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MRTさんが書いたサイドストーリー 「約束」


■ 16 湖畔の追憶3
 

 琥珀色の輝きが目に新鮮だった。
(何だろう?)
 よく見るとガラス片はボートの形状に似ていた。拾い上げようと手を伸ばした。伸ばしながら、(ああ、これと同じような経験をしたことがあった。確か、あの時も左のポケットからガラスのボートが床に落ちて……)ぼんやりとそんなことが頭をよぎった。

と、その時だった。
 一瞬の出来事。わたしの身体に、感性に、高圧の電流が流れた。ほんの五秒、十秒のことだったはずだ。だがその短い間に、高密度に圧縮されたわたしの記憶が、はじけるように解凍を始めた。ガラスのボート≠キーとして、ものすごい勢いでわたしの時間がフラッシュバックした。

 謹慎中の先生を訪ねた時だった。帰ろうとしてジャケットの左ポケットから手袋を取り出したところ、ガラスのボートがポケットから床にこぼれ落ちた。「これ、さっき川原で見つけたボートです」と言って拾い上げて光にかざしてみた。キラキラと輝いて、とてもキレイだった。

 夜なのに、どうしても自分の気持ちを伝えたくて先生の部屋を訪ねた。一人でボートに乗った後だった。「先生のそばにいたいんです。この気持ちにはウソをつきたくないんです」と先生に告白した。先生からは「そんなことを言われて俺が喜ぶとでも思ったか。言いたいことはそれだけか」と突き放されてしまった。あの時、ガラスのボートが床に落ちていた。とても寂しそうだった。

 私の誕生日。先生の部屋でお祝いをしてもらった。途中、患者さんの検査結果を見に先生が医局に出かけた後のこと。広げられたままになっていた書類を片付けていた。テーブルの上にガラスのボートが置かれていた。先生の傍らにいられて、とても嬉しそうだった。

 三樹子さんの手術の後だった。先生の部屋から二人で夕焼けを眺めていた。夕焼けの中の川が暖かく見えていた。先生はコーヒーを飲みながら、子どもの頃に迷子になってたどり着いた川の話をしてくれた。あの時、先生はガラスのボートを手に取り、じっと見ていた。先生に見つめられて、とても幸せそうだった。

 その日の夜、先生と二人でソファーにもたれ、床に座って話をしていた。わたしはガラスのボートを手にしながら「わたしがボートに乗った川は先生のところに連れてきてくれました」と言った。なんでだろう、すこし恥ずかしかった。雪の降る夜だった。静かな夜だった。このまま二人だけの夜が続いてくれたらと思っていた。

 そして……
 支笏湖に浮かんだ無人のボートに、黒いコートと一緒にこのガラスのボートは置かれていたのだと……。

わたしの手に届けられたガラスのボート。その時の感覚が今もわたしの中に残っている。
冷たくて、冷たくて……
淋しくて、悲しくて……

「先生……、先生……、直江、直江先生!」
 喉の奥が熱い、苦しい、痛い。
「何で、どうして……、先生、先生!」

 支笏湖が視界の中で歪んでいる。
ひざから崩れるようにうずくまるわたし。

寄せる波が桟橋に当たる音がする。
(あの桟橋だ。あそこにわたしと先生が立っていた。軽くて細やかな雪。「守られているのは湖の方だ」と先生が言っていた……)
 わたしはわたし≠取り戻していた。8月9日の事故以前のわたしと以降のわたしを同じわたし≠ニして認知できた。記憶は蘇ったのだった。


先生を失って二年半の歳月が流れていた。その時間の経過の中で気持ちの整理はついていたはずだった。だが、わたしは記憶を失い時間の経過≠サのものを亡くしてしまった。そして、改めて記憶を取り戻した。それは、フォーマットし直したディスクに以前のデータをコピーするかのように、ほんの短い時間に過去の自分を追体験することでもあった。整理がついていたはずの私の気持ちは、今、再び先生を失った時の感情に支配されていた。その時の悲しさ、寂しさをも追体験することになってしまった。

「先生…、ずるい……。わたしと一緒にいるって……」

 小さな波が間断なく寄せている
周りを囲む緑の原生林
 時折、そよぐ風に揺れている
雄大な支笏湖
 その水底には枯れた木立
 静かな世界

「一緒にいるって……」

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