■ 12 冬の部屋2
マーラーの旋律が、僕の身体に、この朽ち果てようとする身体に厳かなベールをかけてくれている。ソファに深々と腰掛け、ロックグラスを片手に、マーラーの調べに身をゆだねる。モルトの香りが闇の中でほのかに香っている。身動きできない自分と、身動きしたくない自分、そのはざ間を漂う。
学生時代からマーラーを聴いてきた。近頃はこの五番を聴くことが多い。
マーラーは当時、病をわずらい手術を繰り返していた。その精神状態がこの楽曲に反映されているという。つまり、この曲には、憂愁、悲痛、諦観といったものと、明るい生活への憧れが同居していると言われている。
芸術とは不思議な力を有しているものだ。この楽曲の持つ性質を知っているからあえて聴いているというわけではない。ただ僕の魂が純粋にこの曲と響き合っている。魂がこの音を旋律を欲しているのだ。マーラーの精神状態と、この曲と、そして今の僕がシンクロしているのだろう。
窓に映る夜景が美しい。窓枠で切り取られた四角い世界は、真っ暗な箱庭に幾つもの宝石を散りばめたようだ。
昨夜から今日に至るこの一日……。
僕にとっては天からの贈り物のような一日だった。君はどう感じただろう。君の誕生日を想い出に残るものにできただろうか。
君ならば愛してもいいと、君だから僕の最後のわがままを聞いてもらえるだろうと、そう思って僕は君を受け入れた。そう割り切ったはずだ。だからこそ君の想い出になりたいとも思う。
しかし、やはりその一方で、想い出をつくることが実は君に対して罪作りをしているのではないかと悩み怯えてもいる。時に自分がとてつもない悪魔にすら思えることもある。今、かけがえのない一日を君と過ごせたことに充実感を覚えながらも、悲しいかな、同時に深い罪悪感にさいなまれてもいる。
君にペンダントを渡した時にも同じように複雑な気持ちだった。アクアマリンのペンダント。君は喜んでくれた。ペンダントを見つめる君の瞳を僕は忘れない。喜ぶ君を見て僕は君を抱きしめた。抱きしめながらやるせない思いに胸をかきむしられていた。君のその笑顔をいつまで曇らせずにいるこができるのだろうか。その笑顔が消える日はもうそこまで来ている……。
君は「ずっと先生のそばにいます」と言ってくれた。そうならばどんなにいいか……。君を胸の中に抱きとめながら「ずっとこのままで時が止まってくれ」と願っていた。かなわぬことと知りながらも……。
君のことを思うとやるせなさに涙がでそうになることさえある。二人の時間を持つことは、じきに許されなくなる。それを僕は知っていて、君は知らない。永遠の別れが来ることを僕は知っていて、君は知らない。春のような笑顔でまっすぐに僕を見つめる君。だからこそ何も知らない君を見ていると、いや、何も知らされない君を見ていると、僕はたまらなくなる。胸が締めつけられる。自分がとてつもなく非道な男にも感ずる。
管弦の奏でるむせび泣くような旋律が部屋の隅まで満ちている。
(この気持ちに整理を付けておこう……)
深々と腰掛けていたソファから身を起し、デスクに向かった。
ライトのスイッチを押す。暗闇に昼白色の光線が走り、手もとが青白く浮き上がった。
ペンを握り、レポート用紙のヘッドに「3月5日」と記した。
|