307号室。倫子はその個室の前に立ち、少し深呼吸をした。
「おはようございます、八木さん。調子どうですか?」
「あぁ、志村さん、お帰りなさい。どうでした?北海道は。」
八木明仁、35歳、ルポライター。骨太ながっしりした体で、丸い顔の中には野太い眉と小さな目が印象的な、倫子が担当する患者である。
2ヶ月前、冬の北アルプス登頂中に8人編成チームの5名が落盤事故に遭い、2名が死亡、八木を含めた3名が重体となった。この事故と凍傷により、右手の小指、左手の薬指と小指、右足の親指以外の4指、そして左足の膝から下を、八木は失った。この行田病院には、義足の使用を含めたリハビリの為に転院してきていた。
「あっちはまだ冬景色でしょうね。こっちはもうすぐ春だけど。」
「そうなんですよ。雪もまだまだ積もっていて。でも、ようすけが雪の上ではしゃぎまわって楽しそうで良かったんですけどね。」
「そうか、ようすけくんは初めての雪だったのかな。」
八木はリハビリの合間に、病院内の保育所を覗くことがあり、そこでようすけとも仲良くなっていた。
「そういえば、神崎先生からお話があったそうですね。」
「あぁ、そうなんですよ。もう退院して、通院しながらのリハビリでもいいんじゃないかってね。」
「良かったですね。八木さんの頑張りはすごかったですから。」
「ええ、でも、志村さんに毎日会えなくなるのは寂しいかな。はは。」
「私も寂しいです。でも、会えなくなるってことは、元気になったってことなんですから、喜ばなくっちゃ。」
山男とは、こういう男なのだろうか。八木は厳しいリハビリにも愚痴一つ言わなかった。ああしたい、こうしたい、そういった未来への希望を語ることはなかったが、けして絶望の中にいるのではなく、来るべき時をじっと耐えて待つ、そういう忍耐を知っている男だった。
全ての患者との間に別れがある。けれど、八木のように困難を乗り越える強さを持った者との別れほど、うれしいことはない。看護士になって本当に良かったと思える瞬間だ。