すばる天文同好会

民衆の転向


民衆の転向――全般的転向論序説――

 

雑誌『思想の科学』1981年7月号(No.5)

 これまでの転向論は、ごく一部の人たちの副次的関心としてのほかは、限られた人びとの世界内のことでしかなかった。この分野では、民衆の存在など考慮する必要などなかった。天候は知識人・順知識人の世界にだけ現象するとみなされているようである。良心的ジャーナリスト松浦総三は明石博隆とともに次のように書いている。

「知識人、宗教人は、天皇が火をつけた侵略戦争に対して、みずからの思想と信念によって判断し、便乗したり、屈服したり、転向したり、少数の人々は最後まで闘った。庶民は、そのようなみずからの思想や信念をもたなかった。」(『昭和特高弾圧史 五』十五頁 太平出版)

 私たちは、日常の暮らしの中にとっぷりと埋もれている民衆である。私たち民衆の世界には、転向など存在しえないのであろうか。民衆がなんらかの「思想」を支柱にしていないことをきめつけ、そのことで民衆は転向と無縁だとするのは性急すぎるのではないだろうか。もし、それが私たちにとって彼岸のものだとするのならば、私たち民衆には「思想」がないばかりか、なんらの運動さえもないということになりはしないか。

 かつての戦争でもっとも痛手をうけたのはいうまでもなく民衆である。民衆が戦争による犠牲をいっさい背負うことは、諸家の言をまつまでもないし、その実態の掘り起こし作業もしだいに進められてきている。だが、戦争による最大の被害者である民衆が、被害者であると同時に加害者であった側面は、これまで意識的に追及されることはなかった。

 五味川純平は、「われわれは、権力との関係では被害者であるけれども、侵略した国に対しては加害者なのですから、被害者でありながら加害者であるという二重構造をもった日本人は何であるのか」(『極限状況における人間』二三二頁 三一書房)と問いかけはするが、民衆が自分自身をふくむ情況にたいしては、「私生活では、隣組組織が表向きは協力体制として、内実は個人の思想信条・生活感情の隅々にまで行きわたる相互監視体制として猛威をふるった。」と述べるにとどまっている。

 民衆同士は、相互に監視しあっていたのみならず、相互に権力の底辺における強制力としてむきあい、作用しあっていたのである。秋元律郎は『戦争と民衆』(学陽書房)においてこの点に言及している。

「『国策井戸端会議』としての町内会、隣組常会をとおして伝えられるお上の声は絶対であり、これに逆らうものには、あるときは居丈高に、またあるときんは陰湿な集団の圧力で脅しがかけられていく。」(五六頁)

 隣組は町内会、町内会は各地方「自治体」へ、そしてそれらはさらに国家=天皇へと収斂している。隣組あるいは町内会は見えざる多数として、またそれを代表するものとして私たちの前にたちはだかる。ひとは孤立をおそれるものである。日本には伝統的な地域的刑罰として“村八分”があるではないか。「個人はなんらかの小集団に所属しない限り、市民権がえられないということになる。・・・・したがって、日本人にとって一番きびしい制裁は『仲間はずれ』である。」(『タテ社会の力学』三六頁 講談社現代新書)と中根千枝は断言している。吉本隆明が、「大衆からの孤立(感)」が転向の「最大の条件」(『吉本隆明著作集 13』十頁 勁草書房)とし、作家の松本清張も「『転向』をただ権力による弾圧の恐怖だけで捉えてはならない。」むしろ、「孤絶の中で、民衆から取り残される不安感」のほうが「案外、外的な条件よりもはるかに大きいかもしれない」(『北の詩人』三九頁および四五頁 中央公論社)というのもうなずけるのである。

 このように、民衆は相互に強制しあいながら戦時状況をつくりつつ、自ら転向の途をきりひらいた。しかし、私は民衆の転向の前提として、雰囲気も暴力であるということがいえるのではないかと思う。すると、「大衆からの孤立(感)」さえも「外的な条件」としてみなしうるし、「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」(『共同研究 転向 上巻』五頁 平凡社、および『鶴見俊輔著作集 2』七頁 筑摩書房)という転向の定義にも合致する。

 雰囲気も暴力であるとするならば、交通手段のすべてを掌握していた天皇制権力の情報操作もまた、民衆の転向に対して重大な力をおよぼしている。社会的雰囲気作りとして、「情念の組織化」がはかられ、文化人・知識人の大部分がそれに動員されたのは周知のことである。

 雰囲気による暴力に関して、私事ではあるあるがいくつかの例がある。私の二人の子供が通っている保育園では、ボーナス時期になると、職員の臨時手当の寄付を募ってくる。カンパ袋を子供たちにもたせてよこし、一口千円以上と額も最低限が指定されている。子供がかわいくない親がどこにあるだろうか。寄付は毎回順調に集まっている。

 また、四月二九日、わたしが家にやすんでいると、五歳になる長男が、「今日は偉い人の誕生日なんでしょう」という。おどろいていったいだれにそんなことを教えられたのかを訊いた。彼の答えは、「保育園の先生がおしえてくれた」である。わたしはたまりかねて、「冗談じゃない。今日が誕生日だというその人は、大勢の人が死んだ戦争の一番の責任者だよ」といいきかせた。すると、そのやりとりを聞いていた妻が、「そんなことを教えてはだめ」という。子供が保育園でそのとおりに話して、保母さんたちや父兄の耳にはいりでもしたらまずいということらしい。これらの事例は、民衆の転向に対して積極的にとりくもうとしている安田武のいう「同質化された状況からの無言の強制力」(『共同研究 転向 改訂増補 下』四三頁)のごく身近なものである。


 転向が、思想家にとって研究の対象とならなかった理由として、鶴見は以下の三点をあげている。

  1. 転向をとりあげることの不快

厳密な意味で学問的な研究をすることの困難

転向研究を無意味とする評価

    (『共同研究 転向 上巻』一頁および『鶴見俊輔著作集 2』三頁)

 しかし、民衆の転向をとらえる場合、それだけではすまない困難がある。

a資料面

 記事として民衆の転向を追いかけられるものがない。まえにもふれたように、民衆は自分の思想や観念を記録して残すということはしなかったせいである。無名戦士の手記や、戦没農民兵士の声など民衆の声の発掘作業がなされているが、これらは名もない個人としての、民衆の成長や変化を系統的にとらえうるものではない。また、それはcの意味にもおいても、手記や手紙を書いた人間がその時、どの地点にいて考え、書いたのかの判定が難しい。

 現在になって、人びとの過去の聞きとりをしたとしても、それは後の体験によって潤色されているとみなさなければいけないし、綴方などにあらわれた文章は読み手を想定して書かれていることはいなめない。

b時間

 民衆の転向は、大きな時間的振幅をもって、ひとつの方向からもう一方へと揺すられているので、しかもそれはなし崩しに進められたために区切りがないようにさえみえる。五味川はいう。「だからわれわれの戦争体験は、多かれ少なかれ転向体験と切り離しがたく結びついている。しかもその転向たるや、必ずしも権力による直接的であらわな強制を経由しなくてもよかった静かな、なし崩し的に、いつとはなしに転向が完了するといった形態のほうが、むしろ一般的だったようである。」(前掲書 八四頁)「日華事変」により、中国侵略のための戦争が開始された。一九三七年に「国民精神総動員要綱」がだされ、三八ねん「国家総動員法」公布、四〇年には大政翼賛会が発足する。この時期に、町内会・部落会・隣組の整備も完了する。また、民衆に対する特高の弾圧も三七年から本格的に開始された。

 菊地邦作の『徴兵忌避の研究』にはあいにく三六年までの統計しか載っていないが、一九三一年〜三二年あたりから逃亡者、徴兵忌避者が激減している。それはたしかに、「合法的手段による徴兵忌避の途が縮小または閉鎖された結果」であろう。同時にそれは、民衆の転向が、先にあげた権力による社会手情況に強制されて、かなり成熟してきたことのあらわれでもある。

c不徹底

 民衆には、不安定な、情況に応じて動揺しやすい面がある。その場その場で、民衆はちがった相貌をみせる。力に対しては、たやすく屈服するが、いったん解放されると逆に攻撃をする。情がからめば不合理さえ甘んじる。民衆ひとりひとりがバラバラなだけでなく、一人の人間が、その時々によってバラバラなのである。そして、あいまいなまま組織化され、押し流されていく。この論理的一貫性に欠ける点が、一部の良心的な人たちにさえ、民衆には思想や信念がないといわしめている。


 民衆の転向は、精神面、日常生活とあらゆる分野にわたっておしすすめられざるをえない。民衆自身がみずから、なし崩しに軍国主義との距離をつめていった。そこには、あらゆる形態の転向の“原型”がある。そして、民衆の転向により、日本軍国主義はその主体的条件をととのえ、すべての力を全面的に侵略の方向へ向けることが可能になった。

 このような、民衆の全般的な転向減少を突き詰める作業が進めば、今日の反動傾向に対する、民衆の抵抗の基盤を築くことがより容易になるのではないだろうか。

 民衆の転向の不徹底性、動揺性は、逆にいうならば、これ以上はもうゆずれないというぎりぎりの線のせめぎあいであろう。重要なことは、いかなる転向情況をも敏感に察知し、それに対抗しうる情況をこちら側で創り出すことである。