「志村さん、今日の夜、時間を取ってもらってもいいですか?」
通院でのリハビリが1ヶ月ほど経った、八木からの誘いだった。
静かな小料理屋で八木と待ち合わせをした。ようすけも連れて行こうかと思ったが、母の清美が、『この子が食べられるものがないんじゃないの?』と反対した。
「ようすけくんは、大丈夫だったんですか?」
「ええ、母が見てくれてますから。」
「突然誘ってしまって申し訳なかったです。聞きたいことがあったものですから。あの・・・。」
いつもの八木らしくない歯切れの悪い問いかけだった。
「どうして、『ようすけ』と名づけたんですか。」
思いもよらなかった問いかけに、倫子はきょとんとしてしまった。
「あの、悪いとは思ったんですが。神崎先生や婦長さん達から聞きだしてしまったんです。直江先生・・・、直江庸介さんと志村さんのこと。すいません。」
なぜ八木がそんなことを、という思いは浮かんでこなかった。それよりも逆にどうして今までその問いを受けたことがなかったのか不思議になった。みんな、聞きづらかったことなのだろうか?
「名前を継がせたいと、思われたんですか?」
八木がバツが悪そうにこちらを見つめている。
「ふふふ。いいえ、全然。ん〜〜。ふふっ、ただ、『ようすけ』って良い名前だなぁって、そう思って。
直江先生が亡くなって、お葬式の席でお母様とお姉さまにお目にかかったんですけど、その時に『ようすけが、ようすけが』ってお話されるのを聞いていて、気づいたんです。先生って『庸介』っていうんだなぁって。私、ずっと『先生、先生』って呼んでいたから。そんな素敵な名前だったんだなぁって。
だから、あの子が生まれた時、本当に単純に良い名前だから付けたいなぁって。私にとって陽だまりのような宝物のような存在だから、陽だまりの『陽』って漢字を使って『陽介』って。だから、名前を継がせようなんて、全然、思ったことも無いですよ。私にとって、『ようすけ』はあの子のことだし、あの人のことは、きっとずっと『先生』です。」
そう話しながら、直江も『倫子』とは一度も呼ばなかったことを思い出した。ただ、あの時を除いては・・・。
「すいません。憶測でとんでもなく失礼でした。でも、興味本位で聞いたわけではないんです。本当に申し訳ない。」
「いいえ〜。そういえば、そうですよね。・・・うん。変ですよね、お父さんと同じ名前だなんて。大きくなったら、きっとあの子も変に思うでしょうね。ふふ。」
大柄な八木がやけに小さくなって、倫子をみつめていた。
「そんなに恐縮しないでください。全然、気にしてませんよ。全然。大丈夫ですよ。」
倫子はいつものように屈託なく笑って見せた。
「大丈夫・・・、か。あなたはいつもそう言ってくれましたね。」
「え?」
「リハビリが上手くいかずいらいらしていた時、もう、いっそあきらめてしまおうかと思っていたとき、きまってあなたは『大丈夫ですよ』と言ってくれた。ほかの人は『頑張れ』そう言ったのに。・・・なぜ、ですか?」
「受け売り・・・、なんです。直江先生の。『言われなくても、患者さんはみんな頑張っている』って。だからです。そうなんですよね、患者さんはみ〜んな頑張っている。言われなくたって病気や怪我に負けまいといつだって頑張っているんです。・・・当たり前のこと、でも、とっても大切なこと、先生が私に教えてくれました。」
穏やかな顔で『大丈夫ですよ』そう言えた直江が、倫子には誇りでもあった。
「そんなことないですよ。」
「え?」
「頑張れないことも、時もある。頑張らないこと、あきらめてしまうことで救いを得ることだってあるんです。自分が絶望の中に飲み込まれそうなときは、いっそ、先に自分からその中に入ってしまいたくなる。でも、僕がそうしなかったのは、あなたの温かい笑顔があったからです。
『大丈夫ですよ』でも『頑張って』でも、どんな言葉だって、きっと良かった。振り向いたとき、いつも変わらず微笑んで見守っていてくれた。そういう存在が支えになるんです。そういう存在がある患者だけが、頑張っていられる。あなたのいう直江先生は、きっと全ての患者さんの支えになっていたんでしょう。だから、彼が出会う患者はいつも頑張っていた。彼を信じ、希望を信じていられたから。」
「八木さん・・・。」
「すてきな人だったんでしょうね。到底太刀打ちできそうにない。それに、あなたの中では今も変わらず生き続けているんですね。うれしそうに、愛しそうに彼のことを話される。」
「うれしそう・・・。」
「ええ、とっても。・・・はは、実は、田舎に帰ろうかなと思ってるんです。新潟。確か、志村さんもでしたね。両親のところで、心配もたくさんさせたし、しばらく厄介になろうかなって。日常生活に支障ないところまで、足も指も戻りましたし。でもね、いつかはまた、ルポやりたいんですよ。不幸中の幸いでカメラ扱う指は残ってくれたし。山にもね、登りたい。
『ついて来てもらえませんか?』そういうつもりで今日はお誘いしたんです。でも、返事は聞かなくてもわかりますから、言いません。って言ってしまいましたね。はぁ、間抜けですね。」
「そんなこと・・・。」
八木が、居ずまいを正して深く頭を下げた。そして、まっすぐに倫子をみつめた。
「本当にありがとうございました。あなたの笑顔が僕を支えてくれた。どんな言葉よりも励ましてくれた。あなたでなかったら、僕は自分の希望を投げ出していたかもしれない。僕の人生を救ってくれて、本当にありがとう。出会えてよかった。あなたの笑顔に出会えてよかった。」
倫子は、八木の顔を正視することができなかった。思い浮かんだのは、思いを馳せたのは、全く別の人だった。
「幸せに。その笑顔が絶えることがないように、ずっと、祈ってます。」
この三年間で自分は強くなったと、倫子は思っていた。目をそらさず、向き合えているのだと。だが、八木の言葉は、隠していた、目をそむけていた傷口を白く照らした。