直江は倫子の腕にベルトを巻くと、真剣な表情で血圧を測り始める。
その姿は、以前患者に接した態度と、まったく変りはなかった。
「直江先生は、死ぬまで医者でありたい…そう言っていたんだ」
札幌の病院で、小橋から聞いた言葉を、倫子は思い出した。
直江は死ぬまで医者で居たかった。では、自分はその道を曲げてしまったのだろうか。
今は病に臥すばかりとなってしまった直江の気持ちを考えると、倫子の胸は痛んだ。
「血圧少し高めだな…昨日の検診で、医者から何か言われたろう?」
確かに、血圧が高いのでくれぐれも注意するように言われたが、直江には黙っていた。
疲れから来るものだといわれたので。余計に言いたくなかったのだ。
「血圧が高ければ、妊娠中毒症にもなりかねないんだ、気をつけろ!」
直江のいつになくキツイ口調に、倫子は肩をすくめた。
妊娠中毒症の恐ろしさは、看護婦である倫子も充分知っている。
でも、今はどうしても自分のことより、直江のことを優先させてしまう。
そうしてしまう倫子の気持ちは、直江にも良くわかっていた。
しょんぼりしている倫子をみて、直江は表情を和らげた。
「今は大事な時期だ。とにかく…無理はするな」
倫子の肩を優しく抱き寄せた。
「ハイ」
直江の腕の中で倫子も素直にうなずいた。
「ごめんくださーい」
玄関の方で男性の声がした。
誰が来たのだろう?ここに住んでいることはほんの身の回りの人しか知らないはずなのに。
「はい、お待ちください」
倫子が玄関にいくとそこにはハンカチで汗をぬぐう小橋の姿があった。
「突然すまないね」
そういうと小橋はにっこりと笑った。
「今日はこれを見ていただきたくてお邪魔しました」
直江の枕元にきちんと正座した小橋は、かばんから冊子を取り出した。
「これは?」
「今週末から松本で血液内科の学会があります。そこで、七瀬先生に協力していただいてフロノスの治験データだけでも発表したいと思いまして、これを…」
直江は、小橋から渡された論文集のページを開いた。
「フロンティア製薬も、来年にはフロノスを一般販売する方向に動いています。そのためにも、学会で報告しておいた方がよいということになりまして」
それだけではない。直江が存命中に、ぜひとも研究結果として形にしたかったのだ。
「私の名前…」
直江は、発表者の筆頭に自分の名前があることに気付いた。論文は――研究者・直江庸介、共同研究者・小橋俊之――となっている。
「これではいけない、これを作成したのはあなたじゃないですか」
直江は驚いて小橋を見た。
「フロノスのデータは、あなたに託したのです。これはあなたの論文だ」
「直江先生のデータをもとに作った論文です。僕は、お借りした資料を使ってまとめただけだ。
今日はこれをあなたの論文として発表することを、承諾していただきたくて来たのです」
きっぱりと小橋は言い切った。
「直江先生のかわりに僕が発表するのでは、役不足かもしれませんが…」
「とんでもない、非の打ち所のない論文だ、しかし…」
直江は力なく首を振る。
「先生、僕は直江先生が命をかけて作り上げたデータを、多くの医者に見て欲しい。そして、この病に苦しむすべての人に役立てたいとあなたが願っていることを、知って欲しいのです。」
小橋は直江の痩せた手を握った。
「誰もが出来ることではない。先生、私はあなたという医者がいたということを一人でも多くの人に…」
覚えていて欲しい…そういいかけて小橋は言葉に詰まった。それでは、直江が余命幾ばくもない、といっているようなものではないか。
だが、直江は小橋の言いたいことをさとった。小橋の自分に対する思いやりが嬉しかった。
「わかりました。小橋先生にお任せします」
というと、小橋が今までに見たことがない極上の笑顔を見せた。