環境倫理(1)
エコロジーと共生の倫理


近代(→現代)社会は、個人主義と自由主義の社会である。個人の(特に経済活動の)自由を保障することが、自由競争によって社会の活力を生み、社会全体の福祉=「最大多数の最大幸福」をもたらす最良の方策だ、ということになっている(らしい)。
しかし、これを反証するモデルもある。

共有地の悲劇
「合理的な人間として、各々の牧夫は彼の利得を極大化しようとする。明示的にあるいは暗黙のうちに、意識的にあるいは無意識に、彼は次のように自問する。「私の群にもう一頭加えると、私にいかなる効用が生ずるか」。この効用は、正負それぞれ一つずつの成分からなる。
一 正の成分とは、一頭の牛の増加という要素である。牧夫は、増えた一頭の売却による利益をすべて手に入れるから、正の効用はほぼプラス1である。
二 負の成分とは、その一頭のために付加された、「過度の放牧」という要素である。しかし、過度の放牧の効果はすべての牧夫によって負担されるから、決断を下そうとするある特定の牧夫に対する負の効用は、マイナス1の数分の一にすぎない。
これらの効用の成分を加算して、合理的な牧夫は、彼が取るべき唯一の行動はもう一頭を群に加えることだ、と結論づけることになる。そして、もう一頭、もう一頭……と。しかしながら、共有地を分け合っているすべての合理的な牧夫が、このような結論に達するのである。(中略)共有地についての自由を信奉する共同体において、各人が自らの最善の利益を追求しているとき、破滅こそが、全員の突き進む目的地なのである。共有地における自由は、すべての者に破滅をもたらす。」
(ギャレット・ハーディン「共有地の悲劇」桜井徹訳;『環境の倫理』所収)

ハーディンは、環境汚染や人口問題に、こうした「共有地の悲劇」の実例をみる。
「われわれが今認識せねばならない、もっとも重要な必要性とは、出産ということに関わる共有地を放棄することの必要性である。」(同上)


1)地球全体主義

「個人の自由」以上に絶対的なものは、そもそも個人の自由が成立するための大前提である地球環境全体の存在である。
アース・ファースト(Earth First)
オゾン層の破壊、地球温暖化、酸性雨などの問題――これらは、一部の国だけで対策を立てても、効果は少ない。
「エコライト(eco-right)」や「炭素税」という方法

「もし世界が100人の村だったら」というかつて世界を駆け巡ったメールがある。そこではこう言われている。
「20人は栄養不足で、1人は飢え死にしそうですが、15人は太りすぎです。
この村の全ての富を、6人が59%持っていて、74人が39%を持ち、20人が残りの2%を分け合っています。
この村の全てのエネルギーのうち、20人が80%を消費し、80人は残りの20%を分け合っています。
…一年で、村では1人が死にますが、一年で2人が生まれます。ですから来年は村人の数は101人になります。」(注1)
環境問題の裏側に南北問題がある。

豪華客船タイタニックが沈没し、100人もの人が溺れて助けを求めているとしよう。そこに一隻だけ、救命ボートがある。
でも乗れるのは20人で、あと何人かは乗れるとする。
どうすればいいだろうか?
考えられる選択は、次のどれかだ。
1a) ヒューマニズムの立場から、全員乗せる。
  (→救命ボートは転覆し、全員が死ぬだろう。)
1b) できる限り多くの人を乗せる。
  (→船が転覆したり、水や食料が足りなくて、全員が死ぬ危険性も高まる。)
2) 定員いっぱいまで乗せる。
  (→誰を選ぶのか?早い者勝ちなら混乱状態に陥る。また、安全率(safety factor)が失われる。
3) 利他主義や功利主義的立場から、人々の良心に訴え、乗る人を選ぶ。
  (→利他主義者が犠牲になり、利己主義者が生き延びるという。倫理的には最悪の結果を招く。)
4) 今乗っている人だけに限り、これ以上乗せない。
可能な解決策は4)しかない、とハーディン(→「救命ボート倫理」)は言う。
タイタニックや「宇宙船地球号」には船長がいるが、救命ボートにはいない。
自分だけは助かりたいという各人のエゴイズムを認め、ある段階以後は、集団的エゴイズムにまかせる他ないというのが、ハーディンの結論である。

2)エコロジーと共生

DDTなどの化学薬品(農薬)に関して環境への危機を最初に指摘したのは、
レイチェル・カーソン『沈黙の春』(1962)である。
「自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちはどこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の春だった。」(青樹簗一訳)
自然は、複雑に絡み合った有機体だから、虫だけを殺すと思われていたDDTが、予期せぬ結果をもたらすという危険は、その後も、いろいろ指摘されている。生態系の崩壊、食物連鎖による濃縮作用、遺伝子の損傷など、危惧される問題は多い。それらは単純な原因と結果の因果関係で繋がっているのではなく、絡み合った副次的な連鎖作用の総体であるから、複合的な因果関係をもつエコロジーという観点から考えられなければならない。

「南西アフリカのバンツー族の一部族の間には、自分の頭上の鳥をねらって矢を射るべきではない、という諺がある。しかしながら、われわれ人間はわれわれ頭上の多くの鳥に向けて矢を射てきた。
たとえば、数年前、世界保健機構はボルネオ島でマラリアを伝染させる蚊を絶滅するためにDDTを使用した。この化学薬品は蚊を殺したが、ゴキブリを殺しはしなかった。生き残ったゴキブリたちは体内にこの薬物を蓄積した。ゲッコと呼ばれる尾の長いトカゲがゴキブリを食べたとき、ゴキブリの体内のDDTがトカゲの神経系に異常を引き起こした。このためにトカゲたちは動きが鈍くなり、村の猫たちの餌食となった。猫たちはトカゲの体内のDDTのために死んだ。伝染病を移す恐れのあるネズミがボルネオ島の森林から入り込んできたので、ネズミを捕まえさせるために、他所から猫を村に空輸しなければならなくなった。猫たちはネズミたちの数を制御したが、人々の住む小屋の屋根は崩れ落ち始めた。以前には、トカゲが屋根のかやを食べる毛虫を食べていたのだが、そのトカゲがいまや絶えてしまったからだった。」(K.S.シュレーダー=フレチェット「農薬の毒性」加茂直樹訳;『環境の倫理』所収

「農薬毒性の実験的なテストでは考察されない実際的条件の一つは、これらの食品が食物連鎖において高次に進むほど生体内蓄積、つまり高度の濃縮をこうむることである。(中略)
たとえば、カリフォルニア州のある淡水湖の水は、農薬の痕跡をとどめていなかった(ppb、つまり十億分の一の単位で)が、水の供給を湖に求めていた鳥や魚の体内には、この毒性物質が最大で二五〇〇ppm(百万分の一の単位)も含まれていた。同様に、八ppbの農薬に二十四時間、被曝した甲殻類たちは、もとの水にあった農薬濃度の二万三〇〇〇倍まで、自分の体内でそれを濃縮した。結局、政府のある科学者が言うように、「このことは汚染された水と食物によって人間に健康上の災害が起こりうることを意味する。」」(同上)

「生態系は農薬に誘導された昆虫の耐性と自然の捕食者-被捕食者関係の破壊とによってのみ、くつがえされるのではない。害虫防除の科学的手段は、これらの難題を持ち込むだけでなく、もっと深刻な仕方で自然の均衡をゆがめる。放射能と同様に、農薬が動物に遺伝的損傷を引き起こすことはわかっている。政府の専門家によれば、このことは、化学薬品が個人の生存と生殖活動の首尾にだけでなく、「未来世代の遺伝的構成」にも影響を及ぼしうる、ということを意味する。科学者たちの一致した意見では、農薬は実験動物に突然変異を生じさせるが、ヒトの遺伝物質と動物のそれとの間には重要な差異がないのである。この二つの理由によって、次のように主張することができる。つまり、現存の個人が変異原であるとわかっている化学物質の使用によって後世への遺伝的寄与を危うくしないようにすることが、未来世代の権利によって求められている、と。」(同上)

1990年代後半になって、化学薬品の及ぼす別の影響が指摘されるようになった。内分泌撹乱物質、いわゆる「環境ホルモン」である。微量な化学物質が女性ホルモンとして機能することで、(人間を含む)自然の生態系に大きなダメージを与えている実例が、次々に報告された。
(→シーア・コルボーン他『奪われし未来』(翔泳社)など)


3)ディープ・エコロジー

人間の生き方が変わらなければ、未来はない。
近年盛んになってきたリサイクル運動や地球温暖化の防止など、我々が行っている環境保全への働きかけは、
大量生産と大量消費に基づく豊かな生活を維持しながらも自然環境を保全することは可能であり、
さらに、継続的な経済成長は良いものである
という暗黙の前提の上に成り立っている。
つまり現在の豊かな生活水準を保ちながら、それを出来るだけ長引かせたいというのが「持続可能性」という主張であり、
リサイクルしているのだから大量消費してもよいのだというのが「リサイクル」という運動である。
それらが上手くいっていないのは、現在の豊かな生活を前提にしている、その出発点に問題があるからだ。
人間を中心にして自然環境との共生を目指す<浅い>エコロジーの思想に対して、その人間中心主義を否定するのが、<深い>エコロジー、ディープ・エコロジー(deep ecology)である。
これを提唱したのは、ノルウェーの哲学者アルネ・ネス(Arne Naess)であり、その1972年の第三回世界未来会議での講演「浅いエコロジー運動と長期的視野の深いエコロジー運動」(The Shallow and the Deep, Long-Range Ecology Movement)である。
1984年にネスとセッションズ(Sessions)によって作られた、プラットフォームは次のようなものである。

ディープ・エコロジー運動の基本原則(Platform)
(一)地球上の人間とそれ以外の生命が幸福にまた健全に生きることは、それ自体の価値(本質的な価値、あるいは内在的な固有の価値といってもよい)を持つ。これらの価値は、人間以外のものが人間にとってどれだけ有用かという価値(使用価値)とは関係のないものである。
(二)生命が豊かに多様なかたちで存在することは、第一原則の価値の実現に貢献する。また、それ自体、価値を持つことである。
(三)人間は、不可欠の必要を満たすため以外に、この生命の豊かさや多様性を損なう権利を持たない。
(四)人間が豊かにまた健全に生き、文化が発展することは、人口の大幅な減少と矛盾するものではない。一方、人間以外の生物が豊かに健全に生きるためには、人間の数が大幅に減ることが必要になる。
(五)自然界への人間の介入は今日過剰なものになっており、さらに状況は急速に悪化しつつある。
(六)それゆえ、経済的、技術的、思想的な基本構造に影響を及ぼすような政策変更が不可欠である。変革の結果生まれる状況は、今日とは深いレベルで異なるものになる必要がある。
(七)思想性の変革は、物質的生活水準の不断の向上へのこだわりを捨て、生活の質の真の意味を理解する(内在的な固有の価値のなかで生きる)ことが、おもな内容になる。「大きい」ことと「偉大な」こととの違いが深いところで認識される必要がある。
(八)以上の七項目に同意する者は、必要な変革を実現するため、直接、間接に努力する義務を負う。
(アラン・ドレングソン/井上有一共編『ディープ・エコロジー』井上有一監訳より)

  1. The well-being and flourishing of human and nonhuman life on Earth have value in themselves (synonyms: intrinsic value, inherent value). These values are independent of the usefulness of the nonhuman world for human purposes.
  2. Richness and diversity of life forms contribute to the realization of these values and are also values in themselves.
  3. Humans have no right to reduce this richness and diversity except to satisfy vital human needs.
  4. The flourishing of human life and cultures is compatible with a substantial decrease of the human population. The flourishing of nonhuman life requires such a decrease.
  5. Present human interference with the nonhuman world is excessive, and the situation is rapidly worsening.
  6. Policies must therefore be changed. These policies affect basic economic, technological, and ideological structures. The resulting state of affairs will be deeply different from the present.
  7. The ideological change is mainly that of appreciating life quality (dwelling in situations of inherent value) rather than adhering to an increasingly higher standard of living. There will be a profound awareness of the difference between big and great.
  8. Those who subscribe to the foregoing points have an obligation directly or indirectly to try to implement the necessary changes.

第一原則の説明では
「「生命」とは、…広い意味で使われ、生物学の専門化が「生物」とはみなさない存在」、たとえば、河川(流域全体)、地形、生態系などを含む言葉として使われている」(同上)
と述べられ、また、ローセンバークによる解説では、こう言われている。
「一般的に理解されているすべての有機プロセスに加え、ここで生命という語は、ひとつの生態系全体という物質の流れから成る生命、複数の生態系間のやりとり、さらには地球全体としての固有の生命、を含むものに意味が拡大されている。」

ネスの思想の特徴
(続く)
(暫定的に、ウィキペディアの記述を引用しておきます)
The phrase deep ecology was coined by the Norwegian philosopher Arne Nass in 1973, and he helped give it a theoretical foundation. "For Arne Nass, ecological science, concerned with facts and logic alone, cannot answer ethical questions about how we should live. For this we need ecological wisdom. Deep ecology seeks to develop this by focusing on deep experience, deep questioning and deep commitment. These constitute an interconnected system. Each gives rise to and supports the other, whilst the entire system is, what Nass would call, an ecosophy: an evolving but consistent philosophy of being, thinking and acting in the world, that embodies ecological wisdom and harmony." Nass rejected the idea that beings can be ranked according to their relative value. For example, judgments on whether an animal has an eternal soul, whether it uses reason or whether it has consciousness (or indeed higher consciousness) have all been used to justify the ranking of the human animal as superior to other animals. Nass states that "the right of all forms [of life] to live is an universal right which cannot be quantified. No single species of living being has more of this particular right to live and unfold than any other species." This metaphysical idea is elucidated in Warwick Fox's claim that we and all other beings are "aspects of a single unfolding reality". As such Deep Ecology would support the view of Aldo Leopold in his book, "A Sand County Almanac" that humans are ‘plain members of the biotic community’. They also would support Leopold's "Land Ethic": "a thing is right when it tends to preserve the integrity, stability and beauty of the biotic community. It is wrong when it tends otherwise."


(注1)
このメールの原型となったのは、ドネラ・H・メドウズのエッセイである。
「五〇億を超える世界人口のうち、常に一〇億人以上が、必要以下の食事しかとっていない。五億人から一〇億人は、慢性的な飢餓状態にある。毎年生まれる新生児のうち二四〇〇人が体重不足で誕生する。一九九〇年の推定によると、五歳未満の子どものうち二億四〇〇万人は、深刻な栄養不足の状態に置かれている。また、毎年およそ一三〇〇万人が、飢餓に関連する原因で死亡している。言い換えれば、一日平均三万五〇〇〇人が餓死していることになる。しかも、犠牲者の大部分は子どもである。」(ドネラ・H・メドウズ他『限界を超えて』ダイヤモンド社)


参考文献
環境問題に関する文献も山ほどある。ちょっと古いが、環境倫理の古典的な文献として、
加藤尚武『環境倫理学のすすめ』(丸善ライブラリー)
鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』(ちくま新書)
マンガだが、『美味しんぼ』の20-40巻辺り、では、食の問題を中心に、環境問題を扱っているので、読めば参考になると思う。
環境問題を生み出している消費社会に関する一般的な知識として、

見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)
辺りは読んで欲しい。

環境問題に関してなされる主張は、正論であって、反論できないような性質のものも多い。そこで、次の本を勧めておく。

槌田敦『環境保護運動はどこが間違っているのか?』(宝島社文庫)
―安易なエコロジーやリサイクル運動を再考するように迫る
武田邦彦『何を「食」べれば安全か!』(青春出版社)
―内容は、「どんなに牛肉を食べても、狂牛病にはかからない!」「トリ肉を食べて鳥インフルエンザにかかった人は世界で一人もいない」「農薬がついた野菜を食べてもがんにならない」など、目から鱗という人も多いかもしれない(下記を参照)。

ディープ・エコロジーに関しては、記念碑的なネスの講演などを収めた論文集
アラン・ドレングソン/井上有一共編『ディープ・エコロジー』井上有一監訳 (昭和堂)
The Encyclopedia of Earth 中の「deep ecology」の項目
→http://www.eoearth.org/article/Deep_ecology
ウィキペディア(英語) 中の「deep ecology」の項目
→http://en.wikipedia.org/wiki/Deep_ecology

このページを最初に書いた頃(1999年)と比べると、何でも「エコ」「エコ」と煩い昨今だが、
CO2の排出規制とか、現在の環境政策の出発点となったのは
メドウズ他『成長の限界』(ダイヤモンド社)
である。(→世代間倫理の頁を参照)


補足
武田邦彦『何を「食」べれば安全か』
には、「目から鱗」的な正当な見解も述べられているが、正当とは思えない見解も述べられている。
狂牛病と鳥インフルエンザの問題を扱っている第一章だけに触れると、「鶏肉を食べてもトリ・インフルエンザにかからない」というのは正論であろう。トリ・インフルエンザについての正確な知識はなくても、論旨は納得できるし、マスコミが不必要に危険を煽っているのが真の問題だ、という全体の趣旨も正論だと思われる。しかし、狂牛病についての主張は、かなり問題があると思う。
武田氏は、「どんなに牛肉を食べても狂牛病にはならない」という理由を四つ挙げている(33頁)。
1)日本人は牛の「脳みそ、脊椎、眼」を食べる習慣がない
2)感染力が弱く
(だから仮に狂牛病に罹った牛の脳や眼を食べても狂牛病にはならない)
  そもそも全世界に狂牛病のウシが少ない
3)狂牛病のウシが生まれる原因がすでに明らかになっている
4)日本の狂牛病患者440人のうち、牛肉を食べて狂牛病になった人は一人もいない

どの主張も凡そ正論である。しかし、額面通りには受け取れない。一番問題なのが、三番の「明らか」だと言われている狂牛病の原因だ。

狂牛病の原因は分っているか?
まず、狂牛病(BSE)が、ウイルスではなく、異常タンパク質プリオンの蓄積が原因で生じる病気であり、羊の「スクレイピー」、人間の「クロイツフェルト・ヤコブ病」等と同じものであることは分っている。
異常タンパク質プリオンは、牛の脳や脊椎や眼や腸の一部に蓄積する。今のところ最も有力な説では、羊の肉や骨を砕いて作られる肉骨粉が牛の飼料として使われたのが原因で、もともと羊の病気だったスクレイピーが牛に移り、さらに、病気を持った牛の肉骨粉が牛の飼料として使われたことによって、多くの牛に広まったと考えられている。(異常プリオンは、高温度で長時間加熱すれば不活性化する。肉骨粉を作るための加熱時間を短縮したことが、イギリスで狂牛病を蔓延させる直接の原因になったと考えられている。)
『狂牛病』の著者、中村靖彦氏は、『食の世界でいま何がおきているか』(岩波新書)の中で、「BSEの起源は、おそらく1970年代初めに一頭の牛か他の動物に遺伝子の変異が起こり、その結果、新しい疾病があらわれたことにある、と考えられる」という『英国政府BSE調査報告書』の結論を紹介している(131頁以下)。つまり、羊のスクレイピーが原因ではなく、牛に自然発生したと言っている訳である。また、同書では、アメリカで発見された鹿のプリオン病についても報告している。このケースでは、感染経路も不明なのである。
スクレイピーにしろBSEにしろ、狂牛病の原因は不明である。牛のBSEの感染経路が肉骨粉であることが分っているだけだ。
肉骨粉の使用が禁止されてから、狂牛病の発生は著しく減少している。「全世界に狂牛病の牛が少ない」という主張は正しい。しかし、それは、危険だから規制された結果として、今は安全になりかかっている、ということを意味しているに過ぎない。
上の四つの主張は、基本的には正しいのだが、それは、それぞれにいくつかの重要な注釈(但し書き)をつけた上でのことである。
(上の引用の「一頭の牛か他の動物に」という箇所の原文はどうなっているのでしょうか?誤訳の臭いがします。想像ですが、原文は、「in one cow or other animals」か何かで、「一頭か数頭の牛に」ではないでしょうか。)

共食いが狂牛病の原因?
「ウシの「狂牛病」、人間の「クールー」、そしてヒツジの「スクレイピー」、いずれも共食いによって体の中のタンパク質が異常になり、頭がおかしくなるという共通した病気なのです。」(31頁)
共食いが原因で異常タンパク質が生まれるというのは、驚くべき学説である。
私はこの箇所を読んだ時、本当に驚いた。著者は名古屋大学の教授(工学)で、有名な人である。必要ないかも知れないが、一応、反論を書いておく。
まず、羊のスクレイピーの発症原因は共食いではない。原因は不明である。また狂牛病は、鹿やミンクや猫にも発症している(中村靖彦『食の世界にいま何がおきているか』132頁)。それらの原因も共食いではない。ヒトの場合、パプアニューギニアで発見された「クールー病」は共食いに関係があるが、同じ病気だと考えられるクロイツフェルト・ヤコブ病は共食いが原因ではない。従って、「共食いすると病気になる」という説は、ウシと一部のヒトという僅か二つの例だけから導き出された非論理的な一般化である。
次に、少し考えれば明らかだが、自然界には共食いする動物は珍しくない。例えば、カニは共食いをする。では、なぜカニに同じ病気が生じないのだろうか。共食いするカラスは、なぜ狂牛病にならないのだろうか。交尾が終わるとオスを食ってしまうという螳螂はどうなのか。共食いが原因なら、もっと多くの種で、同じプリオン病が発生しているはずだ。
従って、共食いと狂牛病の発生には直接の因果関係はない。
「共食いが原因で生じた」のではなく、「共食いが原因で広まった」と言うのが正しい。
武田氏は、28頁から31頁にかけて、いかに共食いが忌まわしいものであり自然の掟に反しているかを、強調している。確かに自然界には共食いを避けるメカニズムが働いているが、それは、生物学的な原因からというより、(近親婚を避けるのと同じような)社会的な原因からだろう。単に生物学的な観点から見れば、自分の身体を構成している素材をそのまま摂取する共食いは、合理的な方法であるはずだ。
ここには、悪い意味での科学的思考と倫理的思考の混同がある。

牛肉は食べても安全か?
狂牛病が牛から人間に移ることは事実として確認されている。
日本の牛は、全てBSEの検査をして、陽性であれば、焼却処分されている。
いま、アメリカからの牛肉の輸入が中止されているのは、アメリカが牛の全頭検査をしていないからだ。
狂牛病を発症していなくても、これまで肉骨粉を食べているのだから、体内に異常プリオンを蓄積している牛はいるだろう。
武田氏の言うように、「ひとりの日本人が、人生80年の間に、牛肉を食べて狂牛病になる確率」が「0.00008%」であるかどうか、かなり疑問だ。
イギリスには、牛肉を食べて狂牛病に罹った人が、2002年9月現在で127人いる訳だから、日本人には一人もいないと言っても、それは、「まだ出ていない」というに過ぎない。4)は蛇足である。
しかし、何十万頭の狂牛病の牛が、危険部位を含めて、イギリスで食べられたのに、127人しか感染しなかった、という数字は、狂牛病がそれほど恐れるべき病気ではないことを意味しているとも言える。これは武田氏の言う通りだ。

では、吉野家さんに行って、(紅生姜を乗せて)牛丼を食べることが本当に安全なのだろうか、考えてみよう。
(紅生姜は人工的に着色されているが、武田氏は「食品添加物は安全だ」と主張している。)
武田氏の言う通り、異常プリオンを持った牛を食べても発症する可能性は低いのに、現在では病気をチェックした上で、さらに危険部位は食べないのだから、世間で恐れらているほどの危険は牛肉にはない、と考えるのが妥当だろう。十年前だったらともかく、少なくとも、現在の牛肉は、かなり安全である。
それが原因で、牛丼一杯280円という、考えて見れば奇跡のような日本文化が滅びてしまうとすれば、それは残念なことである。
しかし狂牛病の原因は不確定である。異常プリオンは筋肉にも蓄積するという学説もある。
私の「占い」では、異常プリオンが蓄積することが恐いので、危険かもしれないものは避けるのが吉、と出ている。お金持ちの人はそうすればよい。もしかしたら危険があるかもしれない吉野家の牛丼など食べなければよい。だから、他人には勧めないが、私は(今売っているとすれば)吉野家さんで牛丼を注文することに大きな不安はない。

「種の壁」があるから安全か?
最初に、種の壁があるから「トリ・インフルエンザはヒトには移らない」という武田氏の説を紹介したが、最後にこれに触れておく。
日本での騒ぎは収まったが、東南アジアでは、トリ・インフルエンザはまだ猛威をふるっているようである。
(続く)


→環境倫理 2)世代間倫理
→環境倫理 3)自然の生存権

→倫理の公民館に帰る
→村の広場に帰る