■ 11 わたしの影
「こんちわ。どうです具合は?」
入院三日目の昼過ぎ。くたびれた背広を小脇に抱え、額の汗をハンカチで拭いながら刑事が病室に現れた。
「やっぱり病院の中は、涼しいですな」
言いながら、窓を背にしてわたしのベッドの脇に立った。逆光で刑事の表情が読み取りにくい。
(何しに来たんだろう……。何を聞かれても記憶が戻っていないんだから答えようがないわ)
「どうやらまだ記憶は戻っておらんようですね。でも身体の方は問題ないそうで、良かったですな」
怪訝そうなわたしの表情を見て取ったのか、「いえね、今、担当の先生とちょっと話をしてきたんですわ」と付け足した。
こちらの気持ちを思い図るそぶりもなく、刑事は話を続けた。
「しかし、あなた、この先どうするんです? 検査結果も良好ですし、まあ、記憶が戻っていないというハンデはあるものの、このまま病院にい続けるというわけにはいきませんでしょう」
言われてみて気がついた。確かにそうだ。入院してから今まで、検査のこと、自分の記憶を取り戻すこと、そして日記の先生≠フこと、それらのことでいっぱいで、現実問題としての「この先」を考えたことがなかった。病院と言えども、お金も持っていない、ましてや誰だかわからない人を、いつまでも置いておいてくれるはずがない。
「わたし、どうなるんでしょう……」
ベッドから上半身を起こし、刑事を見据えて言った。
不思議と心細くはなかった。先生の生きざまに触れてきたからだろうか。
刑事に尋ねることにためらいはあったが、さりとて現状では彼に確かめるしかなかった。
「どうなるって言われてもねえ……。記憶が戻らん以上、このまま放っぽり出すというわけにもいかんわけですし……」刑事の視線がわたしから逃げ、伏せ目がちになった。「まあ、数日間は厚生施設にでも居てもらって、その間に自分が今後どうやって生きて行くかを決めてもらうしかないですなあ」
刑事の言葉を聞いて、不安になるより先にひとつ安堵していた。何らかの事件に関わりがあったのではと、この三日の間に最悪のシナリオを想定することもあった。しかし、「自分の生き方は自分で決めろ」と言う以上、警察に拘束されてしまうほどのことはしていないようだ。最悪の疑いが払拭されただけでも不安が一つ取り除かれた感じがしていた。
「ということは、事件を起こしたとか、人に迷惑をかけているようなことはしてないと思っていいのですね」
刑事の表情は逆光で相変わらず見づらかったが、その変化を見逃さぬよう目を細めた。
「んー、まあ……。正確に言うと、8月9日の夕刻、つまり支笏湖でボートに乗るまでのあなたについてはまだよくわからんのです。ただ、それ以降のあなたについては少なくとも問題がないっていうことですわ。むしろ記憶を喪失した被害者と言った方がいいんでしょうな」神妙な表情で刑事は言葉を継いだ。
刑事の話によると、わたしは8月9日の夕方5時ごろ、支笏湖のボートハウスで二人乗り用の手漕ぎボートを借り、それに一人で乗ったとのこと。聞き込みの結果、ボートハウスの係員がそう証言したらしい。ボート貸出しの終了時刻間際だったので、係員も印象に残っていたとのこと。つまり、その事実から推測するにそれ以降のわたし≠ヘ疑わしいことがないと判断したのだと言う。
「ですんで、警察があなたを拘束することは今のところないんですが、一応、しばらくは警察の監視下に入ることになるんで、そのことはご理解いただきたいんですわ。ああ、あと加害者との話しを詰めていかなくてはならんのでして、今後はウチの別の者が本件をフォローしますんで、そこんとこ覚えておいて下さい」
そこまで話して、刑事は初めて姿勢を変え、窓に身体を向けた。
「暑い日が続きますなあ。あの日もねえ、こんな感じの天気でしたよ……」
宇宙が透けるとこんな色なんだろうなと思わせる青い空に、夏雲がぽっかりと浮かんでいる。
「あの……、他に何かわかったことってありませんか? わたしがどこの誰だかわかるような手掛かりは見つかりませんでしたか?」
刑事の後姿に尋ねた。できれば警察の監視下などに入りたくはない。少しでも早くわたし≠取り戻したかった。
「そちらはどうなんです? 所持品を見て何かを思い出したっていうことはないんですかね」顔だけこちらに向けて聞き返してきた。「ま、いいでしょ。さっき先生も記憶は戻ってないっておっしゃってましたからね」そう言って、身体もわたしの方に向け直した。
「こっちは、手掛かりになるかどうかわからんのですが、ちょっとした情報がありましてね。聞き込みをしていてつかんだ情報なんですが、8月9日の夜に宿泊の予約を入れておきながら結局すっぽかした客がいるっていう情報なんですわ。支笏湖の湖畔にあるペンションでのことなんですけど。なんでも、ペンションのおカミの話では、女性一名で予約が入っていて、来なかったんで連絡先として聞いてあった携帯電話に電話を入れたけれどつながらんらしいです。
こっちも本件が事件扱いになるんならその情報の追跡をするんだけども、結局ほら、まあ警察としては事件じゃなくて事故っていう扱いになったんで、この情報についての追っかけはやってないんですわ。ですんでペンションの場所と電話は教えておきますんで、すみませんが詳しくはあなた自分で聞いてみて下さいな。ちなみにその予約を入れていたという女性の名前は……」ワイシャツの胸ポケットから手帳を取り出しページをめくっている。
「ああ、あった。えー、しむらのりこ≠チて言うそうですわ。この人があんたなのか、それとも全然関係のない人かはわからんですけれども……」
刑事は「また来ますわ。数日の内にあんたも退院でしょうから」と言い残して病室を出て行った。
結局、刑事から得られた情報の内わたし≠見つける手掛かりになるかもしれないものは一つだけだった。しむらのりこ≠ニいう女性。
(しむらのりこ≠チてわたしなの?)
改めてこの三日間の自分を客観的に捉え直してみた。
手もとにあるものは、首に下げていたアクアマリンのペンダント。それに、脇に抱えていたというペットボトルと、その中に入っていた先生の日記。
わたしを特徴づけることとしては、医療関係に通じているかもしれないこと。8月9日に対して思い入れがありそうだということ。それと、日記の先生に自分でも驚くほど感情移入してしまっていることも特徴の一つとして挙げていい。先生に心惹かれていると言っても言い過ぎではないだろう。
もちろん支笏湖もキーワードの一つだ。わたしがいた場所。そしてしむらのりこ≠ウんも来ようとしていた場所……。
断片的な事実や特徴をつなぎ合わせようと試みはするが、うまく組み立てられない。仮に組み立てることができても、それはパズルが完成しただけのことであって、だからと言ってそれをわたし≠ニして実感できなければ意味がない。
(無駄足かもしれないけれど、とにかくしむらのりこ≠ウんが宿泊しようしていたペンションに行ってみよう。そして話を聞いてみよう。そう、支笏湖に……)
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