目の前に闇の世界が広がる。手を伸ばせば、そのまま吸い込まれてしまいそうなほど深い闇。
(この世界に父が眠っている……)
――直江庸介・倫子
(父と母に間違いない)
闇を見つめながら、結子は小学生になった頃のことを思い出していた。
あの時、母は一枚の写真を私に見せ「これがお父さんよ」と言った。それは病院の同僚達と一緒に撮った写真だった。子供ながらに(わたしのおとうさん、かっこいい)と思ったものだった。
母は言った「お父さんの名前は『なおえようすけ』と言うのよ」と。
私が「おかあさんもゆうこも『しむら』なのにどうして?」と尋ねると、「お父さんは重い病気にかかって、お母さんと結婚する前に死んでしまったの。だから同じ名字じゃないの」と言っていた。
名字が違うことに訳もなく寂しくなった私は、母に「おかあさん、おとうさんのことすきだったの?」と尋ねた。少しの間があってから「ええ、とっても……」と言った時の母の優しい顔。今でも忘れらない。今も私の支えになっている。
(どうしてなの? どうしてお母さんは言ってくれなかったの?)
裏切られたようで悔しかった。
(お父さん、本当に自分で命を絶ってしまったの?)
切なさがこみ上げていた。
――粉雪が舞っている
結子は、ふと、ほのかな暖かさを感じた。不思議な感覚だった。
(なに?)
そっと右に顔を向けてみた。中江が隣に立っていた。
(まだいてくれたんだ……)
どれくらい時間が過ぎているのかわからない。ただ、中江が自分のそばにずっといてくれた。嬉しかった。
中江が隣に立っていてくれたことで暖かくなったのか、それとも、彼の気持ちが自分の心に暖かな感覚をもたらしてくれたのか。
漆黒の世界 たたずむ二人
寄せる波 樹々を通り抜ける風
時が流れる 心が寄り添う
「ありがとう、中江さん」うつむきながら結子がつぶやいた。
「…ん」
「戻りましょう」
ゆっくりと向きを変える二人。明と暗の狭間から一歩、二歩と抜け出す。二人の輪郭がはっきるする。
中江の右半身が雪で真っ白になっていた。ペンションの前まで来て、結子はそのことに初めて気がついた。
(私を守ってくれていたんだ……)
中江の横を歩きながら、結子は、冷え切った体が内側から暖かくなるのを感じた。