■ 8 響き2
「明日は朝から精密検査を行います。心配しなくて大丈夫ですよ。健康診断を受けているつもりでリラックス、リラックス」
看護婦さんが肩を上下させ、おどけてみせた。胸元のピンクのナースウォッチが揺れている。「もうすぐ消灯になります。お疲れでしょうから、今夜はゆっくり休んで下さいね」
確かに疲れていた。それもそのはず。目が覚めたら記憶を失っていて、自分が誰だかわからない。そんなパニックに陥った状態で刑事からは尋問を受け、その後、所持品のチェック。
水辺に打ち上げられていたわけだから体力的に相当のダメージがあるはずだが、自分の感覚では、それよりも精神的なダメージの方が余程大きい。
記憶を失うことは、「時間は連続している」という当たり前の感覚を失うことでもある。こうなってみてそれがわかった。看護婦さんから「明日は朝から精密検査」と、明日の予定を言われたが、気が付けば、その明日とはいつなのか、そもそも今日は何年の何月何日なのかがわかっていなかった。
「あの、看護婦さん……、今日っていつなんですか。何月何日なんですか?」
ベッドから離れようとする看護婦さんを呼び止め、尋ねてみた。仕方がないとはわかりながらも、そんなことを尋ねる自分が恥かしかった。
看護婦さんは振り向き、優しい微笑みを浮かべて「8月10日ですよ」と言った。
「何年の?」
「平成15年の8月10日。日曜日ですよ」
「8月10日ですか……。ということはわたしが事故に遇ったのは……」
「昨日の夕方らしいから、8月9日になりますね」
「8月9日?、……8月9日、ですね」
わたしの変化に気が付いたのか、看護婦さんは問いかけるような眼差しで(何か?)と小首をかしげてみせた。
「いえ、別に……。すみません、呼び止めちゃって。おやすみなさい」
「8月9日」と聞いて、突然心が騒いだ。不意打ちをくらった感じだ。予期していなかった。これまで何を見ても、彼の日記を読んでみても、心が騒ぐことはなかった。それがどうだ。何の気なしに確認した日付に、思いがけずわたしの心が反応した。ときめきとは違う。差し込まれるような痛みを伴う感覚でもない。心が温かくなるような、宝石箱をそっと開けた時のような、そんな感覚。わたしにとってとても大切な意味のある日だという気がしていた。
(8月9日だからこそ、わたしは支笏湖にいたんじゃないかしら……。きっとそう。わたしの中の本当のわたしが8月9日を大切に思っている)
布団を首元まで引き上げ天井を見つめていた。
(でも、何の日なの? どういう意味があるの?)
じきに部屋の明かりが消えた
窓のカーテンに映る外灯の青白い明かり
病室全体が海の底になった
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