七瀬に病院を辞めることを告げてから1週間後には,直江は辞表を提出して東京へ旅立つ準備を始めた。
担当患者の引き継ぎがある。なるべく早く新しい担当医師に引き継ぎ,患者を安心させなくてはならない。
病院スタッフは一様に驚き,理由を問い詰める者もいた。
東京で勤務する病院の開院にはまだ日があったが,決めた以上いつまでもここにいては決心がにぶる。そう直江は考えていた。
「どうですか。ここなら行田病院からも遠くないし,最上階だから見晴らしがいいですよ」
不動産屋に連れてきてもらったのは,瀟洒なマンションの9階だった。
ドアを開けると,正面に大きな窓があった。そこからはマンションの下を流れる川が見えた。
川は夕日に染まって,オレンジ色に輝いていた。
『川だ...昔,迷子になって川に行き着いたことがあったな...あの川を思い出すなんて,終の棲家にふさわしいのかもしれない。』
「どうですか」
「ここにします」
「直江,薬だ」
「お気持ちはありがたいのですが,でも…」
「私はまだ納得しとらんぞ。向こうに行ったら治療はどうするつもりだ」
「…」
「本当に治療はしないつもりなのか」
「僕が頑固なのはご存知だと思いますが」
辞表を提出してからの1ヶ月間,直江は七瀬とまともに会話を交わさなかった。
七瀬は直江が拒むのを承知で薬を渡し続けた。
このときだけは病状について話をすることはあったが,直江が引き継ぎやら引越しの準備やらで忙しかったこともあり,落ち着いて話をする時間がなかった。
いや,本当のところ,直江は七瀬を避けていた。
七瀬が直江を見る目。それは明らかに以前とは違っていた。
以前は同じ医者として期待を込めた眼差しであったものが,今はただ我が子のように直江を心配し,心労している父親のような眼差しになっていた。
1ヵ月後,直江は東京に旅立った。
いつ長野を発つかは誰にも言わなかった。奈緒子はもちろん,七瀬にもだ。
七瀬先生には落ち着いてから手紙を書こう,そう直江は思っていた。