深夜の病院、倫子は泥だらけのまま放心状態で、意識なく横たわる直江を見ていた。
「奥さん、そんな格好じゃ風邪をひきますよ。」
そんな状態をみかねた年配の看護婦が、タオルと着替えを持ってきてくれたが、倫子はただ黙ってそれを受け取るだけだった。
「さあ、こっちで着替えて少し休みましょう」
優しく声を掛けられ、そっと肩に乗せられた手を振り払うと、倫子は首を大きく横に振って背を向けた。
「お母さんがぬれたままじゃ、お腹の赤ちゃんがかわいそうよ。きっと赤ちゃんも寒がっているわ」
――自分には、何の感覚もないけれど、子供は寒がっているのだろうか。
「あなたと赤ちゃんになにかあったら、ご主人が気付かれたとき驚いてしまうでしょ」
――直江が、もう一度自分を見てくれることはあるんだろうか?
あの時、直江がなんと言おうと、病院へ行くべきだったのだ。倫子は自分を責めた。
「志村君!」
聞き覚えのある声に倫子は振り向いた。
「小橋先生!」
その後ろから七瀬もやってきた。
「すまなかったね、台風で通行止めになってしまって、すっかり遅くなってしまった」
2人の姿をみて、倫子の表情がやっと動いた。
「どうして急変したんですか?」
七瀬と小橋は、まるでこうなることを知っていたかのように、顔を見合わせた。
「さあ、僕らがくれば安心だよ。少し休みなさい」
「小橋先生!」
倫子は食い下がった。
「直江先生は、君とお腹の赤ちゃんのことを一番気にしていた。今、君に出来ることは側にいることじゃない、赤ちゃんのためにも休みことだ。」
七瀬も、小橋も、先ほどの看護婦も、誰も倫子の欲しい答えを言ってはくれない。
――皆、何かを隠している。ごまかそうとしている。
「どうして!」
私には何も教えてくれないの? そう叫ぼうとした瞬間、倫子は下腹部に、鈍い痛みを感じて座り込んだ。倫子の足元に、赤いものを見た小橋があわてて駆け寄る。
「出血している!」
小橋は素早く抱きあげると、廊下にあったストレッチャ−にのせた。
「産婦人科に連絡だ!」
七瀬は叫ぶと、看護婦とともに医局へと走っていった。
残された小橋は、蒼ざめた顔で横たわる直江と倫子をみて、途方にくれた。
「倫子、倫子!」
遠くで自分を呼ぶ声がする…すごく苦しくて、痛くて、まるで自分の体じゃないみたいだ。
「倫子、わかる?」
体を揺さぶられて目を開けると、心配そうにのぞき込む母、清美の姿があった。
東京にいるはずの母がどうしてここにいるんだろう。ああ、それよりも…。
「直江先生…直江先生は? 」
苦しい息の下、倫子は清美に尋ねた。
「こんなになっても、自分より直江先生なのね…」
清美は涙ぐんだ。
「あなたは早産しかかってるのよ…?」
「早産…?」
直江先生と私の赤ちゃん。ダメになってしまうんだろうか…
「お母さん!」
倫子は清美の腕にすがりついた。痛みが波のように押し寄せてくる。
「倫子…倫子しっかりしなさい!」
(先生、どうしよう…助けて!)
倫子は心の中で叫んでいた。