すばる天文同好会

第6回


終わりに





 
 余談になりますが、松村任三と同じ茨城県の高萩が生んだ江戸時代の長久保赤水があらわした著書に『禮記王制地理図説』というものがあります。これは、中国の四書五経のひとつ、『禮記』の一部を解説したものです。この赤水の書に関しては、当ホームページの『天象管き鈔』解説の中に触れていますのでそちらをご覧いただくとして、この「月令第六(げつれいていりく)」篇の中に
「〇温風初至。蟋蟀居壁。鷹乃學習 腐艸爲螢」(おんぷうはじめていたる。しつしゅうかべにおる。たかすなわちがくじゅうす。ふそうほたるとなる。)
とあります。筆者の所有本『禮記』では、學習と腐艸のあいだに句点がありません。また學習の振り仮名が「がくじうす」となっています。蟋蟀はこおろぎのことです。
 問題は、この腐った草が蛍になって光るという文言です。蛍といっても虫の蛍をさすのではなく、ぼんやり青白く光る様子をさしているものと思われます。南方熊楠は地元の人から、夏に「カヤ」という草の根本が光る様子を聞いて、まさに『禮記』月令篇の中の記事がこのことをさしていたのだと了解したということです。(津本陽『巨人伝』P.264)発光細菌または燐光細菌といわれる微生物の働きによる現象だと思われます。
 直接には、南方熊楠と長久保赤水はまったく関係はないのですが、このような共通の部分が見つかるとそれだけ親近感が強くなります。
 ところで、熊楠は1910(明治43)に「那智で採取した顕花植物標本四二四点を牧野富太郎に送付した。」(『巨人伝』P.309)こともありましたが、一方の牧野は熊楠をどう見ていたのでしょうか。
 鶴見和子が、熊楠死去の翌年『文芸春秋』19422月号に掲載された牧野の文章を紹介しています。
「日本の植物分類学の泰斗であった牧野富太郎は、南方の植物学には否定的であった。
 南方君は往々新聞などでは世界の植物界に巨大な足跡を印した大植物学者だとかかれまた世人の多くもそう信じているようだが、実は同君は大なる文学者でこそあったが決して大なる植物学者では無かった。植物ことに粘菌についてはそれはかなり研究せられたことはあったようだが、しからばそれについて刊行された一の成書かあるいは論文があるかというと私はまったくそれが存在しているかを知らない。
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 南方君が不断あまり邦文では書かずその代りこれを欧文でつづり、断えず西洋で我が文章を発表しつつあったという人があり、また英国発行のNature誌へも頻々と書かれつつあったというようにいう人もある。按ずるに原文で何かを書いて向こうの雑誌へ投書し発表した事は、同君が英国にいられたずっと昔には無論必ずあった事でもあったろうが、しかし今日に至るまで断えずそれを実行しつつ来たという事実は果たして真乎、果たして証拠立てられ得る乎。
 南方がかつて知人を介してある植物の名称を牧野に尋ねたことがあったから、自分は南方の師であるという。」(鶴見和子 前褐書P.64〜65)
 さらに、「アカデミーの学者が、南方をどのように評価していたかをしるための一つのよい見本といえよう。」と鶴見和子は書きます。ひょっとすると松村任三にも在野の研究者に対し、同様な偏見と誤解があった可能性もあります。
 松村は、岡村金太郎から熊楠の神社合祀反対運動を伝え聞いて、協力を約束したにもかかわらず動かなかったのには、上記のような事情のほかに、本草学者伊藤圭介をはじめ熊楠をも含めて、近代植物学を正規に学んでいない研究者たちを認めたくないという気持ちが、牧野と同様に働いていたのかもしれません。
 松村の反応については、今までのように柳田からの一方的な視点ではなく、時代の制約を含め多面的に解釈をしていく必要があるのではないでしょうか。