何 を 話 そ う か

時々エッセイ





宮澤賢治 星めぐりの歌

    『あまちゃん』の挿入曲「星めぐりの歌」

                            川口 和彦

エリアマガジン『ビバジョイフル 2013年11月号』

 大好評のうちに、NHK朝の連続小説『あまちゃん』が、9月に終了しました。オープニングのテーマ曲は明るく軽快で、被災地はもとより多くの人たちに、朝の元気を届けてくれました。

 ドラマの中で、たびたび背景に流れていた印象的な曲があります。『あまちゃん』ではメロディーのみでしたが、昨年8月に公開された映画『あなたへ』の中では、女優の田中裕子さんが本来の歌詞をつけて沁みとおるように歌っています。

 「あかいめだまのさそり/広げた鷲のつばさ

  あをいめだまの小いぬ/ひかりのへびのとぐろ・・・・」

  それは、宮澤賢治が作詞作曲した「星めぐりの歌」です。「あかいめだま」と「あおいめだま」が対句になっていますが、これは夏の星座さそり座にある1等星アンタレスと、冬のおおいぬ座の1等星シリウスです。そして鷲は彦星アルタイルのあるわし座のことです。

 歌詞の一番は、このように夏と冬の星空をめぐり、二番は秋と春の星々を歌っています。その幻想的な歌詞が、単調で親しみやすいメロディーとともに心に残る作品です。


 「星めぐりの歌」を聴くと、かつて花巻でお会いした賢治の弟である宮澤清六さんの柔和な笑顔が思い出されます。 

 1990年9月、岩手県花巻市で開催された「宮沢賢治学会 イーハトーブセンター」の設立総会に、清六さんは86歳という高齢にもかかわらず出席されていました。

 その後、毎年楽しい年賀状をいただいていました。とても茶目っ気のあるお人柄で、私製(印刷)のものがなくなったからと手書きの賀状が届いたときには、思わず吹き出してしまいました。酉年だったので鶏の図柄のスタンプが押されていたのですが、それが逆さまになってしまっていました。そして隅のほうには、窮屈そうに「宇宙で逆回転」と書き込みがあったのです。清六さんが賀状を書いた年は、毛利衛さんがスペースシャトル・エンデバーで宇宙飛行したことが話題になっていたので、それにかけた言い訳なのかもしれません。

 清六さんの肉声を、賢治作品の紹介のカセットテープで中で聞くことができます。収録されている詩「春と修羅」、「原体剣舞連」の朗々とした朗読を聞くと、きっと、兄賢治が清六さんにこのように朗読して聞かせたのだろうかと、胸が熱くなります。

 今年は賢治没後80年に当たります。妻と二人で毎年のように訪れた岩手山をはじめ賢治ゆかりの場所とともに、清六さんの笑顔が懐かしくよみがえります。












さとう宗幸 岩尾別旅情

     惜別の歌「岩尾別旅情」

                             川口 和彦



さとう宗幸といえば、「青葉城恋歌」を思い浮かべることだろう。しかしデビュー曲「岩尾別旅情」を知っている人は少ない。北海道知床のユースホステルを訪れたときに作った歌で、隠れた名曲である。

 私は二十年ほど前に山登りを始めた。きっかけとなったのは、仕事でお付き合いしていた、水戸市在住のラーメン店主F氏のお誘いからだった。F氏は私よりもいくつか年長で、独身のまま山にだけ生きているというような人だった。

 長いこと憧れだった尾瀬に夫婦で案内してもらい、その後も百名山と称される山々を一緒させていただいた。初めて雲海を上から眺めたのは、中央アルプスの木曽駒ケ岳から宝剣岳に登ったときだった。仰ぐ空は、空気が薄いために黒くさえ見えるほどの蒼。一生高山などとは無縁だとあきらめていた私にとって、そのときの感動は一生忘れることができない。 

 山登りの指導をいただいて数年した頃、F氏が「直腸癌なんだ。手術しないといけない。」と連絡してきた。精神的にもかなり落ち込み、「もう山には登れないのかな」などと弱音を吐くようになっていた。

 直腸癌の手術というと、直腸の切除とバイパス手術を思い浮かべ、よくても二度と山登りはできないだろう。そのときはF氏の死をさえ覚悟した。

 手術の一週間ほど前仲間たちとともに、F氏にあまり負担がかからないようにと、近場の筑波山に登る計画をした。F氏は、検査入院などを繰り返して体力も相当落ちているはずだったが、周囲の気遣いに反し、登りも下りも私たちをしのぐ強健振りを発揮したのだった。

 しかし、この山行はF氏にとって最後になるかもしれないと思うと、涙をこらえることができなかった。私は、「岩尾別旅情」を無意識に口ずさんでいた。

 「友と語る知床の岩尾別の宿よ/静かに雨降る夜の想い出はもう消えぬ

 ランプを見つめ彼の友と旅の情け歌えば/暗い夜の谷間にそっと麗しく流れ行く」

 幸い手術はうまくゆき、F氏はその後も大好きな山に登り続けた。

 仕事の都合で単身茨城を離れ、F氏とも疎遠になっていた私の元へ、昨年の春突然メールが届いた。それは私を大変驚かせた。「再び発病した。店を閉めて札幌の実家に帰り療養する。」という内容のものだった。

 半年の後、妻と娘を伴いF氏を札幌に訪ねた。迎えてくれたF氏は、山登りで磨り減ってしまったひざの半月板の手術をしたばかりにもかかわらず、片足を引きずりながら札幌の街を案内してくれた。元気そうに見えるが、山登り現役時代の頑強さは失われ、癌との戦いに消耗しているのが明らかだった。

 あの日、札幌で笑顔で別れてきたF氏は、これまで登った山々の夢を見ながら、またこれから登ることを期していた山々を胸に描きながら、今も病と闘い続けている。札幌はそろそろ雪化粧を急ぐのだろう。

2013年10月