1月22日
「あるんですね、冬でもたんぽぽ」
君はそう言って、はにかみながらたんぽぽを差し出した。
僕は黙って見ていた。ただ君を見ていた。
正直に言おう。君から目が離せなかったのだ。
胸元で握り締めるたんぽぽと君の笑顔が、イメージの中で重
なっていた。あまりにも重なっていた。
冬の陽だまりに、たんぽぽと君。
心が和むのを感じていた。
あの土手で君に遇うのはこれで二度目。一度目は君が看護婦
として病院に来る前だった。君は僕と遇ったことなど覚えては
いまい。あの時は拾い上げたミカンを誰かに放り投げていた。
その時のさわやかな記憶がなぜか今も僕の中に残っている。
僕の終わりはもうそこまで来ている。なのに、消え逝かんと
するこの時になって、僕の心が温もりを求め出している。
それは許されないこととわかっている。
わかっている……
「冬でもたんぽぽ」
それは希望なのか、それとも……
1月25日
君を食事に誘った。自分でも驚いている。
健気にがんばる君をいたわることが目的と言えば、そう言え
なくはない。しかし、本当のところはどうだったのか……。
純粋に、君との時間を持ちたい、一緒にいたい、という気持
ちが無意識とはいえあったのではないだろうか。自分でも気が
ついていなかった君への想い≠ェそうさせたのではないの
か?
「川とは友達なんです」
微笑みを浮かべ、君は恥かしそうに言った。少女のようだっ
た。
「川は涙を流してくれる。いつか悲しみを流してくれる」、だ
から泣きたい時には川に行くのだと言う。
もしかすると、同じような空気の中で同じように呼吸をして
きたのかもしれない、君と僕は。そして、君は僕の母と同じ強
さと優しさ、弱さを持った人なのかもしれない。
今日、君と一緒にいて、フト母のことを想いだしていた。
母は、あの時、静かで厳かな湖を前に肩を震わせていた。か
み殺すように一人慟哭の涙を流していた。幼き日に見たあの母
を今も忘れることはない。
中学生になった頃だったろうか。「あの日母は、湖に涙を流
しにいったのだ、悲しみを流しにいったのだ」とようやく気が
ついた。以来、僕にとって湖は、つらいことや悲しいことがあ
ると、それを流しにいくところになった。そう、いわば、僕の
心の叫びを黙って聞いてくれる僕にとっての友達になったのだ
った。
君は不思議な人だ……
君といると、春を感じ、川や湖を感じ、母を感じる
君は不思議な人だ……
僕の心に寄り添ってくる
1月28日
やはり君はいた。土手に座り川を見つめていた。
女優の看護で振り回されているのはわかっていた。でもそれ
が君の意志で行なっていることである以上、僕が口を挟むべき
ことではないと思っている。
「こんなことくらいで泣く自分が大嫌い。何もできない自分が
悔しい」と、君は涙を流して言った。
これで君の涙を見るのは二度目。一度目は抗議の涙。そして
今度は悔し涙。
僕は何も言わなかった。
泣ける時に泣けばいい。泣ける人に泣けばいい。君にとって
僕はどうやら泣ける人≠ナあるようだ……。
涙にくれる君に対して不遜なことかもしれないが、泣ける
人≠ナいられることにささやかな満足を感じていた。変だろう
か?
今、これを書いている僕の横で君は眠っている。
僕のベッドで安らかな寝息をたて眠っている。
すまなそうで、情けなさそうで、心細げな表情だった君。
心配しなくていい。君はがんばっている。大丈夫……
そして僕は……、
今、不思議と落ち着いている。こうして君といることがとて
も自然なことのように感じられる。
この部屋で女性と過ごすこともある。だが、こんな感覚を持
ったことがあったろうか……。自分の部屋でありながら、自分
の部屋ではないような感覚。今まで苦しみや哀しみをこの部屋
に閉じ込めてきた。その沈鬱に、たおやかな空気が流れ込んで
きたかのようだ。
僕は君を……
そうなのか?
それは許されないことなのか?
(先生、そんなに自分を閉じ込めないで。もっと素直に、心に正直に、その看護婦さんを愛してもいいはずよ。限られた命だからって、人を愛する心まで閉ざさないで。お願い、残された時間が少ないからこそ、精一杯その人を愛して。「人を愛する自分」を大切にして。その人だって、きっと先生のことをわかってくれるはずだわ)