その夜、母も陽介も寝静まってから、倫子はテレビの前に座った。
三年ぶりに手にしたビデオテープだった。支笏湖のパネルも、ガラスのボートも、ネックレスも日常に溶け込んでいた。胸をチクチクと刺すような感覚は、三年の間に消えた。だが、このビデオテープだけは、怖かった。傷口がまた、ぱっくりと開いてしまいそうで、怖かった。
深呼吸をし、再生ボタンを押した。
『いつか君が愛する人の子供を産んだ時。僕は笑顔で祝福を贈りたい』
「そうでしたね、陽介が生まれた日、先生は私にすてきな笑顔をくれましたね。先生は、私の笑顔を好きだと言ってくれたけど、私も、照れくさそうな先生の笑顔が大好きでした。ちゃんと、私には先生の笑顔、届きましたよ。だって、心から愛する人の子供を、私は産んだんだから。」
『君の笑顔が、倫子の笑顔が大好きだ。だから泣かないで。愛してる。』
涙が、幾筋も流れていた。
「やっぱり、まだ、まだ、泣かないで会うことはできないみたいです。先生・・・。」
傷口が開いたのか、かさぶたをはいでしまったのか、痛みが、倫子を襲った。
過去にできたら、傷口が癒え、かさぶたとなり、ケロイドの傷跡になったら、この痛みはなくなるのだろうか?痛みがなくなったら、過去になった、ということなのだろうか?『思い出』という名前に先生の存在を変えていけば、痛みもなく、傷跡さえ消えるのだろうか?
わからなかった。
でも、ひとつだけ、はっきりわかることがあった。
先生を、あのころと変わらず、愛してる。
三年も会っていなかったけれど、声も聞いていなかったけれど、ぬくもりも感じることはできないけれど、やっぱり、変わらず、先生を愛してる。
もうほんの何年かで、ビデオの中の先生を追い越してしまう。陽介だって、先生を追い越してしまう日がくる。
それだけの日々が過ぎたら、先生に笑って会えるようになるのだろうか?
やっぱり、わからない。
でも、はっきりわかることがある。
何度、痛みに直面し涙を流しても、私の笑顔は絶えることはない。
先生を失ってしまったことは消えないけれど、戻ってきてはくれないけれど、先生のあの笑顔はいつまでも、私を見守っていてくれるから。陽介と私を、見守っていてくれるから。だからまた、前を向いて歩いていける。
「そうですよね、先生。」
『ん、あぁ、そうだな。』
そう言ってくれた、そんな気がした。
終わり