小橋が突然訪問してきたその夜も、倫子は、いつものように直江の寝床の隣に、自分の布団を敷いた。直江の隣に自分の枕を並べる…そんな些細なことでさえ、倫子は嬉しかった。
まだ、10時少し前、寝るにはまだ早い時間だ。倫子は縫いかけの直江の浴衣を取り出すと、続きをはじめた。入院中、ふとした思い付きで縫った浴衣を、直江はすっかり気に入ってしまって、以来そればかり着ている。そろそろ新しいのを仕上げなければ…せっせと針を動かす倫子は、ふと自分を見つめる視線に気付いた。
「どうかしました?」
「いや…」
直江は読んでいた洋書に視線を落とした。
「小橋先生と高木さん、やっと結婚式が決まったんですね。高木さんは小橋先生が忙しすぎていつになるかわからない、って気をもんでいたけど。」
倫子は針を持つ手を止めると、愛しげに自分のお腹をそっと撫ぜた。
「この子が予定通り出てきてくれればいけるかな、お式…」
本当に行ってきてもいいんですか?――と倫子が顔を上げると、直江の物言いたげな瞳がそこにあった。
「君は…いいのか?」
「先生がいいとおっしゃるなら出席したいんですけど」
「そうではなくて…君は式をしたいとか…衣装を着たいとか…望みはないのか?」
とつとつと話す直江に、倫子は一瞬きょとんとしたが、言いたいことがわかるとけらけらと笑い出した。
「先生、そんなこと気にしていたんですか?」
「そんなことって…君」
倫子にあっさり笑い飛ばされてしまって、直江は珍しく言いよどんだ。
「私は今のままで充分です。それに…」
倫子はいたずらな瞳で直江を見た。
「先生がタキシード着てる姿なんて想像できないもの」
直江は黙っておもわず苦笑いした。
「ああ…でも、ひとつだけあります、お願いが」
「何?」
「ボート、乗せてくれるって約束したでしょ?」
「そうか?」
「忘れちゃったんですか?」
忘れるはずがない――心の隅でずっと生きていた約束だ。だが直江は静かに笑ったまま、肯定も否定もしなかった。
「そういえば、先生の誕生日には、私がボートに乗せてあげる約束でしたね。」
「そうだな」
「8月9日の誕生日は、ボートに乗るなんて無理だったけど…」
倫子は笑って直江に言った。
「春になったら乗せてください、先生がダメなら私が漕ぎますから」
「ん?」
「支笏湖…北海道は無理かなあ、子供もまだ小さいし…じゃあ、江戸川ですね」
「わざわざ、江戸川まで行くのか?」
「リベンジはお約束の場所でお願いします」
倫子はおどけて頭を下げる。
「そうだな…」
「今度こそ…約束ですよ!」
倫子の顔から笑顔が消え、必死な表情になった。
直江が春まで生きる、一緒にボートに乗る。
倫子はひそかに願いをかけた。
(神様、今度こそ直江先生とボートに乗れますように)
生まれてくる子供と3人でボートに乗る――その日が来るためだったら、自分はなんでもするだろう。
「春になったら!」
倫子は声高く言った。
「春になったら…」
直江は心の中でそっとため息をついた。
「春になったら…」
静かに口の中で繰り返す。
直江が寂しげな笑みを浮かべたことを、倫子は知るよしもなかった。く