さわやかな心地いい風が、倫子の頬をそっと撫ぜた。
2人を乗せたボートは、川面をすべるように走って行く。
「気持ちいい…このままずっと2人でこうしていたいな」
「それは…ダメだ…」
直江は、すこし顔を曇らせた。
「えっ!?」
「君にはまだやるべきことがあるだろう」
「やるべきこと?」
倫子はぼんやりと聞き返した。
私のやるべきことって、なんだろう?
倫子は記憶をさかのぼってみたが、ある地点まで行くと白い霧のようなものが邪魔して、それをどうしても思い出すことが出来なかった。
ゆるゆると川を下ると、やがてタンポポのたくさん咲く岸辺が見えてきた。直江はその岸にボートをつけると、先にボートを降り、倫子に手を差し伸べた。
「さあ、」
倫子は、このままボートに乗っていたかったが、直江に手をとられ、しかたなくボートから降りた。
いつの間にか日が暮れようとしている。
倫子は、降り立った場所を見て、不思議な感情に包まれた。
この場所…いつか来たことがある、いつだったろう…。
「先生?」
どうして、こんなところで降りたのだろう…いぶかしげに見ると、直江は優しく笑って倫子を抱きしめた。
「僕はいつでも、君と一緒にいる…君の側にいるから…」
「!?」
あの夜、直江と過ごした支笏湖で、この言葉を確かに聞いた。
倫子はすべてを思い出した。
今が3月ではないことも、子供を産んだことも、そして直江が…
「いいね、それを忘れないで…」
倫子の顔を覗き込むと、直江は静かに倫子の手を握った。
その手は氷のように冷たかった。
「先生!?」
「頼んだよ」
というと、直江は倫子から離れていった。少しずつ、少しずつ。
ゆっくり、ゆっくりと倫子から遠ざかっていく。
「先生…先生!」
後を追いかけようとしたが足がピタリと動かない。倫子はその場に倒れ、膝まずいた。
「先生、待って!」
支笏湖で死のうとした直江を倫子は止めた。でも、そのことによって直江は不本意な死を選ぶことになってしまったのではないだろうか? 自分のせいで…
それで本当によかったのだろうか――倫子の胸は、直江にすまない気持ちでいっぱいになった。
「先生!ごめんなさい!ごめんなさい!」
倫子は力の限り、直江に届くよう、精一杯の声を張り上げて謝るしかなかった。
自分は、直江の医者としての生涯を台無しにしてしまったのだろうか…倫子が後悔したその時。
直江が立ち止まり、クルリと振り向くと満面の笑顔を見せた。
それは今まで倫子が見た中で、一番美しく幸せそうな直江の笑顔だ。
「ありがとう!」
それが、倫子の聞いた、直江の最期の言葉だった。
直江は、ボートに戻ると、オールを手に取った。
ボートは、静かにゆっくりと岸を離れていく。
倫子の見間違えでなければ、流れるボートの行く手には確かに、雪の風不死岳に抱かれた支笏湖が広がっていた。