環境倫理(3)
自然の生存権


A 動物解放論(P.シンガー)

功利主義の原理は、「最大多数の最大幸福」である。
これは快楽主義(「快=善」)の上にたち、快楽と苦痛の総体である「幸福」を、快楽計算によって決定する。
しかし人間以外の動物も、快楽と苦痛を感じる能力がある以上、その快楽と苦痛も快楽計算の中に含めるべきである。
これは、功利主義の元祖ベンサムが、既に考えていたことである。

「人間以外の動物たちが、暴力的専制によってでなければ奪われなかったであろう諸権利を、再び獲得する時がいつか来るかもしれない。皮膚の色が黒いからといって、ある人間が虐待者の気まぐれな手に委ねられたままであってもよいことにはならないと、フランス人たちはすでに気づいている。同じように、足の本数や皮膚の毛や、あるいは仙骨の末端(尾)がどうだという理由で、感覚をもった生き物を同じような目にあわせてよいことはないのだと、認識されるようになる時がいつの日か来るかもしれない。では、いったいどこで越えられない一線を引けるのだろうか。理性という能力だろうか、それとも恐らく話す能力だろうか。しかし成長した馬や犬は、生後一日や一週間、さらには生後一カ月の人間の幼児と比べても、比較にならないほど、より理性的で、より話のできる動物である。だが仮にそうでないとしても、何が(線引きに)役に立つだろうか。問題となるのは、理性を働かせることができるかということでも、話すことができるかということでもない。苦しむことができるかということである。」
ベンサム『道徳と立法の原理序説

「人種差別(racism)」「性差別(sexism)」のように、権力をもつ集団が、自分の属している集団の利益だけを特別扱いすることから、種々の不当な差別が生じてくる。人間だけを特別扱いするのも同じで、シンガーによれば、「種差別(speciesism)」である。
実験動物、家畜、動物園と水族館――動物が味わっている不条理な苦しみは、出来るだけ減らさなければならない。

「今後一〇年のあいだに、人間の生命の神性さに対する態度は顕著に変化するだろう、と私は考えている。つまりその生命がホモ・サピエンス(人間)に属するかどうかという単純なことがらよりも、生命の質こそが重要だと考えるような態度を、われわれは身につけるようになるだろう。…正常な人間の生命を奪うことの道徳的な意味は、たとえば魚の生命を奪うことよりも重大であるとわれわれが考えるのは、われわれの種をえこひいきする偏見ではない。このちがいの理由をひとつあげるとすれば、正常な人間は未来に対する希望と計画をもっている。正常な人間の生命を奪うことは、それゆえに、これらの計画を破壊し、その成就を妨げることを意味するのである。魚は、自らが過去から未来への時間の流れの中で生きるという、明確な意識をもっていないと、わたしは考えている。…
動物解放論は、したがって、すべての生命が同等の価値をもっているとか、どんな利益についても人間の利益と他の動物の利益がみんな同等の重さをもつ、と主張するわけではない。この運動が主張するのは、動物と人間が同等の利益をもっている場合――たとえば、肉体的な苦痛をさけることに対しては人間も動物も共通の利益をもっている――その利益は平等に考慮されるべきであり、人間ではないという理由だけで、自動的に利益を軽視されるということはあってはいけないということである。単純な点だが、それでもやはり、この主張は広範囲にわたる倫理革命の一部なのである。」
(シンガー『動物の権利』戸田清訳)

A-1 実験動物
(省略)

A-2 家畜
今年(2001年)になって狂牛病の問題で、肉の安全性に不安が抱かれているが、日本人が肉を大量に消費するようになったのは、ほんのこのニ三十年くらいの間のことである。1960年には日本人の肉類の消費量は、一人当り一年間に、3.5Kgに過ぎなかったが、1995年には、43.5Kgまで増加している。ほぼ12倍である。特に牛肉の増加が大きい。(高松修「いま『肉を食べる』ということ」『世界』1997/11
こうしたことが可能になったのは、その間に、効率よく穀物を肉に変換する「動物工場」と呼ぶべきシステムが普及したことによっている。
「家畜は配合飼料で飼われ、その原料はアメリカの大規模農場で生産されている穀物(トウモロコシ・大豆粕)が主体である。…太陽の当らない人工照明の倉庫のような場所で朝から晩まで薬漬けで食っちゃあ寝の生活を強いられ、ニか月足らずでぶくぶく太らされて出荷される。」(同上)

「肉食の弊害として一般に認識されているのは、肉食は、動物を苦しめ、飢餓を生み、健康を損ない、環境を破壊するという四点である。…
 飢餓を生む
 現在、世界では一日に四万人が飢餓で死んでいるといわれている。そして、飢餓に苦しむ人びとは、三〇ヶ国で五億人に達し、彼らを救うためには、二七〇〇万トンの穀物を供給すればよいという。一方、世界の年間穀物生産量の一七億トンのうち、半分近い八億トン以上の穀物が、家畜の飼料に使われている。そうだとすると、人びとが肉の消費をわずか三パーセント減らして、家畜用穀物の三パーセントを、ODA
(政府開発援助)のような国際機構を通じて、飢餓に苦しむ人びとにまわせば、かれらをすべて救うことができる。
 …二一世紀は飢餓の世紀になるだろう。そのとき、人類は飢餓を解決するために、効率の悪い肉食を止めざるを得ないだろう。何故なら、一キログラムの動物性タンパク質を肉として生産するために、飼料として家畜に与えなければならない植物性タンパク質は、牛は一七キログラム、豚は七キログラム、鶏は三キログラムだからだ。
 健康を損なう
 肉食が健康を損なう理由は主な三つある。第一は、牛肉や豚肉に多量に含まれる飽和脂肪酸は、体内で固まりやすく、多量に摂ると、血液の粘度を高めて血流を悪くするため、酸素や栄養素が細胞に届きにくくなる。
 第二は、飽和脂肪酸はコレステロールや中性脂肪を増やす働きがあるので、多量に摂ると、動脈硬化、心疾患、脳血管疾患などを引き起こす。…
 第三は、多量の肉の摂取は、ガンと密接な関係がある。…」
(山内友三郎・浅井篤編『シンガーの実践倫理を読み解く』(昭和堂) 第四章 岩沢直樹「動物の解放と菜食主義」より)

B 自然物の当事者適格(C.ストーン)

日本でも、奄美大島でのゴルフ場建設に反対した裁判が、ミヤマノクロウサギ他三種の野生動物の名で行われているが、
こうした裁判の基礎になる理論を作ったのが、クリストファー・ストーン(Christopher Stone)の論文「木は法廷に立てるか」(1972)である。
これは、従来、人間の管理・保護の対象にしかすぎなかった自然に、人間と対等の人格を認めようとする試みである。
(その後、これに基づいて、ストーンは、「道徳的多元主義」を主張することになる。)

1.権利の拡大
歴史の過程は、かつては権利の保護の外にいた、子ども、婦人、黒人、外国人、精神病者、胎児などにも次々に権利を与えてきた。
歴史の進歩は、権利の拡大の歴史だったともいえる。
さらに現在では、法人や地方自治体や国家といった無生物の存在にも、権利が与えられている。

2.自然の代理者
自分では話せない自然物でも、その権利を代弁しその執行を代行する保護者を、法廷が任命することによって、
この保護者が自然の要求を判断できる。

B-2 土地倫理(レオポルド)

「これまでの倫理則はすべて、ただ一つの前提条件の上に成り立っていた。つまり、個人とは、相互に依存しあう諸部分から成る共同体の一員であるということである。個人は、本能の働きにより、その共同体の中で自分の場を確保しようとして他人と競争をする。だが同時に、倫理観も働いて、他人との共同にも努めるのである(それとて、競争の場を見つけるためなのかもしれない)。
土地倫理(ランド・エシックス)とは、要するに、この共同体という概念の枠を、土壌、水、植物、動物、つまりはこれらを総称した「土地」にまで拡大した場合の倫理を指す。
要するに、土地倫理は、ヒトという種の役割を、土地という共同体の征服者から、単なる一構成員、一市民へと変えるのである。」
アルド・レオポルド『野生のうたが聞こえる』 新島義昭訳(講談社学術文庫)より


C 種の保全
(省略)

あまり書く元気がないので、全部、まだまだ準備中です。授業を聞きましょう。
ナッシュの『自然の権利』は、翻訳が、ちくま文庫で出ています。


参考文献
動物解放論に関するシンガーの本は、かつては初版の翻訳が「技術と人間」社から出ていましたが、現在は改訂版(2009年)の翻訳が出ています。
ピーター・シンガー『動物の解放』(戸田清訳)人文書院


→ピーター・シンガー
→環境倫理 1)エコロジーと共生の倫理
→環境倫理 2)世代間倫理

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