■ 10 残された想い2
2月4日
病院の屋上から飛び降り自殺をはかろうとする奴がいた。
間一髪で腕をつかんだ。だが、一瞬、彼を引きずり上げよう
とする僕の体が固まった。いや、引き上げることをためらった
のかもしれない。
ふざけるな! 死のうとする奴にすらこうして救いの手が伸
びるのに、俺にはどうだ。俺には救いの手がないのか。
人としての道理を欠いているいないの問題ではなく、理屈で
はないストレートな感情がその時湧き上がっていた。
気がついたら引き上げた彼を殴りつけていた。
自分の醜さを見た思いがする。悔しいがその醜さも僕≠ナ
あることに違いはない。
僕を助ける者はいない。
助けようにも誰も助けられやしない。そうだろ?
「わたしがそばにいます」なんて簡単に言わないでくれ。
僕のそばにいることが、どういうことかわかっているのか。
僕のそばなんかに、僕のそばなんかにいちゃいけない……
僕を助けようなんて思うな、思わないでくれ……
なぜこうなったんだ。どうして僕なんだ。
納得しようとはするが、納得なんてできやしない。
救って欲しい、まだ生きていたい。生きたいんだ。
そして……
本当は、そばにいて欲しい
君だからいて欲しい……
人はそんな簡単に死ねない。死んではいけない。そうだろ?
そうよ、先生……
生きて、希望を捨てないで。
救われたい自分と、でも救われない自分。
愛したい自分と、でも愛しちゃいけない自分。
愛されたい自分と、でも愛されては困る自分。
相反する自分≠ェ先生の中でぶつかり合っている……
どうしたら先生の苦しみを和らげることができるの?
わたしなら、わたしなら……
2月10日
君を愛したい僕と、拒もうとする僕がいる。そして、結局は
「拒まなければならない」という現実に直面する。
身体は限界が近づいている。襲う痛みはより激しく、発作の
起きる間隔も短くなってきている。検査データから判断しても
春まではもつまい。とすれば、君を拒まなくてはならないのは
当然。また、それが君のためでもある。
「苦しい時も悲しい時も一緒にいたい。この気持ちにはウソを
つきたくない」と、君は澄んだ瞳をして言った。
その気持ちに応えたかった。「僕もだ」と言いたかった。
でも僕の方は、この気持ちにウソをつくことにした。ウソを
つかねばならないと思った。君がピュアだから、まっすぐに僕
を見つめるから、だからこそウソをつかねばならないと思った。
「言いたいことはそれだけか。もう二度とここへは来るな」と
君に言い放った。
君を拒絶した。僕は君の想いを踏みにじった。
これでよかったんだ……
君のためなんだ……
でもせめて、ここに書くことだけは許して欲しい。君も知ら
ない、誰も知らない本心を。君の想いを踏みにじった今、どう
しようもないせつなさが僕を支配している。皮肉なことに、だ
からこそはっきりとわかる。
僕は君を求めている。今、この瞬間も求めている。
僕は君を愛している。
ごめんよ……
先生の想いが切なかった。
自分の死を見つめて生きるとは、こういうことなのか。死んで逝く身だから、この世に存在しなくなるから、だから人を愛してはいけない。愛する心すら自ら叩きのめさなくてはならない。そんなにつらいことなのか。
死の恐怖と闘うことだけでどれだけつらいことか。それなのに、人を愛することすら許されない。そんな……。
しかも先生は、その状況の中でたった一人で耐えている。誰にも何も言わずに苦しみと闘っている。もがいている。
胸が締め付けられていた。
2月19日
先生とバス停で別れた。たぶんこれが今生の別れ。もう会う
こともないだろう。
バスの中から慈愛に満ちた眼差しで僕を見つめる先生。その
姿を見ていて、これまでの先生との思い出が頭の中を駆け巡っ
ていた。
もう一度、先生と語り合えたら……
もう一度、先生と雪かきができたなら……
もう一度、もう一度……
涙が流れていた。
淋しいのか、悔しいのか、それとも先生に対する感謝の気持
ちからなのか。その全てのような気もするし、またそのどれで
もないような気もする。
人は日々、出会いそして別れる。毎日、当たり前のこととし
て人に会い、そして「もう二度と会えない」などと考えること
もなく別れる。それでいい……。
二度と会えないことを前提とした別れがどれほどつらいもの
か、どれほど苦しいものか。そんな体験はしない方がいい、い
や、すべきではない。その辛苦の中で生き続けている僕だから、
はっきりとそう言える。
僕は、僕自身の「死の形」を整えることができるまで、肉体
的な苦痛と精神的な苦痛に耐え、生き続けていくつもりだ。
「悟る≠ニは、いつ死んでもいいという境地に達することだ」
と言う人がいる。果たしてそうだろか。僕にはそうは思えない。
悟る≠ニは、どんな状況にあっても、いかなる苦境の中にあ
っても、死なないという強い精神を保てることを言うのではな
いだろうか。最近そう思うようになった。そして、その意味か
らすると、まだ僕は悟れてはいない。
先生と別れた後、生き続けようとする自分に息苦しさを感じ
た。「自分が一人ぼっちだなんて思うな」と先生に言われたが、
現実は限りない孤独感に襲われた。
闇の中をさまよい、気がついてみたら川辺に来ていた。ボー
トに乗った。ボートの中で眠った。「どうなってもいい……」
という気持ちだった。
行く先などどうでもいい。
ただ流れていく、流れされていく……
流れついた先。そこに君がいた。彷徨の末にたどり着いたと
ころ。それが君だった。
もう人を愛することはないと思っていた。なのにいつの頃だ
ったろう。君と出会い、自分の中で何かが変わり始めたのは…
…。
もう人を愛してはいけないと思っていた。なのにいつの頃だ
ったろう。君に惹かれ、自分の中で君ならば愛してもいいと思
い始めたのは……。
君は不思議な人だ……
抱き寄せたのは僕なのに、感覚は君に包まれているようだっ
た。君にしがみつかれてはいたが、すがっていたのは僕の方だ。
春に柔らかく抱かれているような気がした。
ごめんよ……
僕のわがままなのはわかっている。君にウソをつくことにも
なる。でもわかって欲しい、この気持ちにはウソをついていな
いこと、そして、わがままをきいてもらうのはこの世で最後に
君にだけだということを。
君に出逢えてよかった。
(先生、心に正直になれたんですね)
すでにここまでで、約二ヶ月にわたる先生の心に触れてきていた。今やわたしは心の中で先生と対話を始めていた。見たこともない人なのに、日記の中の先生≠ノ心を惹きつけられていた。
(わたしも先生に出逢えてよかったです。日記を通して先生の心の声が聞けてよかった、って思います)
こんなことがあるだろうか。ひとりの死に逝く男性の心の声を、今、世界でたった一人わたしだけが聞いている。その苦悩を、その切ない想いをわたしだけが知り得ている。
(先生は彼女にウソをついた。でもそのことで自分の心には、彼女への想いにはウソをつかなかったんですね。最後のわがままは彼女だから≠ネんですね……)
安堵なのか嬉しさなのか、わたしの心は暖かくなっていた。
先生のこの想いは彼女に伝わったのだろうか? 心の叫びは彼女に届いていたのだろうか?
いや、最後まで心の底は見せぬまま、自分ひとりで抱え込んで逝ったに違いない。
それは余りにもせつない。彼女にとってみても不幸なことだ。
理由はどうであれ、先生の日記を今このわたしが手にしている。これをどうにかして彼女に渡さなくては。先生の想いを彼女に伝えなくては……。
(先生の想いは彼女に伝わるはずです。わたしが伝えます)
自分≠ヘ相変わらずみつけられないままだったが、そのこととは別に新たな決意がわたしの中で芽生えていた。
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