■ 15 湖畔の追憶2
照りつける日差しが優しくなった。大自然に生きる力を注ぎ込む太陽は、先ほどよりも位置を下げ、その輪郭を少し大きく見せていた。
この湖は時間の経過とともに様々な表情を見せる。細波でキラキラと輝いていた湖面は、今や静まり、瑠璃色の絨毯を敷き詰めたようだ。
水辺で楽しんでいたグループは帰り支度を始めている。
(先生に愛されていた実感が欲しい)
その実感を持てるということは、自分を取り戻すことでもある。(日記の中に書かれている自分と、それを読んでいる今の自分を同じわたし≠ニしてつかまえたい……)
ここ支笏湖に来ても、未だに記憶を取り戻せない自分がもどかしかった。
読み残るレポート用紙はもうほんの数枚。おそらく二日分ほどの分量だろう。祈るような気持ちで一枚を手に取った。
3月11日
雪の音を聴きたい。君と聴きたい。
真っ暗な空から舞い落ちてくる雪。その音のない音を聴きた
い。耳に届くのは僕と君の鼓動。
それでいい……
それがいい……
数日すればそれがかなう。君とあの湖に行く。僕の生まれ育
った場所に。
そして僕は--
永遠の別れ--
僕は君にウソをついた。
学生時代に痛めた腰椎が原因で体調を崩していると言ってし
まった。君はにわかに信じてはいまい。
医者が言うんだから大丈夫だ、と言ったが、君も看護婦。そ
の経験の中で、僕が自分の病気について本当のことを言ってい
るかどうか、病気の程度がどのくらいのものであるかは、本能
的に察知していてもおかしくはない。
君も気づいているのか……。君も怖いのか……。僕のウソの
中に君も入ってきているのか……。
遂にモルヒネを服用するところまで来てしまった。願わくば、
北海道での君との時間は事なく過ごしたい。笑顔の君を最後ま
で見ていたい。
あと数日。たのむ……
先生の文字が涙ににじんだ。
最期が迫っていた。先生は自分の手で自分を完結させようと決めていた。そして最後まで君≠ノ笑顔でいてもらいたいと、本当のことを告げずに逝こうとしていた。
まさかこんな形で先生が最期を迎えようとしているとは……。病床に倒れるものと、当たり前のように思い込んでいた。
先生の選んだ道を知りショックを受けた。が、しかし、考えてみると、先生ならばそうするだろうとも思え、納得できるところもある。先生の三ヶ月にわたる心情に触れてきたわたしだからこそ、先生の選んだ道を受け入れることができるのかもしれない。
(ねえ、わたし。その時のわたしは納得できたの?)
今のわたしが、かつてのわたしに問い掛けてみた。
--返事はない。
その時のわたしはどんなことを思ったのか? とても納得できたとは思えない。
愛する人と自らの死に場所に向かった先生。そして、永遠の別れが間近に迫りながらも、そうとは知らず笑顔で先生の故郷に向かったわたし。
せつなさに胸が押しつぶされそうだった。
(この場所に先生とわたしは立っていたのね)
目の前に広がる支笏湖がぼやける。あとからあとから熱いものがこみ上げ、頬を伝って落ちた。
ベンチから立ち上がったわたしは、当時のわたしを思い描き、それを今に投影しようとしていた。サマージャケットのポケットに両手を突っ込み、しばらく空を仰ぎ見ていた。
優しく寄せる波の音
ゆるやかに渡る風
山の稜線がほのかに朱を帯び始めている
気が付くと左手に木綿の手触り。ポケットにハンカチが入っていた。涙を拭こうと取り出した。
その時、たたまれたハンカチの間から何かがこぼれ落ちたようだった。
(何?)
遠くを見つめていた視線を足元に落とした。
陽光を受け、草の上でキラキラと琥珀色に輝いている。
それは、手のひらに納まるほどのガラス片だった。
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