軍のように迎えられる。
その後、日本は国連を脱退し孤立化に向かう。
日本はドイツと近づき、日独防共協定を結ぶ。これに対ソ連を意識したものであった。日度防共協定はイタリアが加わり日独伊防共協定になる。
ドイツは、日本の思惑(ドイツと日本で共同してソ連に対抗するという考え)に反してソ連と不可侵条約を結ぶ。そして1939年、ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まった。ドイツは優勢で、あっという間にほとんどの西ヨーロッパを席捲した。
松岡は外務大臣就任に当り「外交は俺に任せろ」といい、親米、親英派の多数を異動させた。
そして松岡氏はドイツが勝つとの予想から、三国同盟を推進した。
(しかし、アメリカは、ヨーロッパに調査団を送り、イギリスは負けない、ドイツは勝てないと予測していた。)
帝国議会における三国同盟の議論で、原枢密院議長が、三国同盟は、アメリカの経済制裁を引き起こすといったことに対し、松岡氏は毅然とした態度を取ることによって、また、三国、できればソ連を引き入れ4国で結束することによりアメリカは対抗する策は取らないと答えた。原議長は疑問ありとしたが、結局松岡氏の意見が通り、1940年9月27日、日独伊三国軍事同盟が締結された。翌年、松岡は三国同盟にソ連を引き入れるための交渉の仲介をドイツに頼んだ。以前、ドイツは日本とソ連の話合いの仲介をするといっていたにもかかわらず、日本の依頼を拒否した。ドイツは裏でソ連侵攻を考えていた。それでも、松岡は日ソ中立条約を結ぶ。
ところがというか、予想どうりといおうか、アメリカが対日強攻策にでて経済制裁を発動してきた。日本は対抗上やむを得ず、1941年12月に開戦する。
それを知って、松岡氏は「三国同盟は一生の不覚だった」と言ったとのこと。
TVの解説者によれば、アメリカは、日本がならず者(ナチス)の仲間になったということで不信感をもっていため、日本とアメリカとの交渉はうまくいかなかった。松岡氏は、アメリカに留学して差別も受けたが、2回目の下宿先のベバリッジ夫妻に愛されたことで、アメリカも愛していたので、アメリカと戦うことは望んでいなかった。
1945年8月8日、日ソ中立条約の有効期限内にもかかわらずソ連参戦。
1946年5月3日、極東国際軍事裁判(東京裁判)
私の意見、感想であるが、マスコミが戦争への道を歩ませたという気がする。教育とジャーナリズム(マスコミの意見)が大きく影響しているといえる。国連脱退を歓迎するような雰囲気であったのは、マスコミの影響と思う。
もうひとつ、日本は世界の情勢を正しく認識できていなかったということが挙げられる。即ち、情報収集能力が劣っているということである。これらを反省し、今後、日本が行く末を間違わないようになって欲しい。
また、孤立化は情報不足になり、判断を誤るもととなる。仲間を作り、大事にするという姿勢が大切と考える。
(01/9/26)
- 東条英機について
太平洋戦争開始時の首相で靖国神社に祭られているということだが、東京裁判でA級戦犯とされた。たまたま、戦争開始時の首相だったことが理由のようで、あの当時誰が首相になっても戦争を避けられなかったと思われる。先に述べた「日本の戦争」(田原総一朗、小学館)に詳しいが、軍は戦争に傾いており、誰もこれを阻止できる力を持っていなかった。平和裏に解決しようとする努力も、アメリカの態度が真に平和解決を目指そうというもので無くなったため、望みが無くなった。天皇は最後まで戦争には反対であったが、反対できなかった。その気持ちを明治天皇の歌「四方の海みな同胞と思う世になど波風の立ち騒ぐらむ」を詠ったとのこと。
いずれにしろ、東条英機はドイツのヒトラーやスターリンといったリーダーとは全く異なる。一方で戦犯とされながらも戦後活躍して、ほとんど批判を受けてないような人も多数いる。実に不思議なことである。逆に強力なリーダーがいなかったことが戦争を回避できなかったのかも知れない。
「太平洋戦争に突入した理由」参照
(01/9/1)
- 二宮忠八氏について
NHKの放送で、ライト兄弟より早く、飛行機の原理を明らかにし、飛べる直前までいっていた日本人=二宮忠八氏がいたとのこと。何故、ライト兄弟に先を越されたかといったら、協力者が得られなかったことが原因とのこと。一方、ライト兄弟には、お金を出そうという人、情報や技術を提供しようという人、そのような多くの協力者があったことが挙げられる。飛行機の利便性・有効性についても理解していた二宮忠八が軍に飛行機の研究開発を何度も要望するがその度に断られたとのこと。その背景には、日本は欧米に遅れているという固定観念があったようだ。だから欧米で出来ないことが日本人に出来るわけがないということで、許可されなかった。二宮氏は自分でお金を稼ぎながら研究を続けるのだが十分な資金を集めることが出来ず、結局ライト兄弟に先を越される。その後、第一次世界大戦で飛行機が活用されるのを見て、二宮忠八の飛行機の研究を断った人は、自分には先を見る目が無かったと嘆いたというが、あの時、飛行機の研究を許可して資金を提供していれば日本人が最初に飛行機を飛ばした栄誉を得た可能性が高い。当時の図面から復元した飛行機で実際に飛べたそうである。なお、ドイツにも飛行機を研究していたリリエンタールという人がいたが、その人は事故で亡くなったとのこと。
新しいアイデアを簡単につぶしてはいけない、分からないときはやってみるほうに賭けるという心がけが大事ではないか。
(01/9/1)
- ポツダム宣言
NHKその時歴史が動いた(H13.7.25、H13.8.1)を見て、日本はポツダム宣言をもっと早く受諾していれば、原爆投下も無かったし、ソ連の参戦も無くて済んだと思われた。最初ポツダム宣言受諾の要請の話があったとき、日本の軍部は無条件降伏は絶対ダメといって拒否(無視)したため、その後の大きな不幸の原因を作ったといえる。悔やんでも悔やみきれない。あのとき、ポツダム宣言受諾に反対した人達が憎い。軍部中枢の人達は、自分たちのメンツを国民の不幸より優先させたのだ。また、太平洋戦争中日本は、世界の情勢に疎くなっていたということも反省材料であろう。対日戦争を始めたいロシアに最後まで戦争終結の斡旋を頼もうとしていたのだから。今の外務省は、過去の経験に学んでそのような不幸なことが無いようにして欲しい。
(01/8/1)
- 太平洋戦争に突入した理由
太平洋戦争に突入した理由だが、日本はアメリカとは戦いたくなかった。軍部の全てが望んだことではなかったようだ。また、天皇も望んでいなかった。世論が戦争を避ける道を閉ざしたという気がする。一部の知識階級の人達は戦争になったら負けるということ分かっていたが、反対できる状況に無かった。また、アメリカは平和交渉を達成しようという方針が変っていたということも興味ある事であった。「日本の戦争」(田原総一朗、小学館)に良く書かれている。田原氏は公平に見ていると思う。教訓として、孤立してはいけないということが挙げられると思う。
「真珠湾攻撃」参照
(01/6/30)
- 米百俵という言葉について
この言葉は、初めて聞いた。この機会に勉強させてもらった。戊辰戦争後、長岡藩の小林虎三郎という人が長岡藩の窮状を見かねた藩から米百俵を貰ったが、それを分けて食べる代わりに、将来の人材育成のための費用に回したとのこと。また、この方針に異を唱える人々に「常在戦場」という藩の精神となっている言葉を示して納得させたとのこと。そんな事があったのかという気持ちです。
(01/6/14)
- 日本にも占領時代があった
1945年8月15日の第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦以降、講和条約が結ばれる1951年4月28日まで日本は占領されていた。今では、ついつい忘れてしまうが、過去、占領されていた時代があったということは、しっかり覚えておく必要があると思います。ちゃんと学校で教えているのでしょうね。ただ、当時の占領軍(GHQ)は、あまり占領軍らしからぬ民主的政策をとったためか、占領されたという意識が薄いということも、記憶から忘れ去られてしまう理由になっているようです。
(01/4/30)
5月9日、NHKで放送された「その時歴史が動いた」を見て、日本は大変幸運であったということが分かった。マッカーサー将軍と天皇が互いにその人柄を尊敬し会う中であったとうことが天皇制を維持し、間接統治ということで大きな混乱無くして戦後の日本が立ち直れることに貢献した。占領されていたとはいえ、一応政府機能もあり、米国の食糧援助等により大きな混乱を避けられた。一方、ソ連に抑留された人達は一番悲惨な運命であった。ソ連が日本駐留していたらシベリア抑留のような事態が日本全国で起きた可能性を否定できない。
(01/5/13)
- 戦争中の教育
日本軍は、戦時中、偏った教育を行った。例えば、英語を敵国語として使用を禁止したなどまったくナンセンスな事を行った。孫子の兵法に「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という言葉があるが、英語の教育を止めたということは、敵を知る事をやめるということであり、馬鹿げた発想である。これに対して、米国は日本語の分かる人を集めて日本の情報収集に活用していた。また、「日本は今まで負けた事が無い、いざとなったら神風が吹く」という非合理的な教えをしていた。このため、最後まで戦争をあきらめないという人達が多数出て、これが、戦争の終結を図る上で大きな障害となった。今では精神だけでは勝てないということは当たり前だが、精神力で勝てると信じ込まされていた。良識ある人達は、精神力だけで勝てない事を分かっていたが、それを言える環境に無かった。更に、「生きて虜囚の辱めを受けず」ということで捕虜になる事を許さず、捕虜になる事を許していない事から、捕虜になった場合の心構えなど全く教えなかった。しかし、現実、捕虜となる事は起こりえて、捕虜になった場合、どのように振舞うか教えられていないため、聞かれたことに全て素直に答えて、敵に有利な情報を安易に与えてしまった。日記をつけることは軍事行動中は禁止すべきなのに日本軍は禁止しなかった。このことも、何らかの事情により、敵に日記が渡った場合有利な情報を与える事になった。このように、日本の軍部は非合理的なところであった。しかし、いずれにせよ、二度と戦争が起きないことを願う。
(01/3/30)
- 太平洋戦争
戦後、日本は侵略者にされているが、当時の状況は日本が戦争に突入するような条件をつきつけてきた。アメリカ側からみても日本が受け入れないだろうというような条件を出した。
これは、ハルノートの書かれた状況の資料から判断できるであろう。
(00/8/19)
「終戦の詔勅」には、何故戦争をしたかが述べられているが、侵略の意図は無いとはっきり書かれている。
何の本か忘れたが、ある本に、戦前、フランスの人が「アメリカは日本とやっつけたい、しかし、国際世論から見れば自分から戦争をしかけたく無い。そこで、日本は直ぐかっとなるから、怒らせれば、日本から戦争をしかけてくるだろう」と言っていたとのこと。真偽は確かめようは無いが、日本が一方的に悪いということの反証材料の一助になると思う。
それから、「日本は直ぐかっとなるから、怒らせれば、日本から戦争をしかけてくるだろう」という言葉は、今後、間違いを繰り返さないためにも良く覚えておく必要があると思う。
(01/4/15)
「 終戦の詔勅」参照
- 南京大虐殺
南京大虐殺は本当のことなのだろうか。本当はどうだったのか調査を行い、国民に教えるべきである。また、この調査は中国と共同で行い公平な機関に入ってもらうことが良いと思う。
(00/8/19)
産経新聞の記事で、中国は数字を勝手に作っているということであった。中国は30万人が殺されたとしているが、これは東京裁判のときに中国が側が出した数字で、この数字はありえないということで裁判の中で否定された数字とのこと。それをあえて直さないということは何の意図があるのだろうか。また、この数字は中国における教科書でもある時期から増やされていたということだ。
(01/3/9)
- 真珠湾攻撃
アメリカは、奇襲といっているが日本は奇襲(宣戦布告前の攻撃)の意思は無かった。連絡がうまくいかず、宣戦布告が届く前に戦争(ハワイへの攻撃)に突入した形となった。アメリカでは、ごく一部の人は日本が攻撃してくることは暗号の解読などで分かっていた。しかし、アメリカ国民に日本への反日感情を植え付け、国民が一致して戦争へ向かう気持ちを強く持たせるため、敢えて現地には教えなかった。そして、その気持ちを持続させるため、”リメンバーパールハーバー”というスローガンを作った。
(00/8/19)
- 原子爆弾は許されるべきで無い。
原子爆弾の使用は多くの一般人を巻き込むということは、十分予想できることである。その悲惨さは、広島、長崎における記録を見れば、良く分かる。アメリカの罪は重いと考える。
(00/8/19)
- 東京裁判について
東京裁判は、勝者が敗者を裁くというもので公平なものではない。これは国際法上許されていないことではないか。
「A級戦犯合祀」参照
(00/8/19)
- ロシア(ソ連)はずるい
ロシア(ソ連)は第二次世界世界大戦のとき条約の有効期間内にもかかわらず日ソ不可侵条約を一方的に破棄。連合軍が勝つことが確実なとき、日本が降伏する直前に参戦し、旨い汁を吸っている。ロシア(ソ連)が参戦したのは8月9日、戦争が終結するまでもう1週間も無い時期であった。しかも、ほとんど日本軍の戦力の残っていない満州に侵入して多くの捕虜を捕獲し、強制連行しシベリアなどに抑留し強制労働させた。ロシアは軍を動かしたが、たいした苦労もなしになし得たはずなのに、それに見合う以上というか濡れ手に粟というような、領土を拡大した。すなわち北方領土を不法占拠しつづけている。アメリカは小笠原や沖縄を既に日本に返還しているのにロシアだけ依然として占領を続けている。
(00/8/19)
- 日本軍の驕り
ミッドウェー海戦で日本が運は大失敗を喫した。これは、軍が日本に不利な状況を状況を検討の対象外としたこと、偵察が不完全だったことによる。一方、アメリカ側は暗号を傍受して、日本が攻撃してくることを事前に把握してその対応を十分に取っていたことによる。ここで日本は航空母艦の大半を失う。しかし、大本営発表で成果を過大に、被害を過小に報道し、国民の認識を誤らせた。
(00/8/19)
- 日本軍の驕り(2)
暗号にしても日本は、暗号は解読されないと過信していた。日本は「紫」という優れた暗号を作った(ドイツからの技術導入?)。ところがあるとき、暗号が漏れているという情報を得たにもかかわらず何の対策もしなかった。このことが、その後大きな被害を出す原因となった。
(00/8/19)
- 中国の状況、
周恩来は立派な人であった。毛沢東と組んで中国の国作りに励んだが、毛沢東の妻の紅青はじめ四人組み妨害された。しかし、最後の最後まで人民のためを思って、活動した。
一時、大義のため自分の考えに反するグループに身を置くが、本心ではなかった。周恩来は一時日本に来ていてその時読んだ本の影響を受け人民のために働くことを決意。
(00/8/19)
- 徳川家康について
NHKの大河ドラマ「徳川葵三代」を見て徳川家康は見方によっては秀頼を頼むといわれた豊臣秀吉を裏切ったという見方ができるし、また、ずるいという見方もできる。しかし、戦国時代を終結させ、日本の平和を永続させるという長期目標の実現を考えた場合には、許されるのではないかと思われた。一方、豊臣方が滅亡したのは、淀君がプライドが高すぎたというか、故太閤殿下の御威光を嵩に着て、それが周囲の反感を買ったものと思われる。それと世の中の状況を見る目が無かったということだと思う。
(00/8/19)

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