深夜、倫子はバサッという大きな物音で目が覚めた。雨戸になにか大きな物が当たったらしい。遠くで落雷の音もする。
うつらうつらしながら、この嵐はいつまで続くのだろうと考えていた倫子は、ふと雨風以外の音がすることに気が付いた。それは…低く押し殺した、人間のうめき声だった。
飛び起きて隣を見ると、直江が体を丸め、息を殺して苦しんでいる。
倫子はあわてて電気をつけた――が、部屋は暗いままだ。
「まさか…」
深夜の停電だ。こんなときに限って…。
倫子は、はっと気付くと電話機に飛びついた。しかし電源が入っていることを示すランプが消えている。電話が使えないのではどこにも連絡ができない。
「ううっ!」
激痛が襲ったのか、直江が大きな唸り声を上げた。
倫子は焦った。パニックを起こしてしまいそうになる自分がいる。
「落ち着いて、落ち着いて…そうだ!」
バックを掴んで中身をぶちまけると、その中から携帯電話を取り上げて、震える指で病院へダイヤルをした。
「通じない…どうして?」
ディスプレイを見ると、圏外と表示されてしまっている。
携帯電話の中継所までが停電してしまっていることを、倫子は知らなかった。
「どうしよう」
苦しんでいる直江を前に倫子は呆然とした。
でも…このままにはして置けない、絶対にここで死なせてはいけないのだ。
直江が苦しい息の下から倫子を見た。倫子は元気付けるようにうなずく。
「…まて!」
倫子の決心を感じた直江は、やっとの思いで声を出し止めようとした。
だが、倫子はクルリと背を向けると制止を振り切るかのように、嵐の中に飛び出した。
横なぐりの雨は倫子を容赦なく攻撃し、あっという間にぬれねずみにした。
足元はぬるぬるしてひどく走りにくく、ついに足をとられて泥の中に転んでしまった。
「痛い!」
とっさに押さえたのはお腹だ。
「ゴメンね…」
倫子はお腹の子供にすまない気持ちでいっぱいになった。
「でもあなたのお父さんを助けるためなの」
ぬるりとした泥の中、やっと立ち上がると再び走り始めた。
100メートル先の大家の家まで5分かかった。
だが倫子にとってその道のりは、10キロも20キロもあったような、何時間も走ったような気がする。
やっとたどり着くと玄関の扉をたたいた。
「すいません!隣の直江です!!」
ガラスの玄関戸をたたく音と倫子の声は、風の音にかき消されていく。
倫子は負けまいと、扉を蹴破らんばかりの勢いでたたき続けた。
「すいません!助けてください!お願いします!!」
静まり返った家の中からは、誰も出てくる気配はない。こんな深夜に、しかも台風の夜なのに誰もいないのだろうか?
(もうダメ!)
倫子が絶望感でいっぱいとなった瞬間、
「どうかしました?」
寝ぼけたような暢気な声が聞こえてきた。
大家だ!
「となりの直江です! 主人が…主人が…」
雨にぬれた唇は凍ったようにこわばり、口がうまく回らない。
ガラリと扉が開くと、倫子の姿を見た大家の主人は目を丸くした。
「いったいどうしたんです、奥さん」
全身泥だらけになった倫子、しかもその足は裸足だった。
「主人が急に具合が悪くなって…でも停電で電話が通じないんです」
倫子は必死の思いで大家を見た。
「お願いです。主人を病院へ連れて行って!」
そう叫んだ瞬間、明かりがパッとついた。
停電が終わった…。
大家は慌てて玄関にある電話の受話器をとると救急車の手配をはじめた。
倫子は気が抜けてその場に座り込んだ。