「こんなところで寝ていると風邪を引く」
直江の声に倫子は目が覚めた。
起き上がると、いつもの河原だった。
うたた寝をしてしまったらしい。それにしては、長い夢を見ていた気がするけど。
風邪を引いてしまったのか、頭が薄く痛み、霧がかかったようにぼんやりとしている。
直江はいつもの黒いコート姿で、ゆっくりと歩き始めた。
「待ってください!」
倫子もあわてて、手元にあったバックをたすきがけにすると、パタパタとその後を追った。
3月とは思えないほどの暖かい日だった。
土手の道を、直江が…その後を少し遅れて倫子が歩く。
空はどこまでも高く青く、ホコリっぽい土の――春の香りがどこからか流れてきて、鼻をくすぐる。
「もうすぐ春ですねェ」
「そうだな…」
倫子が話し掛けると、直江はにっこりと笑い倫子の手をそっと握った。
嬉しくなって直江の腕につかまると、2人はならんで河原を歩き始めた。
しばらく歩くとボート乗り場が見えてきた。
「先生、ボート!」
倫子は走り出すと、直江を手招きした。
「乗りましょうよ!」
今日みたいな日は絶好のボート日和だ。風もなく水面は穏やかだった。
1曹のボートを出してもらう。
「あれ、これ7番ボートですよ!」
先に乗り込んだ倫子は、ボートの縁を覗き込むと、はしゃいだ声を上げる。
直江の漕ぐボートは、水面を滑るように走り始めた。
「先生、やっぱり漕ぐの上手じゃないですか」
倫子は感心していった。
「なかなか乗せてもらえないから、本当はボートに乗れないのかと思っちゃいました」
「ははっ!」
おどけて言う倫子に、直江は声を出して笑った。
先生が声を出して笑うのを、はじめて聞いたわ――倫子は、ちょっと目を丸くした。
そういえば、直江にピタリと張り付いていた影のようなものが、今日は不思議なほど見られない。
(こんな気持ちのいい日だもの…)
こういう日があってもいいよな、と倫子は思った。
ボートは緩やかに川を進んでいく。
3月にしては驚くほど暖かい…と、そこまで考えて倫子はふと気付いた。
今は、ほんとうに3月なのだろうかと…。
「倫子」
いきなり名前を呼ばれて、倫子はびくっとした。
「ハイ?」
「君は本当によかったのか?」
「何がですか?」
「僕を愛して、幸せだったのだろうか」
突然こんなこと聞いてくるなんて、直江らしくなかった。
「何言ってるんですか、あたりまえじゃないですか!」
そうか…と直江はほっとした様子だった。
「私は幸せ、すごく幸せです。」
倫子は歌うようにいった。いつもなら聞けない照れくさい言葉も、今日なら言える気がする。
「先生は? 幸せですか、私を愛して…」
「ああ…」
直江はまっすぐ倫子を見た。
「幸せだ…」
倫子は天にも上る気持ちで空を仰いだ。雲までピカピカと輝いて見える。
やっとかなった約束に、倫子は酔いしれていた。