■ 4 彷徨2
記憶喪失症の患者は必ずパニックを起こすものらしい。わたしもそうだった。ある時間の記憶を失っているならまだしも、これまでの記憶を全て失っているのだ。
自分が誰だかわからない、これまでの自分がわからない。物体としての自分が今ここに存在していることは認められる。しかし、人格としての自分がこれまで生きてきたという実感が持てないのだ。全てのことに懐疑的になり、詰まるところ何も信じられなくなる。「君は人を殺したんだよ」と言われても、否定すらできない自分。そんな自分を「わたし」として認めることはできない。
何が起こったのか話し≠ニしては聞いたが、かといってそれが自分を取り戻すことにはつながらず、神経は一層とがっていった。
主治医と、この事件を担当する刑事の話によれば、「その時」わたしは支笏湖で手漕きの二人乗りボートに乗っていた。急いで桟橋に戻ろうとするモーターボートが、不注意にもわたしの乗っていたボートに激突し、わたしは湖に放り出されたらしい。その後、捜索隊が出たが、夜の暗闇の中では限界があり、その日はわたしをみつけることができなかった。翌朝、湖畔でペンションを経営するご主人が、いつものように散歩していたところ、水辺にうつ伏せになって倒れているわたしを見つけた。そして、その後は今ここにいる、つまり千歳市街の病院にいる「わたし」なのだと言う。
病院内の別室で、わたしの所持品を見せてもらった。ティアドロップ型のアクアマリンのペンダントが一つ。それと、2リットルサイズの空のペットボトル一本。中には便箋のような紙片が何枚も詰まっていた。あとは発見された時に着ていた衣服。これで全て。
刑事の話では、ペンダントはわたしが首に下げていたもので、ペットボトルは発見された時に、脇に抱えていたとのこと。それ以外のもの、例えばバッグなども所持していたと思われるが、ボートが転覆したときに全て、湖に消えてしまったのだろうとのことだった。
刑事は所持品をわたしに見せながら、言葉優しく語りかけてくる。が、その眼差しはどこかわたしを疑っている。中背で痩せぎすの身体には、一回り大きいのではと思われるくたびれたグレーのスーツ。年齢を読みにくい顔つきだが、たぶんそろそろベテランと呼ばれる域に入っているように思える。わたしを覗き込むように語りかけてきた。
「この度は本当にとんだ災難でしたね。あれだけ広いところでも衝突って起こるものなんですなあ。驚きましたよ。
--それで、あなた、ボートで何をしていらっしゃったんですか?
あんな時刻に女性一人で、しかも結構湖の奥の方まで行ってましたねえ……」
「何も覚えてないんです。自分の名前すらわからないのですから……」
「いえね、あのあたりはとんだ事件が起こることが時たまありましてね。自分で命を絶つとか…、ひどい時はですね、自分じゃなくて他人(ひと)の命を絶つ、なんていうこともあるんですわ」口元には笑みをたたえているが、その目は鋭い。「あんた、本当に覚えてないの」語尾は厳しく結ばれた。
悔しいことに、今のわたしはそう言われても、言い返すことができない。自分がどこの誰だか、何のために支笏湖にいたのか、何一つわからないのだから。
「ま、とにかく静養なさって下さい。そして、一日も早く思い出して下さいよ。所持品をしっかりと見てね。事実がはっきりすれば、こちらとしてはそれでいいんですから……。ではまた」
心もち肩をすぼめ、踵を返して部屋を出ていった。
目の前には二つの所持品が残されていた。ペンダントとペットボトル。
ペンダントをつまみ上げ、目の前に垂らしてみた。柔らかなブルーの輝きを放っている。
(これをわたしがしていた--。自分で買ったの? 誰かからもらったの?)
思い出そうと意識を集中してみたが、思い出せない。そればかりか、頭の芯に痛みが走った。
過去の自分を探そうとすると、とたんに頭の中に霧が立ち込める。あせってはいけない、と自分に言い聞かせはするが、それでおさまるものでもない。悔しまぎれにペットボトルをつかんだ。
「こんなもの見たって、どうせわからないのよ。わたしのものではないかもしれないじゃない。誰かが湖に捨てたものを、偶然、脇に抱えていただけのことよ!」と吐き捨て、手にしたボトルを力任せに振った。
ペットボトルに詰め込まれた幾枚もの紙片が中で揺れ、紙の束の重みがわたしの手に伝わった。
(何よこれ? 何でこんなところに紙を突っ込んだのよ)
振っていた手を止め、憎らしそうにボトルを見つめた。表面がすすけている。最近になってから購入されたものではなさそうだ。
汚れたポリエチレンを通して、中に入っている紙片の一部が確認できた。
そこには端正な文字が並んでいた。
MMは思ったより進行している。
僕は、春を迎えることができるのだろうか。
|