■ 6 冬の部屋1
ベランダの窓が曇ってきた。窓から見える夜景はフィルターがかかったようで全てがにじんで見える。どうやら外は深夜になってかなり冷え込んでいるようだ。この冬初めての雪になるのだろうか……。
(あの看護婦のまっすぐな瞳に、負けたのか、助けられたのか……)
僕は、書き進めてきたペンを止め、その瞳を思い返していた。
スチールの灰皿から立ち昇る紫煙は、部屋の上の方でもやのように停留している。マグカップに三分の一ほど残ったコーヒーを口に含んだ。冷めたコーヒーは苦味が強くなったようで美味くない。
視線を戻し、今、レポート用紙に綴った文字を目で追った。
1月16日
「こんな非常識なやり方が通用する病院は絶対おかしいと思
います」と、新任の看護婦に言われた。
まっすぐな瞳だった。
僕は「いやなら辞めればいい」と彼女に言い放った。
そんな自分に今、嫌悪感を抱いている。自分の弱さを見透かさ
れそうになったからか……。
いずれにせよ、彼女のまっすぐな瞳に耐え切れず、そこから
逃げた言葉でしかない。
確かに、当直の夜に病院を抜け出し、バーでグラスを傾けて
いるという行為は非常識極まりない。非難されて当然だと自分
でも思う。たとえそれが、死の恐怖を紛らすものであったとし
ても……。
自分の病状については、客観的に分析を行っているつもりだ。
が、しかし、時にそうできなくなることがある。日々を精一杯
生きようと、一日一日を見つめて生きようと、そう心に決めて
はいるが、突きつけられる事実を前に我を失ってしまうことも
ある。「何よりも前に医者でありたい」と願っているが、やは
り自分を律しきれず、ひとりの人間として襲いかかる病に、迫
り来る死の恐怖に怯えることもしばしばだ。
あの時もそうだった。深夜、医局に一人でいて死の恐怖に飲
み込まれそうになった。体が震え、叫び出しそうな衝動が走っ
た。仕方なく、いつものバーに行った。ただそれは、自分の弱
さをさらけ出しているに過ぎない。
(抗議の涙、か……。こたえたな)
ペンを握り直し、最後に一行、『ありがとう、君』と書き加えた。
気が付いてみると、机の上にはこんなレポート用紙が何枚か溜まっている。たまたま、年が明けたその日、目の前にあったレポート用紙に文字を連ねてみた。以来、不定期ではあるが、自分の心情を紙に吐露することが思いがけず続いている。
わかったことがある。ただ脈絡もなく気持ちを文字に置き換えているだけのとだが、それが僕を落ち着かせてくれている。
死を見つめながら、絶望と付き合いながら、医者としての道を最後まで貫こうとしている僕。誰にも語らず、一人背負い込み消え逝こうとしている僕。
その僕にとっては、自分の気持ちを素直に隠すことなく吐き出せるこの場所、そうたった一枚の紙の中が、ある意味では癒しの場になっている。
きっと、その日≠ェ来るまで書き綴っていくのだろう。
今夜は冷え込みが厳しい。部屋の温度を少し高めに設定し直しておこう。
七瀬先生は大丈夫だろうか。早朝の雪かきは大変なはずだ……。
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